「電動車イスひとり旅」- 広島県熊野町から札幌まで1830km -

 

電動車イスひとり旅」 購読のお願い 

 

 

 さて、僕、中田輝義の長年の友人である皆さんへ、今回の「旅」を通じて新しく知己となっていただいた方々へ、そして、はじめましてのご挨拶をする皆々様へ、それぞれの在所で健やかにお過ごしのことと拝察申し上げます。あらためて僕は、全国筋無力友の会広島支部の会員で、広島県熊野町に住む中田輝義と申します。 

 2007年3月25日から6月7日まで、僕は広島熊野町から札幌への1830km、「電動車イスひとり旅」を敢行しましたが、サポーターもつけず、携帯電話も持たないこの「ひとり旅」に、無茶だ無謀だ! 自殺行為だと多くの人に言われながらも、何とか無事に札幌到着を果たしました。旅の途中、皆様には本当にお世話になりました。ありがとうございました。 

 その間、書き綴ってきた旅日記が、札幌の「共同文化社」より刊行されることになりました。この75日間の「旅」の中で、僕は何を考え何を見てどのような思いで電動車イスを走らせていたのでしょうか? 

 このまま朽ち果てるなんて絶対イヤだ。僕にはまだ何かが出来る。これは僕の「挑戦の旅」だったのです。 

 

タ イ ト ル        :電動車イスひとり旅    

サブタイトル      : 広島県熊野町から札幌へ1830km 

発 行 日           : 2010年11月25日    サイズ ・ページ数 :A5判・372頁 

価 格             : ¥1890(1800+税) 

ISBN      : 978-4-87739-188-1 C0095 

 

表帯コピー:時速6kmのてくてく旅、急げ急げの現代風潮へのメッセージ 

 

裏帯コピー:何故ケータイもないサポートもなしで電動車イスなのかと聞かれたら、 

      僕は今の世の中の効率性や便利さではなくて、時速6kmのゆったりと 

      した速さで、時には風になって、まわりの風景の一部になって。心の目 

      で自然を見つめたかったからと答えなければならないだろう。(中略) 

      それには「ひとり」で在ること、孤独であることがとても大切なこと。あえ 

      て困難な「ひとり旅」だからこそ、自分自身が見えてくる。時速6kmの 

      速さが、僕に充分考えられる時間を与えてくれる。ーー 本文より 

 

 

 この新刊本を実際に手にとって読んでもらえれば、僕がこの「旅」から何を学びどのような人生の教訓を 

得たか、きっとご理解のうえ、共感してもらえるだろうと確信しております。もし、お近くの書店で見つか 

らなくて、取り寄せが困難なときには、下記にご連絡下さい。(郵送料¥400〜600) 

 

 

■ 共同文化社 〒060-0033 札幌市中央区北3条東5丁目 tel: 011-251-8078   fax: 011-232-8228 

 

■ ホームページよりオンライン注文  http://kyodo-bunkasha.net/

                   E-mail: kyodobunkasha@iword.co.jp 

 

■ オンライン書店で購入 アマゾンAmazon.co.jpサイトより購入 (送料無料)

 

 

 そしてこの本が気に入ってもらえてよい本だなぁ〜と思われたときは、どんどん、あなたの親しい人、病気や障害を持っていて、ずうっと自宅に引きこもりになっている人、何か新しい自分を発見したくてもまだ一歩踏み出せないでいる人。そんな人たちにこの本を薦めて下さい。そんな人たちを励ますために、僕は 「電動車イスひとり旅」をやろうと挑戦したのだし、この本を出版したのも、「旅」でお世話になり助けていただいた方たちへの恩返しのつもりなのです。 

 

 全国の障害者・難病患者団体の役員の皆様へ。厚かましいお願いですが、たくさんの人たちへ、それぞれの所属会員へ仲間へ、この本が届きますよう、ご支援(おたすけ)下さい。心よりお願い申し上げます。 

 ありがとうございました。 

 

 

                            中田輝義、拝。  2010/10/30 記。 

 

プロローグ ー 旅のいきさつ

 

 

 僕が何故、広島県の熊野町から札幌までの「電動車イスひとり旅」をやろうと思ったのか。そのことをこの本を読んで下さっている皆様に知っていただくために は、まず旅のいきさつからお話しなければなりません。それは僕の主治医の県立広島病院神経内科部長の時信弘先生に宛てた一通の手紙から始まったのです。 

 

 

懇 願 の 書 

 

 

 

 時信先生へ、 

 いつもお世話をいただき、感謝申し上げております。 

 実は今、僕は北海道まで「旅」をしたいと考えています。 

 

 この度、熊野町福祉課より補装具の支給が認められ電動車椅子が僕のところにやって来てくれました。しかも最新のスズキセニヤカーという電動バイク形式のものです。僕はこのセニヤカーを見たときにハッと思い付きました。この電動車椅子で札幌に行こう。今一度、懐かしい友人たちと再会して昔話をしよう。そして最後のお別れもしておきたい。そのとき本当にそう思ってしまったんです。 

