『 ZAkkan(雑感)』

 

 

 深夜、寒くて目が覚めた。もう明け方であった。

たまらず、ヤッ!とばかりに起き出し、石油ストーヴをつけて、またベッドに潜り込んだ。部屋の明りは消して、ベッドから灯油の燃える炎だけを見つめていた。ストーヴはコロナのSL-221形[W]という機種である。コロナという名前が示すとおり、丸い吹き出し口から出る炎が円環状に燃えており、ちょうど、皆既日食のダイヤモンドリングを思わせる。はるか1億5000万km彼方の、太陽の炎プロミネンスは斯(か)くもあるかと、手を伸ばせば届くところに見た思いがする。身を一瞬にして焼き焦がす灼熱の炎、プロミネンス。僕は僕の身体がジリジリと焼かれていることを想像したら、なんだか、ポカポカしてきた。以前にもこんな体験をしたことがあったように思う。

 

 真言密教に「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじのほう)」という修行法がある。

その昔、弘法大師空海がまだ若く、四国各地の山野海浜に起臥(きが)して修行中であったころ、室戸岬の海岸の洞窟で瞑想していると、明星(金星)が身体の中に飛び込んできて、そのとき悟りを開いたのが「虚空蔵求聞持法」とされている。そして「虚空蔵求聞持法」は、弘法大師の信仰の原点であるし、そしてまた、広い意味では、日本仏教の原点でもあるとされている。

 僕はかつて、高野山大学名誉教授にして、高野山専修学院長。高野山真言宗大僧正の松長有慶氏の「虚空蔵求聞持法」についての書物を読んだことがある。その書物によれば、この求聞持には三つのやり方があり、その詳細を省くが、僕は、三番目の「日蝕、月蝕に於いて」行われる行法に興味を持った。が、求聞持次第という経文にも『弘法大師全集』にも、第三の部分には記述が少なく、長く修業した僧侶が行うむずかしい作法もあり、一般の誰にでも出来るというものではないらしい。僕はますます興味を持った。持ったが、少ない記述ではああかこうかと想像するより他に手だてもなく、苛立ちが募るばかりであった。これはどうやら真言密教独特の、門外不出の秘密の「行」に関係があるらしい。そんなことを思ったりしたものだった。

 

 そんなある時、何度目かの北海道の冬を過ごしていたある時、貧乏なフリーカメラマンは寒い夜空のもと、灯油も充分に買えず電気代も節約して、和ろうそくの灯りだけで、寝袋にくるまって過ごしていた。「ああ~、あのろうそくの灯し火の中に入ったら、さぞや暖っかいだろうなぁ~」と思った。身体はともかく気持ちだけでも中に入ってやろうと、一心に炎の中心を見つめ、あの中に入って行け入って行けと念じた。少し炎が近づいたように思う。さらに一心不乱に念じた。今度は炎が僕の身体を燃やしはじめたように感じて、熱くなってきた。気がついたら僕はポカポカになっており、じわっと汗ばんでいた。冬の北海道で暖房もない部屋で。これなら暖房費が少なくてすむが、チョット疲れるな~と思った記憶がある。だがその時に思った、「虚空蔵求聞持法」の行とは、このようなことを言うのではないだろうかと。

 

 ふつう座禅というと、何も考えずに、力を抜いて「無」の境地になること、と思うかも知れない。違うと思う。禅定(ぜんじょう)とは結跏趺坐(けっかふざ)して、尾てい骨から背骨、頭蓋骨のてっぺんまで一直線にのばして、この座り方を維持するだけでもかなりの体力がいるが、問題点のある一点に思考を集中させて、考えて考えて、余分なものをそげ落とし、そげ落とす作業であると思う。かなりの気力体力意志力の必要とされる行である。静かな己との闘いである。「虚空蔵求聞持法」とは、教典や経文などの文字(もんじ)を読んで理解するものではなく、身体全体で感得するものなのであろう。そしてそれは、人から学ぶものでもなく、人に教えられるものでもないのであろう。

 

 僕には、僕の人生においての大恩人がいた。もう故人となられたが、人生の真ん中どころで、これからどう生きたら良いのか、迷い道にさまよっていた僕に立ち直りのきっかけを与えてくれた人であった。その人はある宗派を熱心に信仰する敬虔(けいけん)な宗教家であったが、僕の心を見透かしているように、その宗派に縁もないのにその宿坊にしばらく暮らして、自分を見つめてみないかと勧めてくれたのだ。僕は素直に従った。その宿坊で体験した面白いこと、楽しいこと、不思議なことは、いずれお話しすることもあるだろうけれど、省略して。宿坊生活にも慣れた二ヶ月を過ぎたころのある夜、僕は独り広い本堂の板の間に座って、僕自身が工夫した僕の座禅らしきものをしていた。早春の夜の火の気のない本堂は、やはり寒い。最小限の灯りしかない本堂は薄暗かった。

 

 宇宙の本源的な力とは何であろうか? その力は人間が生まれ、生きて、死ぬことに、どのような関わりを持っているのだろうか? この宇宙は限りなく進化しているそのエネルギーと人間は、どのようなつながりがあるのだろうか? 人と人とのつながりとは、いったい何であろうか? 人間は心も身体も進化できるのだろうか? 

 

 僕は目をつぶって、ずう~~っと、考えていた。そのとき、身体が小刻みに震えはじめた。身体は震えていない。震えていると感じたのだ。気がつけば、僕は畳半畳もない狭い岩場の上に座っている。まわりは千尋(せんじん)の谷。バランスをくずせば谷底真っ逆さまだ。

 こわいっ! ふとはるか彼方を見た。雲の切れ間の光り輝くところにポツンと、黒いものが宙に浮いて見える。僕は光速に乗ったような速さで、そちらへと飛んでいった。でも容易に近づけない。こんなにも速く飛んでいるのに何故近づけないのだろう? さらに目を凝らしてみると、そのポツンとしたものは、十体の座禅を組んだ姿であった。まさか、あれが神仏のお姿か? 確かめなければと思ってさらに近づこうとするところで、目が醒めた。

 

 僕は起きていた。たしかに起きて座っていた。起きて座っていたのに、夢を見ていた。身体の震えは止まっていた。目を開けようとしたが、重たくてなかなか開けられなかった。ぼう~っとした意識から徐々に覚めて、最初に思ったことは、この世にはまちがいなく神仏があって、十全の働きをしている、ということだった。「虚空蔵求聞持法」とは、目に見えない世界、触ろうとして触られない世界を観想し、体感することなのだろうと悟(し)った。

 

 今更こんな話をしたところで、誰も納得してくれないし、オカルトチックな妄想と笑い飛ばされるであろう。でも、僕にとっては、生きる糧(かて)となったし、いまでも心の財産であることには、変わりないのだ。

 

 今朝も日の出前、部屋のカーテンを開けて外の景色を見れば、お天道様が昇る東のほうのうっすら白い空に、明けの明星が煌煌(こうこう)と輝いている。幸せな気分に浸(ひた)れるのである。

 

terry、拝。

04/12/15

 

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