『 カナダ横断 ● 交流の旅 」ー カナダ横断5000キロ ー

 

 

                    『 ごあいさつ 』

 

 

 人間は自分の意志で行動し物事を成し遂げることによって、限りない生きがいとロマンを感じる生き物です。 

 回復を試みても元に戻らない運動機能を機械に置き換え、機械類で補えない部分を人間と機械を融合させ、自己を活性化することによって個人の意志にそった行動が出来るようになり、充実した人生と社会復帰が可能となります。

 

 この度、進行性筋ジストロフィー患者の私が新型『手動三輪自転車』(トライスクル)を研究開発し、遠征隊を組織してカナダ横断の旅の挑戦しました。

 

 カナダ大陸の厳しい気候風土のなかで生きる人々、特に障害を持ち地域社会に生きる個人及び団体との草の根交流を通して、障害を持たぬ人との相互協力による共存共栄の理念を実践しました。

 

 この企画は今までの一般福祉関係の機関・団体などの常識から外れた新しい試みだったので、実行にあたり準備期間が短い、また代表個人が環境の変化に弱い重度障害者であり、本当に出来るのか?危険だとの不安視、非難するような意見までが私たちの周りで起こっていました。にもかかわらず全国から多くの人々と企業及び団体からご理解ご支援を徐々に得られるようになり、感謝の内に遠征を決行することが出来ました。

 

 遂行にあたり特に注意した事項は、遠征隊員の事故など生命に関すること、現地の法律、風俗習慣などには最大限尊重し、内外に迷惑をかけないことなどを充分に考慮して準備しました。後は現地で情報を収拾して逐次変更しながら計画をたて、又カナダに人々の忠告や厚意を有り難く受け止め移動して行くことに務めました。。

 

 この横断はもちろん遠征隊だけのものではなく、多くの人々に夢と希望を共有して頂きたいと願って1キロ、千円キャンペーンを実施。同時に企業、団体からの資金調達も行いました。

 

 現地の道路状況などの情報は、日頃お世話になっている読売新聞社のトロント支局の協力により、短時間で正確な情報を得ることが出来ました。私たちが走行する予定の道路はほとんどがフリーウェイ(高速道路)で、車イスの走行は原則として禁止。走るには一年以上前から外務省を通じ走行計画を提出し、カナダ各都市の市警察、州警察、連邦警察のエスコートがなければ許可しないとの話しを聞かされていました。

 

 出発まで三ヶ月を切った時点だったので慌てましたが、支局を通して詳しく現地警察に聞いた結果、私たちが使用する変速機付きの三輪自転車は通常のサイクリング用自転車と解釈するので問題はないという回答でひと安心。

 

 当初、スタート地点でのモントリオールの宿泊場所はあらかじめ予約して決まっていたが、出発中数日前になって突然キャンセル。慌てて以前より現地の障害者との交流を計画してもらっていた『ラジオカナダ・インターナショナル』の担当記者の田中義章氏にお願いし、ケベック州立養護学校のマッカイセンターに四日間の宿を取っていただくなど、出発直前まで多くの変更がありました。

 

 代表として東京の企業や団体に支援のお願いやご挨拶などに飛び回っているうちに六ヶ月の準備期間がまたたくまに過ぎ、1989年5月28日に千歳空港を出発。カナダ横断挑戦の旅はモントリオールで三日間の準備をして6月1日にスタート。トロント経由でアメリカとの国境沿いに国道16号~1号線を経てマニトバ州ウィニペグ、サスカチュワン州サスカツーン、アルバータ州カルガリーの各都市を走破して一路西へ。

 

 太平洋岸のバンクーバーまで4280キロメートルを52日間で横断成功。途中隊員全員病気もせず事故もなく7月29日無事に帰国出来たことは、日産自動車と日産労組から提供されたRV四輪駆動車などの新車3台、大型自走キャンピングカーなどの大きな機動力があったことと、日本とカナダの人々から物心両面において、多大がご支援をいただいたことのおかげと心より感謝し、謹んでお礼申し上げます。

 

 カナダ滞在中、60日間に渡る草の根交流横断の様子を、隊員のフリーカメラマンがカメラレンズの目を通して描写した写真報告集をもって報告させて頂くとともに、この報告集が二十一世紀に向けて障害を持った人間と健康な人間の共存共栄と、日本の福祉に微力ながらお役に立つことが出来れば幸いです。

 

 

                     1990年3月26日

                     サイクリング車イス・カナダ横断実行委員会 代表  香西智行

                    

 

 

 

出発前

 

 カナダに到着した最初の宿泊地は、札幌のYMCAを通してモントリオールのYMCAに頼んでいたので安心しきっていましたが、5月28日出発の2週間前になって突然受け入れ不能の連絡が入り、私たちはビックリ。これではモントリオールの空港に着いても寝る場所がない。

 急きょ、日本の新聞報道をモントリオールで知り、私たちのカナダ横断を取材したいと申し入れを受けていた「ラジオ・カナダ・インターナショナル」日本部門の記者田中義章さんに無理を言って、交流と宿泊の受け入れを探して下さいファックスしたのが5月17日。そうして決まったのがケベック州立養護学校のマッカイセンターでした。

 

 マッカイセンターでは、早速寄宿生の部屋を空けたり教室にベッドを入れたりして、快く受け入れて下さることになりました。その決断の早さと温かい心配りにホッとひと安心。最初の夜は何とか安らかに眠れることになりました。

 

 ところが出発直前の5月26日になって、今度はモントリオールのYMCAのほうからすべてを受け入れたいと、しかもサイクリングの出発日までの受け入れ態勢と日程表までもファックスで送られてきたので、又またビックリ。どうなっているのやら?! とにかくすでにマッカイセンターにお願いしているということで丁寧にお断りして、日程についてはモントリオールに着いてから直接お会いして三者で話し合いをすることにしました。

 

 このように出発前の1ヶ月の間は、カナダや日本各地からの問い合わせや交流内容や場所の変更があったりして、その都度ファックスでの情報が入り乱れて何が何だかわからない状態でした。いっさいの準備が終わってほっとしたのは出発当日の5月28日の午前5時。飛行機に乗ってしまえばゆっくり眠れるのが楽しみでした。このようにして私たちのカナダ横断の旅は始まったのです。

 

 通常このような企画を取り組むのは2~3年の準備期間がいるでしょうが、私たちの本当の準備は6ヶ月。本来なら事前に政府間の外交上の手続きをとり、カナダの行政レベルでの交流会や施設訪問の予約をしておくのが当たり前なのでしょうが、それでは本当の自由な草の根の交流はできない。多少難しいことがあっても、カナダに行ってから自分たちで障害者同士の生活感情にあふれる交流をつくりだしていこうと、実行委員会のミーティングで話し合いをしていたのです。

 

 

マッカイセンター 1

 

 マッカイセンターには4日間の宿泊代、食事代すべて無料で温かく迎え入れてくれました。初めて訪問したところなのに何の違和感もなく、ノビノビと過ごすことができました。

 時差ボケもなく食欲も旺盛。YMCAの担当者タニー・フライデさんが訪ねてく来て下さり、スケジュールの打ち合わせ。彼女の夫がラジオ局を2つ持っていて影響力のある人で、あっという間に地元の警察がモントリオール市郊外のハイウェイ入り口までエスコートしていただけることが決まりました。


 

  そのコースの打ち合わせに警察の人たちが度々訪れたり、地元の報道関係者が次々とやって来たりと、私たちが宿泊している一角はとてもにぎやかでした。

 

 ところが一大事件が発生。私たちはトロント経由でモントリオール入りしたのですが、そのトロント空港で私たちの荷物が行方不明になってしまったのです。

 

 

 最悪の時にはサイクリング車イスなしでカナダ横断をしなければならなくなる。これでは「クロス・カナダ・ノー・ウィルチェア・チャレンジ」になってしまう。地元の方々にも各方面に問い合わせをして下さり、無事発見されたときには本当に安心しました。

 

 このように私たちの準備不足のためにスタートからトラブルや失敗ばかり。しかし見知らぬ外国の旅の途中で受ける人の助けほど、身にしみてありがたいと思うことはありません。トラブルをどうやって解決するか? これはこれで草の根の交流であり、私たちの旅はこれで行こうと居直りました。

 

 

 マッカイセンター 2

 

 養護施設のマッカイセンターに寄宿している障害児は25名。スクールバスで通ってくる生徒たちとまったく普通の授業を受けています。

 朝でも夜でも廊下ですれ違ったり食堂で会ったりすると、みんな明るく、”ハーイッ!”とあいさつをしてくれます。

 名前を聞いたり、どこから来たの? 何しに来たの?と声をかけられたりして、人見知りもしないでのびのびしているのには驚きました。

 授業が終われば寮の生活は個人の自主性が尊重されているから、自分の部屋で音楽を聴いたり、夜遅くまでテレビを見ている子もいたり、夜食を食べに食堂に出てきておしゃべりをしている子もいたり。世話をしている人たちはお兄さんやお姉さんという感じで、夜食を作ってあげたたり髪をブラッシングしてオシャレを手伝っているのを見て、これが指導員?! 

 日本との違いを考えさせられました。

 夕方の5時30分から郊外の山の上にある公園にピクニックに行くというので、私たちもいっしょに行くことにしていましたが、あいにくの雨。

 

 食堂でお弁当のサンドウィッチを夕食がわりにしました。こちらの気候は夜の9時近くなっても外は明るいのですが、それにしても養護学校の生徒が5時30分からピクニックなんて、日本では想像出来ますか?!

 

 無料で宿泊させてもらっているお礼に、私たちのトライスクルのデモンストレーションをしました。宮下さんが乗ったトライスクルが珍しそうで、生徒のみんなは大喜び。

 最後の夜にはお互いのプレゼントを交換するお別れ会も催され、にぎやかで楽しいひとときを過ごしました。

 

 中でも人気者のチャーリー君は大はしゃぎ。「違うヨ、ボクの名前は、” チャーリー ” だよ」と、英語の発音が違うといって何回も言い直しをさせられたのも楽しい思い出です。

 

 

 

筋ジスの子供たちと


 マッカイセンターでは筋ジストロフィー(ドシャンヌ型)の学級があり、その生徒たちと交流するチャンスに恵まれました。彼らもここの寄宿生たちです。

 重度なので毎日の通学が大変だったのでしょう。先生1名、アシスタント2名で7人の生徒を指導しています。

 

 来年大学受験だと張り切っている理知的な瞳が輝く生徒、酸欠で15分に1回の割合で2~3分人工呼吸を受けている生徒など、日本では考えられないほどの重度な生徒も含めて、先生の質問に答えて元気に授業に参加しています。

 

 筋ジストロフィーの研究はアメリカやカナダがいちばん進んでいますが、最近発見された治療法についてどのような展望を持っているのか思い切って聞いてみると、そんな新しい情報はただちに本人たちに伝わるようになっているらしくよく知っていました。

 

 でも今すぐどうということはないと落ち着いている。

 

 そんなことよりも明日から2泊の課外学習に出かけることに関心があると言っていました。地方の一流のホテルに泊まり、音楽会も企画されているそうで、楽しい旅行になると胸をふくらませていました。

 

 この経費はすべて寄付でまかなわれているそうです。次の日の朝、みんな自分流のオシャレをこらして元気に出かけて行く彼らをお見送りしました。

 

 

 

 

” ナカオ、ミタイデスカ? ”


 モントリオールではYMCAのタニーさんに案内されて、ケベック州立身障者スポーツセンターやコンピューター学習室などを見学して回りましたが、福祉機器の製作と修理の工場を訪れたときのことです。

 受付の入り口から中をのぞいていると、頭の上から突然日本語で、” ナカオ、ミタイデスカ? ” という声が聞こえてきました。

 飛び上がるほどにビックリして見上げると、そこにはまたビックリするほど背の高い年配の男の人が、人なつっこい笑顔で立っていました。ギ・エベールさんは1970年の大阪万博の時、カナダのパビリオンで警備員として働いていたので、その時に日本語を覚えたのだそうです。

 

 早速ギ・エベールさんに案内してもらって工場内を見学しました。通訳を通さなくてもだまって部品を見て回り、職人さんたちの仕事の様子を見ているだけで、何の作業をしているかすぐに分かります。

 目と目が会うとニコッと笑いかけてきます。なつかしい気がしました。

 

 日本語を話すカナダ人に初めて会ったり、そんなひょんなきっかけで工場内を案内してもらったり。カナダ人の職人気質と触れあったり。人との出会いとはオモシロイと感じたエピソードのひとつでした。

 

 

 

ナショナル・アクセス・ウェアネス・ウィーク


 ナショナル・アクセス・ウェアネス・ウィーク。

カナダの国中をあげての「障害者週間」。障害を持つものと持たないものの相互の障壁を取り除き、理解を深めようとする取り組み。カナダの全土で各地に多くの行事が行われます。

 それに先だって6月4日にモントリオールの市庁舎でオープニング・セレモニーが開かれ、是非私たち「クロス・カナダ・ウィールチェア・チャレンジ」のグループも出席するようにと実行委員会より要請を受けました。私たちはすでにその時にはオタワ入りをしていたのですが、急きょ、モントリオールまで引き返してきました。

 

 ヨーロッパ・フランス王朝時代風のインテリアがほどこされたレセプションホールには、カナダ全土の各州の紋章が入った旗が並び、正面の舞台ではバックグランドミュージックに車イスの音楽家がギター演奏をしていました。

 国務大臣につづき実行委員会役員の人たちがつぎつぎとフランス語と英語の二カ国語による祝辞と挨拶。役員の中には女性が多かったことに目を引かれました。

 大勢の報道関係者も集まり、次ぎに何が始まるのだろうと思っていたらウェイターがお盆にのせたワイングラスを持ってまわり、堅苦しい開会演説もないままいきなりワインを飲みながらの和やかな歓談がはじまりました。

 

 カナダの各地から集まった障害者たちや団体の代表たちが、

” やあー、しばらくだね!” ” 元気だったの? 彼はどうしてるの? ”、 ” 仲間の運動の状況は? ” などなど、三々五々に別れてのおしゃべり。

 あっちのグループこっちの集まりと、知り合いの顔を求めて動き回る人たちもいる。その声は見上げるばかりの大天井にまでも届きそう。

 

 電動車イスや小型スクーターの車イスに乗った人。タキシード姿やイブニングドレスのフォーマルにドレスアップした人もいるかと思えば、ジーンズ姿のラフでカジュワルないでたちの人もいる。日本のような仰々しい式次第はいらない。いちばん大切なことは人と人が会って話しをすること。その楽しい語らいの中から新しい出会いが、正しい理解が生まれる。それがカナダ方式。障害者だからといって特別扱いはしない。というよりは当たり前の人間同士。

 

 国務大臣のゲーリー・ウィナー夫妻とあいさつを交わす障害者たちは、実に堂々と胸を張っていました。


 

 

 

誕生日


 6月3日は私の誕生日。49回目をカナダのオタワで迎えることになった。

 思えば私が3歳のころから進行性筋ジストロフィーの症状が出はじめたが、治療どころか病名すら分からず、なぜ自分は他の子供たちと違うのだろうかと悩み続けた。

 15歳のとき医師から病名を宣告されたが、自分自身の責任ではなく病気が原因で人と同じことが出来ないのだということが分かり、ホッとしたことを覚えている。

 しかし当時の医学界ではドシャンヌ型というのは20歳まで生きられないというのが常識だった。

 

 最近私はドシャンヌ型の変形らしいことが分かった。そして20歳になったとき、倍の40歳まで生きてやるぞっと決心していた。

 その40歳になったとき、自分の機械技術の能力を障害を持つ他の仲間のために役立てたいと思い、自動車修理業をたたみ、

 「コウサイ福祉機器研究所」を設立して早9年。

” 100人の障害者がいれば100とおりの作りかたがいる。それが福祉機器だ ” という信念のもとに今日まで生きてきて、今、カナダに在る。そして今日49回目の誕生日を迎えている。

 

 普通、筋ジストロフィーは体力がないため、環境の変化に弱く順応性も低い。長期間のドライブ旅行は無理だと言われている。

 日本を出発する前にも友人知人から、” 無謀なことはやめなさい ” と何度も忠告を受けた。しかし貴重な体験だ。いろいろなものを見ておきたい。

 まだ旅は始まったばかりだが、私が無事にバンクーバーに着けば、日本の筋ジスの仲間を少しでも励ますことが出来るだろう。

 

 

 オタワ

 オタワではカナダに移住してきた人たちで構成している日本人会の松倉鉄夫さん澄子さんご夫婦が、支援を申し出て下さいました。

 

 日本食がなつかしいでしょうと、日本にいる息子さんから送られてきた食料品で、おにぎり、煮物、漬け物などを作って差し入れして下さいました。

 ドライバーと通訳を一日中フルタイムでつき合って下さいました。

 さぞお疲れだったことでしょう。

 

 また、カナダ人の気質や特徴。長期間キャンピングドライブするときの注意事項や心構えなど、貴重なご意見を教えていただきました。

 本当にお世話になりました。 温厚な人柄とともに忘れてはならない人でした。

 

 

 

 トロント

 トロントではスカボロ宣教会の神学校にお世話になりました。校長のイェーク神父は日本にも赴任したこともある人で、日本語がとてもお上手です。

 

 トロントにはたくさんの日本人が住んでいて、日本人会や北海道人会までもあり、教会関係の人たちといっしょに皆さんが集まってきて下さいました。お茶やオハギやヨーカンなどの日本の食物をたくさん持ち寄って下さいました。昔の日本のこと、今の日本の話しなど、にぎやかにお話しすることができました。

 

 その中に筋ジストロフィーの男の子がいました。水泳で回復訓練していましたが、アキレス腱を斜めにジグザグに切り、足がちぢんで変形するのをふせぐ手術をしたそうです。

 彼はトライスクルに乗せてもらってご満悦でした。日本人会の人たちに紙風船や紙人形、折り鶴やケン玉のお土産を持って行ったところ大変懐かしがられ、子供のときに遊んだことを思い出すと喜ばれました。

 

 北海道人会の会長でメープル観光という会社を経営している柴田さんと、日本人二世のジョン・高橋さんと、うどん屋さんを経営している近藤さんが、ナイヤガラの観光に連れて行って下さいました。

 あいにくの雨でしたがさすがに世界の観光地にふさわしく、スケールの大きい瀑布に圧倒されて、すさまじい轟音と水しぶきにしばしば見とれていました。

 大勢の観光客の中にチラホラと日本人も見かけました。ナイヤガラの滝つぼを見るために遊覧船に乗るのですが、通常はケーブルカーで船の発着場まで行くのに車イスの人のために特別のリフトバスが用意されていました。日本の有名な観光地で障害者にこのような心づかいをしているところがあるでしょうか? 

