「熊野探策」   その一

 

 

 僕は、しばしば、マグカップいっぱいに注(そそ)いだ薄めのブラックコーヒーをすすりながら、僕の部屋のベランダから見える熊野の山並みと、眼下に広がる熊野盆地の眺めを楽しんでいる。

 それは夜明け前、青白く浮かんでいた山の稜線(りょうせん)が、だんだん日の出のあかね色に照らし出され、やがて山頂に並ぶ木々の一本一本までくっきり見え始める様(さま)であったり。昼間、その山肌に落ちる雲の影が、ゆったりと熊野盆地に歩を進める様であったり。夕陽が紡(つむ)ぐ長い斜めの山影の帯(おび)であったり。深夜、それぞれの家々からちらほらと輝きこぼれる灯りであったりする。あの灯火(ともしび)の下に人々の暮らしがある。営みがある。それぞれに生きている。夜の闇に輝く明りは、まるで夜空の星々を鏡で写し変えたようだ。とにかくここからの眺めは僕にいろいろな物語とイマジネーションを与えてくれて、飽(あ)きることがない。

 

 僕が安芸郡熊野町に移り住んで、2年4ヶ月になる。その当初から気にかかることがあった。熊野町は、なぜ ” 熊野 ” というんだろう? 世界遺産であらたに登録された熊野古道の ” 熊野 ” とは、なにか関係があるのだろうか? そういえば町内には、熊野本宮社があるし。そして貴船神社もあるが、京都鞍馬山の下に同じくある貴船神社本宮とは、どのような関係があるのだろう? 

 そもそも、この熊野盆地に最初に移り住んだ人とは、どんな人たちだったのだろう? その当時の熊野盆地は、人の手がかかる前は、いったいどんな風景だったのだろうか。山に囲まれたうっそうとした森林地帯だったのだろうか。頭の中でその風景を想像しては、いつも気にかかってしかたがなかった。

 

 熊野町教育委員会なら僕の疑問に応えてくれるかもしれないと思い、生涯教育課に電話をしてみた。「熊野町は、なぜ熊野町というのですか? その由来(ゆらい)を知りたいのですが、どうすればよいでしょうか?」 電話の向こうの女子職員の人は、「ちょっとお待ち下さい。」と言って、電話をホールドした。ちょっとあわてたような雰囲気があった。こんなことを質問する人は少ないのかなぁ~、と思いながら待っていると、女子職員が「当方で編纂(へんさん)している『熊野町史』をご覧になって下さい。上下巻あって一冊6800円です。閲覧も出来ます」と言う。とてもそんな高価な本を買うなんて出来ない。閲覧することにした。

 この『熊野町史』を紐(ひも)解(と)く前に、予備知識が必要そうである。

 

話が飛ぶ。しかも少々退屈である。

 

 昔、原始東南アジアに氷河の寛融期に水没した幻の大陸スンダランドがあって、そこから渡来した海洋航海民たちが日本の縄文人の起源だとされる説がある。彼らは沖縄にも留まりやがて南九州に上陸し、上野原遺跡では日本最初の独自の縄文式文化を築いたとされている。

 また彼らは黒潮海流に乗って、土佐国(高知県)、紀伊国(和歌山県)から遠州灘沿いに三浦半島を航海して房総半島に入り、ここから上陸してさらに北上し、やがて東北地方から北海道にまで達した。その過程でところどころに住みついた航海民の末裔(まつえい)たちが、南九州の熊襲(くまそ)や隼人(はやと)族、関東の東夷(あづまえびす)、東北の蝦夷(えみし)、北海道のアイヌ民族の祖先になったともされている。一方、朝鮮半島から北九州や出雲地方に入った弥生系の人々は、勢力争いを繰り返しながらもやがて大きい権力に統一され、奈良盆地に大和朝廷を築いた。

 和銅六年(西暦713年)に隼人族は大和朝廷に対して大規模な反乱を起こすが、やがて鎮圧される。その降伏の条件として、大和政権は毎年交代で、奈良の地で使役に服することを命じた。隼人族の働き手たちは家族と離れ、寺社の伽藍(がらん)建設の土木工事や道路整備の重労働に駆り立てられ、山陽道を歩いて行かねばならなかった。それはアメリカ合衆国建国の頃、先住民のチェロキー族に課した ” 涙の行進 ” に匹敵するような悲惨なものであったろうと想像出来る。