 

 この電動車椅子は連続走行距離が約25~30キロメートルで、フルバッテリー充電するのに4~5時間かかります。途中充電すれば一日約50キロメートル進めます。広島から中国山地を斜めに縦断して舞鶴・敦賀へ、日本海側を通って青函フェリーで札幌へ。JRの路線距離だけでも青函フェリーを含めておよそ1830キロメートル。単純平均すれば札幌まで36日間かかります。雨の日があったり体調不良の日があったりで実際にはもっと日数はかかることでしょう。宿泊はユースホステルか国民宿舎か民宿か。バッテリー充電も町役場か公民館か交番所へ、いざとなれば民家へでもお願いします。第一級国道は避けて地方道を時速6キロメートルのてくてく旅です。 

 

 考えれば、これからの僕はだんだんと体力も気力も衰えていくことでしょう。後はただの引きこもりの寝たきり老人なのでしょうか。このまま朽ち果てるなんて僕には絶対ガマン出来ません。でもまだ今だったら何とかやれる。やれる間にやってやろう。たとえ「旅」の途中で斃れることがあったとしても、これは僕の意志であり覚悟のこと。かつて僕の心と身体を豊かに育んでくれた北海道の大地、大空、風土にもう一度溶け込んでこの眼に焼き付けておきたい。僕にはまだ何かが出来る。これは僕の新しい挑戦の「旅」なんだと、そう思ってしまったのです。 

 

 でも現実にはそう簡単ではありません。いろいろと問題山積です。 

まず第一に主治医の時信先生はこの「旅」を許可して下さるでしょうか。今の僕には毎月1回のigg抗体値検査やプレドニンやプログラフ、メスチノンなどの免疫抑制剤は不可欠です。主治医の立場上、僕の試みに「それはよいことです。しっかり頑張って良い『旅』をしてらっしゃい」と、諸手を上げて賛同して下さるなんて決してありえないでしょう。でもなんとか黙認だけでもしていただきたいのです。 

 

 往復3~4ヶ月の間、僕は熊野町訪問看護ステーションの皆さんに処方せん薬の旅先への送り付けをお願いするつもりでおります。送り先は全国筋無力症友の会の岡山支部・富山支部・新潟支部・秋田支部・北海道支部のいずれかです。札幌での滞在は北海道難病センターです。

 難病連センターの事務局長の伊藤たてお氏は自身も重症筋無力症の患者で、僕の長年の友人です。札幌では北海道北祐会神経内科病院で、時信先生からいただいた血液検査詳細情報書と処方せん持参で、健康診断を受けます。旅の途中でも各都市の公立病院でチェックをしてもらうつもりです。絶対に体調管理は怠りません。それはお約束します。 

 

 そして最も大切なことをお話しておかなければなりません。それは、もしたとえ僕が旅の途中で身体の具合が悪くなって不測の事態になったとしても、それは一切僕の責任で覚悟の行動で、他の誰の責任でもないということです。僕は決して時信先生にご迷惑がかからないように、このことをはっきりと明言しておきたいと思います。 

 

 広島出発の予定は、次回受診の3月22日以降にと考えております。帰りは小樽から新日本海フェリーで舞鶴か敦賀へ。そして山陰の海岸線に沿って出雲地方から中国山地を南下して、熊野に帰る予定です。 

 

 時信先生へ、 

僕のお願いは難しいでしょうか? それとも何か良い方法があるでしょうか? 必ず良い方法を見つけ出して下さい。そしてどうか僕に新しい生命(いのち)を与えて下さい。これからの生きていく勇気を与えて下さい。心より懇願申し上げます。 

 

 感謝。                                      

 中田輝義、拝。 07・01・18

 

 

 

 僕の計画では、熊野町訪問看護ステーションの看護師さんに、県立広島病院で僕の処方薬を受け取って旅先に送ってもらうつもりでした。それが安芸医師会の約款で出来ないことになっていたのです。この期に及んで予想していなかったことに僕はあわてました。薬がなかったらどうしよう! 

 

 考えたあげく、県立広島病院地域連携科のカウンセラーの平岡 毅さんに相談しました。平岡さんと時信先生との間にどのような話し合いがあったのか分からないけれど、特別に3ヶ月分の薬が出せるよう手配して下さったのです。助かった。まさに地獄で仏様、感謝せずにはおられませんでした。この「旅」はなんとかなる。天の上においでになるどこかのどなた様が、きっと手を貸して下さる。そう感じたのです。 

 僕は時信先生と平岡さんにお礼の手紙を書きました。 

 

 

 

お 礼 状

 

 

 

 時信先生へ、 

 またまたお手紙を差し上げます。 

この度は僕の無謀(?)な「旅」を認めて下さり、心より感謝申し上げ、そして時信先生の「診察」を支持いたします。「支持」という言い方は可笑しいでしょうか。いいえ、数多くの医療関係者、厚労省などの行政サイド、そして福祉関係者の中にあって、僕は生意気な言い方で僭越ですが、今回の時信先生の長期療養の病人・患者、障害者の立場に立った勇気ある診断に対して支持し、心からの敬意を表したいのです。 