 遊覧船では全員が紺色のカッパを着て乗り込むのですが、それでも雨と水しぶきでズブヌレ。でも真近で見るナイヤガラの滝はいまにも吸い込まれていきそうで恐ろしいほどでした。

 

 ナイヤガラの滝も最近では工業廃水のために汚れてきているそうで残念なことですが、素晴らしい一日でした。


 

 

 

ドライデン

 

 ドライデンはカナダ大陸のおおよそ中心にあって、人口は6500人の大きな製紙工場のある都市でした。モントリオー ルを出発して20日目、トライスクルの走行距離も1620.8 km になっていました。北海道の江別市や苫小牧市のように、製紙工場の巨大な煙突から強烈なしかしなつかしい臭いの煙を噴きあげていました。

 

 トロントのスカボロ宣教会のイェーク神父から従妹のベティ・アン・マッカサーさんを紹介していただき、彼女の友人で貿易商をしているジョー・デラニーさんの妻、フィリピン人のマリーさんが管理しているアパートメントの2部屋に2日間逗留させてもらえることになりました。

 お互いに一面識もない知らない同士なのに、人と人のつながりで快く無料で貸して下さるなんて、どう言ってよいのか分かりませんでした。

 

 ベティさんに連れられてスーパーマーケットに食料品の買い出しに行ったときのこと。

 買い物客のひとりに何んと、娘の朝田千佳子が13歳の中国の少年に見間違えられるというパプニングがあり、それ以来すっかりチャイニーズボーイというニックネームがついてしまいました。これも旅の楽しいエピソードのひとつです。

 翌日にはベティさんと長女のリスカさん(17歳)の案内で、ドライデン・フィットネスセンターを見学しました。

 ここでドライデン身障者協会長のドナルド・ヘイルズさんを紹介されました。このフィットネスセンターはドライデン市民から150万カナダドルの寄付とオンタリオ州の援助で建設されたそうです。

 1階には車イスのままは入れるトレーニング用のプール。2階には託児室つきのエアロビクススタジオがあり、地階にはウェイトリフティング室が完備されていました。

 使用料は2.5カナダドル(約300円)です。そのあと身体障害者と老人のための療護ホーム、パトリシア・ガーデンスを訪問しました。

 ここでは市長と施設長からの歓迎を受け、ドライデン市の記念品と記念バッチをいただきました。


 

 このホームにはベティさんのご両親が入居しておられました。 リスカさんから、” おじいちゃんとおばあちゃんです ” と紹介されたときにはびっくりしてしまいました。

 他の身障者の人たちやお年寄りたちも仕事をリタイアしたあとの自分の人生を、ゆったりと楽しんでいるようで、なぜ日本でも身障者と老人が隔たりなくこのような明るい感じで暮らせる療護ホームができないのか?  とてもうらやましく思えました。

 

 夕方からはベティさんの家でバーベキューパーティー。

彼女から連絡を受けた日本人会の人たちが私たちと交流しようとたくさん集まって来てくれました。

 ジョー・マリー夫妻もドナルドさんを誘ってやって来ました。” ドナルドは今はひとりで暮らしており、私たち夫婦でいろいろ彼の世話をしている。ドナルドの生涯はさびしいものだった ” と、ジョーさんがポツリと話してくれました。私たちはあらためてドナルドさんの顔を見つめ直しました。

 

 ここでも集まった人たちがそれぞれに作った食べ物を持ち寄ってパーティーを開いていました。その中にニンジンとゴボウの入ったかまぼこがあり、とてもおいしくて日本で食べるものと変わらない。

 お話しを聞くと、ゴボウの種を日本から取り寄せたらここの土地になじまないのか最初はどうしても不作で、でもその中からよりましなゴボウの種だけを何度も交配させて改良に工夫して、やっとよい品種のものができるようになったそうです。

 カナダの広い大地で今のように生活を安定させるためにどれだけのご苦労があったことか。それを乗り越えてきた人たちのおだやかな話しぶり。そばで聞いていてもやさしさが伝わってきて、とても印象に残りました。

 

 そして圧巻はバーベキュー用のステーキ肉。一枚が週刊誌よりも大きい肉のかたまり。さすがにカナダ。圧倒されました。

 そしてジョーさんが焼いてくれるミディアムステーキの味は最高。カナダの牛肉の価格は日本と比べて半分以下。かえって魚の値段のほうが高くてそのうえ新鮮なものがなかなか手に入らないそうです。

 

 ジョーさんに、私たちはバンクーバーに着いたらサーモンステーキを楽しみにしているけれど、” 太平洋側のサーモンは美味しいだろうか?” と聞くと、

 

「太平洋側の人は自分のところがいちばん美味いと言うし、大西洋側の人は自分たちのところで獲れたサーモンが一番美味しいと言うだろう。私は両方うまいと思う」、と答えてくれました。

 

 ” イヤ、それは違う。世界でいちばん美味しいサーモンは日本の北海道でとれる鮭だ ”、

と言い返すと、ジョーさんは、「そりゃーそうだろう! 私もこの近くの湖で釣れるサーモンが世界で一番うまいと思っている」と言って、ビヤ樽のような大きなお腹を抱えて大笑いをしていました。

 楽しい思い出を残して翌日の朝、私たちはドライデンを出発しました。

 

 

 

 

マニトバ入り

 

 6月22日にはマニトバ州に入りました。

国道も17号線からカナダ・トランスハイウェイの1号線に変わります。この道路の終着点にバンクーバーがあると思うと感慨深くなりました。

 森と湖、アップダウンのきつい道路のオンタリオ州と違って、マニトバ州は見渡すかぎりの大平原。小麦畑の遙か彼方に大都市のウィニペグの街が小さく小さくポツンと見えます。制限速度の時速100キロメートルで一直線のハイウェイを1時間以上走っても、ウィニペグの街は全然まだ小さく見えるだけで、はるかその先の向こうにありました。

 ようやく市の境界線あたりまで来ると、砂漠の中に忽然とあらわれた高層ビルが立ち並ぶ大都会と変貌するのです。ちょうど北海道の十勝平野の真ん中にある帯広市のような印象を受けましたが、規模は比べものになりません。

 

 こうしてウィニペグまで私たちの旅は無事にやって来たのですが、ここに至って問題が生じてきました。

 

 モントリオールを出発してオタワ、トロント、ドライデンと公式行事や歓迎セレモニー、報道関係の取材や障害者施設訪問に日本人会の人たちとの交流。カナダでいちばんの人口密集地域を慌ただしく通り過ぎてきましたが、このウィニペグにはこの先、私たちを受け入れてくれる団体や組織の予定や情報も日本人会もなく、何んのコネクションもなかったのです。

 

 トライスクルでサイクリングに挑んでいるランナーの宮下さんは、かなり疲労も溜まってきている状態でした。毎日バンクーバーまでの完走を目的でに走っていて、スケジュール通りに進まないと精神的にイライラがつのり、不機嫌になる日も続きました。

 遠征隊のメンバーも宮下さんをサポートすることに精一杯で、先行車が一足先にその日の目的地に入り、宿泊のモーテルを確保しつつ、現地で障害者団体や施設と草の根交流ができるよう手配するという出発前に話し合ったことが、現実には困難な状況になってきたのです。

 サポートをしている遠征隊のメンバーでさえ身体的なストレスがたまり始めていて、精神的な余裕を失い勝ちになっていました。

 サイクリングのカナダ横断だけが目的になってしまったら、カナダの障害者と草の根の交流するという2本柱のもうひとつの目的が果たせなくなる。進行性筋ジストロフィーの難病を抱えながらカナダにやって来た香西智行の旅の意味もなくなる。

 

 その日の走行を終えた夜のミーティングで、宮下さんはウィールチェア・サイクリングに専念し、私たちは交流の輪を広げるために2班に分かれるて行動しようということになりました。

 これは出発前にはなかった計画ですが、状況の変化に柔軟に対応するために仕方のないことでした。

 渉外を担当している勝谷さんからは、「何のコネもないところで急に交流会をセッティングしようと思ってもむずかしいですよ」と心配を受けました。

 

 本当にその通りで当てがある訳ではなかったのですが、じっとしているより何か行動したほうが良いし、街で見かけた車イスの障害者に話しかけて何かが得られるかもしれない。

 正式な通訳がいなくて片言の英語でも心があれば通じるはずだ。失敗してもともと。当たって砕けろ。

 それこそ本当の意味で草の根交流になると覚悟を決めました。

 

 

 2班に分かれて

 

 サイクリング班はランナーの宮下さん、妻のかおるさん。渉外担当でサブリーダーの勝谷さんと同じ渉外担当で伴走の片山さん。メカニックの並河さん、スポーツトレーナーの石本さん、看護婦の中根さん、食事担当で並河さんの妻の真由美さんの8名。キャンピングカーとRV車2台。

 

 交流班は香西智行と妻光子。娘の朝田千佳子とサブリーダーでカメラマン兼ドライバーの中田さんの4名とRV車1台。

 

 そして6月30日にサスカチュワン州のサスカツーン市で合流すること。連絡先は出発前に札幌の知人を通じて私たちのカナダ横断を知って、援助を申し出て下さったサスカツーン市の高谷尚子さん宅にすること。毎日の状況を電話で情報交換することなどを申し合わせました。こうして私たち遠征隊メンバーは2班に分かれて行動することになったのです。

 

 私たち交流班はその高谷さんからウィニペグ合同教会の牧師の正木義道さんという方に、ウィニペグでの交流先やその他のことについて相談してみるとよいと紹介していただきました。私たちは早速正木牧師に連絡をとり、宿泊していたモーテルの近くにあった赤い帽子のロゴが目を引くピザハットのレストランでお会いすることになりました。

 

 正木牧師は合同教会の仕事のかたわら、マニトバ州立大学医学部付属病院で講義をしたり、末期ガン患者のホスピスでカウンセラーを担当したり。また先住民族のクリーインディアンの人たちの教会のミサで説教をしたり、ウィニペグ近郷の日系人の生活相談を受けたりと大忙しの人でした。

 

 移住してきた日系人の中には成功した人もいるが、恵まれなかった人も多くいる。今は老いてしまった人たちの昔話しを聞いてあげるしか何もできない。それでもひさしぶりの訪問を待ってくれている。

 成功した日系人は苦労している同胞に無関心な人が多いなど。カナダにやって来て15年。いろいろな人の人生を見てきた経験からの思いを切々と語られました。

 

 このような仕事をするようになったのも、ご自分の父上様が亡くなられたときに臨終にも会えずとても悲しかったこと。そして死というものを本当に身近に感じ、生きているものに愛おしさを持つようになったことがきっかけだったことも語られました。外はどしゃぶりの雨。激しい雨音とともに今でも思い出に残っております。

 

 最近、札幌にもピザハットの店が出来て、中田さんがあのなつかしいピザを買って来てくれました。


 

ポール・リジューンとの出会い

 

 正木牧師とお会いして貴重な体験を聞き、人間として、また宗教者としての温かい人柄に触れることは出来ましたが、交流のための具体的な援助は得られませんでした。一縷の望みをかけていたものの、頼みの綱は切れてしまいました。裸同然でした。

 

 しかし正木牧師の案内で娘の千佳子がスーパーマーケットに買い物に出かけたときのことです。同じように買い物に出かけて来ていた車イスの青年とどちらともなく目線がバチッと合い、何となく片言の英語で話しかけてみたのです。

 そうしたらその青年はポール・リジューンといい、出発前にウィニペグでの交流を計画してもらおうと何度も依頼の手紙を出したのに、音信不通だったウィニペグ・パラプレジック・アソシエーション(脊椎損傷者協会)の常任委員会のメンバーだったのです。

 何という奇遇。交流の糸が切れてしまっていたこの絶妙なタイミング。

 劇的とも言えるポール・リジューンとの出会いだったのです。

 私たち夫婦はクリスチャンですから、” 地獄で仏(ほとけ)” ではなく、神様と出会ったようなもの。まさに「求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば門は開かれん」の心境でした。

 

 その夜モーテルにやってきたポールは、日系2世で片言の日本語がしゃべれる若い女性を伴っていました。

 ポールさんは30代半ばの年頃で、自立生活のためのフォーカスアパートの住宅設計部門の責任者でアドバイザーの仕事もしていました。

 

 「カナダの福祉政策は第2次世界大戦の傷病した帰還兵の対応からはじまり、1950年~1960年にポリオが蔓延したときにかなり改善された。

 州政府の議会には障害者代表の議席がひとつ確保されている。15年前までマニトバ州内の官公庁の建物にはスロープがなかったが、今では法律により必ず取り付けられることになっている。

 

 障害者も慣れてくると州政府に対して意見を言うようになる。先週の水曜日にある会社の重役に一日中車イスで仕事をするように頼んだら、いつもと同じ仕事が出来た。

 

 車イスであることは何も不利な条件ではない。いつもメガネをしている人がはずせば新聞も読めなくなる。その時その人はすでに障害者だから、私たちとイコールなのだ。” バリヤフリー ”と言われているけど、障害のあるも者とない者の壁を取り除くことが大切だ。

 

 我々障害者も社会の構成員なのだから、障害を持っていても人間は同じ欲求を持っている。

 生きる意欲を持つことは大切なことだ。自分たちで生きがいをつくっていかなければ、ドラッグとかアルコールにおぼれてしまう。

 気力をなくして自殺する人も多い。そんな障害者には自分に何は出来るかを教えることが大切だ。

 一所懸命に働けば、その結果として美味しい果実を手に入れることが出来る。チャンスは寝ている間に突然やってくるものではない。必ず手に入れることが出来る、努力すれば」

 

 身体全体でまるで速射機関砲のようにしゃべるポールは、絶対に相手の目から視線をはずさない熱血漢でした。

 私たちはこんな話し合いをしたかったんだ。国の違いや肌の色が違っていても、人間としての基本は変わらない。

 私たちはここでポールと出会えたことで、私たちが本当にやりたかったこと。おぼろげながら考えていた草の根交流の旅のあり方に確かな手応えを感じとることが出来ました。これでカナダで学んだことを日本に持ち帰って、これから自分たちの生活の場で行動する指針を得られると感じました。

 

 ポールは明日、フォーカスアパートの中を案内してくれて、彼のプライベートルームに友人たちを集めてミーティングをしてくれること。他の団体施設にも交流の問い合わせをしてくれること。そのうえ、通訳まで探してくれることなども約束してくれました。

 ポールのおかげでウィニペグでの交流の糸口が一気に広がっていきました。


 

 

 フォーカスアパート

 

 翌朝9時にポールから紹介されたヨシコ・ド・フォレストさんがモーテルにやって来てくれました。好子さんは京都の出身で、ご主人のクロード・ド・フォレストさんが日本に留学に来ていたときに知り合ったそうです。

 クロードさんはマニトバ州立大学の教授で、彼女も臨時講師として働いています。挨拶もそこそこに好子さんの案内で、ポールのフォーカスアパートを訪れることになりました。

 彼のアパートは市の中心から少し離れたアシニボイン・アベニューという閑静な住宅地区の真ん中にありました。

 フォーカスアパートと言っても日本の障害者施設ように郊外の離れた不便なところにあるのではなく、また特別の障害者専用だけを目的に作られたの集合住宅でもありません。

 

 普通の一般市民が利用する通常の高層住宅に、ただ車イスが充分に通れる広い入り口に玄関ロビー、廊下、エレベーターにスロープをつけた簡単なもの。

 ごく普通の公営住宅がちょっとした配慮と工夫をするだけで、フォーカスアパートとして利用できる仕組みです。

 

 部屋も3LDKほどのゆったりとしたスペース。フロアには段差はなく、ドアーの開閉が容易に出来る装置がついている。

 キッチンの流し台は車イスでも料理が出来るようなテーブル式になっている。バス・トイレにドアーはなく手すりが付いているぐらいで、普通の民間マンションの部屋と変わらない。

 

 障害者にとって住みやすい部屋は、健常者にとっても住みやすい。

法律により建築基準が決まっているから、設計の段階でスロープなどの配慮を加えれば、特別な予算や経費をかけなくてのフォーカスアパートは作れるしくみになっている。日本とは根本的なところで考え方が違っていると感じました。

 

 ポールの部屋のキッチンの棚には、いろいろなワインの空き瓶がまるで戦利品のようにところせましと並んでいました。

 ポールが友人のドン・アメチーさんを紹介してくれました。ドンさんはポールと同じこのフォーカスアパートの自治会委員で、自立生活訓練センターのコーディネーター(指導員兼運営委員)でもありました。

 少し遅れやって来たため名前を聞きもらしたのですが、瞑想家のような口ヒゲをはやした男性は、マニトバ ウィールチェア・スポーツクラブのスタッフで、ベトナム戦争で戦傷を受け、たくさんの辛いことを見たきたということです。口数の少ない人でした。

 

 3人とも、自分の時間をさいて仲間のために活動している。

「自分がここまで来られたのも助けてくれる人がいたからこそ。今度は自分が落ち込んでいる人や困っている人を助けるのが当たり前のことだ」と、気負いもてらいもなくおだやかで自信に満ちた顔で語ってくれました。

 

 ウィニペグはカナダの中でも一番福祉の問題、特に生活面では進んでいるが、どんなによい福祉政策が行われていても、気をゆるめたりちょっと目を離したりすると元に戻るから、絶えず気を配り訓導を後退しないよう注意していかなければならないとも話してくれました。

 カナダでさえこれなら、日本はまだまだ障害者の意識と行動がたりない。あなたまかせでは決して良くならないと強く感じました。

 

 日本の障害者に何かメッセージを、と注文すると、ポールは、

「障害を持ったときが自分の生まれ直したときと思い、昔のことは忘れて生きること」

 

ドンは、「自分を信じて、一生懸命に生きていくように」

ヒゲの瞑想家は、「人から何を言われても、自分の思うように生きること」

 

 こう言い終えると、ヒゲの瞑想家は、”役所に抗議することがある”と言って、ひとりで出かけて行きました。

 

 

 テン・テン・シンクレア

 

 自立生活訓練センターのテン・テン・シンクレアは、シンクレア通り1010番地にあります。

 一度聞いたら忘れられない愉快な名前は、住所からネーミングされたものでした。

 日本の ” 施設 ” というイメージからはほど遠く、玄関ロビーもエントランス・フロアもとても広く、コミュニティー・ホールは2階まで全面窓ガラスで明るく静かで、落ち着いたフンイキに充ち満ちていました。

 廊下ですれ違う人たちもなごやかな会話を交わし合っていました。ポールとドンの紹介で、運営委員会の指導者ミルトン・サスマンさんにお会いしました。


 「ここは先天性の障害者や事故などによる後天性の障害者まで、自分ひとりで生活が出来るように、電動車イスの操作から生活器具の使用法、ドアーの開け閉てから衣服の着脱に入浴のやり方まで、2年間徹底的に指導する自立生活訓練センターです。

 病院からここにやって来る人たちはほとんど喜んでいますが、中には障害によるショックから立ち直れない人もいる。

 そんな人たちには意欲的に取り組んでいる人たちのグループでペアーになって、刺激を受けるように取り組んでいます」

 

 ” それでも立ち直れない人はいますか? その人にはどういう方法をとるのですか? ” と質問すると、

 

 「 確かに中途障害者の中には様々な人生経験やライフスタイルを持った人もいて、自分の障害に対する受け止め方は様々です。

 でも人間として同じ欲求を持っている。障害者同士のピア・カウンセリングにより、自分に何が出来るか、生きがいを持つように粘り強く援助していけば必ず良い結果が出ます。

 障害者を同じ対等の人間として信頼することが大切で、私たちはこの方法でたくさんの成功例を持っています 」

と、答えてくれました。

 

 サスマンさんの物静かな話しぶりに、長い間に検証された経験と実績による確信と温かい人柄を感じました。

 ドンが自分がピア・カウンセリングの担当している人の部屋に案内してくれました。

 壁には競馬の写真。馬といっしょの写真がたくさん張ってありました。よほど競馬が好きなんだろうと聞いてみると、もと馬主だったそうです。最重度障害の症状でも表情に暗さがなく、ドンと親しげに話していました。

 

 カナダでは事故などで重度の障害を受けてもリハビリ訓練の中で、社会復帰したときに車でどこへでも出かけられるように自動車訓練を受けいるそうです。

 いかにも車社会のカナダらしい取り組みだと感じました。

 職業訓練も受けられて新たな技術を身につければ元の会社にも復帰出来ると聞きました。全くのおどろきです。

 日本ではいったん障害者になればもう労働力のない役に立たない人間として扱われるのに。

 福祉器具室にも案内されました。

 あらゆる補助的な小さなものから補装具、車イスに電動車イスまで揃っていて、自分で使いやすいものを選んで試してみる。合わなければまた別のものをテストしてみる。

 

 ここの入居者以外の障害者でも訓練にやってきて、無料で永久貸し出しを受けることが出来るそうです。

 

 福祉器具の種類が圧倒的に多くていろいろな選択が出来るうえに、無料で永久貸し出しなんて、これにも驚き!です。日本でもこのような方法がどこかで取れないものでしょうか? 