 隼人族の一団は、今の海田町から瀬野川を溯(さかのぼ)る旅の途中、この熊野の山並みと盆地を見たであろうか。それは想像の世界である。

 

                  「熊野探策」その二

 

 

 さて、『熊野町史』によれば、大宝元年(701)に施行された大宝律令の下に編纂された『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』という書物には、熊野盆地一帯は安芸郡(あきのこおり)養隈郷(やくまのさと)として記載されていると言う。そして「隈」は現在の福山市の備後国沼隈郡の「ぬ乃久万」、すなわち「ヌノクマ」と同じで、「養隈」は「ヤクマ」と読むとしている。続けて「ヤクマ」については『熊野町史』をそのまま引用すれば、

 

  ”ヤクマの意であるが、ヤはイヤのつづまった副詞で、たとえば『古事記』上巻の

  稲羽(いなば)の素兎(しろうさぎ)の段にみえる「最端(いやはし)に伏せる

  和迩(わに)、我を捕へ、悉(ことごとく)衣服(ころも)を剥ぎき」の「最端」

  を「イヤハシ」と訓(よ)むイヤと同じ用法で、「もっとも」の意である。”

 

少々、引用が長くなるが、もう少し続けたい。

 

  ”クマは、日本書紀、巻十一の仁徳天皇三十年条にみえる盤姫(いわのひめ)皇后

  の歌謡に「つぎねふ 山背河(やましろがわ)を河泝(のぼ)り 我が泝れば 

  河隈に立ち栄ゆる 百(もも)足(た)らず 八十菜(やそは)の木は 大君

  ろかも」とみえるなかの河隈をカワクマと読む場合と同じ用法であって、河が

  大きく彎曲したそのまがり目を指すのである。要するに、ヤクマとは「川や道が

  極端にひどく曲がり込んだところ」という意味である。”

                      (同書第三章第一節二項、律令制下の養隈郷 P137)

 

 そして、この意味に当てはまるのは安芸郡内では熊野盆地より他にないと、同書は断じている。その例として、熊野盆地を流れる熊野川が瀬野川に合流するあたりはまさに、ヤクマ状態であるとしている。熊野川も元来は「隈の川」「クマノカワ」であるという。

 なるほどと思うところもあるが、よく解らない。イヤが「もっとも」で、「河隈に立ち栄ゆる」が「彎曲したそのまがり目」というのであろうが、どうにも腑に落ちない。考え込んでしまった。古(いにしえ)の文献の漢字に当てはめるのもいいが、音読みで言葉そのものを考えてみたらどうだろうか。と思ったとき、はっ!と気がつくことがあった。書棚から一冊の本を取り出した。知里真志保著、「地名アイヌ語小辞典」(昭和59年復刻版)である。

 

まず「ヤ」の項を見る。同書よりそのまま引用する。

 

  ya や(やー) ①(rep「沖」に対して)陸; 陸岸; 陸の方。

           ②(省略)

 

とある。また、「クマ」の項も見てみる。記述が多いので少し抜粋する。

 

  kuma くま  ①(省略)

           ②横山 ,,,本来は棒の意味であった。棒のように横たわっている山を 

           kuma,  si-kuma,  kuma-ne-sir などと云い、横山のような波を

           「クまネリル」(kuma-ne-rir 横棒・のような・波)と云うのも

           すべて棒の意味から出たのものである。

 

  kuma-ne-sir, -i  クまネシル 横に長くなっている山; 畝のような形の山;

            横山。【横棒・のような・山】

 

 僕はこの記述を見たとき、最初、えっ!と思い、次に、ああっ~と声を上げ、さらに、う~~~んっ!と唸(うな)り出してしまったのだ。僕はベランダに立ち、大きく息を吸い、熊野の山並みを見つめたのである。いや、見つめ直さなければいられなかったのである。

 

                                                  

                   「熊野探策」その三

 

 