 

 僕たちのように一度病気などで「死」を体験した者にとって、明日はないのです。今日の今、生きて在(あ)ることがとても大切なのです。僕たちは自分が生きていることを実感し、生きた証を残し、生きがいを持つことを切実に願いながら、日々、生きています。このことを多くの人たちは理解出来ません。だから、「なんでそこまでやるの」「もっと他に方法はないの」、という奇異な目でしか僕たちを見ることが出来ないのです。 

 そして自分たちはそれを管理し、止めさせる権利を持っているかのように考えている人たちもおいでになります。それは病人患者・身体障害者の”生きたい”という希求(ねがい)を阻害していることに気がついていないのです。そして当の本人が「死」を直面しなければならなくなったとき、初めて、オタオタ嘆いてばかりいないで、つらくても早く「死」を受け入れて、一日一日を大切に生きようと覚悟を決めた方がどれだけラクか、気付くのです。長い時間を無駄にしてしまうのです。 

 

 僕は若いころ、大阪府立病院泌尿器科で副睾丸ガンの手術を受けました。患部が恥ずかしいところだったため、医者に診てもらうことをためらっていました。腫瘍がキンタマさんと同じぐらいの大きさになり、たまらずやっと病院に行きました。担当医から「何故こんなになるまでほっておいたんやっ。死ぬんやゾッ」と、怒鳴りつけられました。

 即入院即手術、その後コバルト治療のためガン病棟に長期入院。親しくなった患者さんたちも何人か死んで逝きました。退院時、主治医からは奇形児が産まれる可能性が高いこと、なお再発の恐れのあることを告げられました。「死の恐怖」から立ち直るのに何年間もかかかりました。そして生きがいのある人生、生きる証を求めて、写真の道を志し、東京へと旅立ったのです。 

 

 僕が現役のフリーカメラマンとして撮影してきたのは、寝たきり老人・独居老人や心身障害者、難病患者でした。

 この取材から学んだことは、「障害があるなしにかかわらず、自分の困難とどう立ち向かって生きるか。自分をもう一歩高めるためにどう挑むのか。そこに人間としての美しさ、尊さがある」ということでした。

 僕は障害者の写真を撮っていたのではなく、人間の生きる姿をテーマにしていたのです。だからたとえ僕自身が一種一級の身体障害者になっても、僕は僕が学んだことから逃げるわけにはいかないのです。 

 

 はからずも重症筋無力症になってからも、クリーゼ(呼吸困難)などで「 僕はこのまま死ぬのかなぁ 」という思いを何度も経験しました。そして年々体力も気力・集中力も衰えを感じます。

 もう後は寝たきりの独居老人なのでしょうか。認知症になるのでしょうか。僕はそんなこと絶対にガマン出来ません。

 でも今だったらまだひとつの目標に向かって自分らしく生きられる。生きた証を残せると思うのです。今回の「旅」は僕の人生の総決算、総仕上げの「旅」となることでしょう。時信先生はその「旅」を許可して下さいました。感謝の気持ちでいっぱいです。 

 

 時信先生の英断に報いるためにも、口幅ったいようですが、僕は時信先生をお護りしなければなりません。再度書き留めておきますが、この「旅」は僕の責任において行うものであり、「 旅 」に起きるかもしれないあらゆることは、僕の責任です。それをなんらかの形で時信先生に責任の転嫁をするなどあってはならないことです。決して僕の願うところではありません。僕は心から時信先生に感謝申し上げております。このことを旅立ちにあたって再度、明確に書き記しておきたいと思います。 

 

 時信先生へ、 

ありがとうございました。元気に行って参ります。そして元気に帰って参ります。 

 

感謝! 

 

 

中田輝義、拝。 07・03・15

 

 

 

 3月22日(木)の定期検診で時信先生から3ヶ月分の薬をもらったとき、一つの条件が出されました。 

 

 「中田さん、今回の『旅』の目的はただ旅をすることですか。それとも札幌に到着することですか。札幌に着いて目的が達成出来るのなら、帰りは飛行機にして下さい。真夏の一番暑い時期に中国山地を横切って広島に帰ってくる体力は、今の中田さんには絶対ありません。旅の許可と3ヶ月分の薬は、それが条件です。帰りは飛行機にすると約束してくれますね?」 

 

 僕は大きな声で「ハイっ」と答えました。主治医として僕のことを親身になって考え、「旅」の応援もして下さる時信先生に、感謝の気持ちでいっぱいでした。 

 

