いのち、尊きもの

ー ' 78 柳原病院・在宅看護の実践(東京都足立区) ー Part 1

 

 

                 雨の日でも、訪問看護はかかせない。

 

            待ってくれている、おじいさん、おばあさんたちがいるから。

 

 

完全なる地域医療をめざして

 

  ー 巻 頭 言 ー

 

  この物語は、1978年当時、東京都足立区・柳原病院が、同地域内の独居老人や寝たきり老人に行っていた訪問看護の写真記録です。

 

 勁草書房出版「地域医療の展望ー東京・足立区柳原病院における在宅老人看護の実践ー」(1980)、その他の雑誌、月刊誌グラビアに発表し、1985年4月札幌市民ギャラリーで開催した「中田輝義写真作品展」にも発表したものをまとめたものです。(つづく)

 

 

 

                               現在、ネガフィルムよりスキャニングをして、写真制作中です。

 

                  少々の時間が必要です。

 

                   お待ちください。

 

              コメントについても、現在、考案中です。

 

 

 

                                  2016・9・20 より作成再開。

                           但し、写真・コメントともに、大々的変更あり。

 

                                       クリックで大画面に

                              大沼和加子さん(現、宮崎和加子さん)

 

 

 

   宮崎和加子さんへ、

 確かにお手紙をうれしく有り難く拝受いたしました、ありがとうございました。
早々にご返事をと思いながら、色々なことが思い出され思いも交錯して、キーボードを打てずにおりました、ごめんなさい。

 そうですかぁ〜!? 37年ぶりですか〜・・・。実に本当にお懐かしいことでございます。あらためてお便りをいただいたことに心底(しんそこ)より感謝いたしております。
 早速、東京足立区・柳原病院のホームページをネット検索しました。
 
 宮崎和加子さんはあれからずうーっと訪問看護の道一筋の人生を歩んで来られたのですね。
ホームページの画像の元気なお姿を見たときに、うれしくて我がことのように誇らしく感じて、不覚にも思わず涙が出てきました。
 僕が柳原病院におジャマをしていた当時は、まだ足立区内のいち町病院だった(?)(ゴメンナサイ!)記憶があるのに、今では東京を代表する大病院と成長なされ、診療科目も訪問看護部もそしてスタッフも、しかも多彩な訪問看護センターを有し看護学校まで併設されて、目を見張るばかりの充実ぶりに驚嘆いたしました。

 この度、看護部長様より柳原病院の現在の訪問看護の取り組みと活動報告を記録した数冊の本とDVDを送っていただきましたが、それは考え方といい実践方法といい、全国の中でもまさに突出する先進的活動だと思えました。

 僕が、今では当時の時代背景も異なり、足立区の住民意識も変化してしまっていて良く理解してもらえないかもしれないけれど、それでも訪問看護の草創期に柳原病院が医師看護婦・スタッフ・ボランティアが一丸となって訪問看護制度を確立させるために取り組んでいた1978年当時の熱い思いを。また、柳原病院傘下の若い看護学生のみなさんにも看護師の仕事とは何か? 福祉とは何か? そんな学習のために何んらかの参考になればと思い、このようなつたないアルバム写真集をお送りしましたが、まったく僕の出番がないほどの活動内容にかって気恥ずかしさを覚えました。時代は進みもっと進化しているのですね。素晴らしいことだと感じ入りました。

 特に訪問看護師さんと訪問介護士(ヘルパー)さんがお互いに連絡し協力し一体となって、地域の寝たきり老人・高齢者のきめ細かい訪問看護に取り組んでいる姿は、これからの高齢化社会に必要不可欠のことで、まさしく看護や介護が必要な人たちにとってたった今求められていることなんだ思えて感動しました。願わくばこの柳原病院方式が標準スタイルとなって1日でも早く全国に喧伝されることを祈念しています。

 その中にあって宮崎和加子さんは、訪問看護のパイオニアとして全国への講演や本の出版にと指導的な役割を果たしておられることを知りました。つらいことや困難なこともあったでしょうけれど、今やそのご苦労が報われて。結婚もされてお子様にも恵まれ人生の良きパートナーとともにお孫さんの数人にかこまれて、充実した日々をお過ごしのことと拝察しております。
 そして今や新しい活躍の場を得られて全国訪問看護事業協会の事務局長として活動しておられる。本当によかった! 苦労はいつの日にか報われる。かつての同志とも言える宮崎和加子さんのお姿に心から喜びの気持ちが沸き上がって来ました。ありがとうございます!