 僕はベランダでコーヒーをすすりながらあらためて熊野の山並みを見つめ、太古(たいこ)の昔の物語に思いを巡らせていた。

 

 僕は前稿で、隼人族が幻の大陸スンダランドから黒潮に乗り、はるか何千kmの波涛を乗り越えやって来た海洋航海民の末裔であったことを告げた。そして彼ら海洋航海民の子孫がさらに黒潮に乗って北上し、東夷、蝦夷、北海道アイヌ民族の祖先となってゆくことも記述した。

 漁撈(ぎょろう)民でもあった彼らは数百年という時間と空間を超えても、なお共通の精神文化、言語を有していたとしたらどうだろう。ひとつの民族、種族が、容易に自らの精神文化、言語を変えないのは、過去の世界の歴史を見ても明らかなことだ。

 それは今も伝えられている宮崎県の「ケベス」祭り、高知県物部村のいざなぎ流「ミコ神」、和歌山県新宮市の「神倉神社のお燈祭り」、それに北海道アイヌ民族の「イオマンテ」など、縄文色の色濃く残る祭事を見ても容易に想像がつく。つまり、古代隼人族と北海道アイヌ民族とには、同じ系列に繋がる共通の精神文化、言語が残っていたとしたらどうだろう。

 

 アイヌ語で「ヤ・クマ」を直訳すると、「陸にある棒のような横山」となり、意味が重なり不自然に思える。しかし重要なのは「ya や」と言う単語が、「沖、ないしは海」に対する反語としての「陸」という点である。

 「山のような波」という言葉がある。これは山に住む人が海の波を見たときの実感だろう。逆に海に生きる漁撈民が幾重にも重なる山並みを見たとき、まるで次から次に押し寄せる大波のような山だ、と思うのではないだろうか。つまり奈良大和に連行される隼人族には旅の途中に見た熊野の風景は、彼らの精神構造から言えば、海ではなく陸にある大波のように連なった山々と目に映ったのではないだろうか。山並みが、大波のうねりに見えたのではなかろうか。

 彼らはそのとき、「やくまっ!」と、声を上げたのである。生きて帰れるかどうか分からない旅の途中、ほんの束(つか)の間に見たこの風景に、一瞬の安らぎを覚えたのかもしれない。彼らのふるさとである、日向国(ひゅうがのくに、宮崎県)の山々を、思い出していたのかもしれない。

 

 備後国沼隈郡の「ヌノクマ」も、「ヌ・ノ・クマ」として「地名アイヌ語小辞典」の引用により解釈すると、

 

  nu,  -ye ぬ(ぬー) ①豊漁。  chep  nuye  an 魚 の豊漁が あった。

 

  -no   ノ     ①”よく” ”十分に”の意。

 

となり、「よく魚の穫れる山」という意訳になる。

 

 アイヌ民族は漁撈狩猟民であり、地形を知ることは大切なことであった。地名を聞くとどんな場所か直感することができた。「ヌノクマ」と聞けば山が岬までせり出し、そこでは魚がよく穫れるということを、知ったであろう。福山市鞆の浦は古代から良港として知られたところだ。それにしても、アイヌの言葉で「ヤクマ」「ヌノクマ」を解釈すればすんなり理解できるのは、どうしたことだろう。その不思議さを思わずにはいられない。

 また道路地図帖をみれば、福山市沼隈町には奇しくも熊野という地名があるし、熊ケ峰という山もある。僕は行ったことはないが、安芸郡熊野町と同じ山深いところだろうか。

 西日本にはどれほど「隈」が付くか、ないしは「熊野」という地名があるのだろう。このことから想像するのに、和歌山県の熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の分社が全国に熊野信仰とともに広まって熊野の地名が出来た訳ではなく、それ以前から山に囲まれた地形を「隈」ないしは「熊野」と呼ぶところは全国に数多くあったのかも知れない。そしてヤクマ状態の地形の場所に「熊野」という地名が付いたか、前後して熊野神社の分社が作られたのかも知れない。そのうちには地形に用いるだけではなく「ヤクマ」ないしは「隈」が、かなり一般化した言葉になって伝承されていったのではないだろうか。それは隼人族が貴重な労働力として中央権力に認められ、隷属状態から同盟、ないしは弥生人と同化してゆく過程と一致するのだろうか。