 もう出発するという前々日に、札幌の友人香西智行(としゆき)さんから3月20日付けの手紙が届きました。ここで少し香西さんのことを紹介します。 

 香西さんは子どものころに進行性筋ジストロフィーの病名を宣告され、20歳まで生きられないと言われました。20歳になったとき、倍の40歳まで生きてやろうと決心しました。40歳になったとき、二級自動車整備士として自動車修理工場を経営していたのをきっぱりとやめ、他の障害者のために自分の機械の技術を生かして福祉機器を作って行こうと思いました。「100人の障害者がいれば、100通りの作り方がいる、それが福祉機器だ」というコンセプトのもとに「コウサイ福祉機器研究所」を立ち上げました。 

 

 香西さんの作った福祉機器のひとつに、車椅子の障害者でも頬に風を切ってサイクリングが出来るようにと考案設計した『トライスクル』があります。車椅子を3輪に作りかえて36段の変速ギアーを取り付けたものです。両腕に障害があって力のない人でも自転車に乗った気分が味わえます。 

 このトライスクルのテスト走行をして、乗る立場から改良意見を出したのは、胸から下の脊椎損傷の障害を持つ宮下高(千歳市在住)さんです。宮下さんは大分の別府マラソンにも参加したことのある車椅子マラソンランナーで、20歳のころ電気工事の仕事中に労災事故にあいました。 

 

 僕たちはこのトライスクルを、日本の道路交通法のような雁字搦(がんじがら)めの規制のないカナダで、自由に走らせて見ようと思い立ちました。当時まわりには「筋ジスや脊椎損傷の障害者がそんなこと出来る訳がない。無謀だ」と猛反対されました。 

 1989年、僕たちはサポートをする総勢12人のメンバーとともに、カナダ東海岸のモントリオールから西海岸のバンクーバーまで、約5000キロ2ヶ月間の「クロス・カナダ・ウィールチェアー・チャレンジ」の旅を成功させました。僕はサブリーダー兼カメラマン兼ドライバー兼ときどき通訳として参加しました。

 その香西さんが言うのです。「誰もこんなこと考える人はいない。中田さんしか思いつかない。中田さんなら出来ると思う。無事北海道に着いたら、函館まで出迎えてあげるよ。楽しみに待ってるよ」と。 

 

 香西さんは若いころ「何んで俺が筋ジスなんだ」と自暴自棄になって、お父さんが経営していた自動車修理工場にあった中古バイクを乗り回して暴走族まがいをしたこともあったそうです。身体が動く間に自動車整備を学んでおこうと仕事をするうちに機械のおもしろさに目覚め、心も落ち着いてきて筋ジスを受け入れられるようになったそうです。 

 

 宮下さんの事故の前のまだ少年の顔が抜けきらないころの写真を見せてもらったことがあります。ひょろ ーっとしてまだおぼこい、気の弱そうな少年がそこに写っていました。これからどんな可能性があるかもしれない若者の将来を、労災事故は奪ってしまったのです。それまで何処ででも見かけるような普通の青年だったのに、一生涯下半身不随の身体障害者です。そのときの青年宮下さんの気持ちはどんなだったでしょう。その宮下さんがどのようにして車椅子マラソンと出会い、人間として立ち直って行ったのでしょうか。今の宮下さんはウェイトリフティングなどのトレーニングで筋骨隆々、顔も自信に満ちてとても写真と同じ人物とは思えません。 

 

 誰も筋ジスになんかなりたくはない。誰も脊椎損傷の障害者なんかになりたくない。なりたくてなったんじゃない。ごく当たり前の普通でありたいだけ。人は誰でも生まれて来た以上は必ず老いるし病にもかかるし、死んで行かねばならない身です。それは障害者でも健常者でも同じです。

 そして人は誰でも障害者になる可能性を持っている。障害や生きる苦しみや困難とどう向き合うか、それが人間の一生なのかもしれません。

 しかし苦しみや困難を乗り越えてきた人間の言葉や顔は、なんと実に晴れ晴れとして大らかなのでしょうか。この世に苦しみや困難が存在するのは、それが理由なのかもしれません。

 香西さんの函館まで迎えに行くという言葉に、僕は北海道人の屈託のなさとあたたかさを感じました。こんな友達がいることを幸せに思いました。 

 

 

『 すっかり遅くなってごめんなさい。 

  私の精神が少々おかしくなってきました。 

  3月は私の誕生日でもあります。中田さんが出発するのはもうすぐですね。 

  とっても楽しみにしています。再会を・・・。 

  私たちの方もそれまでがんばって生きていなければと思います。 

  一時は年も越せないのではないか思っていましたが、

  何とか一月になり横這いで3月になりました。 

  一日一日、祈るようにすごしています。 

  ゆっくり、ゆっくり、そして早く来て下さい。 

  10月が来ると智行さんは67歳になります。

  80歳までは生きると前に言っていましたから。 

  札幌はほとんど雪がなく、吹雪らしいものもなく、ツララも見えない変な冬でした。 

  この頃は二人とも物忘れがひどく、アレ、コレ、と言い合っています。 

  残りの人生、大切に掌でいとおしむように、

  そして何気なく生きていけたら良いなと思っています。 

  どうぞ気をつけて来て下さい。 

  迎えに行きます。 

 