 どの生活器具をとってもみてもわざわざ福祉器具として製品化されたものではなくて、既製品にちょっとした工夫されているだけ。けっして高価なものではない。使う人の立場に立った細かいところまで心配りがされていて、温かさが感じられるものばかりでした。

 

 日本でもいま流行の、触れると電気がつくタッチングスタンド。現在使用中のスタンドにセットすればタッチングスタンドになる部品を見つけました。このほうがとても安いと案内の人が笑って説明してくれました。

 日本ではそんな安い部品を作ると高い新製品が売れなくなるので作らない。モデルチェンジして高い新製品ばかり作るのは資源が無駄になる。資源が豊かなカナダで資源を節約しているのに、日本はどうなっているのでしょうか?

 

 リハビリ訓練の最初は先ずドアーの開け閉てから。障害に合わせて開けやすいドアーが作られているが、特別に大改造しなくても、ちょっとした工夫でラクに開閉出来るようなアイデアが随所に盛り込まれている。

 お金をかけたら良いものが出来るとは限らない。その代わり必要なことには思いきりお金をかける。このバランス感覚の良さ。カナダの人たちのおおらかな心のバランスがそのようにさせているのでしょうか?

 

 

 チルドレンズ・ウィールチェア・スポーツクラブ

 

 テン・テン・シンクレアの訪問を終えたあと、ポールに連れられて近くの大きなショッピングモールに出かけました。

 ドンと通訳の好子さんもいっしょ。軽いスナックの昼食をとりました。私たちが何が知りたくて、そのためにどんな質問をしているのか。それに対してどのように反応をするのか。

 そのことが充分に確認し合うことが出来て、もうお互いの気心を知り合った何年来の友人のような和気あいあいの楽しい食事となりました。

 

 午後からはあのヒゲの瞑想家がコンタクトをとってくれていたマニトバ・ウィールチェア・スポーツクラブのひとつ、チルドレンズ・ウィールチェア・スポーツクラブを訪問することになりました。

 

 ここは年少者のスポーツを振興させるための協会で、12歳以下の子供を対象にしています。

 事務所では来期に向けて、20台以上の受話器を並べて電話によるカンパのお願い活動が行われていました。

 ボランティアにやって来ているのは高校生の若者から60代ぐらいの年配に人までさまざま。楽しそうに、でも熱心に電話でやり取りをしています。

 

 まず電話帳などから企業や個人すべてに電話による寄付の依頼をして、OKになれば振り込み用紙を送る。金額も大口から小口まで何種類かあって、無理な負担にならないように気が配られている。

 通訳の好子さんも寄付したことがあるとのことでした。

 

 マニトバ・ウィールチェア・スポーツクラブ会長のジェリー・ターウィンさんのお話しによれば、最初は障害を持つ子供たちに誘いをかけるよりも、親を説得するのが難しいとのことでした。

 

 ターウィンさん自身も車イスの障害者です。カナダでも障害児の親は過保護なのでしょうか。

 訓練中にケガをしたら? とか、無理にさせなくても?とか言う親もけっこういるそうです。

 

 ” そういう親に対してどのように説得するのですか? ” と質問すると、身近な子供で成功した例を出して気長に進めるのだそうです。成績の良い子には州政府から援助もあるとのこと。

 ” ケガをしたときはどうしますか?” とさらに質問すると、

 「多少のケガをしたとしてもそれはそのとき。ケガをするのもその子にとってはそれが人生ですよ」と、実にあっけらかんとした答えが帰ってきました。

 

 なぜこの仕事をしているのかも聞いてみると、特に表情も変えることなくしばらく考えて込んでから、

 「自分には子供がいるし、障害を持っていても普通の子供たちと同じようにスポーツに励むのは良いことだ。小さいときからいっしょにスポーツをしていると、障害を持っていない子供は障害者に対する偏見も少ない」

と答えていました。

 

 壁にはいろいろなウィールチェア・スポーツの写真が張ってあり、このような一流の選手を目標にガンバローと励ましながら指導していると話されていました。

 リック・ハンセンの写真がいちばん目立つところの真ん中に、大きく張り出してありました。

 

 

 

ラリー・ウェリシェンさん

 

 翌6月27日の午前、ドンの友人でウィニペグ筋ジストロフィー協会のラリー・ウェリシェンさん宅へ、ドンの案内で訪問しました。

 高層マンションのゆったりとした2LDKの部屋にひとりで生活しています。必要なときには手伝いのヘルパーさんが来てくれるそうです。

 この日はマニトバ・ホームヘルパー・サービスセンターの責任者で、筋ジストロフィー協会の事務局長でもあるリンダ・ラスムッセンさんが同席しました。

 サービスセンターのオフィスがこの同じマンションの中にあって、緊急のときにはすぐに駆けつけられるシステムなっているそうです。

 リンダさんは看護婦が本職なのですが、事務局としての仕事が会員に喜ばれていることに、とてもやりがいを感じると話していました。

 

 ラリーは筋ジストロフィーだった幼いときから大の勉強嫌いで、あまり学校に行かなかったそうです。それで今、訪問学級のようなかたちで毎日教師に来てもらって勉強をしているそうです。

 テン・テン・シンクレアで生活訓練をしっかり身につけて、このマンションの建築が完成するのを待って引っ越してきたとのことでした。

 

 時間のあるときは趣味のウッディークラフトを作ったり、ガールフレンドと買い物や散歩に出かけたりして、今がとても幸せで自分の生活に満足していると語ってくれました。

 

 ポールやドンのように毎日活動に忙しく飛び回っている障害者もいれば、ラリーのように静かに自分の生活を満喫している障害者もいる。自分がどのように生きるかは自分の責任において決めること。

 これがカナダの社会なのだなぁ~と思えました。

 

 

 ドンのワゴン車

 

 ラリーの訪問を終えて外に出たところで、ドンが、「私が車に乗るところを写真撮影すれば、日本に帰ってから参考になるよ」と言ったくれました。早速表通りの真ん中でカメラとビデオで撮影会をすることになりました。

 すべてに配慮の行き届いた装置を持つリフト付きワゴン車。排気量7000cc のフォードワゴン。個人でこんな装備のそろったワゴン車を持てるなんてうらやましい限りです。これも市と州政府の援助があるからなのですね。

 

 でもどんな訓練を受けたとは言え、頸骨損傷のドンにとって電動車イスから運転席に乗り移ることは大変な作業のはずです。力と感覚のない手足。残された機能をフルにしかも慎重に使い、ゆっくりと確実に決められた手はずを順序正しく移動をしていきます。

 

 見ている私たちのほうも思わず肩に力が入ります。固唾を呑んで見ていると、運転席に移動が完了してホッとひといき。最後に手許のボタンを押してリフトがワゴン車の中に収納されると、思わず全員の拍手と歓声が上がりました。中田さんが、” パーフェクト! ” と叫び声を上げていました。

 でもドンはクールな表情で前を見すえて、イグニッションキーでエンジンをスタートさせていました。

 

 おだやかさとやさしさ。意志力。思慮深い瞳。何よりも自分を厳しく律してなお毅然としている。ポールが明るて積極的で熱情的なのと好対象。良きコンビとしてお互いを尊重しながら障害者の自立のための仕事をしている。

 日本ならドンのような重度の障害者だと、施設の中でほとんど寝たきりか引きこもりの状態で生活させられていることでしょう。いったいこのエネルギーはどこから生まれるのでしょうか?

 

 最近のドンから来た手紙には、毎日がとても忙しく時間が飛んで行くようだと書いてありました。カナダで得た大切な友人のひとりです。

 

 

ジョン・レーン氏との会見

 

 ドンのワゴン車を見せてもらった後で、ポールが是非会っておいたほうが良いというので紹介されたのが、ジョン・レーン氏でした。

 カナディアン・パラプレジック・アソシエーション(カナダ脊椎損傷者協会)マニトバ支部の執行委員長で、カナダ全土に名前の知られた身障者運動の活動家です。なかなか時間が取れず、ようやく午後2時から30分間だけ空いているというので、彼のオフィスへ好子さんといっしょに訪れました。

 たくましい闘士を想像していたのですが、ジョン・レーン氏は物静かで、一見、気の弱そうな中年のおじさんといった印象でした。

 

 「マニトバ支部は、障害者それぞれ個人に対して、自立生活を援助するための最大限の情報を提供しています。機能回復のリハビリ訓練。自立生活を支えるための住宅情報。障害に対する医学的治療法の研究や推進。その他の多方面にわたる調査研究を行い、それぞれの機関に具体的な指導もしています。職業訓練で身につけた技術を生かせるよう就労支援も行い、再就職率は100%です。

 知らなかったために損することがないように、法律の学習会も開催しています。個々の生活に起きる問題には、意見や要望を集約して州政府に対して改善の要求をしていきます。

 リハビリ訓練や生活訓練の施設だけでなく、フォーカスアパートなどの公共建築物の建設には意見書を提出します。ジョンレーン氏は国の国務大臣や労働大臣、州政府に対してバリヤフリー(障壁を排除する)のための特別に諮問する権限を持っています」


 オフィスには12人のスタッフがいて、8人の専門分野のカウンセラーがいます。

その内5人が車イスの障害者で、2人が先住民族から選ばれた人たちです。

 個々の相談者に対してそれぞれ同じ出身・階層・障害の立場から、ピア・カウンセリングが出来るよう措置がとられています。これらのカウンセラーの中には学位の持っているソーシャルワーカーもたくさんいます。

 

 よく話しを聞いてみると、ドンが運営委員をしているテン・テン・シンクレアも、ポールのフォーカスアパート・プランニング委員会も、マニトバ・ウィールチェア・スポーツクラブも、すべてはマニトバ支部の一部門ということでした。

 これらの活動を金銭上で支えている寄付金の運営管理をしているのがマニトバ・パラプレジック・ファンデーション(脊椎損傷者基金)で、その副運営委員長がジョン・レーン氏でもありました。


 マニトバ支部はカナダ全土の脊椎損傷者協会の一支部であり、カナダの全国内幅広い有機的に繋がったネットワークを持っています。

 マニトバ・パラプレジック・アソシエーションの実体とジョン・レーン氏の正体を知るにつれて、身体が震えるほどの凄みを感じます。わずか数十年でこれだけの組織を作りあげたなんて、まさに驚異です。

 

 それに比べて日本はどうでしょうか? 

小さな団体やグループが目先の利益にとらわれ、自分たちが良ければそれでよいというチマチマとした主導権争いに終始しているだけ。

 どうして日本ではまだこのような北海道だけではなく日本全体を包括する統一的な組織が出来ないのだろうか? 

 もっと障害者自身がしっかりしなければ。管理という束縛の中で自由に行動が出来なかったり、障害者に対する社会の差別と偏見に涙することもあるけれど、私たち障害者は本当の社会的自立のために、もっと本物の涙を流さなければならないと思う。

 本物の苦労の汗を流さなければならないと思う。出来ることからやっていかなければ世の中は変えられない。

 

 ジョン・レーン氏は日本の障害者に、

 

「ここの人たちは、ひとりひとり自信を持って、精一杯生きているのだから、あなたたちも出来ないことはない。どうか頑張って下さい」

 

と、このようなメッセージをくれました。

 

「最後に、あなたたちの旅に成功をもたらすためにプレゼントをさしあげましょう」

と、ジョン・レーン氏から直筆のサインの入った身障者用の駐車許可書を手渡されました。

 

「これを車の中に置いておくと、警察官は黙って通り過ぎますよ」

と、不敵な笑い顔を浮かべていました。


 

 

 偉大なる魂のあるところ

 

 6月28日、この日の交流会のスケジュールは何もありません。正木牧師にコンタクトをとりましたが状況は好転の兆しもなく、ウィニペグでの交流の糸はここで途切れてしまいました。

 充分ではないかもしれないけれど、やれるところまでやった。もしウィニペグに踏み止まらなかったなら・・・。もし千佳子がポールと出会って、声をかけなかったなら・・・。可能性を信じてもう一歩踏み込むことの大切さをあらためて教えてくれたウィニペグでした。

 

 滞在の予定を一日早く終えて、今後の日程をみんなで話し合った結果、物事にはついでということがある。カナダのもっと北の方はどうなっているのか。見に行ってみようかということなりました。

 お互い遊び心はふんだんに持ち合えあせている者同士。この手の相談はすぐに決まる。こんな気持ちになれるのも、何もないところからここまでやり切ったという自信と余裕の表れなのかもしれない。でもこれはツアーのオプションだから費用は自己負担ということにしました。

 

 その日の夜、私たちが宿泊しているモーテルにポールとドンとお世話になった好子さんを招いてのお別れパーティーをしました。

 午後から買い出しに出かけ、ささやかながらスモークチキンとクラッカーに缶詰の鮭をのせたオードブル。オニギリ。ウィスキーとカナディアンビールのモルソンと、ポールの好きなフレンチワインも用意しました。

 もちろんこれもオプションの自己負担。

 好子さんは日を追うにしたがって私たちの旅の趣旨や目的を良く理解して下さって、ときには自分ひとりで受け答えが出来るほど、親身になって打ち込んでいただきました。

 「福祉のことは私自身知らないことが多く、今回の通訳でとっても良い勉強になりました」と、逆に感謝されてしまいました。

 モーテルの部屋に電気炊飯器やお米などを持って来てくれるなど、大学教授夫人で臨時講師といってもとても気さくな人柄で、大きな励ましをいただきました。

 

 慣れてくると中田さんに、「こちらからの角度の写真も写しておきなさいよっ」と声が飛ぶようになり、中田さんは苦笑していました。見ていてもとても楽しそうに通訳をして貰いました。

 

 たくさんの楽しいお話。ほどよく酔いも回ってお腹もいっぱいになったころ、ポールがこれからのスケジュールを聞いてきました。

 私たちがカナダのもっと北の方はどうなっているのか、見に行ってみたいと言うと、ウィニペグから北へ約800キロ、フリンフロンという街の近くのクランベリー・ポーテージという小さな町に、ポールの友人で先住民族のクリーインディアンの子供たちが通う高校の教師をしている人がいると教えてくれたのです。

 

 「行ってみるかい?」と聞いてきたので、我が交流班は全員このときハタッと目を合わせ、声をそろえて即座に、” 行きたいっ!” と、叫んでいました。

 ここでもポールが幸運の女神を呼び寄せてくれました。その先生に紹介状を書いてあげようというのです。私たちはこの僥倖をいったい誰に感謝すれば良いのでしょうか?

 

 ポールが言うには、

「フリンフロンへは何回か行ったことがあるけど、途中に見るものは何もない。大型トラックが一本のハイウェイをピューッとすっ飛ばしているだけだ。それでも行くのかい?」 

 

 ” 見るものがないということを、見に行くんだ ” と答えると、フランス系カナダ人のポールの口ぐせで、人差し指を振りながら「ノン、ノン、ノン!」と言って、頭を抱えていました。

 

 今度は中田さんが、

” ところでクランベリー・ポーテージに行ったときは、ガールフレンドとドライブしたの? ”

と聞くと、「イエス」。

 ” 長いドライブの間、ガールフレンドとはどんな話しをしていたの? ”

と笑いながら聞くと、

ポールは、「ヒ・ミ・ツ 」と、大きな肩を小さくすぼめて答えていました。

 

 ウィニペグの最後の夜のひととき。ポールとドンにどのような感謝の言葉をかけたら良いのか、私たちには分かりませんでした。これからのカナダ交流の旅をどのような心がけでやって行けば良いのか、その答えを貰いました。

 「 Keep in touch 」(連絡を絶やさず、お付き合いをして行こう)と固い約束を交わして、” さよなら ” を言いました。

 

 マニトバとは、クリーインディアンの言葉で、『偉大なる魂のあるところ』という意味なのだそうです。

 私たちは大きな魂を受け取ることが出来たこのウィニペグを翌日の早朝に離れ、次の目的地へと出発しました。

 

 

 

北へ、800キロメートル

 

 目的地のクランベリー・ポーテージまでは、走っても走っても森の中。時折、小高い山に上がると広漠たる原始林が360度、視界のはるか彼方まで広がり、遠くの風景がかすんでみえます。

 本当に、何もない。

 

 ポールからは途中ガソリンスタンドがないところが何百キロも続くから、給油出来るときは必ず満タンにすること。クランベリー・ポーテージにはモーテルがないので、先にフリンフロンでモーテルを見つけて予約手続きをしておくことなどを教えられていました。

 平均速度140km。本当に何もない森の中の一本道。小さな羽虫がフロントガラスに当たり、こわれた身と体液で前が見えなくなる。すれ違う車もなく、いきなり大型トラックが視界の向こうから表れて、ワォーンとひと声吠えたててまたたく間に後ろの方に消えていく。

 中田さんが眠気さましだと言って、ペットボトルの水を頭からかぶっていました。

 

 午後3時、ようやくクランベリー・ポーテージに到着。さすがに腰のシンが痛い。尋ねまわってようやくポールの友人の女教師の家にたどり着きに、挨拶もそこそこに話しを聞いたところ、ちょうどサマーシーズンの長期休暇に入ってしまっていて、生徒たちはそれぞれのリザベーション(居留地)に帰ってしまって誰もいないとのこと。

 でも高校でカウンセリングをしている先住民族出身の先生が残っていると言われるので、連絡を取ってもらうことにしました。

 

 ここでも幸運の女神が微笑んでくれました。何んと日本からこんなところに留学に来てホームステイいる女子高校生がいるというのです。

 彼女は東京都の伊藤安佐奈さんと言って、しかも留学を終えて明日は日本に帰国するというのです。下宿先に連絡すると荷物づくりの真っ最中。何とか強引に頼み込んで通訳のお手伝いしてもらうことになりました。中田さんも千佳子も、” ありがたい!” とホッとしていました。

 ポールの話しでは近くにモーテルはないということでしたが、最近出来たそうなので女教師さんに予約してもらいました。

 

 先住民族出身のカウンセラーの先生は、ティナ・ウンファービルさんという女性で、ちょうど彼女の妹もデニスさんが遊びに来ていたので、安佐奈さんと連絡を取り合って姉妹いっしょに私たちの宿泊することになったコテージにやって来てくれました。

