言霊(ことだま)の記             

 

 

 多くの精霊の中に、言霊(ことだま)がいます。言霊は言葉の精霊です。言葉の中にも精霊が宿っているなんて、ちょっと不思議な気がしますネ。

 沖縄のキジムナーなどの木の精霊は、木霊(こだま)です。森には森の精霊が棲(す)み、天にも大地にも、山河草木、動植物など生きとし生けるものも、風や嵐、雨や雪、そして雷などの天変地異にさえも、天上(てんじょう)天下(てんが)、あらゆる万物事象に精霊は宿り、それは宇宙の果てにまで行き届いています。

 

 人間の生活に関係ある精霊を思い浮かべれば、家の精霊ですね。家の守り神です。また、稲霊(いなだま)もいます。稲霊は、稲の精霊です。ご存知のように、今日のように機械化が進んだ農作業とちがい、昔はほとんどが手作業の重労働でした。それでもお百姓さんたちは、稲霊に喜んでもらおう、稲霊を喜ばしてあげれば、きっと嵐や風にも負けない丈夫な稲になって下さることだろうと、丁寧に丁寧に畑仕事を積んだことでしょう。それに応えて稲霊は、秋に大きな実りのご褒美をあげるのでした。

 

 稲霊は、お米に姿を変えてもしっかりと人間を見守っています。お米を研ぐとき、乱雑な研ぎ方をすると、その時の雑音を稲霊は嫌がるのです。やはり、美味しく食べてもらおうと心をこめて、リズミカルに、シャっシャっシャー・シャキっ! と研ぎ込むと、稲霊は、「おう~、そうかいそうかいっ!」と納得して、快い気分になるのです。そして、お米一粒も無駄にしないように、流し台に落ちこぼれたお米も拾い集めてそして炊き込むと、稲霊は炊飯器の中で「ふつふつ、ぐつぐつ」と、楽しそうに笑っています。そのとき、昔の年寄りたちは、「ああっ~、稲霊様がおいしいご飯になって下さった!」と、感謝したものでした。

 

 このように、多くの精霊たちは、何らかの物質実体に媒介して宿っているようです。風の精霊にしても、姿(すがた)形(かたち)は見えないけれど、森や林の木々は風にたなびいているし、草原の草花は波のように揺れているし、その存在を伺い知ることは出来ます。

 

 しかし、言霊だけはもちろん目で見ることも、姿(すがた)形(かたち)を確かめることも出来ません。一度発せられた言葉は、大気の中で散乱して瞬時に昇華(しょうか)してしまいます。二度と同じものは存在しません。何よりも言霊は、言葉の精霊ですから、言葉を話せるのは人間だけですから、人間だけに宿る精霊なのです。普段そんなことに気付かないかも知れないけれど、この人間の中にも精霊は宿っているのです。最初にもお話ししましたが、ちょっとこれは不思議な気がしませんか(笑い)。それでは人間が話す言葉の中には、いつでもどこでも言霊は気前よく働くのでしょうか? どうもそうとは言い切れないようです。

 

 少し、寄り道をします。

 類人猿からヒトの祖先が分かれてホモ・エレクトス[ラテン語、原人]に進化した時にも、それがたとえホモ・モーベンス[移動する人間]や、ホモ・ファーベル[工作をする人間]としての道を歩き、ホモ・ルーベンス[遊戯をする人間]にたどり着いたとしても、人間が人間である事の証明にはならなかったと思います。その当時のヒトの祖先もそのような確信はなかったことでしょう。

 しかし、ヒトの祖先がホモ・ロクエンシス[語る人間、人間を他の動物と区別する概念]として言葉を持ち得たとき、それがホモ・サピエンス[知性を持った人間]として進化する端緒(たんしょ)になったのではないかと、僕は思うのです。それはネアンデルタール人かクロマニヨン人か、その時代以降であったのか、僕にはハキとしません。

 

 いずれにしても、ヒトが言葉を持ち得たとき、部族間でコミュニケートするときも、集団で狩りをするときも、他の動物たちが持ち得ていない言葉というものに、畏怖と尊敬の念を持ったことでしょう。安全と豊穣を祈願するときにも、言葉に特別な力を求めたことでしょう。言葉には測り知れない魔力がある。それが言霊であることに気付いたとき、ヒトは人間として、あの恐れて止まない獰猛(どうもう)な動物たちとは、圧倒的に異なる有利な生きものであると、やっと自覚し自信を持ったのではないでしょうか。

 ヒトが言葉を持ったとき、ヒトが言霊の存在に気付いたとき、ヒトがホモ・サピエンス[知性を持った人間]へと進化していったのではないかと、僕には思えるのです。

 

 それでは、部族の長が部族の安全と豊穣をこの宇宙全体に祈願するとき、部族の長はリーダーとしての権力増大を誇示維持するための言葉を発したでしょうか? それは空虚な言葉であり、私利私欲の言葉であり、決して言霊を喜ばすものではないことを、言霊がその祈りの場にも現れないことを、部族中の誰もが知っていました。もともと、部族の長は無欲無私の人が選ばれました。そうしないときびしい自然のなか原始社会では、部族全体が生きて行けなかったのです。

 部族の長が、ひたすら無心に仲間の安全と豊穣を願って発する言葉のなかに、言霊は生きていたのです。

 

 ごめんなさい!

こんなに長く書くつもりはなかったのですが、またまた、長くなってしまいました(苦笑)。

 

 熊野の山並みを、日がな、ぼうーっと、一日中見つめて考えつづけている、古い布の切れはしをつなぎ合わせたような断片の一文です。

 

 今日はこのぐらいで止めます。大して面白くもない、独りよがりの駄文雑文なんですが、もしよかったら、たぶん明日も書くと思うので、お付き合い下さい。

 

 

 

てりー 拝

 

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