  中田様                                

                                    香西   』

 

 

 僕を待ってくれている人がいる。僕はその人たちを喜ばせてあげられるかもしれない。僕のこんな「旅」でもひょっとかしたら僕のまわりの人たちを励ましてあげることが出来るかもしれない。だから人は頑張れるんだ。何が何でもやり抜こうとする勇気が湧いてくるんだ。僕だけの楽しみだったら、こんな力はとてもじゃないけど湧いてこない。

 進行性筋ジストロフィーの身でありながらカナダ横断5000キロの旅を達成した香西さんを励ますためには、今度は僕がこの『電動車イスひとり旅』をやり遂げなければならなかったのです。 

 

 僕が所属しているインターネットのE・メールクラブ「つれづれの部屋」の皆さんが、僕の「電動車イスひとり旅」の敢行会をしてくれました。僕が旅先の様子を手紙に書けば fumifumi さんが僕に代わってアップロードしてくれたり、僕でも持てる軽いカメラを貸してくれたり。

 i.Tera さんは、携帯電話を持たない僕のために沢山のテレホンカードをプレゼントしてくれました。福井では akemi さんが、北陸での支援者と旅の情報を集めてくれています。 

 その夜遅く、僕は『つれづれの部屋』の仲間に最後のメールを送信しました。 

 

 

 

「旅立つまえに」 

 

 

 

  こんなことがありました。 

 僕は電動車椅子による長期の旅に必要な技術的ノウハウを知りたいと思って、スズキ自販広島の電動車両グループにコンタクトを取りました。

 福祉用具専門相談員の中川雅義さんは「電話でお話するよりも、お宅にお伺いしましょう」と言って下さいました。なんと親切な!と思いましたが、実は中川さんは、「これはえらいことになった」と、さっそく静岡県浜松市のスズキ本社に報告したのです。

 そして本社からは中川さんにこの「旅」を止めさせるよう説得に行けと業務命令が出ました。しかしそれは後になって知ったこと。我が家を訪れた中川さんは沈痛たる面持ちで、電動車椅子の長旅がいかに危険に満ちたものかを ” るる ” 説明されました。

 

 「 セニヤカーは近所の散歩用に設計されたもので長旅用のものではありません 」 

 「 したがってそのような使用法のデータは当方では一切ありませんから、どのような事態になるか予想も

   つきません。責任が持てません 」 

 「 もし何かトラブルがあったときや事故があったときに、タタカれるのは乗っていた障害者でもなく、

   事故を起こした加害者でもなく、我々です 」 

 「 本音を言えば、我々としてはこの『旅』のことを知りたくなかったのです。それでも中田さんは行くので

       すね。眼を見ればわかります 」 

 「 それではしかたないとしても、最低限、誰かサポートをつけるべきではありませんか?」 

 「 僕にはサポートを含めて二人分の旅費を出せる余裕はありません。自費でサポートをしてくれる人も

       もちろんいません」 

 「 1-2年かけてもスポンサーやテレビ局を見つけるなどの準備が必要だったのではありませんか。

       植村直巳さんなんかもスポンサーがいたからあれだけのことが出来たんですよ」 

 「 僕はフリーカメラマン当時から今のテレビ報道がどれほどいい加減かよく知っています。彼らは取材の

      やりやすいように内容を変えようとします。スポンサーがつくと金も出すから口も出すと、視聴率を上げ

      るためにやらせっぽいことも強要してきます。テレビ局もそれに迎合します。僕の『旅』ではなくなって

      しまうんです 」 

 「 そうですよネ。24時間チャリティー番組なんかで長距離マラソンをやるタレントがいますが、あれって

       ウソっぱちですよね。テレビ局が付いていて医者がつきそい、サポーターが世話をして、やれることがわ

       かっていてやらそうとしているのだから、挑戦でも何でもないですよネ。でも中田さん、そのウソっぱち

       を見て感動しているのが今の日本の社会なんですよ 」 

 「 僕は携帯電話を持たないということも含めて、この『旅』で、今の社会の風潮にレジスタンスをしよう

       としているのかもしれません 」 

 「 難病患者や障害者は施設の中か自宅で、おとなしくしていなさいと言われます。その方が管理する側は

       管理しやすいからです 」 

 「 社会のルールや常識を打ち破ろうとすれば、つねに制裁を加えようとする力が働きます。たとえ難病患

       者であっても障害者でも、自由に生きがいをもって生きたい、そんな夢を社会や行政は押しつぶそうと

       します。テレビ報道も業界のやり方にはずれるテーマには、協力もサポートもしてくれません。それが

       現代のテレビ報道です 」 

 

 中川さんはこのとき、技術屋の顔でも営業担当の態度でもなくなりました。いかつい顔つきには、人なつっこい瞳が輝いていました。 

 「 中田さんの生きがいを持ちたい、生きた証を残したいという思いはよく理解できます。

       私の妻は一度ガンで死にました。奇跡的に生き還ったんです。妻は昼であれ深夜であれ、

      思い立ったらパソコンの前で日記を書いています。明日はない、今感じたことを今書くしかないと

      パソコンの前に座っています 」 

  二人の間に少しの沈黙が続きました。 

 