 僕は今、広島県熊野町の県営住宅に住み、週に1回熊野町訪問看護ステーションの看護師さん、熊野町社会福祉協議会訪問介護センターのヘルパーさんに週に3回(火)(木)(土)の援助を受けてひとりで自立生活をしています。
 僕は現在、重症筋無力症による体幹機能障害、両上下肢の機能障害、疾病による呼吸器障害などにより一種一級の身体障害者手帳が交付されています。それ以外にも全身性の神経障害性疼痛と変形性関節炎と両手指にヘバーデン結節があり、頸や肩や両肘と両手首に股関節、両足首に時折発作的な激痛が走ります。日常的に車イス生活です。
 加えて僕には心臓に不整脈があり、睡眠時の無呼吸症候群もあって、酸素濃縮器からのカニューラを鼻に当てて睡眠し、日中外出時には酸素ボンベを当てております。

 思い起こせば僕が柳原病院の寝たきりのおじいさんおばあさんの写真取材をして人の生き死に係わっていたときに、僕自身もいずれその報いがあたってきっと将来は寝たきり老人になるだろうと直感していました。そんな僕の予感がものの見事に的中して、今や僕は押しも押されもしない立派な独居老人で難病患者で身体障害者のほとんど寝たきり老人です(笑い)。
 人間の運否天賦とは測り知れないものがありますね、皮肉なものです、あっははは!(さらに大笑い)。でも僕は、” なるほどネ ” ”これもアリか ” ” これでやっと柳原病院のおじいちゃんおばあちゃんたちと仲間になれたんだね ” とも思います。僕は今、僕自身のことながらこの運命をクスっと笑えるほどに、ほほ笑ましく受け入れております。

 少し昔話しになりますが、どうかお付き合い下さい。

 僕は二十歳を過ぎた頃に副睾丸ガンを発症しキンタマさんを切除して、半年以上入院したことがあります。
 そのころ僕は大阪にいました。自分が何者で何をしたいのか、どう生きればいいのか、まったく自分自身がよく分からず、でも何か自分らしく生きられる道があるはずだと、言い知れぬ不安と期待を胸に抱きながら、今で言うフリーターのような仕事をしながら一日一日を無為に過ごしていました。
 

 そんな時、僕はお風呂やさんでキンタマさんに小さな塊ができていることに気付きました。それがだんだん大きくなってキンタマさんが三つあるぐらいにまでなりました。僕は患部が睾丸という恥ずかしいところであったためにお医者さんにも見せることもなくそうっとしておりましたが、やはりこれはどうもおかしいと思い大阪府立病院の泌尿器科を受診しました。担当医からは副睾丸ガンと言われました。”何んでこないになるまでほっといたんや、死ぬんやぞっ!”と大声で怒鳴られました。

 そして即入院即手術。術後患部のリンパ腺を焼き切るコバルト照射の治療のため6ケ月以上入院しました。
 そこはいわゆるガン病棟でした。色々な種類のガン患者がいました。この間、親しくなった患者さんがどんどん亡くなっていきました。入れ替わり立ち替わりの状態でした。
 僕はそれまで人間とは死ぬんだということは理屈の上で分かっていましたが、現実の問題として人が死ぬということはこういうことなんだ。人間とは必ず死ぬ存在なんだということを肌で感じるように実感として知ってしまったのです。それが二十歳過ぎの若造の時でした。

 退院の時、担当医からこう言われました。
 「中田くん、この病気はな、一年もったら次の三年もつ、三年もったら次の五年までで、五年何もなかったらひと安心や。でもな〜、あんたがガン体質でいつ再発するかは分からんということを常に頭に入れときや」 そう言われて送り出されました。

 僕は死ぬんや! この世の中から消えていくんや! 死んだら何も残らへん。生きた証も何もない。そんなんイヤや! 僕は死ぬのが怖くて怖くて何にも手がつかず、無気力な日々を過ごしました。

 それから何年か経って、僕は死を怯えることにも疲れ果てて、やっと気付いたのです。

死が怖いということは今まで僕は充分に生きていなかったからだ。だから僕は死ぬのが怖いんだ。人間とは必ず死ぬ存在だ。どうあがいてもこのことからは逃れられない。そしてこの世に在(あ)るのは一回こっきり、二度とはない。僕は今までどう生きたらいいのか分からないなんてご託を並べて、自分を甘やかして嘘をついて言い訳ばかりしていた。一生懸命に生きようとする努力もしていなかった。死の恐怖に打ち勝つためには充分に生きたという証を残すことだ。やっとその覚悟がついて、それから僕は写真の道を志すために東京へと向かったのです。

 宮崎和加子さんへ、 
長い話しになって申し訳ありません。これらのことをお話ししておかなければどうしても先に進めないのです。ゴメンナサイ!
 
