中田輝義写真集「カトマンズ・リポート」

 


 

              ネパール。私たちはこの国の名前を聞いたとき、

              先ずエヴェレストを考える。

              8000mをこえる白い山々の荘厳な姿を思う。

              山あいの村々では、現代の機械文明とは、

              およそ無縁の、素朴な生活をしているだろうと想像する。

 

              はたしてそれだけだろうか?

 

              私が55日間のネパール取材中に見たものは、

              農村の貧困、出稼ぎ、都市で働く人たち、女、

              子供、老人、障害者たち。

 

              ネパールは、決して200年前の過去の姿まま

              生きているのではなく、現代の世界の潮流の中で、

              アジアの一小国としてのいろいろな問題をかかえている。

 

              この写真集はその「報告」である。

 

 

 


        ネパールの田畑は急な山の斜面にへばりつくようにつくられている。(ダマン)




          耕地はやせてせまく、単位あたりの収穫高は低い。(サンガガオン)



                                      (クリックで大画面)

 

低地では稲作が行われているがほとんどは大地主の所有で、みんな土地を持てない農民たちだ。(パルング)

 

 


        ネパールの山間部では農業用道路の建設がたいへん遅れている。(ファルケガオン)




                わずかな作物を出荷するのも重労働だ。




                農民たちの食糧はとぼしく、まずしい。



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                先進国の穀物飼料が主食だ。(シカツコット)




              農村では子供たちは貴重な労働力だ。(キティニ)




                  小学校に通える子どもは少ない。



                                       (クリックで大画面)


 ネパールの小学校では1〜3年は無料。4・5学年では1ヶ月約15ルピー(300円)の授業料がいる。有料となる高学年ではほとんどの子供は学校をやめていく。



                                       (クリックで大画面)


   建設中のカニコラダム(日本・韓国・ネパール合作)で、飲料用の水汲み人足として働く子供たち。




 農村と都市をむすぶ産業用道路の建設現場では、近くの農民たちが農繁期にもかかわらず出稼ぎにきていた。(ヌウビセ)




 数年前から税制がかわり作物から現金納入になった。現金収入をもとめて出稼ぎに行く農民たちは急速に増加している。




                  子供たちも一人前として働いていた。




            熟練した農民でも一日10ルピー(200円)しか稼げない。




 よりたくさんの現金収入をもとめてガリ(輸送用トラック)で都市に出稼ぎに行く農民たち。カトマンズに行けばなんとかなるさっ! それが彼らの口ぐせだった。




 大都市カトマンズにやってきた出稼ぎ農民(アウトカースト)たちにはほかの職業に就くことはできない。不安定就労の建設作業しか残されていない。




              建設労働者はジャミ( jyami )と呼ばれている。




                 ジャミの中には婦人労働者も多い。




        カトマンズ郊外のバラジュでは建材用のバラスづくりや砂利取りが行われている。




                ここでも主な労働力は婦人、子供、老人たちだ。




       彼らは毎日歩いて1時間、ラメチャパという村からやってくる小作農民たちだ。




          朝から夜まで働いて1日ひとり平均15ルピーの収入だという。






      カトマンズに住みついた農民たちの多くはバリヤ(荷物運搬人)として働いている。



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 1日の収入は?と聞くと、親方へガラ(荷車)の借料を払ったら、残り20ルピー(400円)ぐらいだよ、と答えた。



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 仕事にあぶれたバリヤたち、一日中待ってもありつけない日も多いという。カーストにさえぎられて仕事の数は少ないうえに、都市に流入する労働力が増えつづけているのが原因だ。




 市民の足をささえるリキシャの運転手。やはり親方に借料を払えば残りはわずか。重労働のわりには収入は少ない。




      ライスバザールの子供たち。小学校に行っているはずの時間なのに必死で働いていた。




 スウィーパー(ゴミ清掃人)は最下層のジャミの仕事だ。いちばん汚くてつらい仕事は婦人の力でささえられている。




 将来の展望を見出せない若者の中には、売春、麻薬、闇ドル売買に手を出すものもいる。(フリック通り)




    大金をつかむこと。そしてこの国からさっさとおさらばすること。それが彼らの夢だった。



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 寝たきりの病人とその家族。村の人たちからのわずかな援助で細々と暮らしている。政府は何かしてくれないの?と聞くと、「政府なんか何も相談にのってくれないさっ!」と、はきすてるように答えた。(サンガガオン)

 

 


 街をうろついていた”らい病”の乞食。今何が欲しい?とたずねたら、食いものをくれ、と言ったまま黙ってしまった。




        全盲の老婆。まったく身よりもなく子守をして暮らしていた。(カツンジ)




 下半身と左手が不随の母とその子は天井が吹きさらしの小屋に住んでいた。冬は寒くないの?と聞くと、

” 寒い・・・ ” と、力なく答えた。



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              人は働きつづけ、やがて老い、そして死んでいく。



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       死者はパシュパティナート寺院で火葬にされ、遺骨はヴァグマティ川に流される。

 

 


      薪を充分に変えない者は生焼きのまま川に流されるという。死後まで残る貧富の差。



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         新しい生命が誕生した。この子はいったいどんな未来をあゆむのだろうか?