 「 中田さんの『 旅 』を知ってしまった以上は、知らぬ顔も出来ません。しかし私は会社の組織人間です。

       どの程度協力出来るか分かりませんが、必ずスズキ自販の代理店のあるところをコースにして下さい。

       私のように福祉用具専門相談員の肩書きを持つ社員は各県内に一人しかおりません。連絡をもらっても

       すぐに対応出来るとは限りません。私の名刺を置いて行きます。私への直通の電話番号もあります。

       何かあったら連絡して下さい 」 

 

 僕は「 旅 」を終えて広島に帰ったら、中川さんと友達になりたいと思いました、なれるなと、感じました。 

 

 僕がお世話になっている熊野町社会福祉協議会の居宅介護支援センターのホームヘルパーさんたちは、僕のこの「旅」にどのような支援が出来るだろうかと職場で話し合いをしたそうです。

 そして毎日の仕事と生活に追われて、本当に私たちは自分自身を生きているんだろうかということまで、話し合いが発展したそうです。その話を聞いたとき、僕は胸が熱くなりました。なんて光栄なことだろうと思いました。

 いろいろな思いを込めて、今日出発します。ありがとうございました。 

 

 感謝! 

 

  中田輝義、拝。 07・03・25 記。

 

 

第1信 そして「 旅 」は始まった

                                  2016・10・11 より作成を再開

 

 

その前夜、
 ああ~っ、やっぱり目が冴えて眠れないやー。
僕は、いったんベッドに入ったものの、結局寝つかれないであきらめてヤッとばかり起き出してしまった。

 

 いろいろ準備をして、忘れ物はないか、デイパックの荷物をもう一度点検して。明日の朝6時には出発する。いやもうとっくに12時はまわっている。僕は今日出発するんだ。

 少しでも眠っておこうと思うんだけれど、眠れない。やっぱり気が立っているんだろうか。僕は本当に札幌までの1830キロメートルの「旅」に行くんだろうか。今さらこんな言い草もおかしな話なんだけれど。これだけ準備をしてきて、あっちこっちに言いふらしたのに、出発の前夜になった今でもまだ、札幌に行くという実感がない。何だか他人事のような気がする。こんな感覚って自分でもよく分からない。

 

 僕は無駄なものはないか、もう一度デイパックの中をチェックした。3ヶ月分の薬。下着やパンツや靴下に着替えの長袖シャツ数枚。穴が開いてボロボロ。どこで捨てても惜しくない。厚手の長袖トレーナー、一枚。厚手の毛糸の手袋。ジャージーのズボン下とウインドブレーカーの上着。タオル一本歯ブラシ一本チューブ歯磨きと、石けん一個。ルーズリーフ・ノートにシャープペンシルと電子辞書と、fumifumi さんのカメラと全国道路地図帖。国民健康保険証に身体障害者手帳に郵便局のキャッシュカードに、テレフォンカード10枚と熊野社協介護センターのヘルパーさんからもらった連絡用ハガキ30枚。

 時信先生からいただいた紹介状に、両親や友人などの緊急連絡先と住所録。電動車イスのバッテリー充電用の延長コード三メートル。これだけが僕の味方だ。

 考えられる限りの準備はした。後は出たとこ勝負のぶっつけ本番。結局は天運次第。いつもそんなやり方でここまで切り抜けてきたじゃないか。なんとかなるさっ。ああーっ、もう3時半を過ぎた。少しでも眠っておこう。

 明日は長い一日になるだろう。

 

 

3月25日(日)
 午前5:00、目覚まし時計が鳴った。簡単な食事をして茶わんとお皿を洗って食器棚へ。冷蔵庫の中身を整理して。すべてのコンセントを切ってカーテンを閉めて、もう一度部屋の中を見渡した。

 この部屋に戻って来られないかもしれない。汚れたままの部屋なんて恥ずかしい。僕は「行って来ま~す」の挨拶をして鍵をかけた。

 朝6時、外はまだ少し冷んやりしている。3月の初めは暖かくてバカ陽気だったのに今はこの寒さ。今年の春はやっぱり異常気象なんだ。でも大快晴。絶好の旅立ち日和だ。

 僕はもう一度だけ10階の僕の部屋を見上げた。ちょうどそのとき、この春一番のウグイスが、「ホウー、ホケキョッ」と啼いた。

 あはははっ、ウグイスくんが、行ってらっしゃいって、お見送りをしてくれているんだね。これは験(げん)がいい。ありがとう、ウグイスくん。行って来ま~す。

 