 姉妹は、「メィティ」と呼ばれているクリーインディアンとヨーロッパ人との混血なのだそうです。二人ともライトブラウンの髪の毛、白い肌、青い瞳を持ち、カナダ人と何も変わりはありません。


 

 彼女たちの話によると、カナダ政府は5~6年前先住民族も仕事に就けるよう法律で定めたが、やはり一般社会では差別や偏見があり、アルコール中毒者や自殺者が後を絶たない。

 高校を卒業しても地元に大学はないし、リザベーションの中では仕事はないし、しかたがないから若者は都市へ出て行くが、正業に就けなくて自信をなくしたり、身を持ちくずして帰ってくる青少年も多い。

 クリーインディアンであることを隠して家族と離れて都会に住みついた者も増えてきている。

 

 この頃ではティーンエイジャーの女の子の妊娠も多くなってきた。ほとんどがリザベーションに産みに帰ってきて、赤ちゃんを母親やおばあさんに預けてまた都会に出て行く。

 クリーインディアンは家族の絆を大切にする民族だから、本当はリザベーションを離れて生きることは好まない。しかし先住民族の社会的地位を向上させるためには高い教育を修め、都会で立派な働きをして行かなければ認められなければならない。でもヨーロッパ人の教育方法はクリーインディアンの伝統的な生活様式と精神性とは決して一致しない。ティナさんは、「そこに大きな矛盾があるのです」と話していました。

 

 ティナさんの場合はラッキーで、大学で教育を受けたあとカウンセラーとしての資格も取得して、地元に帰って高校に就職出来たとのこと。

 ティナさんのような容姿だったらヨーロッパ人と何も変わらない。なのに何故、

 

” 差別を受けるのを承知で何故あなたは自分がクリーインディアンだと名乗るのですか? ”

と聞いてみると、

 

 「クリーインディアンは先祖を尊び、老人や年上を敬い、自然を大切にし、家族の絆を重んじる民族です。私はこのような伝統に誇りを持っています。

 都会では分からないかもしれないけれど、この土地の人たちは私の言葉やなまりを聞くと、『 メィティ 』であることはすぐに分かります。容姿はヨーロッパ人に似ていても、私の心はクリーインディアンなのです」 

 そうきっぱりと答えてくれました。

 これからリザベーションの中で仕事を増やすこと。木工や手工芸など、代々自分たちに伝わっている伝統工芸品を作ること、それを販売することの占有権を勝ち取っていかなければならないと語っていました。

 

 お母さんが作ってくれたというビーズを細かく刺繍にした民族衣装を見せてくれました。長い時間と労力をかけて丁寧に作られた装飾品。母親が子供にそそぐ愛情が、その手仕事から伝わってきます。

 考え方や生活のあり方が北海道のアイヌ民族の人たちとも共通するところが多く、印象深く聞かせていただきました。

 

 

南西へ、500キロメートル

 

 6月30日午前7時、クランベリー・ポーテージを出発した私たちは、今度は南西へ500kmさがって、サスカチュワン州の州都サスカツーンを目ざします。

 マニトバ州とサスカチュワン州との州境の285号線から9号線に変わる一帯は、周囲数百キロにわたるうっそうとした原始林でした。

 道路はまだ舗装されていない砂利道。鹿やハリネズミなどの小動物が、時折り顔を出して私たち森の侵入者を見ていました。

 

 約2時間走ってもすれ違う車はほとんどありません。ガタガタの道を走っている途中、ふと車を止めて窓を開ければ車の中の騒音はサッと消えて、まわりの森は物音ひとつしない静寂の世界につつまれます。

 風がカナディアン・レッドシーダーの大木の頭をゆるやかに撫でるように吹き抜けていきます。ホッとするこのとき。

 何という贅沢な時間を過ごしているのでしょう! 

 

 中田さんが、” あの風さんは、森のあっちのほうではみんな元気だったよ。こっちの森ではこんな暮らしぶりだったよって、伝えまわっているのかもしれないね。だから風さんは森の郵便屋さんなんだね、きっと ”  と話し出しました。

 私たちは、” 中田さんは写真をやめて、童話作家になったら? ”  冷やかしていました。みんな笑い出しました。そんな旅をしていました。

 

 サスカツーン市に着いたのは午後4時。宮下さんたちサイクリング班と合流する約束になっていました。

 早速滞在中のお世話をしていただく高谷尚子さんに連絡を取りました。高谷さんは札幌市出身で藤女子大学の英文科を卒業して、日本人の旦那さんと結婚してからカナダに移住してきて、このサスカツーン市に住んで15年。

 札幌にいる私たち夫婦の知人を通じて今回のカナダの旅を知り、援助を申し出て下さって日本を出発する前からファックスで連絡を取り合っていました。

 

 高谷さんはカナダに在住する日系人向けの週刊新聞、日加(日本・カナダ)タイムスのサスカチュワン州のリポーター(記者)の仕事をしています。

 トロントにある日加タイムス本社の編集長色本信夫さんに取材の許可をとって、色本さんにもいろいろ多方面に便宜を図って貰えるよう要請してもらっていました。

 カナダ各州の日本領事館にお願いして、RCMP( Royal Canadian Mounted Police. 王立カナダ騎馬警官)へ、サイクリング中の宮下さんたちサイクリング班のエスコートを依頼してくれたのも高谷さんでした。

 サスカツーン市では交流の日程や宿泊についても、お世話をしていただくことになっています。陰になり日向になり助けて貰っていて、本当に大切な女性でした。

 

 ところが最初の予定では7月1日のカナダ連邦国の誕生をお祝いするカナダ・デーの式典に、市当局と関係者から「クロス・カナダ・ウィールチェア・チャレンジ」をサツカツーン市を挙げて歓迎したいので、メーンストリートで開催するパレードに参加してほしいと要請を受けていました。

 それが今年はパレードそのものが中止になったとのこと。そのかわり、「市の郊外にある大きな自然公園で行われるお祭り広場会場の中央舞台で、記念行事のための挨拶とメッセージをして下さい」ということになったのですが、これまた二転三転。結局はただ、「今この会場に参加しています」、というアナウンスが流されるだけになりました。

 私たちはプッと吹き出して笑ってしまいました。いい加減と言えばいい加減な話しだけど、臨機応変というか、物事にこだわらない大らかさというか。これがカナディアン・スタイルなんだと、何だかほほ笑ましい気分になりました。

 

 宮下さんたちサイクリング班とはウィニペグから別行動になって6日ぶりで、お互い元気に再会しました。宮下さんの体調も良く、昨日は171.8kmと一日の走行距離の最高記録を更新したそうです。真っ黒に顔が日焼けしていました。

 でもせっかくサイクリングのお休み日にして、国道1号線のコースから少し遠回りをしてわざわざサツカツーン市にやって来たのに、パレードも中央舞台での紹介も中止になってしまって、みんながっかりしている様子でした。期待も大きかっただけに気の毒なことになってしまいました。

 

 

 

カナダ・デー

 

 

                 青く澄みきった大空

                 さわやかな風が、高く吹いている

 

                 7月1日、カナダ・デー

                 今日はカナダの誕生日

 

                 サスカチュワン州のサスカツーン市のお祭り広場

                 集まった人たちが、それぞれに、

                 ” ハピー・バースデー・カナダ !! ” と

                 お祝いの言葉を交わしている

 

                 そこに

                 思い思いのコスチュームで

                 いろいろな車イスに乗った人たちがやって来た

                

                 “ 年に一度のお祭りだ “

                 “ 同じ車イスなら、かっこいい自分だけのウィールチェアがいいね “

                 “ こいつは僕の、ハンディクラフトさッ “

                  何の屈託もなく笑いあっている

 

                 “ みなさん、日本からカナダ横断にやって来ている

                  ウィールチェア・チャレンジのメンバーが

                  ここに参加しています ”

 

                 メーンステージからアナウンスが流れる

                 わぁっー! という歓声がおこり

                 こちらを向いて立って拍手をしてくれている

                 手を振ってこたえる

 

                 楽しいひととき

                 幸せな日

 

 サスカツーン市の郊外にあるなだらかな丘陵公園。青い大空と緑の大地が地平線の先でくっついて見えるほど。雲がゆったりと流れている。お祭り会場のど真ん中に中央舞台が作られ、多民族国家にふさわしく各州・各部族、世界中の歌と踊りがつぎつぎとくりひろげられている。

 それを遠巻きに囲むようにしてハンバーガーやアイスクリームやクレープショップなどの出店がずらりと並んでいる。

 バーベキュー料理やポップコーンにソフトドリンクを売っているお店もあれば、手工芸品に骨董品、はては自分の家からいらないものを持ちだしてきたような雑品屋さんにガレージ・セールもやっていて、おおにぎわい。

 見てまわるだけでも本当に愉快。

 

 障害者グループがやっている帽子やさんがありました。日本へのお土産にカナダのキャップ式の帽子を買いました。

 広い芝生に目をやれば、フカフカの草むらに寝っ転がって水着姿で日光浴を楽しむ人たち。ピクニック気分でバスケットからスナックを取り出してランチを楽しんでいる人たち。マスコット人形のぬいぐるみを着たグループが広い会場を踊りながら愛嬌をふりまいている。

 

 小児マヒと脳性マヒのかかった最重度の女性が、妹さんに車イスを押してもらってやって来た。日本ではおそらく施設に入れられて寝たきり状態か引きこもりか。

 「外に遊びに行きたい」なんて言おうものなら、指導員の先生から、

 

” そんな危ないことはダメです! ”

と、一喝されていることだろうなぁ~。それがカナダではごく当たり前にやって来る。

 

 三輪車の愉快な車イスに乗った人たちもあらわれた。自分で工夫して作ったんだって、仲間と自慢話しをしている。いいなぁ~、自由って。

 

 車イスのベティ・シェーダールさんと健常者の旦那さんのビルさんを紹介された。二人は本当に仲睦ましいナイスカップルで、私たちは当てられっぱなしでした。

 夜には花火が盛大に打ち上げられ、カナダの誕生日をお祝いしていました。

 


 

 

 

アビリティーズ・カウンシル

 

 翌日は高谷さんにレッドシーダー授産所に案内されました。カナダ特産の天然赤スギを加工して、イスやテーブルの他に木桶やコーヒーカップなどのクラフト製品も作っています。

 職業訓練センターのマネージャーのラルフ・モーガンさんのお話では、精神障害者が主になって働いているそうです。

 小さな入り口から工房に入ってみると、とても授産所などという規模ではなくて、大型の木工用旋盤機や切断機に加えてボール盤や研磨機までずらりと並んだまるで最新式の大工場。数十人の人たちがここで働いていました。

 

 縫製工場にも案内されましたが、ここにはデザイン部門もあって、才能のある人は新製品の意匠開発に積極的に取り組んでいるとのこと。この他にもこの『授産所』にはいろいろな種類の学習が出来る施設や設備やコンピュータールーム、自習室、図書館もあって、まるで大学に紛れ込んだようでした。

 

 「障害の種類、状況によってさまざまな職業訓練が受けられるようになっています。

仕事をはじめるための準備訓練か、実際に仕事をする職業訓練が良いのか、ひとりひとりに評価が出されます。

 次ぎに訓練を受ける中で個人の適性がカウンセリングを通じて判断され、企業から注文を受けた仕事をやりこなし熟練度があがればこの職業訓練センターに雇用されます。

 雇用されれば正規の賃金が貰えます。このようにステップアップをめざす指導システムをしています」

 と、ラルフさんは説明しれくれました。

 

 いま雇用されているのは66人だそうです。正規に雇用後も少しずつスキルアップして、働く意欲を持たせるようにしているそうです。

 職業訓練センターに入所して卒業して就職をして、最後には自立生活が出来るまで一貫した指導システムが行われている。うらやましい限りです。

 

 これだけの規模を持っていても、この職業訓練センターは全体の一部門で、他には農家の仕事をしていた人で障害を受けた人たちには農業訓練センターがあり、障害者の外出を支援する福祉バスの事業もあり、これらの部門をすべて統括するのがサスカチュワン・アビリティーズ・カウンシル(協議会)。

 サスカツーン市以外にもレジャイナ、スイフトカレン、ヨークトンなどの州内の都市や郡の行政区にもディビジョン(支部)をかかえています。それぞれの支部がアビリティーズ・ファンデーション(基金)を持っていて、独立採算で運営されているとのこと。

 

 もう唖然として口もきけません。マニトバ支部といいサスカチュワン支部といい、このようなネットワークを作りあげていくカナダ人の組織能力にはもうまったく脱帽です。福祉事業を支えている底力を感じます。

 とにかく日本とは根本的なところから発想が違うのですね。


 

 「私のほうも見て下さいよ」と誘ってくれたのは、製品販売と市場調査部門を担当しているエドワード・ディロンさんでした。

 高谷さんとはすでに顔なじみで、彼女は日加タイムスの仕事をこなすかたわら、レッドシーダー授産所の木工製品を日本に輸出する仕事を手伝っているのだそうです。

 

 案内されたのは整形外科部門で、肢体不自由児(者)のための靴を修理していました。市販されている靴を障害にあった靴に合うよう特別加工しています。見た目にも障害者用と思わせるいろいろな靴をハイセンスでファッショナブルに変身させるのです。障害を持つ職人さんも含めて、みんな陽気に歌を口ずさみながら仕事をしていました。

 

 福祉機器部門で修理を担当しているラリー・ドーソンさんは最初は機械技師だったそうでですが、要請されてここで働くようになったそうです。

 

 「今では車イスの修理が大好きになった。車イスはオモシロイ機会だ」

と、いかにも職人さんというタイプのラリーさんは、自分の言葉に真顔でうなづいていました。

 

 

 

フトッチョおじさん

 

 

 

 

 アビリティーズ・カウンシルの後で訪問したのが、サスカチュワン・リハビリセンター。小さなオフィスに案内されて何か様子が違うなぁ〜と思っていたら、機能回復訓練のリハビリテーションセンターではなく、なんとリサイクルセンターでした。案内してくれた高谷さんも、” 私も知らなかったわ! “ とびっくり。そこにいきなりドアーを開けて、もう忙しくてかなわんっ!といった様子で、フトッチョのおじさんが人なつっこい笑顔で飛び込んでくるように入ってきました。

 

 「 あなた方ですか、日本からやって来た人たちは 」、 ” イエス ”、 「 このセンターのことを知りたいのですね? 」、 ” イエス ”、 「 OK! それではこちらの中へどうぞっ 」と、まるで映画の一シーンのように登場をしたのはリハビリセンターの所長のウェイン・ジンマーさん。

 

 「 福祉にはお金が大切。お金を作る仕事が福祉の幅を広げてくれる。空きカンのリサイクルはたくさんのお金を作り出してくれます。」 大きな身ぶり手ぶりに早い口調で、ジンマーさんはそう切り出しました。そしてパンフレットやポスターにカタログ、ゴミ袋まで私たち一人ひとりに手渡してくれました。

 

 「 よろしい、ご案内しましょう!」 

 太っていても行動は素早い。足早にオフィスを出てお腹がつかえながらもサッと車に乗り込みました。

 

  連れてこられたのは空きカンの処理工場。市民の人たちが空きカンを詰め込んだゴミ袋を持って長い行列を作っている。機械でつぶされた空きカンが山のように積まれている。機械を操作したり空きカンの分別を担当しているのは知的障害のある人たちでした。

 空きカンの80%は再生出来るそうで、資源を無駄にしないし環境の汚染も防げるし、障害者の雇用にもつながる。

 空きカンのリサイクル運動は北米全体にネットワークを持ち、再生資源の時価などの情報も交換し合っている。アルミニウムなどはネットワーク全体で集められたものを海外に輸出されている。

 

 「カナダの空きカンも日本に行って、エンジンのパーツになっています。日本の商社マンもビジネスに良くやって来ますよ」と、ジンマーさんは高笑いをしていました。

 「私はたくさんのノウハウをあなたたちに教えました。だから私が日本に行ったときにはごちそうして下さい。サシミ、テンプラ、スシ、フグナベ、私、日本の食べ物大好きです」 

 

ジンマーさんは愛嬌たっぷりのウィンクをして見せました。福祉の人というよりも、敏腕な経営能力を持った実業家のようなフトッチョおじさんでした。

 

 

 

チェシア・ホーム

 

 サスカツーン市に滞在中に宿泊させてもらっていたのは、重度障害者のためのケアー付き住宅のチェシア・ホームでした。

 建物の中央にトイレが3ヶ所とお風呂と洗濯場兼物入れがあって、そのまわりを10室の個室がある。ゲストハウスもあるけど、個室には予備のベッドが入るほど充分なスペースがあるので、身内や友人が宿泊出来るようになっている。

 ヘルパーやボランティアも含めて24時間ケアーする人がいるので、 朝と夜、トイレとお風呂の世話をしてもらう。

 日中はリフトバスでアビリティーズ・カウンシルの作業所に行って仕事をしたり、自室で趣味の絵を描いたり、夜遅くまでテレビを見ておしゃべりとそれぞれ自由に選択出来るようになっている。体調によっては朝から昼食の時間まで寝ている人もいました。

 

 ケアーをする人は、「生活訓練を受けた人がほとんどなので楽です」、

と話していましたが、たまに訓練を受けてない人が入居して来るとやはり手がかかり、慣れるまで大変ということでした。

 

 一人ひとりにあだ名をつけました。

みんなの世話役をしていて、ウィニペグのテン・テン・シンクレア出身のカレンさんは、ボス。夕方になると首からぶら下げた瓶ビールをストローで飲んでいる彼は、ミスタービアー。

 少女のときの写真を見せてもらったら人形さんのように可愛かった彼女は、ベビードール。いつもタバコを口にくわえている大柄の彼は、ヘビースモーカー。口ひげを生やしていても顔がくちゃくちゃっとしている小柄の彼は、ベビーフェイス。退屈だぁ-、疲れるなぁ~といつもボーッと立っている長身のフランクは、レイジーマン。一時ではあってもみんな楽しい同居人たちです。

 カナダでは日本と違って肉親の住んでいる近くのケアー付きホームに入居する人が多いそうです。土曜日曜日には家族が迎えに来て実家で過ごす人もいたり、また遊びにやってきてそのまま宿泊する人もいたりしているのは、とっても良いことだと思えました。

 日本のように障害者がいることを知られたくないから、遠くのホームに入居させるということはないようです。やはり街の中にケアー付き住宅がたくさんあることがいちばん大切なことだと思いました。


 

 

グレートチーフの教え

 

 クランベリー・ポーテージのティナとデニス姉妹から、是非行ってみるようにと勧められていたが、先住民族クリーインディアンのリザベーション、フォート・コ・アペルでした。

 

 フォート・コ・アペルはサスカツーン市から国道11号線を南にレジャイナまで下がり、それから10号線に乗り換えて北東に少し上がったところで距離にして330kmほど。サスカチュワン州でいちばん景色の美しいところだそうです。

 先住民族との交流は考えていたよりも難しいらしくて、つい最近も発砲事件などのいざこざがあったりで地元の人たちも何となく避けて通るフンイキでした。高谷さんも、

” どうしてそんなところに行くの? “

と訝しげな表情でした。同じ人間同士、失礼な態度をしないかぎり話せないことはない。私たちは怖いもの知らずで行ってみることにしました。

 