 僕が東京で初めて自分の写真テーマで取り組み始めたのが柳原病院の寝たきりのおじいさんおばあさん方でした。
 一度死の恐怖の体験をした僕にとって生きていることの大切さ、尊さを僕は写真にしたかった。それは僕にしかしかできない僕だけの仕事だと思えたのです。

 時代は太平洋戦争が終わってやって来た神武景気から続く未曾有の好景気。高度経済成長に狂奔する日本。でも戦前戦中戦後を生き抜いてきた老人たちは、苦労ばかりを強いられてやっと平和になってホッと一息ついたのに、 老人に福祉の金をつぎ込むのは枯れ木に水をやるようなものだと邪魔者扱いにされて、実際の生活状態はどうなっているのだろう? 都会では?農村では? 豊かになった日本の一皮むいた本当の実態は、どうなんだろうか? 
 

 そんな世の中の誰もが見てみないふりしている寝たきり老人や、弱い立場の人たちにこそいっそうの矛盾が現れているのではないだろうか。そんなまだ世の中のことを十分に知らない若造がカメラを持って剣を大上段に振りかぶって訪問看護の現場に乗り込んでみたって、僕はたちまち現実の壁に打ちのめさられることになるのです。

 僕が最初に柳原病院に行って写真取材を依頼したときには本当に快く温かく迎えていただきました。こんな駆け出しの未経験のカメラマンの僕なんかにと、本当に有り難かったです。
 そして大沼和加子さんや他の訪問看護部の看護婦さんに伴われて、一軒一軒、寝たきり老人をかかえるお家を自転車に乗って回るようになって、僕は気付かされたのです。お年寄りたちはどんな境遇でも、寝たきりになっていても、ひとり暮らしであっても、日々その中で精一杯に当たり前に「生きている」ということでした。
 うれしいこととか楽しいこととか、悲しかったことも辛かったことも、人間が誰しも日常で感じる素直な感情を持って、ごく当たり前にしたかかに生きているということです。
 ” 寝たきり ” と陰口を言われたり、人間として落ちこぼれ扱いされたり、でもこれまで一生懸命に誰にも迷惑をかけずに、慎みやかに生き抜いてきたごく当たり前の、人間としての尊厳を持っているということです。それがどれだけ大切で尊いことか。

 病院長の日高先生や増子先生に大沼さんたち病院スタッフも加わって誕生祝いをしてあげたあの磯田のおじいちゃん。たしか神奈川県小田原の出身でご先祖は江戸時代小田原藩のお殿様の御典医の家柄で、そばがきが大好きでした。まわりを楽しくさせる茶目っ気のある人気者のおじいちゃん。おばちゃんも寝たきりになっていて、でもご夫婦そろって明るく元気に生きていて。僕が取材の合間に疲れてお家を訪ねると、「ああ、また東京の甥っ子が来てくれた」といって笑顔で迎えてくれました。お茶をご馳走してもらったりお菓子を出してくれたり、時には昼ご飯までいただいて、そのままゴロンと昼寝をさせてもらったり。今思い出しても涙が出てきます。

 奥様といっしょに都からの入浴サービスにお付き合いして介助もし写真も撮らせてもらったのは、たしか松村さんというお名前だったでしょうか。頑固で職人肌のお人だったと記憶しています。若くて元気なころはかなり奥様に迷惑をかけ泣かせたそうです。奥様に濡れた身体を拭いてもらってすっかり上機嫌になっていました

 タンスの引き出しを利用してリハビリ訓練をしているおじいさんは、最初はリハビリがつらいとイヤがっていました。大沼和加子さんが何度も励まして促していました。
 僕はとっさに、” がんばってリハビリしたらきっとビールが美味しいですよ ” と声をかけると、おじいさんは立ちあがってタンスにつかまって膝の屈伸運動を始めました。やり終わってベッドに座ったおじいさんの顔は、やり切ったという充実感にあふれていました、その清々しい顔を僕は今でも覚えています。

 寝たきり老人をかかえる家族・家庭のすべてが思いやりがあるのかといえば、必ずしもそうではありませんでした。家に寝たきりの老人をかかえているなんて、世間体が悪いからと部屋にこもりきりの粗末な扱いをする家もありました。仕事で忙しくて寝たきり老人を丁寧に構っていられない事情もあったのでしょうか。物置のような部屋に寝かされているお年寄りもいました。

 

 後は死ぬのを待つばかり。でもそんな扱いにも寝たきりのお年寄りたちは決して愚痴や不平など言ってなかったように思います。もう分かっていたのです。
 そして写真を撮っている他人の僕にこんな心情をもらしたこともありました。” うちの息子は、娘は子供のころはこんなにも可愛いい子だった。俺は、私は一生懸命に仕事をして家族を養って頑張って生きてきたんだ。子供たちに迷惑をかけたくないから、早く死んだ方がいいんだけれど、なかなか死ねないんだ ”  
かえって寝たきり老人のほうが思いやりや優しさや気づかいの心を持っていたように思えます。