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    ライスバザールで見かけた少年に、サンツァイ・フヌフンツァ?(元気かい)と声をかけると、

    ” ラムロー・サンツァイ!(元気だよっ)” と答えてくれた。

 

 

 

 

                    取 材 後 記

 

 

 ラムドーズ・ケシ。カトマンズからバスで約4時間。パルングという町の近くのキティニ村に住む16歳の少年。父親は農民で、彼も農作業を手伝うかたわら、農業技術の指導にきている外国人のカンチャ(召使い)をしている。この村ではラムドーズだけが上級の学校に行けなかった。”くやしかった・・・”と言う。カトマンズに出て働きたい、何か仕事はあるだろうと思っているが、それには金がいるし、まだ父親に話していない。”将来の夢は?”と訊くと、”ここで百姓をやるしかないじゃないか”と言った。

 

 ラジャンとマンバはカトマンズのポリス・オフィスで自動車整備の見習いをしている。ともに20歳。仲のいい友だち同士だ。いろんな話を聞いたあとで、”If you can get the chance, do you want to go to another country ? " (もしチャンスがあれば、外国へ行ってみたいかい)とたずねてみた。すると今までと打って変わって目を輝かせて、” Yes ! ”と二人はすかさず答えた。

 ”Which country do you want to go ?  example India, England, America, or Japan.”(どこの国に行ってみたい? たとえばインド、イギリス、アメリカ、それとも日本?) 彼らはもっと目をきらきらさせて、”Japan ! ”。 何故だ?とさらに問うと、”Because Japan is number One. ”と胸を張って答えた。日本が一番という答えを聞いて、彼らが元気になっていく分だけ私はせつなくなっていった。

 

 カトマンズ市にあるトリブバーン大学のトリチャンドラキャンパスに通うある大学生にインターヴューする機会を得た。今のネパールはいろいろな問題をかかえている。政府の高官はワイロの額で政治の方向を決定しているし、我々が卒業をして就職するにも強力なコネクションがいる。仮に就職できたとしても給料は低く30歳を過ぎるまで結婚もできない、となげいていた。そして、やや黙っていたあとポツリともらすように言った。

 ”I do not like Nepal, but I love Nepal. Becouse here is my birth place.  ”(今のネパールは大嫌いだ。しかしネパールを愛している。だって私の生まれたところだから) 私はこの学生に代表される若者たちの苦悩が理解できるような気がしてきた。

 

 1981年7月29日から9月21日まで55日間の取材は、過ぎ去ってしまえばアッという間だったように思う。心で思うほどの写真が撮れたのか、うまく日本でネパールの状況を伝えられるかどうか、不安な気持ちを抱いてネパールを去った。

 

 その帰途、タイのバンコック空港でのことだ。取材費を十分に持てない私は、乗り継ぎのための時間を”ホテルで一泊”などできるわけもなく、空港のロビーの椅子に座って眠れない夜を過ごしていた。

 そこへ100人あまりの一団がぞろぞろとロビーに入ってきた。ほとんど女、子供、老人で、男たちの姿は見かけられなかった。引率者が名簿らしきものを持って人数の点検と点呼をしている。今まで閑散としていたロビーが急にさわがしくなった。

 横に座っていた観光客が彼らの方に目をやりながらヒソヒソ話しをしている。その観光客の一人に ”あの人たちは何だ?”とたずねると、カンボジアのボートピープルだという。少し離れたところにいるインドから帰ってきた日本人ツーリストは、カンボジアの難民といってもけっこういい服を着ているじゃないかと噂をしている。確かに彼らの服は真新しくカラフルだ。

 しかしよく見ると、それぞれの服は2~3色使われているが、同じ色の取り替えだけで、ほとんど同じ型のものばかりのお仕着せでしかない。色はあざとくサイズはひとつ。配給品だということは容易に想像がつく。汚れもほころびもなく全然生活のにおいなどしないものだった。そのことがかえって寒々とした気分にさせられる。生活必需品も何も一切を持ち出せず、まさに着のみ着のまま逃げ出してきたのだろう。私は初めて見た難民たちの姿と、カンボジアの状況に戦慄する思いだった。