 

 前記、日本書紀の「河隈に立ち栄ゆる」の記述だが、ここでは「河隈」を一つの単語としている。「河泝(のぼ)り 我が泝れば 河隈に立ち栄ゆる」を、「河を泝(のぼ)り、私が(河を)泝れば、” 河 ” が ” 隈 ” のように立ち栄えている」と、「河」と「隈」とわけて読めないだろうか。つまり、「河の波が横山のように泡立っている」と解釈した方が、前後の関係を考えても、理解しやすいように思えるのだが、どうだろうか。

                                         

                   「熊野探策」終章

 

 

 今僕は、時空を超えた一つの旅を終えたような不思議な充足感につつまれている。最初は散歩のつもりが、思えば実に長旅になったものである。再度、夕暮れせまる熊野の山並みを観るとき、いっそうの感慨がみちてくる。

 僕は今、ともに旅をした、ある一人の隼人族の男性に思いを馳せている。ふるさとを離れもう何日間も、昼も夜も歩きづめだ。その男は期日までに奈良大和に着くように追い立てられ、疲れきっている。腹も減り喉も渇くが、決められた食事と水以外は与えられない。そのときその男は自分の運命を呪ったことであろう。汗と涙で汚れた顔をこぶしで脱(ぬ)ぐって空を見上げたときに、目に飛び込んできた景色。

 

 おおっ! なんと美しい山々であろうか。まるで、はるか沖から高鳴って押し寄せる波のようではないか。ふるさとの山と同じだ。 ,,,,,。 敗けてはいかんっ! 生きてふるさとに帰るのだ。ふるさとの山をもう一度見るのだ。妻と子に会うのだ。そして男は重たい足を引きづりながら、再び仲間たちと歩きつづけるのだ。

 

 僕はなぜこの「探策」をはじめたのだろうか? それは、、、 僕は、ふるさとを求めていたのかも知れない。僕は子供の頃から放浪にも近い生活を送り、一カ所に長く留まることはなかった。物質的なものも精神的なものも、溜まったら吐き出し、蓄積しようなどと考えもしなかった。その昔、隼人族が熊野の山々と盆地に感じた望郷の念を思うとき、人にとってふるさととは何なんだろうか? と思う。

 

 僕は北海道にしばらく居住し、アイヌの人たちが心のふるさとと呼ぶ、沙流郡平取町にも暮らしたことがあった。それはとても心安らぐ歳月であった。この度、「ヤクマ」の「探策」により、熊野の地に不思議な縁(えにし)を感じた。たまたまここに移り住んだ。住むからには、自分の住んでいるところを良く知りたいと思ったのが、この結果となった。県営住宅の募集一覧を見たとき、熊野町という住宅名に惹かれて応募したのだが、今になって思えば何かに引き寄せられた感があるのも事実だ。不思議に思う。

 

 もうひとつ、今回の「探策」で思ったことがある。いまの世の中、人は自分の住んでいるところにも、ふるさとにも、だんだん無関心になってきているのではないだろうか? こんな僕が偉そうなことは言えないが(自嘲)。

 人はだんだん、自宅と仕事場を結ぶ「点と線」だけに関心を持つ一次元、または二次元的発想になっているのではないだろうか? たとえば駅に降り、歩いて自宅のマンションの玄関に着いても、エレベーターで自分の階に上がる途中でもまだ「線」上で、自分の号室に入って自分だけの部屋に入って、やっと「点」が完結するというような。自分の住んでいるところ、地域、ふるさとの昔の由来。現在、過去、未来。言えば、面を広げる、関心を持つ。時間・空間を駆け巡ってみる3次元的、4次元的発想に切り換えてみると、けっこう面白いものが見えてきそうな気がするのである。

 忙しい毎日、たまにぼーっっと、どこかの景色を眺めてみるのも、心の糧(かて)になるのかも知れない。

 

 独断と偏見に妄想まで取り憑いたこの稿に、ながながとお付き合いいただき、感謝!

 

 

                                      terry, 拝。04/12/03

 

 

 

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