 この熊野の里は盆地の中にあって、どうあっても峠を越えなければならない。矢野峠、戸坂峠、大峠。どの峠も道幅はせまく交通量は多いし路線バスも走っている。坂はくねくねと見通しが悪いし、歩行者用道路はない。同じことなら東へ一直線の大峠を行こうと思っていた。いきなり初日の朝一番からの難所越え。ちょっと緊張していた。
 全日本道路地図帖を見れば、熊野町役場から黒瀬町の上保田交差点までは12キロメートル。時速6キロメートルで約2時間。ここはちょっとした街で、黒瀬郵便局もあるらしい。ここらでバッテリー充電をしよう。そして安浦駅前までは約9キロメートル、1時間半の距離。安浦中央に林田旅館があるのを事前に調べていた。ちょっと早いけれど今日はここに泊まろう。まあ~、初日なんだから、こんなもんだね。

 

 僕は大峠の下まで裏道の近道を通っていた。と、朝の散歩を楽しんでいる老年のご夫婦とばったり出くわした。
 「 おはようございます 」
 「 おはようございま~す。お天気が良くなって、よかったですねぇー 」
 あのご夫婦、よもや僕がこれから北海道まで電動車イスの「旅」に行こうとしているなんて、思いもしないだろうなぁ。でもあのご夫婦、今日までいろんなことがあって人生の山坂を乗り越えて、この頃になってようやくああして二人で朝の散歩を楽しめるようになったんだろうか。誰にだって人生のドラマはあるんだ。

 

 大峠の坂は、そんなに急勾配じゃないけれど、本当にだらだらとした長い坂道だった。でも心配したほど車は多くなかった。日曜日の早朝の出発でご正解だった。

 

 坂道を登り切った辺りで、反対側の林の中から背負い篭を担いだおばあさんがひょいっと現れて、スタスタと僕の方へ歩いてくるのが見えた。電動車イスとぶつからないよう気をつけなければと思いながらおばあさんを見つめると、色あせた豆絞りの手ぬぐいを姐(あね)さん被りにして洗いさらしのかっぽう着。手には鎌を持って、地下足袋を履いたもんぺ姿には腰に藍染め木綿布地の前垂れをしっかりとしめていた。

 山菜採りに山に入っていたんだろうか。それにしても目の前にすわーっと突然現れて、お年寄りとは思えない容赦もない早さで僕との間合いツツツーッと詰め寄ってきたおばあさんの姿に、僕は何とも言いようがない不思議な気配を感じ取ってしまった。おばあさんは品定めでもするかのような目つきで僕の顔をジーッと見つめて、やおら話しかけてきた。

 

 「 何処まで行くのォー 」
 「 ちょっと『 旅 』に出ようと思って 」
 「 あっははは、『 旅 』に行くのおぅーぉ。気をつけて行ってらっしゃいよおーっ 」
 「 ハイっ、ありがとうございますぅ 」

 

 そのおばあさんの笑顔はとても素敵だった。僕はなんだか心がホワホワして、それまでの緊張がほぐれていくのを感じた。おばあさんは何事もなかったようにスタスタと足早に立ち去って行った。僕が何気なく後ろを振り返ると、そこにおばあさんの姿はなかった。忽然と消えていた。

 「あれっ、いないっ。どこに行っちゃったんだろう?」
僕は狐にでもつままれた気分になった。話した言葉は覚えているのに、出会った感触がまるでない。
 「あれはいったい何だったんだろうか」 

 

 山の峠には、” 障の神 ”(さえのかみ)という道祖神(どうそしん)がおいでになって、村をはなれて旅に出る者を見送るという話を聞いたことがある。して見るとあのおばあさんは障の神の化身だったんだろうか。僕の「 旅 」の無事を祈って、わざわざ見送りに出てきて下さったんだろうか。オモシロイっ。よし、これは必ず札幌に行ける。僕はそう確信したんだ。

 

 峠の下まで降りてきてようやっと人里に帰ってきたという感じがする。でも上保田の街は想像したほど賑やかではなかった。商店もちらほら見かけるけれどシャッターは閉じたまま。もう8時は回ったようだし。ぼちぼち充電しておこうと周りを見渡して、やっと気がついた。今日は日曜日だ。郵便局はお休みだ。大峠越えは日曜日の朝がいいとわざわざ選んだのに、その日曜日は郵便局が休みだということに今の今まで気がついていなかった。僕はなんてドジなんだろう。自分のバカさ加減が情けなくなってくる。何が「 障の神 」だ。バカモン! あきれて、もう見放されているよ。

 

 ちょっと向こうにガソリンスタンドが見えた。ちょうど開店準備をしているところだった。僕は従業員さんに頼んで店長を呼び出してもらった。
 「 すみません。この電動車イスのバッテリー充電をさせていただけませんか。普通のコンセントでいいん

  です。延長コードも用意してます 」
 「 どれくらい時間がかかりますか 」
 「 2時間ぐらいかかると思いますが 」
 「 ちょっと待って下さい 」

 

若い店長は事務所の中に戻っていった。オーナーと相談しているんだろうか。
 「 車のバッテリー充電料金と同じ1500円いただきますが、よろしいですか 」
 「 ええっ、そんなに要るんですか 」
 「 ええ、こちらも商売なんで 」 店長は冷ややかに言い放った。