 

 そして飛行機が離陸する寸前に、今度は大きな荷物を抱えた男たちの集団が、ドカドカと機内に乗り込んできた。東南アジアや中近東の各地に出稼ぎに行っていたフィリピン人たちが故郷のマニラに帰るのだ。一様に持っている大きな荷物はSONY、ナショナル、東芝などのラジオカセットだ。日本人のツーリストたちに買ったんだぞっとばかりに見せつけている。

 私はその一人に ”Big one ! ”と声をかけると、笑顔で返事をしてくる。その後ろにいるフィリピン人はステレオタイプのラジオカセットを持ち上げた。”Yes, more big one ! ”と言ってやると彼らは初めて声をあげて笑った。みんな楽しそうだ。

 出稼ぎ先から故郷に帰る人。その故郷を追われカンボジアの戦禍で家を捨てた人。人間の明暗をひとつに乗せて飛行機は飛び立った。外国旅行の旅客機といえばはなやかなことを想像してしまうが、現実はまさに東南アジアの状況を示す一つの縮図なのだ。

 その同じ機内にネパールの取材をしてきた私が偶然乗り合わせている。その一瞬、ファインダーからのぞいたいろいろな”ネパール”が脳裏をかすめた。今回の取材で私はネパールというアジアの中の小さな窓から東南アジア全体を、いや世界の南北問題までも垣間見たような気がする。

 

 アメリカをはじめとする先進国は、食糧を商品として世界戦略の中に組みこみ、発展途上国といわれる国に海外援助の見返りとして、小麦やトウモロコシなどの換金作物を作らせて、牛や鶏の飼料として世界各地に輸出している。

 小麦を作っている農民たちがパンが高くて買えず、飼料となるトウモロコシを主食にしている。発展途上国といわれている国の政府や一部の地場資本だけが、海外援助のうまみで肥え太っていく。

 慢性化した飢餓は構造的に作りだされているし、貧富の差はますますはげしくなっている。このような世界情勢の中で、アジアの一小国、ネパールの将来はどうなっていくのだろうか。

 今回の写真にはそれは写っていない。今後の課題だ。

 

 この写真集をつくるにあたり、たくさんの方々からご支援をいただいた。工房児地蔵小野寺昌之さん、在宅福祉協議会の桜井宏平さん、松田写真事務所の松田芳明さん、海外青年協力隊ネパール隊の伊藤利夫さんに感謝の意を表しここに記す。

 そして、取材中、私のアシスタントをつとめてくれたネパールの友人、オム・クリシュナー・テミルシナ。あなたに最大級の感謝をするとともにこの写真集を捧げる。ありがとう。

 

 

中田輝義

1982年3月1日 記

 

奥付

中田輝義写真集

カトマンズ・リポート 定価500円

1982年4月5日発行

写真・著者 中田輝義

      札幌市北区北7条西8丁目

      テル・フォト・オフィス 

発行者   日本・ネパール・マイトリー・サンガ

      札幌市中央区南2条西6丁目

発行所   ノーム・ミニコミセンター

      札幌市中央区大通西18丁目




追 記

 

 新しく立ち上げる僕のホームページ「 terry's room 」のフォトギャラリーに、是非とも中田輝義写真集「カトマンズ・リポート」を加えたいと思って、倉庫の中を探しまくり、ネガケースの中からフィルムを見つけ出した。

 30年ぶりのご対面だった。なつかしさが一気にこみ上げてきた。ネガの状態はどうだろうか?と多少の不安を持ちながらも、さっそくフィルムスキャンでパソコンに取り込んでみた。フィルム現像をしたときの定着と水洗作業とその後の保存状態がよかったのか、ネガの状態は完璧だった。うれしかった。

 フィルム・ネガはきっちりとした現像作業と保存が良ければ、半永久的に保つと言われていたが、身をもって実感した。

 

 それから、昔の暗室の中の引き伸ばし機ではなく、パソコンの中でプリント作業が始まった。ハイライトから中間調からアンダーの部分まで、細やかなハーフトーンの快調までが見事に再現されていた。その情報量の多さにあらためて驚かされる。

 

 僕はほんの少し前、デジタルカメラで撮影した「熊野の郷・雲」のモノクロ写真シリーズをパソコンで写真加工に取り組んだ。ハイライトの部分を生かすか、それともアンダー部分をとるか。中間調を大切にしようとするとどちらかを犠牲にしなければならない。どうしても厳密なところで僕のイメージを再現できない。再現できる色の情報量が、まして白から黒までの再現できる範囲が圧倒的に少ないのだ。カラー写真なら色の綺麗さで何とか補えるのだろうけれど、モノクロ写真では光と影で被写体の実体感を表現する。それがモノクロ写真の命だ。