 フォート・コ・アペルの10kmほどに手前あたりに差し掛かると、にわかに暗い雲が空いっぱいにもくもくと立ち上り、いきなりざあーと音を立てて大粒の雨が降り出しました。太い稲妻がピシーッと走り、ダッダーンと大地を揺るがすばかりのカミナリが何度も鳴り出しました。

 カナダのカミナリは何と男性的なこと。

 中田さんが、” よう来た、よう来たと言って、カミナリ様が歓迎してくれているよっ!”  とはしゃいでいました。

 と、そのあとたちまち先程の大雨がウソのように晴れ上がり、澄みきった青空がまたたく間に広がりはじめると、せまい谷間の下に美しい湖が姿を現しました。

 

 フォート・コ・アペルは数千年前に氷河が削りとった長い谷間に4つの湖が出来て、その後ここに先住民や開拓民たちが交易に集まり、やがて集落となった町。

 空の青が湖に映り、谷間の草原の緑が雨上がりに輝いて、そのコントラストがとても美しい。サスカチュワン州でいちばん美しいところと言われるのも、” なるほど!” と納得しました。

 

 高谷さんからコンタクトを取ってもらっていたグレートプレーン・クリスチャン・トレーニングセンターに行き、所長のジム・フォン・リーセンさんにお会いしました。

 ジムさんのお話しでは、高谷さんから紹介を受けた日本語を話せるスタッフはトロントに転勤していて、今は日本語の話せる人はいないとのことでした。

 中田さんは、” しかたがない。ハチャメチャのクソ度胸イングリッシュでなんとかやってみる ” と覚悟を決めていました。

 

 ジムさんが連れていってくれたのは、サスカチュワン州先住民族者評議会の自治区オフィス。突然の訪問だったのですが、ジムさんの交渉のおかげで会っていただけることになりました。しかしオフィスの中ではカメラもビデオも撮影は禁止です。グレートチーフのローレンス・タバコ氏と、チーフのハーブ・ストロングイーグル氏に出迎えていただきました。

 グレートチーフは名前が示すように、タバコを使って伝統儀式を行う家系の出身。

 もうひとりのチーフは戦士の家系の出身なのだそうです。

 がっしりとし身体と精悍な顔つきに圧倒されそうでした。

 まず中田さんがジムさんに英語で質問し、それをジムさんが正しい英語で(?)グレートチーフに話すという、ユニークな会話がされることになりました。

 

 中田さんの通訳を通して分かったことは、今でも身分、生活権利、教育、職業、において差別や偏見が依然としてあることを、数々の例をあげて話されました。

 いま特にグレートチーフが関心を持って取り組んでいるは青少年のこと。若者たちがここを出て行っても、自信をなくし心傷ついて帰って来る。

 

 その若者たちに、

「ここはもともとお前たちの土地だ。森も湖も大地も、みんなお前たちのものだ 」

と、クリーインディアンの魂と言葉と伝統儀式を教えているそうです。

 

 グレートチーフは昔おじいさんから、

 「わが孫よ、この木を良く見よ。どのように育ちどのような実をつけているか。あの動物を見よ。どのように走っているか。森の中、大地に起きていることをよく見ていれば、いろいろなことを知ることが出来る」

 

 と、たくさんのことを教えられた。そして今、おじいさんのグレートチーフから教えられたことを子供や若者たちに伝えている。子供のときからクリーインディアンとしての精神と文化と伝統を身につけていれば、ヨーロッパ人の社会にあっても、自分がクリーインディアンの誇りを失うことは絶対にない。グレートチーフは厳つい顔つきの中に、瞳をきらきらと輝かせながら確信を持って話されました。

 

 中田さんが、

” もしグレートチーフが苦しいとき困難なとき、亡くなられたおじいさんのグレートチーフに会いたくなったら、どうされるのですか? “

と質問すると、

 

グレートチーフは、

「朝から身体を清潔にして身づくろいを整えて、ひとり静かに座り、心を落ち着かせて3種類のタバコを焚いて瞑想していると、おじいさんのグレートチーフが現れて言葉を置いていってくれる」

 と、話されました。

 

 さらに中田さんが、

” 東南アジアやフィリピン、ミクロネシアやメラネシアの人々にオーストラリア大陸のアボジリニ人たち。オキナワの人たちに北海道のアイヌ民族。アラスカのイヌイットに北米大陸の先住民族に南米のインディオの人々。環太平洋に住むこれらの人々には同じアジア・モンゴロイドの血が流れており、同じ心と魂を持っていると思う ”

 と告げると、

 

グレートチーフは、

「私が子どものころ、おじいさんから同じような話しを聞いたことがある。この大地には六つの大陸があり、そこには兄弟がいる。いつか、その兄弟たちと手を結ぶ日が来るだろうと」

 

 大地、自然の神とともに生きるグレートチーフの存在感のある姿が今でも思い浮かびます。

中田さんも、” 僕が尊敬しているアイヌ民族のエカシ(長老)と同じような口ぶり、リズムで話しておられた ”と、大変感激していました。

 

 

 

多くの人に助けられ

 

 サスカツーンでの予定をすべて終えて、次の目的地のアルバータ州カルガリーに向かいます。

7月1日、カナダディーの会場を出発した宮下さんらサイクリング班もカルガリーに向かっており、宿泊予定しているモーテルで合流する予定です。

 

 高谷さんからの助言もあり、途中でエドモントンにある日本領事館に立ち寄ってご挨拶しておくことにしました。日本領事館にはサイクリング班へのRCMP(王立騎馬警官隊)のエスコートを依頼していただくなど、陰になっていろいろ支援してもらっていました。これからも引き続き援助のお願いをしに行こうということになりました。

 この他にも高谷さんから、カナディアン・パラプレジック・アソシエーション(脊椎損傷者協会)のサスカチュワン州支部のオフィスに行き、カルガリー市にあるアルバータ州支部にもコンタクトをとって、引き続き支援をしてもらうようお願いしておくほうがよいと助言を受けました。

 早速サスカチュワン支部を訪れ、執行委員長のパトリシア・ベネディクトさんにお会いしました。

 

 「ウィニペグのジョン・レーンは私たちの仲間です。バンクーバーのリック・ハンセンも友人ですから、彼と会えるように彼のオフィスに連絡してあげましょう」

  と約束してくれました。

 

 リック・ハンセン氏は数年前、車イスマラソン用のウィールチェアで世界一周を果たした、カナダの身障者スポーツ界の英雄的存在です。宮下さんがバンクーバーに完走を果たしたときには、真っ先に会いたいと思っている憧れの人でした。

 

 また高谷さんはカルガリーでも交流のことや通訳に困らないようにと、同じ日加タイムスのリポーターでカルガリー在住の幸子・コラルさんを紹介してくれました。

 私たちはウィニペグでの交流経験に加えて、またサスカツーンでも多くのことを学ぶことが出来ました。高谷さん、ありがとうございました。心からのお礼を述べつつ、7月6日の朝、私たちはおよそ830km向こうにあるカルガリーに向かいました。

  途中、エドモントンの日本領事館を訪問し、野々垣総領事にお会いして支援のお礼を述べ、カルガリー市に到着したのは夜の9時近くになっていました。

 

 たった一日で830kmのドライブ移動が可能なカナダのフリーウェイの道路状態が良さに驚きですが、それよりも進行性筋ジストロフィーなのにこんなドライブ旅行が出来る香西智行に、もっとビックリしています。

 

 夫の香西さんは身体の機能回復だけでなく、心までももっと元気になって行くようでした。

 

 

 

カルガリー、ハンディー・バス

 

 カルガリーでは7月7日に、カルガリー身障者アクショングループの代表ラス・ブロックハートさんが、ニュース報道を聞きつけて宿泊しているモーテルにやって来てくれました。

 

 日本では先ずグループの1人が様子見がてら挨拶にやって来て、それからおもむろに委員会などで対策協議をして、それからやっと代表者が腰をあげて面会にやって来るというのが手順だろうけれど、いきなりトップの代表者自身がやって来て、すぐに具体的な交流の打ち合わせをはじめる。

 

 委細即決。このやり方に、” さすが、カナダ!” と思えました。

 

 高谷さんから連絡を受けた、幸子・コラルさんも会いに来てくれました。小さな身体にファイト満々の40代の女性でした。その幸子さんの通訳とラスの案内で、私たちは最初にカルガリー・ハンディバス協会を訪問しました。

 宮下さんたちサイクリング班は7日の朝、予定通り次の目的地に向けて出発しました。

 カルガリー・ハンディバス協会では100台以上の福祉バスを所有しており、常時90台以上が走行しています。

 午前5時から深夜の12時まで、電話一本で予約に応じてくれます。

 あらかじめ登録されている5000人の障害者に対して、年間延べ42万回の稼働をしているそうです。

 病院に行ったり学校に行ったり郊外にリクレーションに行ったりと、社会生活を営む上で必要なあらゆる用件に、玄関を出て玄関に帰ってくるまで、サービスが受けられます。

 公益団体や市の交付金と利用者の運賃で運営されていて、通常の公営の交通機関より高い料金を支払うことはないということです。

 

 総支配人のリチャード・サジットさんは、

「障害者のために完全な交通手段を提供することが目標です」 と話していました。

「交通手段が確保されると、障害者の生きる希望につながります」とも話していました。

 このハンディバスも最初は民間経営で、しかもバス1台から始まったとのことです。

 

 今の日本でこんなサービスを受けられるのは無理なことなのでしょうか。地方自治体や社会福祉協議会などで運営されている福祉タクシーサービスやリフト付きバス。

 いろいろな制限があって、障害者が気軽で便利に利用できる福祉バスになっていないと思います。

 それに比べればカルガリー・ハンディバスはうらやましい限りです。もっとカナダのように温かい心で寄付を続けてくれる企業と、障害者の立場に立った福祉事業を行う政府からの援助がなければ、と思えます。

 

 私たちを試乗させてくれたバスのドライバーはスティーブ・ゴンボックさんといい、今までは探偵社に勤めていたそうです。

 「時間が不規則で危険のともなう仕事だった。今の仕事は人の役に立つから誇りを持って出来る。給料は前より低いけれど、もうすぐ子供が生まれるし、ずうっとこの仕事を続けたい」と話していました。

 先日ラスの奥さんのメリー・ジェーンから来た手紙には、スティーブさんに元気な女の子が生まれたと知らせてくれました。


 

 

 

スタンピード

 

 7月7日のカルガリーではちょうど北米でも有名なスタンピードのお祭りが開催されるシーズンです。ラスのアクショングループの仲間で筋ジストロフィーのクロフォード・ラムゼーさんに案内されて、ロディオ大会を見に行きました。

 ラムゼーさんは身障者にとって住みよい街にするために建築基準の法律を変えさせたり、公共の建築物の設計施工のアドバイザーをしたり、大学の建築科で講義をしたり。また身障者の旅行についての調査をして意見書を公的機関に提出したりと、重要な活動をしています。

 今年70歳だそうですがとてもお元気で、” 退職してからのほうが忙しくなった ” と苦笑いしていました。

 広いイベント会場にはジェットコースターやメリーゴーラウンド、射的場、手芸品売り場にソフトドリンクやハンバーガーショップなど、たくさんの露店が並んでとてもにぎやかでした。

 集まってきた人たちは男性も女性も老いも若きも子供たちまでも、みんな西部劇映画に出てくるようなファッションに着飾っています。

 カウボーイハットにジーンズ、 首にはバンダナを巻いて、 先のとんがったウェスタンブーツ。

 

女の人たちは西部開拓当時さながらのスカートにフリルの付いたロングドレス姿の人もいます。みんな楽しそうに西部の伊達男・伊達女を気取っていました。

 お祭り会場はゆったりとしたスペースで、車イスでも人とぶつかる心配はありませんでした。

 そんな中をラムゼーさんがずうっと電動車イスで案内して下さいました。

  ” ラムゼーさん、疲れたでしょう?” と聞くと、

  「私の身体は疲れないけれど、(走行ボタンを押している)指が疲れたヨ」

と、ジョークを言って笑っていました。

 

 ロデオ大会を見るのには予約が必要でしたが、会場の受付嬢は、「日本からわざわざやって来た障害者なら、OK!」と中に入れてくれました。

  案内されたのは満員の観覧席の最前列のいちばん見やすいところ。身体障害者専用席と書いてありました。

 ナイヤガラの滝を観光したときも同じ。日本でこのような配慮がなされているでしょうか? 

初めて見たスタンピードショーの素晴らしさに、心から楽しみました。

 

 

人間としての天性

 

 ラスが代表をしているカルガリー身障者アクショングループのプロジェクトセンターを訪問しました。ここは筋ジストロフィー協会カルガリー支部はじめ、パラプレジック・アソシエーション(脊椎損傷者協会)。

 私たちがオタワで参加したナショナル・アクセス・ウェネス・ウィークのアルバータ州運営委員会、障害者スポーツクラブにボランティアグループの人たちと、障害の種類や団体に関係なく、実質的な行動をしていこうとしている人たちの集まりでした。

 

 生活相談や生活支援、福祉機器の普及と修理に貸し出し業務もしながら、住みよい街づくりの運動に取り組んでいます。カルガリー市はこのプロジェクトに対して実験的に1年間だけ予算をつけたが、もうすでに3年延長されているそうです。

 代表のラスは地元のマスコミ関係に影響力を持った活動家でした。

 その日の夕方、私たちはラス宅にバーベーキューパーティーを招待されました。もちろん幸子さんにも同行してもらいました。ラムゼーさんは遅れてやって来ました。

 

 ラスの奥さんのメリー・ジェーンも車イスに乗っていました。とても明るくて目をクリクリ動かしながら表情豊かにお話しする可愛い女性です。カナダ国内だけでなくヨーロッパの国際競技にも参加したことのある元スキープレイヤーでした。障害を持ってから教師の免許を取って小学校の先生をしています。水泳以外の教科はみんな教えられると笑っていました。

 

 そして彼女はとてもお料理上手。ポテトサラダに煮豆。野菜サラダに自家製で焼いたパンを美しくテーブルに盛りつけてありました。そこにホストのラスが焼いてくれるステーキとハンバーグ。カナダではこのアルバータミートがいちばん美味しいと自慢するだけあって、飛びっきりの美味しさでした。私たちがお土産に持って行ったカナディアンビールを飲み、もう長年の友人のような和気あいあいのホームパーティーが始まりました。

 少し酔いが回ってラスがしゃっくりをするたびに「失敬っ!」と言いながら、自分たちの運動について語ってくれました。

 

 「アルバータ州はカナダの中でも障害者に対する政策が一番良くない。州政府の障害者に対する年金や恩給の政策を変えさせるには時間が必要だ。

 州政府の官僚政治は遅々として改良されていない。私たちが生きている間に政策が変わることはないかもしれないけれど、しかし運動は進めなければならない。

 私たちは政策を変えさせ、障害者が住みよい街づくりを進めるこの仕事に、誇りと生きがいを持っている」

と語っていました。

 

 またラムゼーさんは、

  「 私たちが障害者のために仕事をするということ。他の障害者の役に立ちたいと思うことは、人間としての天性だと思う。 」

と、静かな表情で話されていました。

 

 

 

ウィリアム・ワトソン・ロッジ


 障害者専用の保養所があるというので、幸子さんもいっしょにラスに案内してもらうことになりました。カルガリーから約130キロメートル、ピーター・ラヒードという州立公園の素晴らしい景観の中にあるウィリアム・ワトソン・ロッジ。

 

 近くのカナナスキス湖畔にはメーンロッジの他に、8箇所の小さなコテージがあります。車イス用の散歩道、サイクリングロード、ボートやカヌー、魚釣りに冬にはボブスレーも楽しめるという障害者専用のリゾート地です。

 

 自然豊かな公園の中では小動物があっちこっちと走り回っているのが見れます。コテージの中を見せてもらうと、玄関先から車イスで入れるゆったりとしたスペース。キッチンもバスルームもベッドルームもバリヤフリーの設備が行き届いている。備え付けの家具もテーブルもイスもすべてがっしりとした木造のクラフト品。

 「身障者が全身でもたれかかっても負けないよう丈夫に作られています」と、ガイドの男性が説明してくれました。

 

 

 

 車イス以外の障害者であっても1人につき3人まで同伴出来るそうで、家族や友だちとゆっくりと休暇が過ごせるようになっているそうです。65歳以上の高齢者には一人一泊カナダドル約360円で利用出来るというからウソのような話。

 

 今でも目をつぶると、ロッジのサンデッキでウッディークラフトのゆったりとした椅子に座り。

 そびえ立つ山々、見わたすかぎりの森林の中に静かにたたずむ湖、太陽の輝きを全身に浴びて深呼吸。やわらかな風に身を任せていたあの感触がよみがえって来ます。

 これがカナダの障害者専用のリゾート施設なの?! 

 

 それに比べて日本の現状は? 

 お話しにもならない。

 

 

 

ラスの心づかい

 

 ウィリアム・ワトソン・ロッジの訪問を終えた私たちは、ラスと幸子さんといっしょにキャンモアというオートキャンプ地に向かいました。ここでサイクリング班と合流し、これからのバンクーバーまでのスケジュールを打ち合わせることになりました。

 

 ラスはリック・ハンセンのオフィス「 Man In Motion 」(マン・イン・モーション)に連絡を取って、バンクーバーで彼と会えるように便宜を図ってくれることや、バンクーバーでフリーライターとして活躍してる筋ジストロフィーのデイブ・デビッド・デービスという人を、コーディネーターとして紹介してくれることになりました。

 この後も、ラスは何度となく渉外担当の勝谷さんと連絡を取って、私たちの様子を気にかけてくれました。幸子さんもあまり健康でなく体調もすぐれない中を、親身になって通訳のお手伝いしていただきました。たった2日間のお付き合いだったけれど、カナダでめぐり会った大切な友人となりました。

 ラスは幸子さんを車に乗せて、「バーイ!」と明るく手を振ってカルガリーへと帰っていきました。

 

 

 

コロンビア・アイスフィールド

 

 カナダに行ったらロッキーの万年氷河の氷でウィスキーの「オン・ザ・ロック」を飲もうと、日本にいるときから楽しみにしていました。7月10日にはバンフに着いており、サイクリングは休養日。一日自由行動になりました。この日を利用して私たち夫婦と中田さんと千佳子の4人で、コロンビア・アイスフィールドに出かけることにしました。

 

 アイスフィールド・シャレーからシャトルバスに乗って氷河近くまで行き、次ぎに氷原の真ん中まで雪上車で行く。氷原での散歩時間は10分間。ウィスキーボトルの用意をして慌ただしく、乾杯! 夫の香西さんは、

 ” 筋ジスでこんな所までやって来るヤツは、滅多にいないだろう ”

と悦に入っているけれど、大きなバスに乗り換えるたびに夫を背中におぶって、狭い高い階段を上り下りするのは大変。人の目なんて気にしていられない。よろけながら必死に階段を上ると、ガイド兼運転手が入り口の座席を空けておいてくれました。夫を座らせるとホッと一息、呼吸も荒い。

 

 そのとき、バスに同乗していたアメリカのアイダホ州からやって来ていた老人夫婦のツアーの人たちから、賞賛の拍手と歓声がワァーと私をつつんだ。

 

 もう言葉はいらない。感動で胸がいっぱいになった。バスから降りるとき、一人ひとりが声をかけて肩を叩いて握手までしてくれる。抑えてもおさえても、霧がかかったように何も見えなくなって涙があふれてくる。

 日本では好奇の目で見られても、今までこんなことはなかった。見知らぬ土地で見知らぬ人たちからいただいた熱い心。カナダの旅の中で与えられた宝として、胸にしっかりと受け止めさせていただきました。

 

 

 

 

ささやかな幸せ

 

 ロッキーの山越えも無事に終わり、私たちは今、サーモンアームという美しい湖のそばの町にいる。

 

 突然の事故で身の回りの世話をしていた母を失った香西と、ガンの宣告を受けた夫をそれから半年後に見送った私が、3人の子供を連れて結婚して7年目。

 

 その間には福祉機器研究所の設立。札幌市の授産所の認可。日本筋ジストロフィー協会理事の任命を受け、同時に北海道筋ジストロフィー協会会長の仕事。私生活では長女の結婚、次女の大学入学、長男の就職、そして次女の大学卒業と就職。

 

 めまぐるしく休む間もなく生きてきた。夫の福祉機器製作の仕事を素人ながら手伝って、徹夜の作業も随分とこなしてきた。使う人の立場を考えれば考えるほど、全然採算の取れない仕事ばかり続けてきた。そして今、二人で元気にカナダを旅している。平和なひととき。かけがえのないこのやすらぎ。

 

 結婚式のとき、進行性で治療法のない難病のため、何年いっしょに暮らせか分からないと、私自身覚悟をしていたのに。誰が今の私たちを想像出来ただろうか。人生ほど不思議なものはない。苦しみは多くとも、生きていこうとする勇気から、ささやかな幸せが生まれてくる。

 

 明日に希望を!


