『 映画事始め 』

 

 

 ふと、思った。

僕は何時のころから映画を見はじめたんだろうと。遠い昔の記憶をたぐり寄せてみる。

 

 僕は広島県内のちいさな田舎町に生れた。家は代々の家業でちょっと知られていたらしい。町内のお祭りや年中行事にはけっこうな寄付を毎度させられていた。そのかわり催し物の招待席や見物席は舞台まじかのいいところを用意される。よちよち歩きをやっとできるようになった僕は父につれられ、一等席で歌舞、演劇、ショー、素人出し物を食い入るように見ていたらしい。

 

 僕は子供のころから、ひとり遊びする子だった。近所に遊び友だちがいたのか、記憶にない。家人のみんなは忙しく、母は、ー15歳でこの家に来て、16歳で結婚し、17歳で僕を産んだー 母は嫁といっても女中同然で、こまネズミのようにいそがしく働いていた。僕は日がな一日中庭で子犬とじゃれあったり、土蔵の中で一人かくれんぼしたりしてあそんでいた。そのころの写真がある。子犬が眠っているそばで木のおもちゃで遊んでいる。前掛けをしてもらって、ズック靴がぬげないようゴムが足首まで縛ってある。無心に遊んでるその表情が、ちょっとかわいい。????? 話がよこ道にそれた!

 

 そんな毎日だった僕を、あるとき父が映画館につれていってくれた。町には常設の小屋があって旅回わりの一座もやってくるが、映画も興行している。当時田舎町ではまだ無声映画だった。弁士はいない。台詞が字幕となって一緒に写っている。はじめてみた映画に僕は夢中になったらしい。

 その後、父に何度もおねだりしても忙しくて連れていってくれない。業を煮やした僕はひとりよちよち歩きで映画館に行ったらしい。とぼとぼ映画館に入っていくと、支配人が驚いて、早速父に電話した。父の答えが揮っている。「見たいのなら見せておいて下さい。」これで僕は御献替で映画通いができることになった。

 

 遊び場が増えた。この当たりのこと、うすぼんやりと覚えている。ほのかな灯りに写し出される摩訶不思議な銀幕の世界。チャンチャンバラバラの剣劇、小津安二郎もののような家庭劇。それはウットリするような毎日だったのかも知れない。

 映画が上映されないときには旅の一座がやってくる。もう顔パスの僕は楽屋にも出入り自由。旅一座のお姐さん方にもけっこうかわいがられた。この当たりのことを、うすぼんやりと覚えている。化粧のにおいにも、ウットリするような毎日だったのかも知れない。ひんしゅく、失敬!

 

 少年期のころ、僕も御多分にもれず東映時代劇、チャンバラ映画の洗礼をうけた。しかしやはり、いわゆる映画を鑑賞するようになったのは中学生時代だと思う。しかもきっかけは洋画だった。タイトルは『許されざる者』。もちろんクリント・イーストウッド主演のものではない。ずうっと昔の『許されざる者』だ。西部劇。

 主演はオードリー・ヘップバーン、バート・ランカスター、それにオーディー・マーフィー、ダグ・マックルアー、リリアン・ギッシュ。スクリーンの大きさ、パナヴィジョンカラーの美しさ、つぎつぎ展開する迫力のシーンの連続、サウンドトラックのダイナミズム。

 冒頭ちかく、オードリー・ヘップバーンが裸馬に乗って荒野を疾走するシーンがあった。池の中を馬が突っ走るとき、水しぶきがパッッと飛び散った。僕は思わずワアッツーと声をあげたのを覚えている。もう、とりこになった。その見事なシーンも脳裏に焼き付いていて忘れることもない。

 そして英語の台詞。中学校の英語の授業では絶対にきけない生の英語。感情をむき出しにして、リズミカルに喋り出す。英語ってほんとうはこうなんだ!そうおもった。あの印象もいまも忘れられない。

 

 その後も毎週のように映画館通いは続いた。目ぬき通りの映画館からいかがわしそうな場末の映画館まで。ありとあらゆる映画を見まくった。小遣いはほとんど映画代に消えた。当時100円~150円、封切館でも220円ぐらいだったように思う。

 実に映画からたくさんのことを学んだ。学校の勉強なんてろくにしなくても、映画を見て感じた疑問を、世界の文学、歴史、人物、宗教、伝統、風俗、風土、などなど、図書館に出かけては調べた。青春期の人格構成に大きな影響をうけた。映画を深く見た分だけ、栄養素をたくさんもらったように思う。

 

 映画は僕の大切な友達だと思う。

 

 

 

terry

 

 

 

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