 

 「熊野の郷・雲」シリーズでは最も生かしたいところを最大限に生かすため、他の部分を泣く泣く犠牲にしなければならず、パソコンの写真加工では何度も泣かされた。

 でもフィルム・ネガからのプリント作業は、同じパソコンでの最終仕上げなのに情報量が断然違っていた。やはり、アナログ写真のすばらしさを思う。

 

 カメラマンとは、一度フィンダー越しに見たものは何年たってもその時の感触・臨場感をけっして忘れないものだ。今回のプリント作業中で、もう30年前のことなのに、そのときの光景がまざまざとよみがえってきた。

 

 それは悲しい記憶だ。

僕はネパールの取材が終わって日本に帰ってから、スーザン・ジョージ著「なぜ世界の半分が飢えるのか ー 食糧危機の構造ー」(朝日選書257 1984年初版)を読んだ。そのP22にこんな文章があった。長くて恐縮だが引用する。

 

 『 しかし、何百万の消費者が肉を食べ過ぎるという形で世界の穀物を浪費している場合は、消費者と政府、さらには政府が支えている企業の間の問題となる。こうした問題に対しては、消費者にはほとんど発言がないのが普通だから、肉を食べ過ぎる個々の消費者に、地球上の飢えた同胞に対する責任を問うても余り意味はない。せいぜい「いい子だからニンジンと豆を片付けてしまいない。インドの飢えた子のことを思ってごらん」というあの偽善的なせりふをはかせるぐらいが関の山である。 』

 

また、P56にはこのような記述もある。

 

 『 世界の食糧を食肉という形で多量に消費しているのはこれらの国々だからだ。もし、読者が、こうした言い方に耳障りに思われるなら、ルネ・デュモンのもっとも耳の痛い告発を聞かれるがよい。

 「肉を過剰に消費し、貧しい人びとへの思いやりを持たない金持ちの白人は、実際に”人食い”同然のふるまいをしているのだ。つまり間接的に人食いである。肉の消費、いいかえれば、貧しい人を救うはずの穀物を無駄に使うことで、昨年、われわれはサハラ諸国、エチオピア、バングラディッシュの子どもたちを食べたことになる。そして、今年もまた、つきることのない貪欲で子どもたちを食べつづけているのである」   』

 

     僕はネパールの農民たちの状況を知って日本に帰ってきてから、肉が食べられなくなった。あの人たちの食糧を奪って犠牲にして肉を食べているのなら、あの人たちの身体を食べているのと同んじだ。と思った瞬間、僕は食べた肉料理を吐き戻してしまっていた。

 

 

 今、世界の食糧問題はどうなっているのか。

 2010年2月11日、NHKで「ランドラッシュ・加熱する世界の農地争奪戦」という報道番組が放映された。アフリカや東欧の豊かな農地を、アグリビジネスの多国籍企業がこれからの食糧危機と穀物市場を見越して買い占めを行っているという内容のものだった。

 今や第三世界の国々は農業生産物を収奪されるだけではなく、農民から農地そのものまでも奪われようとしている。世界の食糧問題は限りなく深刻化している。

 

 日本の総合食糧自給率は農林水産省の試算では2007年で40%となっている。3・11東北・太平洋沖大地震と福島原発事故による家畜と野菜の汚染は、さらに日本の食糧事情のもろさを語っている。

 それにもかかわらず今日のテレビ放送では、毎日のように朝から晩まで旅先の旅館やレストランの名物料理に世界のグルメ料理をテレビリポーターやタレントたちが、きゃあー美味しい!と叫びながら大口を開けて頬張っている。

 いったん世界のどこかで戦争や紛争が起き異常気象が発生して食糧輸入が途絶えたとしても、明日にはスーパーマーケットに行けば、いつも使っている食材が必ず陳列テースに並んでいると信じて疑わないのだろう。自給力が低い日本ではたちまち食糧危機が目前であることもまったく知らぬ気だ。

 

 こんな社会状況の中で、30年前に刊行した「カトマンズ・リポート」を、今回わざわざ僕のHP「 terry's room 」のネット上で再現させることも、何かの役に立つかも知れないと思い、上梓してみた。後は皆様の反応を期待するばかりだ。

 つたないこの一文にお付き合いいただいて、ありがとうございました。

 

                                   中田輝義 拝

                                   2012年6月13日 記

 

 

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