 

 

カムループス

 7月16日、私たち一行は、カムループスに着いていました。すでに最終地のバンクーバーがあるブリティッシュ・コロンビア州に入っています。

 

 私たち交流班はサイクリング班と合流しており、その日の走行を終えてモーテルの部屋で休んでいると、50歳代の車イスの男性と奥さんがトライスクルを見たいと宮下さんに会いにやって来ました。

 スコッティー・ウェブスターさんはウィールチェースポーツ競技の選手だそうで、ニュース報道などでトライスクルに興味を持ったとのことでした。実際にトライスクルを試乗して大変気に入った様子で、翌17日の朝にはスコティーさんが地元のテレビ局に声をかけてくれて、テレビ取材を受けることになりました。

 中田さんがその日のサイクリングの撮影を終えて、私たち一行が宿泊しているメリットの町のモーテルに帰ってきたとき、スコッティーさんはなかなかオモシロイ人物で、地元のいろいろな身障者グループを知っているらしいという情報を教えてくれました。

 

 早速スコッティーさんに連絡を取って交流会をしてもらえるようお願いをしました。18日はちょうどサイクリングの休養日に当たっていたので、いつもの私たち4人に通訳として渉外担当の勝谷さんにもいっしょに行ってもらうことになりました。

 途中でスコティーさんと待ち合わせ、彼の案内でカムループス市内にある障害者グループのオフィスを訪れました。

 このグループは、「 People In Motion 」(ピープル・イン・モーション)といい、カムループスのあらゆる種類の障害者のための生活、住居、就職の相談を受け意見を取りまとめて、市や州政府に対して改善を要求しようとする行動中心のグループでした。

 オフィスはカムループス市から元小学校の教室と体育館を借りて利用していました。

 会長のエド・アーントスンさんも脊椎損傷の障害で車イスだけど、がっしりとした身体で精悍な顔つきの人でした。エドさんの話では、

 

 「この地域の障害者の多くはまだ施設にいるが、彼らが自立生活が出来るようにするためには5つの重要な問題がある。

 住居、交通手段、職業訓練や障害者の権利を知るための法律などの学習、都市の整備、リクレーションなどです。

 我々は州政府から就職のためのプロジェクトとを委任されており、この地域のどの企業がどれだけ雇用出来るかを調査して斡旋もしています」

 

と話していました。エドさんは障害を持つまでは、

 

 「障害者のことなど考えたこともなかった。自分が障害者になって、いろいろ困難なことがあるが誰かが大きな声で訴えなければ、障害者の生活は良くならないと思う」ようになり、この仕事を始めたのだそうです。

 

 「今は会長としての仕事をしているけれど、5年後は分からない。新しい会長が引き継げばさらに運動がうまく行くだろう。そのとき私は5年間の経験を生かして、次の自分の仕事を見つけていることだろう」

 と、力強く語っていました。

 けっして会長の席に安住していない。エドさんのさわやかな人柄がとても印象的でした。

 

 

 

ピープル・イン・モーション

 

 日本に帰ってきてエドさんから「ピープル・イン・モーション」の機関紙とビデオを送ってきてくれました。

 カムループスでは障害者のためのリクレーションのひとつとして、リハビリ訓練も兼ねて牧場での乗馬がありました。交通事故などによる重度の障害者にも一週間に1回30分の訓練を1ヶ月続けたところ、機能が改善し持ち上げられなかった腕が上がるようになったというものでした。身体だけでなく精神的にも大変効果があったとのことでした。

 

 香西智行も筋ジストロフィーの症状が少しずつ重くなっていた若いころ、オートバイを乗り回していた経験があったので、実感として良く理解出来る言っています。

 

 エドさんをはじめ「ピープル・イン・モーション」のメンバーの皆さま。貴重な資料とビデオをどうもありがとうございました。

 

 

 

スコッティーの夢

 交流会を終えたあと、スコッティーが自宅に来るよう誘ってくれました。スコッティーは子どものころから家が貧しく、一家を支えるために早くから働いていたのですが、トラックの運転手をしているときに事故にあったのだそうです。

 

 もともとスポーツマンだったスコッティーは、障害者になってからも車イスのレース競技や槍投げ、砲丸投げなどのフィールド競技に積極的に参加していたそうです。だんだんと名前が知られるようになり、そのうちスポンサーがつくようになったとのことでした。障害者でフリーのプロスポーツマンがいるなんて、日本じゃとても考えられないことです。

  スコッティーは今まで会ったカナダの障害者の中では、一番質素な生活をしているようでした。

 

「自分は州政府の世話になるのはイヤだ。自分の力で自由にやるんだ。誰にも干渉されないという信念でここまでやって来た」

と、語っていました。競技用の車イスはすべて自分自身で工夫して作っているんだそうです。

 

 香西さんがスコッティーの仕事場を見たとき、

 ” 一目で彼の仕事のやり方と、これまでどんなふうに生きてきたかが良く分かる ”

と言っていました。奥さんもきっと金銭面での苦労が絶えなかったことでしょうに。そのことを聞いた見ると、奥さんは黙って笑っていました。

 

 香西さんは、” スコッティーを見ていると、自分の鏡を見ているようだ ” と感慨をもらしていました。

 同じような考え方生き方をしている障害者と、日本ではなくカナダでめぐり会えるなんて・・・。こんな生き方ではおそらく周りの人たちからなかなか理解も得られないだろうし、誤解も受けだろうに・・・。

 ただ通り過ぎるだけだったはずのカムループスで、こんな出会いがありました。

 

 

 

ゴールまで280キロメートル

 

 私たちが宿泊しているメリットの町からバンクーバーまでは、およそ280キロメートルありました。ゴールは目前にせまりました。7月18日現在の状況を確認するため、モーテルの一室でメンバー全員のミーティングしました。

 

 当初、カルガリーのラスがバンクーバーのリック・ハンセンのオフィス、「マン・イン・モーション」にコンタクトを取ったところ、全面的にバックアップするという回答を得ていたのですが、私たち「クロス・カナダ・ウィールチェア・チャレンジ」から確認の電話をしたら、リック・ハンセンの秘書のジュディーさんから、「お世話出来ない。リック・ハンセン個人は会いたがっているのが予定がいっぱいで、スタッフもお世話出来ない」という回答に変わっていました。

 

 そこで私たち夫婦が知人を介して面識のあったバンクーバー在住で、旅行ガイドの仕事をしているユウコ・ヤスタケさんに電話連絡をしました。

 ユウコさんは旅行会社を経営していてその縁でリック・ハンセンとも面識がありました。カナダに上陸したときから連絡を取って協力のお願いをしていました。

 

 私たちにとって、車イスで世界一周を成しとげたカナダの英雄のリック・ハンセンとバンクーバーで会うことは、「クロス・カナダ・ウィールチェア・チャレンジ」が無事完走を果たすことと同じぐらい大切なことでした。

 特に車イスマラソンランナーである宮下さんにとっては悲願でもあったのです。何とか可能性を見つけるために私たちはもう一度ユウコさんからもリック・ハンセンのオフィスにコンタクトを取ってもらうようお願いの電話をしました。

 でもユウコさんからは、『「マン・イン・モーション』が全面的にバックアップすると聞いていたので、手を引くことにした 』 と告げられました。

 私たちがリック・ハンセンとの会見を熱望するあまり、いろんな方面に連絡したことが、かえって混乱を招いてしまっていたのです。

 

 それではと、神父の勝谷さんからカトリック関係の知人でバンクーバー在住の日系人モトコ・タナシーさんに連絡を取ってもらうと、20日から27日まで仕事があってお世話出来ないとのこと。思い余っていよいよバンクーバーの日本領事館を頼りましたが、「この種の依頼には何の力にもなれない。帰国の際の大型貨物の輸送に関しては手配出来る」 という回答でした。

 

 もう最後の望み。何か進展はないものかとカルガリーのラスに相談してみると、何んと以前に名前を聞いていたバンクーバーの筋ジストロフィー協会のデイブ・デビッド・デービスさんが個人的に「マン・イン・モーション」とつながりがあり、もうすでに他の障害者団体や施設との交流のスケジュールを組んでいると言うではありませんか! そのひとつに筋ジストロフィー協会とのミーティングは確定したと言うのです。

 最後の頼みの綱は、ラスだった! ラスは私たちと別れた後も、いろいろな方面と交渉を重ねてくれていたのです。ラスの律儀な人柄にあらためて心から感謝です。

 

 これに加えて、カムループスの「ピープル・イン・モーション」からの情報も入りました。

 ブリティッシュ・コロンビア州では毎年7月20日からサマーゲームというスポーツ競技会が開催されているのですが、そこでは各種のウィールチェア・スポーツ競技も行われ、各地からたくさんのウィールチェアスポーツ選手が参加するというのです。

 そのオープニング・セレモニーにはリック・ハンセンも出席する予定だということも教えてくれました。もちろん我らがスコッティーも出場するということです。先程まで重苦しい雰囲気は一変。希望の光りが見え始めました。

 

 スコッティーが競技に望むなら是非とも応援もしたい。カナダのウィールチェア・スポーツも見てみたい。何よりも筋ジストロフィー協会との交流会が用意されているのなら、他の交流の輪も広げたい。それに宮下さんがバンクーバーに完走を果たしたときのお祝いの用意もしておかなければならない。

 話し合いの結果、私たち交流班が準備のために先発隊として一足先にバンクーバー入りすることになりました。

 本当は渉外担当の勝谷さんにも同行してもらいたかったのですが、結局いつもの4人で翌朝出発しました。

 

 

 

民間外交のありがたさ

 

 7月19日午後1時、私たちは「クロス・カナダ・ウィールチェア・チャレンジ」の先発隊ではあるけれど、最終目的地のバンクーバーに到着しました。やっとたどり着いたという気持ちよりも、これから何が出来るのか?という思いで、感動にひたる余裕はありませんでした。

 バンクーバー市街地図をたよりにデイブ・デビッド・デービスさんの家を目ざす前に、やっておかなければならないことがありました。バンクーバーにある日産自動車太平洋支店に挨拶に行くこと。そして日本人社員の人にデイブさんとのスケジュールの打ち合わせに通訳をお願いすることでした。

 

 今回のカナダ横断車イスの旅では東京本社の日産自動車労連福祉基金事業部を通じて、日産自動車株式会社と日産自動車太平洋支店の三者合同で、RV(リクレーション・ビークル)車3台と大型キャンピングカー1台の2ヶ月間無料レンタルの支援をいただいました。この支援が私たちにどれほどの力を与えてくれたか図り知れません。遠征隊の代表として無事バンクーバーの到着の報告もありましたが、何よりも自動車修理工場を経営していた当時から日産自動車とは深い信頼関係があり、今回の旅に香西智行個人への応援として特別の援助をしてもらっていることに直接お会いして心からの御礼を言いたかったのです。

 

 リッチモンド日産自動車会社では副社長の庵原和義さんが満面の笑みを浮かべてあたたかく迎えて下さいました。そして固い握手。もちろん私たちはお互いに初対面でしたが、この時こそ本当にバンクーバーに着いたのだという実感を持ったものでした。

 ただちに私たちは現在の状況を説明し、宮下さんのゴールの場所とセレモニーについても検討をお願いしました。庵原さんは快く承諾して下さいました。

 日本領事館へも直接庵原さんから問い合わせをしてもらいましたが、依然としてこの種の支援には何も出来ないとの返事でした。こうなってはやはりデイブ・デービス・デービッドさんに頼るしかなく、庵原さんから連絡してもらいました。

 

 デイブさんはすでにいろいろなところに問い合わせをしていました。電話では詳しく話せないからすぐ来て下さいということになって、私たちはすぐさまデイブさん宅に行くことになりました。何事も大切なことは直接会って話を決める。私たちもすっかりカナダ流に馴染んでいました。偶然にもデイブさんは同じリッチモンドに住んでおり、庵原さんの案内でいっしょに出かけることになりました。

 毎日の仕事で忙しいのに、副社長自ら時間をさいて案内して頂くことに大恐縮していると、

 

「日本領事館が動かないなら、私どもが民間外交としてお役に立つのが当たり前のことです。どうぞ気にしないで下さい」

と言われました。

 これぞ草の根の交流。私たちは感動で胸が熱くなりました。

 

 

 

ミスター・ムスタング、登場


 

 デイブさんはフリーライターで、筋ジス患者のための会報を発行し、デイブさん自身も編集作業をしながらいくつかのコラムを担当していました。また別に独身者向けの定期雑誌も出版しています。

 デイブさんはガールフレンドといっしょに暮らしていて、他に3人の健常者の友だちと大きな一軒家を借りてシェアーしているそうです。

 元パイロットで仕事部屋の壁には好きな飛行機のムスタングの写真がいっぱい貼ってありました。ベルトのバックルもネクタイピンのデザインもすべてムスタング。ガールフレンドのジーンネットさんが誕生日にプレゼントしてくれたというムスタングのプラモデルが、本棚の上にびっしりと飾ってありました。

 

 デイブさんは20代のころから筋ジストロフィーの症状が出はじめて、30歳の時にはっきり筋ジストロフィーと診断されました。病気のことを詳しく知らなかったので、別にショックはなかったそうです。

 今はフリーライターとして自活しているし、恋人もいる。障害者のための雑誌づくりの仕事も気に入っているし、毎日張りのある生活を送っているから、進行性の病気であることにあまり意識していないと語っていました。

 悩んだり苦しんだりするのは人間として当たり前のこと。そんなことは自分で解決すること。

 人にとやかく言うべき問題ではないという、ヨーロッパ式の個人主義の考え方なのかなと思えました。

 カナダでは進行性の筋ジストロフィーだからといって特別に大げさに思わないという考え方に、驚きを感じました。

 

 繊細な感受性とウィットとユーモアあふれる話しぶり。幅広い知識と都会的なセンス。

私たちの旅の目的をすばやく的確に判断して、短い滞在期間にどれだけのことが出来るか。テキパキと用件を進めてくれました。

 日本でもカナダに来てからでも、デイブは私たちがこれまで出会った障害者とは全然違うタイプの素敵な紳士でした。

 

 サイクリングのゴール地点を7月22日午前11時、シティーホール(市庁舎)玄関前と決定。バンクーバー市に入る境界線のバーナービー地区からデイブがサイクリング班の先導をする。地元のメディ関係に取材依頼の連絡をする。

 リック・ハンセン氏との会見は25日12時、ブリティッシュ・コロンビア州立大学構内にあるゴルフクラブハウスで昼食会を催す。

 またB・Cサマーゲームの開催実行委員会にコンタクトを取ってくれて、予約チケットなしで参加出来るよう手配をしてくれました。

 

 フリーライターの仕事を通して持っているネットワークを最大限に活用しながら、デイブは私たちのために精一杯のコーディネイトをしてくれました。

 

 

 

B・Cサマーゲーム

 

 B・Cサマーゲームはバンクバーのダウンタウンから車で約1時間、サーレイ地区にある自然公園の中にある野外グランドで開催されていました。

 駐車場にはたくさんの車が集まって来ていましたが、駐車係が私たちを障害者の車だと知ると、障害者専用駐車場に誘導してくれました。ここでもジョン・レーン氏の駐車許可証が役に立ちました。

 

 B・Cサマーゲームは想像していたような大規模な競技大会ではなく、スタンドのてっぺんに飾られた万国旗が風にたなびいて少し華やかなぐらいの、田舎の運動会といった雰囲気でした。参加者はそれぞれ芝生に寝っ転がって日光浴をしたり、マットの上でお弁当を広げたりともうピクニック気分です。

 

 B・Cサマーゲームは障害者だけの競技ではなくて、プログラムの中に健常者の競技もいっしょに組みこまれていて共同の競技大会でした。

 健常者の短距離や中距離の競走が終わった同じトラックに、今度はウィールチェア・スポーツの車イスレースが始まる。見物客はみんな同じように応援の声をかけている。フィールドでも片方で走り幅跳びが行われていれば、近くの別のところで身障者の槍投げ競技が進められている。健常者も身障者も選手に分け隔てがない。

 これがカナダなんだとあらためて思いました。

 

 スコッティーはフィールドで槍投げに挑戦していました。

私たちの顔を見ると、「やあー来てくれたのか」と相好をくずしていましたが、今日の調子はあまり良くなさそうでした。

 午後から車イスの短距離レースがあり、スコッティーはそれにかけている様子でした。私たちはハンバーガーとフライドポテトとコーラを買って、他の見物客と同じように草むらに座って待つことにしました。

 

 

 見上げれば青い空、さわやかな森林の風が吹き抜けて。スケジュールもデイブのおかげで何とか順調に進んでいるし。旅も終わりに近づき、私たちのカナディアンスタイルもすっかり板についてきたように思えました。

 

  いよいよ車イスレース。

スコッティーは人気もあり、あっちこっちから声援が飛んで来ます。私たちも奥さんといっしょになって大声で名前を叫びました。

 スコッティーは体調が良くなかったのか、短距離レースの後半には思ったほどスピードが伸びませんでした。

 それでも全レースが終了したときには総合3位に食い込んでいました。でも表彰台でメダルが受けられるのは2位まで。

 スコッティーが表彰台に上がる勇姿が見られなくて本当に残念でした。

 

 今年の身体障害者部門での総合1位は16歳の少年でした。スコティーは、「彼はまだ若いが強い。将来はきっと良い選手になるだろう」と、若い優勝者の晴れやかな姿に目を細めて見つめていました。

 

 

 

バンクーバーへ、ゴール・イン!