 僕は柳原病院の寝たきりになったおじいさんおばあさん方の写真取材を通じて、人としてどう生きていけば良いのか、人間とは何か、人生とは何かを学ばさせていただきました。

 あのおじいさんおばあさん方から無言のうちにその生きる姿から、教えられ鍛えら育てられていました。柳原病院の寝たきりのおじいさんおばあさんたちは僕にとって今も僕の人間としての原点です。

 

 そして、寝たきり老人たちをお世話する大沼和加子さんや他の看護婦さんたちの姿、明るい笑顔にも、僕は何度も救われました。みなさんは僕の心の成長の糧、命の恩人たちだったのです。

 宮崎和加子さんへ
本当に長々とご迷惑な手紙を書き綴ってしまって、ごめんなさい! やはりこの際お伝えしておきことがあって、こんな長話しになってしまっています。もうちょっとで終わりにしますネ。

 僕が重症筋無力症になって、何度かクリーゼ(呼吸困難)を発症してICUに入れられて6ヶ月以上の入院を計4回したことがあります。

 

 一番ひどいときには気管支切開をして人工呼吸器を付けられ、免疫吸着療法で血漿交換のために人工透析を受け、鼻からチューブを入れられ流動食を飲まされ、尿管にカテーテルを突っ込まれておしっこをとられ、ベッドで上向きになったまま三日に一度は必ず糞便をとられ、心臓が動いているか確認のために心音図計を24時間胸に付けられ、足首には自動血圧計。そんな状態が何ヶ月も続きました。もう身体中がカテーテルやチューブだらけで身動きもつかず、まったく僕は機械の一部かロボットになったような気分でした。ただただ病室の天井を見つめつづけるだけの日常です。2時間おきに深夜勤務の看護婦さんも異常がないか確認にやって来ます。その度に僕は起こされて睡眠不足で頭が変になりそうでした。付いているチューブも何もかも引きちぎって楽になりたいという衝動に何度もかられました。

 僕が退院してしばらくして病院の外来でその当時担当だった看護婦さんとばったり会ったことがあります。「あの時の中田さんは本当にひどかったね。私たちナースたちは全員もう保たないだろうって噂をしていたんですよ」と言ってくれました。
 僕は深夜に天井を見つめながら、柳原病院のおじいさんやおばあさんのことを思い出していました。また1981年からの北海道の国際障害者年に写真取材を通じて知り合った多くの身体障害者の人たちのことも思い出していました。
 どんな身体の状態になっても頑張ろう生きようと話していたのに、その僕が難病患者で身体障害者になったときにへこたれていたのでは顔向けが出来ない。あの世に行って顔を合わせたときに申し開きができない。僕にはまだやりたいことがある。やらなければならないことがある。僕は柳原病院のおじいさんやおばあさんたちが励ましてくれたからこそ、あのICUの集中治療室から無事に生還できたのだと今でも思っています。

 この度、宮崎和加子さんよりお手紙を頂き、ご縁があって再び交流させてもらうことになりました。「一度お会いしましょう」とも言っていただきました。また増子先生や訪問看護部担当の医師の上林先生も現役で第一線でご活躍の様子をお知らせいただきありがとうございました。 
 僕は今、立派になった柳原病院の勇姿も見てみたいし、訪問看護センターへも訪問したいし。柳原の街並みも見てみたいし、柳原に吹く風も浴びてみたい。そん気持ちでおります。

 残念なことに僕の柳原病院の寝たきり老人の写真取材は中途半端に終わってしまいました。寝たきり老人の真の姿を知ってもらうために写真集としてもまとめ上げるつもりだったのに、成し遂げられませんでした。それが僕の積年の悔恨・痛み・苦しみでした。
 今回の文通で交流が再会し、柳原訪問での僕のつたない写真取材体験をお話しできる機会を与えていただけるなら、それを恩返しのひとつにしたいという思いでいっぱいです。 

 本当に東京で再会の機会に恵まれることを心から祈念しております。どうかよろしくよろしく、 増子先生、上林先生にもよろしくお伝え下さい。
ありがとうございました。
                  
                                 中田輝義 拝 2015・2・1記

 

 

 

ご夫婦

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ひとり

人形あばあちゃん

人気者おじいちゃん

いのち、尊きもの

ー ’ 78 柳原病院・在宅看護の実践(東京都・足立区)ー Part 2 につづく

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新春雪景色三つ (土, 03 1月 2015)
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(日, 21 7月 2013)

 

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(木, 14 6月 2012)

 

ホームページ作成開始

(水, 6 6月 2012)

 

 

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