 7月22日午前11時5分、宮下さんはバンクーバーのシティ・ホール(市庁)にゴールイン。カナダ5000キロ車イス横断の挑戦は達成されました。本当にご苦労さまでした、

 心からのエールを捧げます。

 

 日本を出発する前からこの挑戦の鍵は、走者が80%でトライスクルが20%の力によって達成されると香西智行は主張してきました。

 

 このトライスクルは前後左右に極めて微妙なバランスを保つよう出来る限り無駄を省いたシンプルな構造に設計されています。

 このマシーンを自由自在に乗りこなすには走者の心身の鍛練が不可欠となります。ただ便利さと安易さと効率だけを機械に求めれば、機能回復に役立たないばかりか、かえって自分自身の障害や困難に立ち向かおうとするとする気力・精神力の妨げになります。機械の特性を知ってそれを使いこなす訓練をすることで、機械は100%以上の効力を発揮することになります。

 

 これこそが真の「人間と機械の融合」だ!

 

というのが機械屋としての香西智行の長年の持論でした。

 

  今回の横断達成によってカナダの人たちに共感と理解をもって迎えられてことは、とても光栄でうれしいことでした。

 

 

 

日本とカナダの福祉の違い

 

 カナダ横断達成の興奮も冷めやらぬ中、7月24日からデイブがスケジュールを立ててくれた通り、施設訪問や各団体との交流が始まりました。

 

 私たちの宿泊場所になっているブリティッシュ・コロンビア州立大学(UBC)の学生自治会が運営している来客用レジデンスに、朝の9時30分、デイブがB・Cトランジットのマネージャーのブルース・チョウンさんといっしょにやって来てくれました。

 

 B・Cトランジットはカルガリーのハンディーバスと同じような民間組織の福祉バス会社で、市の周辺や郊外の何処へでも2.25カナダドル(約275円)で行けるそうです。またバス1台を1時間25カナダドル(約3050円)で貸し切りのチャーターも出来るそうです。

 今日のドライバーは女性で、この道25年のベテランだそうです。

B・Cトランジットには50人の専属ドライバーと40人の契約ドライバーがいるが、そのうち20人が女性ドライバーだということでした。

 

 今日の彼女は朝の7時からと、夕方6時から深夜の12時までの2つシフトで勤務していると話していました。

 私たちはカルガリーで出会ったハンディバスのドライバー、スティーブ・ゴンボックさんのことを思い出していました。

 

 その後、フォード・ラボラトリー・サービスという義手や義足を作っている専門店を訪問しました。

 この日の訪問にはいつもの私たち4人と、サイクリングを終えたばかりの宮下さんと通訳として勝谷さんも同行することになりました。他のメンバーは休息と自由行動でした。

 

 フォード・ラボラトリー・サービスはブリティッシュ・コロンビア州に8カ所の支店を持っており、20の病院から紹介を受け、年間約2000人に施工を提供しているそうです。社長のロバート・フォードさんのお話しでは、14人の専門スタッフで200種類以上の製品を作れるそうです。

 

 65歳までは州政府が80%を負担して義手義足の非営利団体が20%を負担する。65歳以上になると州政府が100%負担して、個人は全額無料ということでした。

 職人さんたちは、障害者の症状に合わせたハンドメイドなので利用者から一切のクレームはないと笑って胸を張っていました。

 

 午後からは車イスの製作と修理、レンタルもしているスコッツダッド社を見学しました。

 いま世界中で一番大きな市場を持っているウィールチェアーの専門店だそうです。キングス・ウェイというバンクーバー市の中心街にある大型ショッピングモールの中にショールームがありました。

 

 日本ではまだ通信販売か、街の中心地から外れた交通の不便なところにある店舗が主流なのに、驚きでした。

 大都会の繁華街にあるデパートの中で、最先端の華やかなファッション・モードが飾られたショーウィンドウの隣に、堂々と展示されている車イスが誇らしげに見えました。

 テナント料だって大変でしょうに、それでも経営が成り立っているなんて、そのことも不思議でした。

 

 今人気の車イスは、足かけやひじ掛けにタイヤなどが自由に交換出来るようになっている小型軽量タイプだそうです。

 日本では型はひとつで重い車イスがほとんどなのに、自分のフィーリングで自由にカラフルでファッショナブルな車イスが選べるなんて、うらやましい限りです。障害者の個性や人間性が尊重されているのだと感じました。

 そう言えばウィニペグのカナダ・ディーのお祭り会場で、集まってきた障害者たちが自分たちのハンディークラフトの車イスを自慢しあっていたのを思い出します。

 

 ここでも0歳児から65歳までは80%、65歳以上は州政府の公負担で、しかも自宅用、お出かけ用、スポーツ用と使用目的に応じて何台でも購入することが出来るそうです。日本ではちょっと考えられない。障害者が何台もの車イスを公負担で所持するだなんて、たちまち ” 贅沢だ ”と言って、やり玉にあげられることでしょう。

 オーナーのギャレット・アンダーソンさんの息子さんはウィールチェアースポーツの選手だそうで、10年前につくった特別製の4輪車イスを見せて頂きました。

 ご自分の息子さんが車イスの障害者になって、それで車イスの製作と修理の事業を起こし、世界で一番の大きな市場を持つ企業にまで成長させた。これまでのアンダーソンさんの歩んできた歴史を想像して、感慨深いものがありました。

 

 私たちはこれまでの旅でカナダのいろいろな福祉の場面を見て来ました。

何かが違う。それはまず、障害を持っていても持っていなくても人間として何ら変わることはない。平等に生きる権利を持っている。福祉以前に民主主義そのものに対する考え方が根本的に違うのだ痛感しました。

 カナダの福祉のやり方を日本にそのまま取り入れても、決してうまくは行かないだろうけれど、ではどうすればいいのか? そのことを私たちは今回の旅でずうっと考えていました。。

 

 障害者がいてもそれが当たり前の世の中なんだ。こんな考え方が日本で根付くまでは、まだ相当な時間がかかるだろうと思います。それには障害者自身もしっかりと生きていかなければならないのでしょう。

 

 私たちはカナダでアクティブに、エネルギュッシュに、バイタリティーにあふれる生き方をしているたくさんの障害者と出会ってきました。みんな自分のためではなく他の障害者の役に立つことを喜びとして生きていました。障害者としてではなく健常者としてではなく、ひとりの人間として見習うべきところがたくさんありました。

 

 第一日目の日程を終えて、私たち一行がデイブと別れて宿泊地のブリティッシュ・コロンビア州立大学内のレジデンスに帰ってきたのは、夕方の6時過ぎでした。

 

 

 

リック・ハンセン氏との昼食会

 

  翌25日には待ちに待ったリック・ハンセン氏との会見です。

 

「マン・イン・モーション」が主催する昼食会に招かれました。私たちメンバー全員は宮下さんと共に晴れやかな気持ちで、UBCのゴルフハウスクラブの会場に臨みました。

 

 コネクションの糸も切れて半ばあきらめかけていた会見に、やっとこぎ着けました。

 カルガリーのラスの働きかけもあったけれど、やっぱりデイブの奔走のおかげで実現できたという思いが心の底からわき上がっていました。

 

 会場にはUBCの運動部長をはじめ大学関係者、「マン・イン・モーション」オフィスのスタッフ、カナディアン・パラプレジック・アソシエーション(脊椎損傷者協会)の役員メンバー、日本領事館の人などなどたくさんの人が集まり、思った以上の昼食会になりました。

 

 その中にあってライトグレーのフォーマルなスーツに身を包み、満面の笑みで現れたリック・ハンセン氏の姿は、ひときわ輝いて圧倒的な存在感を示していました。

 1985年から2年間に計34カ国、24901マイルを車イスで踏破して世界一周を成しとげたリックハンセン氏は、今はウィールチェアー・スポーツの第一線から退いて、障害者のための広報活動やリポーター、コーディネーターの仕事をしていました。

 

 「私がウィールチェアー・スポーツから得た教訓は、やりたいと思ったことは決してあきらめず、必ず出来ると信じて進むことです。先のことを考えて迷ったり止めたりせず、全力で進むこと。そのためには目の前の困難なことをひとつひとつ乗り越えること。そしていつでも夢を持つこと。『 Never give up !(あきらめるな)』 これが私の世界の人たちへのメッセージです」

 と、語っていました。

 

 今やカナダの英雄としての自負心と実績が、彼に王者の風格を与えているようでした。リック・ハンセン氏は、骨肉腫に冒され右足を切断した後もガン研究資金の募金を集めるために義足でカナダ横断マラソンに挑戦し、ガンが肺に転移したため志し半ばの22歳でこの世を去ったテリー・フォックスについても、

 

 「彼は私の大切な友人だった。まじめな人柄で、やり始めたことは最後までやり抜くタイプだった。彼の死はとても大きな悲しみであり、カナダ国民は彼の業績とともに忘れてはならない人だ」

 

と、心情を述べていました。

 

 

  公式の歓迎セレモニーも終わり、くつろいだ会話の時間になりました。

リック・ハンセン氏が、

 

「カナダ横断の計画は何年かかりましたか?」と質問してきました。香西さんが、” およそ6ヶ月です ”と答えると、そんな短期間の準備で成しとげたとは素晴らしいと非常に感心していました。

 リックハンセン氏は次の予定がせまっていたのですが、忙しくてもトライスクルは是非見ておきたいというので、クラブハウスの中庭でデモンストレーションをすることになりました。

 一目見てリック・ハンセン氏は、

 

 「これは素晴らしいマシーンだ。このようなタイプは何処にもない。レバーでボートのように漕ぐタイプはあるけれど、胸の筋肉をつけるには良いがスピードに欠ける。このトライスクルはレバーを回転させることで、動力を無駄なく車輪に伝えることが出来る。独創的だ。なぜ前が2輪で後ろを1輪にしたのですか?」

 

などの質問をしながら、とても興味深くトライスクルを眺めていました。そして、

 

 「これまでのタイプの車イスならもうゴメンだが、このトライスクルならもう一度世界一周をしてみたい」

 

と、声をあげて笑っていました。

 何処でもデザインのシンプルさと性能の良さを誉めてもらったが、リック・ハンセン氏からも同様の評価を得たのは、大きな喜びでした。

 

 

 

それは企業秘密です

 

 リック・ハンセン氏との会食後、いつもの私たち4人と、今日は宮下さんと妻のかほるさん、通訳の勝谷さんも同行。

 もちろんデイブの案内で、お年寄りと障害者用の電動車イスを作っている、レンジャー・スークーター社を訪問しました。

 

 サーレイ地区にあるショッピングモールの中のこぢんまりとした店舗でした。

 オーナーはケン・ハーバーソンさんといい、かっこいい口ひげをたくわえたシティーボーイといった感じのナイスミドルでした。

 

 レンジャー・スクーター社ではベースになる6種類の電動スクーターを製作して販売しているが、お客さんの注文で部品を自由に交換していくつものパターンに作りかえることが出来るそうです。

 

 最大傾斜22度のスロープを体重125kgの人が運転しても良いように設計されていて、材質はアルミニウムで車体の重さは21kg。

 1回のバッテリー充電で約50km連続走行が可能で、時速は7~8km。価格は基本のもので3400カナダドル(約42万)。

 便利な持ち運びが出来るリフトが車体の後ろに取り付けられるようになっていて、これは別売りで1900カナダドルでした。

 

 少し離れたところに工場があり、ケンさんが案内してくれました。

工場ではケンさんの事業パートナーで技術担当の人が、

「これは企業秘密なのだが・・・」と笑いながら新製品の研究開発中だという試作品を見せてくれました。

 

 同じ機械職人さん同士、言葉は通じなくても見ればネライはすぐに分かる。香西さんがにやりと笑うと、向こうも ” 分かってしまったか!”と、ニヤリと笑い返してくる。お互いの職人気質が万国共通語でした。

 経営者と技術者の信頼関係がしっかりとしていて、のびのびとやっているようでした。

 ” ここの企業に対する公的な援助はあるの?”と聞くと、

 

「うちは経営者が健常者だし働いている者も身障者がいないので、援助は何もない」

とのことでした。

 

 ここでデイブも話しの中に入ってきて、

「日産自動車はこんな電動スクーターは作らないのかい?」

と皮肉たっぷりでジョークを飛ばしていました。

 何処に行っても和気あいあいで、疲れるけれど楽しい交流が続いていました。

 

 

 その夜リッチモンド日産の社長の瀬川安彦さんから、歓迎の夕食会のご招待を受けました。デイブは恋人のジーンネットと同伴でした。ふたりは仲の良いカップルで、ジーンネットはデイブに寄り添って何くれとなく世話をしていました。私たちは終始当てられっぱなしでした。

 連れていかれた日本の居酒屋風のレストラン。オーナーは北海道出身だそうで、久しぶりに日本食を満喫することが出来ました。

 

 

 

「あらっ、大変!」

 

 翌26日も一日中予定がいっぱいにつまっていました。デイブも朝早くからレジデンスまで私たちを迎えに来てくれました。彼の住むリッチモンドからブリティッシュ・コロンビア州立大学まではバンクーバーのダウンタウンを通りを抜けて車で1時間以上。筋ジストロフィーのデイブにとって連日の運転は、はたしてどれだけ大変なことでしょう。

 

 この日は宮下さんは疲れ気味だし、他のメンバーからも今日の交流は自由参加にしたいと朝になって勝谷さんから知らされました。

 長いサイクリングの旅を終えてバンクーバーに着いて、やっと緊張がほぐれたとたん一気に疲労感が出てきたのでしょう。気分転換もしかたがないと思えました。せめて通訳の勝谷さんに来てほしかったのですが、無理でした。いつもの4人で出かけることになりました。中田さんが、” 通訳と写真撮影をいっしょにやると、シャッターチャンスを逃す ”と、嘆いていました。デイブはやはり宮下さんが来ないことにちょっとがっかりしていました。

 最初に訪問したのは西12番街にある「ケインズマン・リビングリゾース・センター」でした。障害者のリハビリ訓練や生活用具をはじめ、住居・交通・教育・リクレーションなどのあらゆる情報を提供しています。カムループスの「ピープル・イン・モーション」と同じような団体かと思えました。

 

 責任者のアイリーン・レイドリーさんは、「イギリス・アメリカ合衆国・香港・ニュージーランドにも支部組織を持ち、ケインズマン財団の基金により運営されています」と説明していました。 お話しを聞いて「ピープル・イン・モーション」とは比べものにならないぐらいほどの資金力と組織力を持っていたので、驚きました。

 

 1960年にポリオが流行したとき、バンクーバー市民から寄付を募り、子供たちを救うことからケインズマン財団は始まったそうで、アイリーンさんはそのころからここで働くようになって、もう36年になるそうです。今でもその伝統が残っていて、お母さんたちの寄付集めの行進「マザーズ・マーチ」を毎年一回行われ、多額の寄付金が寄せられているそうです。

 

 その昔新しいビルが建築されたとき、スロープやトイレの設計を変えさせようとして、障害者たちがバンクーバー市の中心街で大行進のデモンストレーションをしました。

 その際警察の取り締まりにあって障害者を含むおおぜいの人たちが監獄に入れられたけど、監獄の中でも抗議行動を起こして、ついには監獄のトイレを変えさせてしまったことがあったそうです。その話しを聞いて私たちは、デイブといっしょにお腹を抱えて大笑いしました。

 「ケインズマン・リビングリゾース・センター」には生活用具など3000種類の器具が所蔵されており、誰でも自由に見て試用出来るようになっています。展示しきれないものはカタログのファイルにして展示室と図書館に陳列してあるそうです。

 

 アイリーンさんは陽気なオバサンで、浴室のバスやトイレの使用法を説明するときには、ゼスチャーたっぷりに実演してくれるので、私たちは大笑い。デイブも口でヒューヒューと鳴らしながら拍手喝采をしていました。

 

 いくつかの日常会話が組み込まれて、ボタンを押せば言葉が出る音声付きのコンピューターの前では、中田さんが、” ビールが飲みたいという声は入っているの? ”と聞くと、アイリーンさんは、「あらっ大変! さっそくそれも録音しておきましょう!」と即答。アルコール類をいっさい飲まないデイブは、「ヤレヤレ!」といった表情で苦笑いをしていました。

 

 特別に目先の変わった難しいものはないけれど、障害を持っている人間にちょっとした工夫があって、とても心温まる器具ばかりでした。にぎやかな笑い。なごやかな雰囲気。どこに行ってもデイブの人柄と信用のおかげで温かく受け入れてもらいました。

 

 次の交流会に急ぐあまり、通訳も兼ねていた中田さんが大事な自分のカメラを一台置き忘れてしまい、アイリーンさんから、「あなたカメラマンなのに大丈夫?」と、すっかりヒンシュクを買ってしまうというハプニングもあり、思い出に残る訪問となりました。

 

 

 

精悍な顔の人たち

 

 「パラプレジック・アソシエーション(脊椎損傷者協会)には12時ジャストに着きたい」というデイブの希望で、私たちは大急ぎで「ケインズマン・リビングリゾース・センター」を出発しました。忙しく動き回っているスタッフがわずかに顔を合わせられるのはランチタイムだけとのこと。私たちも息が切れる思いで急いでオフィスに赴き、会議室に入ったときには、すでにスタッフ全員心待ち顔で待っていてくれました。

 

 しかし肝心の宮下さんはいないし、是非見たいと思っていたトライスクルもないと分かると、あきらかに全員残念そうでした。私たちメンバー12人分の食事とコーヒーが用意されてあり、申し訳なさでいっぱいでした。

 リック・ハンセン氏との昼食会に同席していたリハビリテーションセンターのカウンセラーのビンセント・ミールさんから、「走者とは疲れるものだ」と、その場を取りなしていただきました。

 

 集まったスタッフは北部海岸地区担当のジェイ・マーレイさん、雇用対策担当のポール・アテンダールさん、リハビリステーションセンターのカウンセラーで日系人のグレース・エンドーさん、ウィールチェアースポーツ・アソシエーションからはスポーツ振興委員のブルース・デバリューさん。それにブリティッシュ・コロンビア州議会の主席秘書のダグラス・モワットさん。みなさん第一線でバリバリと仕事をして活躍中の人たちばかりでした。

 

 話題の中心はやはりトライスクル。

基本構造と操作方法。価格はいくら? 量産体制はあるのか? いつから売り出すのか? カナダでのマーケティングはどうするのか? あっちこっちから矢継ぎ早の質問がくり出されました。その度に通訳の中田さんは苦心の返答。 デイブがいいところで助け舟を出していました。

 

 私たちがスライドフィルムを持って来ていることを告げると、たちまち映写機が用意されて観賞会。工場での製作風景が紹介されると、スタッフ一同は食い入るようにスクリーンを見つめ、興味を引くシーンには手をあげて質問。

 撮影会が終われば日本の障害者の権利意識や自立生活の状況、どのようにスポーツに取り組んでいるか? の質問もくり出されました。

 車イスの障害者だけど、知識や教養や行動力を持ってそれぞれの分野の第一線で活躍しているエキスパートたち。人種もフランス系ありイギリス系あり、黒人もアジア人も日系人もいて、見るからに自負心と誇りに満ちた精悍な顔つきをしている。質問をぶつけてくる気迫が何とも快い気持ちがしました。

 

 時計が1時を知らせると、「サンキュー! あなたたちに会えてとても楽しかった。またバンクーバーに来て下さい」と握手を交わして、猛者たちはウィールチェーを風切るように走らせながら、それぞれの部署に散って行きました。

 

 オフィスを離れるときデイブに、” 私たち4人だけでゴメンネ “と言うと、デイブは、「気にしなくてもいいヨ」と、笑って言ってくれました。

 

 

 

思い出に残るバーベキューパーティー

 

 パラプレジック・アソシエーションとのミーティングのあと、G・F・ストロング・リハビリ訓練センターに訪れ見学を終えたその日の夕方は、リッチモンドのデイブの家でバーベキューパーティーをすることになりました。どっさりとお土産を買って、今度は私たちメンバー全員で出かけました。

 

 デイブとは毎日ともに行動していてもう戦友か同志のような気分がしており、私たち交流班はデイブの家でのホームパーティーを心から楽しみにしていました。

 パーティーにはデイブのお母様と妹のブレンダさんも参加して下さり、デイブに助けられていることに感謝の言葉をお伝えしました。

 

 デイブは現代社会をシニカルな視点でとらえるフリーライターとしての一面を覗かせながら、また都会的なセンスにあふれるダンディーな側面も持ち合わせているのに、お母様の前ではもうまるでイタズラっ子そのままで、大いにはしゃぎながらステーキ肉を焼いて名ホストぶり見せていました。

 そんなデイブの側でジーンネットはニコニコと微笑みながら、手作りのオードブルを次々とテーブルの上に並べていました。

 

 この夜、リッチモンド日産の瀬川社長夫妻に娘さん、庵原副社長夫妻もワインとバラの花束を持って駆けつけていただきました。奥様方とは転勤でバンクーバーに引っ越してきて慣れない土地での苦労話しを聞かせていただきました。

 他には一軒家をシェアーしている同居人たちと、デイブのボランティアをしているUBCの女学生がふたり参加していました。

 中田さんと楽しそうに会話をしていたのですが、中田さんはカナダ在住の日系人二世に間違われていました。千佳子は同じ年頃の瀬川社長の娘さんと愉快そうに話していました。

 楽しい話はつきず、本当に思い出に残るファミリーパーティーの一夜になりました。

 

 

 

ロールストーンズ・ストーリー


 7月27日、今日が最後となりました。

朝、デイブに昨夜の楽しかったパーティーのお礼を言いました。そして今日もガンバローの声をかけ合いました。私たちいつもの4人とデイブに、今日はリッチモンド日産の瀬川社長と女性秘書も通訳も兼ねて一緒して下さることになりました。

 

 訪問するのは「エイブル・ウォーカー」という腰掛け兼用で、買い物かごも付いている歩行器の製作販売している工場です。オーナーのノーム・ロールストーンさんはカウボーイハットをかぶったアメリカ西部の伊達男といった出で立ちで、ちょっとだけジョン・ウェインに似ているオジさんでした。

 

 代々の家業は運送業で、ロールストーンさんは三代目。今はリタイヤして息子さんが運送会社の四代目を継いでいます。

 長年かかって集めた運送用の馬車やクラシックカーのコレクションを展示しているミニ博物館に案内してくれました。

 そして、自分がなぜリタイヤしてから老人や障害者のためにエイブル・ウォーカーを製作するようになったか。そのいきさつを先祖が初めてカナダに渡って来たときからのロールストーンズ・ストーリーを、およそ2時間もかけて話されました。

 日系二世の女性秘書の方からの通訳でカナダの開拓の歴史が良く分かり、何よりもロールストーンさんの巧みな話術はまるで童話か昔話しを聞いているようで、圧巻でした。

 

 昔、郵便馬車のポストマン(配達人)は若くて身よりも家族もない人が選ばれたそうで、それほど危険な仕事だったのでしょう。

 先祖代々運送の仕事をしてきたが、開拓で入植した当時は物資を樽につめて手押し車で運ぶのが主で、馬は貴重でなかなか手に入らなかったそうです。

 とにかく自分の足で歩くしか方法がなく、輸送の原点は歩くことだと思うようになった。それで老人でも障害者でも誰でも楽に歩けるようにと、「エイブル・ウォーカー」を作ったのだそうです。

 

 昔の木製の車イスも見せてもらいました。シンプルで素敵で、木の温かさが伝わってきそうでした。

 奥さんはずうっとロールストーンさんの側に寄り添って耳を傾けていましたが、休憩時間になると手作りのクッキーで持てなして下さいました。

 日本の昔ながらの女将(おかみ)さんといった風情(ふぜい)で、とっても印象に残りました。

 

 

 

最後の夜

 

 午後からの訪問見学も終えて、私たち交流の予定はすべて終わりました。中田さんが、私たちが使っていたRV車を日産自動車に洗って返したいと希望したので、デイブの家のガレージで洗車することになりました。

 中田さんはクリーナーで車内を掃除したり、車体に洗剤をかけて洗っていましたが、時々ブツブツとひとり言を言っているようでした。車にお礼とお別れを言っているのでしょう。私たち交流班の走行距離数は、12135km。カナダ横断5000kmの倍以上を走っていました。

 

 洗車が終わってからバンクバーのダウンタウンに出かけました。毎日の交流で忙しくて、日本でお世話になった人たちへのお土産をまだ買っていませんでした。ゆっくりとバンクーバーの繁華街を見物するのも初めてのことでした。


 

 帰りに少し寄り道をしてスタンレーパークを回りました。夕闇せまるバンクーバーの街並み。高層ビルのイルミネーションが星のように輝き、夜の海にゆらゆらと漂いながら映っていました。今でもこの夜景は目に焼き付いています。一生忘れることはないでしょう。

 

 UBCのレジデンスに帰ってくると、筋ジストロフィー協会副会長のクリス・マプセンさんが訪ねてきて私たちを待っていました。昨夜のデイブ宅でのパーティーに筋ジストロフィー協会のスタッフも参加したのですが、仕事を終えてクリスさんがやって来たのはもうパーティーが終わりかけのときでした。ゆっくりとお話ししたいと思い、今夜レジデンスに来てもらうようお願いしていました。クリスは日系人の若い女性を伴っていました。

 

 最初は何となくぎこちない会話だったのですが、もうあまり時間も残っていない。香西さんは自分の生い立ちや筋ジストロフィーになってからどんな生き方をしてきたかを話し出すと、クリスも自分のことを話しはじめました。

 

 クリスはもともと鮭を使った料理を加工販売する仕事をしていました。子ども時代は家庭環境が複雑で、苦労をしてきたようでした。学生の頃から筋ジストロフィーの兆候が出はじめたけれど、軽いままあまり進行しなかったので自分の病気を隠していたそうです。

 

 友だちが、” 君、少し変だよ ” と言ってきても、「イヤ、身体の調子が悪いだけだよ」と、いつも誤魔化していたそうです。でもいつまでもこんなことをしていたら自分に負けてダメになってしまうと思うようになったそうです。

 クリスは、「最近になって筋ジストロフィー協会の仕事をするようになったけど、私は自分が筋ジストロフィーだとはっきり他人に告げたのは、あなたで3人目です」と言っていました。

 クリスは今30歳代前半のようですが、まだ車イスを使わなくても充分杖で歩けるようでした。クリスの話しを聞いて、人にはそれぞれ自分の物語があるものだとあらためて思い知らされました。クリスとはこれからも連絡を取り合おうと約束して別れました。

 

 私たちは時が過ぎるのも忘れてついつい話し込み、気が付いたときにはもう午前1時を過ぎていました。私たちは今日、日本に帰るのです。

 

 バンクーバーの最後の夜のギリギリまで、私たちは思う存分時間を使い切りました。気にかかっていた筋ジストロフィー協会との交流も果たせて、やるだけのことはやった。思い残すことはありませんでした。


 

 

 

再会を約束して

 

 翌日、バンクーバー空港にはリッチモンド日産の瀬川社長と娘さん、庵原副社長夫妻がお見送りに来て下さいました。瀬川さんと庵原さんに出会えなかったら、バンクーバーでの数日間は違ったものになっていたことでしょう。本当にお世話になりました、ありがとうございました。

 

 デイブが少し遅れてやって来ました。

ジーンネットは仕事で来られなかったようで、デイブから「また会いましょう!」の伝言をもらいました。

 デイブとは最初に会った7月19日からずうっと行動をともにして来ました。毎日の自分の仕事は夜に片づけて、そして朝早くリッチモンドから自分で運転して私たちをレジデンスまで迎えに来てくれて、一日中交流につき合ってくれて。それが筋ジストロフィーの身にどれほど大変なことか。お互いに痛いほどよく分かります。

 

 4日目当たりからはもううっすらと目の下にクマが出来ていました。それでも気力でコーディネーターの仕事を最後まで果たしてくれました。

 もしデイブがいなかったら、私たち交流班もサイクリング班も、このバンクーバーでは何も出来なかったでしょう。違ったものになっていたことでしょう。

 

 私たちはデイブに、” 私たちが帰ったらバタンと倒れるね ” と言うと、デイブは、「コーサイ、あなたも家に帰るとバタンだね。太平洋をはさんで札幌とバンクーバーでバタン、バタンだね」と、大笑いをしていました。

 搭乗時間が迫ってきました。最後のお別れを言ったとき、デイブの瞳は涙で濡れていました。中田さんが私たちの分までしっかりと抱き合って、お別れの言葉を交わしていました。

 私たちはあなたの涙をけっして忘れません。

 

 思えばウィニペグのポールとドン。サスカツーンの高谷尚子さん。カルガリーのラスとメリー・ジェーン、ラムゼーさんにコラル・幸子さん。カムループスのエドとスコッティー。そしてバンクーバーのデイブ。

 

 何とこのカナダの旅で、どれほど心から通じ合える新しい友人を得たことでしょうか。こんなにも恵まれた旅が出来たなんて、本当に誰に感謝すればよいのでしょうか。これから生きていく新しいエネルギーをいただいたカナダ。

 必ず再会する約束をして、私たちは飛び立ちました。

 

 

 

 

                                           ー 完 ー


 「 あとがき 」

 二ヶ月間に渡るカナダ横断の草の根交流の旅を振り返り、大陸の大自然に生きる人々の心意気を肌身で感じました。

 私自身、障害を持つ持たないにかかわらず自分の意志と責任において行動し、地域社会に堂々と誇りと自信を持って生きてきました。それは障害を持った人がどうしたら地域社会において普通の生活に近づけるか、またそれを助けるが人間であり法律であるという考えが、個々の人の心の底に流れていると思えるからです。

 

 大陸横断の準備、または横断の旅の中でいろいろな出来事がありましたが、不安ということは一度もありませんでした。

 個々の人生行路は、その人が生まれる前からすでに設定されているのであります。設定された人生行路の方位をどう見いだして進むのかと申しますと、与えられた環境を全知全能を尽くし義を持って生きることによって軌道上を進むことが出来るのであります。

 

 この度のカナダ横断の旅に不安を覚えなかったのは、振り返ってみると、自分に与えられた道を真っ直ぐに進んでいた証でしょう。

 旅を終わるに当たり、御支援下さった多くの皆様に今一度、心から御礼申し上げます。

 

 

                                     香 西 智 行

 


香西智行

チーフリーダー・企画・メカニック

 

1940年6月3日生まれ。進行性筋ジストロフィーの難病を背負いながら、2級自動車整備士、普通自動車運転免許、アマチュア無線技士などの資格を取得。

自動車整備工場を経営していたが、1984年コウサイ福祉機器研究所を開設。身障者の立場から考えた独創的な福祉機器を開発するとともに、身障者がもっと社会参加するべく自らが先頭に立って運動を行う。

北海道難病団体連合会の国際交流企画でヨーロッパ福祉先進国への訪問に参加。

豊平川、十勝川の川下りにボランティアとともに車イスに乗って参加。

北海道筋ジストロフィ協会会長。札幌市豊平区在住。


「 手動三輪自転車 」( トライスクル )について

 

 動物にはひとつの機能が損傷を受けると他の機能がそれを補う自然治癒力が備わっているが、高度に発達した文明社会の現代人がそれを得るためには、耐え難い絶望感などの葛藤(かっとう)を起爆剤とし、機能回復訓練の試みを経たのちに効力を発揮する。

 それでも運動機能の一部は元に戻らない。戻らない運動機能を機械で補い新しい人生に挑戦を試みたとき、人間は陰の部分から日向に瞬時に変わり、不死鳥のようによみがえる。

 

 機械は人間の運動機能を遙かに超えた悪魔的力を秘めた物言わぬ生き物。この思考能力を持たない機械を、物理的な側面から人間に融合させることによって、人間の意志によりそった行動能力のあるものにすることが出来るようになる。

 

 両下肢に著しい運動機能障害を持つ人間が、残された機能をサイクリングなどの野外活動により心身を鍛練し、社会活動を可能に成らしめようと奮進努力してきた。

 自分自身障害者である機械屋としては、30数年の経験と実績を持って研究開発したこの新型トライスクルの性能と評価を得るために、一定の条件下で走れるカナダの大地大自然を試験場として選ぶとともに、優れたマラソンランナーが ” 機械と人間の融合 ” を実践することで、21世紀に向けた「ノーマライゼーション」の提示とした。

 

 トライスクルに対するカナダの人々の評価は、行く先々で注目の的となり高い評価を得た。特に最終地バンクーバーの脊椎損傷協会の人たちからは羨望の目で見られた。

 同協会所属で車イスによる世界一周の壮挙を成しとげたリック・ハンセン氏からは、トライスクルを細かく観察して形状や機構および性能などの質問を丁寧に繰り返したあとで、

「今までの車イスなら世界一周はやりたくないが、このトライスクルならもう一度挑戦してみたい」

という熱い視線と言葉が発せられた。

 

 


香西光子

介助・食事担当

 

1936年3月11日生まれ。1975年から10年間、難病患者の在宅訪問とボランティアとして活動。

札幌市立図書館主催の古典講座「源氏物語」を月2回12年間受講。

1982年9月夫がガンにて死亡。

1983年10月香西智行と再婚。

コウサイ福祉機器研究所ではアシスタントとして夫の仕事を支える。

 

 初めての海外旅行でカナダへの2ヶ月間。何ものにも代えがたい体験をしてきました。

主人が手動三輪自転車を開発したことにより突然のカナダ行きの話が出て、実行のためのいろいろな準備と取り組み。出発するギリギリまで誰もが本当にやれるのかと疑っていたと思います。なぜなら代表の香西が進行性筋ジストロフィーの障害者であること、貧乏であること、大きな後ろ盾となる人がいないことなど、よい条件はなかったからです。

 

 具体的に横断の話がまとまりかけても少しもたつきながら、本当の準備期間は6ヶ月しかありませんでした。主人も私も話が決まったとき、心から絶対行きたいと願い、絶対行けると何故か信じることが出来ました。

 今までの生き方が一日一日無縁ではなかった。その続きの先がカナダに行くことだと思えたから、どんな困難なときでもその思いは変わることはありませんでした。

 

 最後の1ヶ月はとても苦しい闘いになりましたが、今考えると二人とも火の玉のように燃えていたと思います。サブリーダーでフリーカメラマンの中田さんとともに、” 苦しみが多いほどその分だけ努力すれば必ず報われる。必ず行けるんだ ” と励まし合ったことも度々ありました。

 その困難なところを何とか我慢しているうちに、いろいろな形で支援をして下さる人が日を追うに従って増えてきました。どんなに力強く感じたことか・・・・。本当にありがたいことだと感謝の気持ちでいっぱいでした。

 交流編を見ていただければ理解して貰えると思いますが、人種が違っても言葉が分からなくても、心をぶつければ必ず理解し合えるものなのですね。

 人間って素晴らしい生き物だと思います。

 本で読んだり人の話しを聞いて理論として分かっていても、それは全然違うのです。肌で感じること、心と心で通じること、直接の手応えを感じるのです。

 

 出発する前、札幌にいたときには想像も出来なかったほどの温かさで迎えて下さったカナダの人たち。後々まで個人的にお付き合いできるほど親しくなった人たち。無償の愛で温かく包み込んで、私たちに的確な理解を示して下さった人たちの叡智には、ただただ驚くばかりでした。

 

 広々とした大草原。そそり立つロッキーの山々。時には北海道と同じ草木や花に出会いました。ライラック、あじさい、グズベリなど、時どき本当にいまカナダにいるのかな?と思うぐらいでした。

 

 カナダから帰って来るとまた以前と同じように仕事がたくさん押し寄せてきて、ゆっくりと思い出にひたることもなく日常に追われていますが、ひとまわり大きくなれたような気がします。

 カナダでは楽しいことばかりでなく辛いこともありましたが、真実を見つめることが出来るようになったような気がします。今までと同じように自分の人生をしっかりと見つめ、あきらめたり逃げたりせず大地を踏みしめて、人のため役に立つことを喜びに感じられる人間として生きていけたら思います。

 

 御支援を戴いたすべての人たちと、人間の力を超えたところにおられる神様に心から深い感謝を捧げます。

 そして、私たちの人生に、カンパイ!

 

                                          香西光子

 


朝田千佳子

会計・記録担当

 

1961年7月14日生まれ。1981年大谷短大美術科卒業。

1985年朝田敏之と結婚。

在学中に行ったイタリアが忘れられず、卒業後も短期だがイタリアへ旅行。目下イタリア語を勉強中。

資格ー美術教員免許。札幌市東区在住。


中田輝義

サブリーダー・写真・渉外・ドライバー

 

1952年7月16日生まれ。取材にてネパール各地を訪問。

福祉関係写真集などを出版。

老人問題、福祉問題などのドキュメンタリー写真を中心にフリーランス活動を続ける。北海道沙流郡平取町在住。

 「 編集後記にかえて 」

 

 カナダでたくさんのことを学んだ。原始の森や無尽蔵の湖。樹木や草花。雨や嵐や雲の流れ。時には轟々と稲妻が走る。

 大地と大空。そこで生きる物たち。小動物。障害のあるものと無いもの。ヨーロッパ人とネイティヴ・カナディアン。

 

 カナダの大自然の中で無碍として我が身をさらしていると、この風土に根ざすあらゆる息づくものたちの声が聞こえてくる。時にはおとぎ話しであったり、時には人生の教訓であったり。呼びかけるようにささやくように。様々なことを教えてくれる。それは私にとって無上の喜びであった。

 

 今回、この写真報告集の編集発行の仕事が与えられたことのより、モントリオールからバンクーバーまでの同じ旅を、二度させていただいた思いがする。この幸運を心から感謝いたしたい。

 

 編集にあたっての基本方針は、何事も編集しないということだった。60日間のカナダ旅行中の出来事は、すべて流れのままに成るようにして成った結果であり、そのことを尊重するのであれば、何も手を加える必要はない。ありのままを記録として残しておくことだと思う。

 交流編、サイクリング編、メンバーの手記編と、大きく三つ部分に流れるものは、それぞれがそれぞれの旅をしてきた物語だと思う。そのままの臨場感が少しでも伝わればと願うばかりだ。後は編集者の不手際と怠慢に対するお叱りを待つこととする。

 

 この写真報告集に望まず関わってしまったきかんし印刷営業部の永井敏広氏とデザイナーの川森武史氏に心から感謝する。

 

                                          中田輝義

 

 

                     奥付

                     「カナダ横断 ● 交流の旅」ー カナダ横断5000キロ ー

                     1990年3月26日発行

                     発行者   サイクリング車イス・

                           カナダ横断実行委員会

                     写真・著者 中田輝義

                     印刷・製本 (株)北海道機関紙印刷所

 

                           (写真・文章の転載、複写は厳禁)

 

 

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