 

1500円だなんて、どうしよう。僕は想定外のことにドギマギしてしまった。
 「・・・・・・・、それなら結構です」

 

 僕は逃げるようにしてそのガソリンスタンドから出ていった。1500円。そんなバカなっ。スズキの中川さんは、一晩フルに充電しても電気代は100円もかからないって言っていた。それなのに1500円だなんて、冗談じゃない。

 

 正直なことを言えば、僕は電動車イスの障害者を助けてくれるんじゃないかと当てにしていた。それはズルイ考えだ。確かに向こうは商売だ。でも、なんて冷ややかな言い方なんだろう。

 そりゃー今の世の中不景気だ。たとえ100円でも経費は削減したいところだ。人助けやボランティアなどと甘っちょろいことなどやっていられない。” こちらも商売なんで ”という言葉にはそんなニュアンスがあった。

 僕だって偉そうなことは言えない。その100円を期待して人にすがっていたじゃないか。僕は恥ずかしさと悔しさと情けなさで、ハンドルレバーを押す手が震えていた。

 

 結局僕は世間知らずなんだ。今ごろあの若い店長は、” 何を甘ったれているんだ ” と僕のことを小バカにしているだろう。いやそれとも、店長はイイと思ったけれど、オーナーが金を取れって言ったんだろうか。これじゃこれから先、ガソリンスタンドの充電はあきらめなきゃならない。一回ごとに1500円払っていたら、キャッシュカードの残高がたちまち0円になっちゃうよ。

 

 僕はやっと少し冷静になれたけど、気が付けば道は山の中へ。人家もまばらになってきた。バッテリーの警告ランプが、” ぼちぼち充電して下さい ” の点滅をしはじめた。朝寒かったのと長い峠越えで、思った以上にバッテリーを消費してしまったらしい。僕はだんだん不安になってきた。いまさらガソリンスタンドに引き帰すなんて意地でも出来ないし。でも大丈夫。この先に何かがある。僕を助けてくれる。僕は僕の勘を信じて電動車イスを走らせていた。

 

 ゆるやかな長い坂の途中で、身体が急にすうっと冷えてきた。山の中では気温が低い。あれから1時間ぐらい経ったんだろうか。腕の力がなくって、寒さと疲労と空腹で身体が小刻みに震えてきた。厚手の手袋をしていても指の関節が痛い。もう限界に近かった。坂を越えるとまた次の坂が待っていた。バッテリーの消耗が余計に気にかかる。でも大丈夫。僕は再度僕にそう言い聞かせていた。

 

 やがてこんもりとした森があって、レンガ造りの高い建物が見えた。何だろう、その ” 何か ” かもしれない。だんだん近づくと、それは広島国際大学の学舎だった。正面玄関前にはコンビニがあって、学生たちがたむろしていた。日曜日なのにこんなにも学生たちが登校している。そのおかげでコンビニも開店(や)っている。ここなら何とかなるかもしれない。僕は電動車イスのまま店内に入っていった。

 

 まずは温かいホットチョコレートを注文した。ちょっと緊張しながら店長にバッテリーの充電を頼んでみた。するとその若い店長は意外なほどあっさりと、「いいですよ」と言って、店内の片隅にあるコピーサービス機のコンセントまで案内してくれた。延長コードを店長に渡して充電中のランプが点灯(つい)たとき、僕は心の底からホッとした。すぐに2杯目を注文した。今度はゆっくりと味わってすすった。やっと、” ホットチョコレートでホッとした ” なんてダジャレを飛ばす余裕も出てきた。

 

 僕は店長に野菜サンドウィッチ2個と今度はホット・ポタージュスープをテーブルまで持ってきてもらった。店長は下村さんといった。下村店長は昼時の忙しい時間なのに、イヤな顔もせず快く注文に応じてくれた。先ほどのガソリンスタンドのこともあり、僕にはこの応対がとてもありがたかった。

 食べ終わって、店内は暖かくって。僕は電動車イスでコックリこっくりと居眠りを始めてしまっていた。僕は生来神経質な方で、人が大勢いる騒がしいところで居眠りが出来る性質(たち)ではなかった。なのに、とろとろトロトロ、気がついたら1時間以上も眠っていた。少し身体の節々が痛かったけれど、それは本当に気持ちのいい居眠りだった。僕はこんな自分自身にびっくりしていた。
 電動車イスも僕もたっぷり2時間充電出来た。僕は店長に心からのお礼を言ったら、下村さんは照れ笑いをしていた。本当にこの世の中、捨てる神があれば、拾う神もある。気分一新、僕は一路、安浦に向けて出発した。

 

 安浦駅前まで下ってきた。にぎやかな町だった。ちょうど統一地方選挙の真っ最中だ。午後1時過ぎ。ちょっと早いけれど今日はここに泊まるつもりでいる。

 タウンページの林田旅館はすぐに見つかった。玄関前には4~5段のコンクリートの階段があった。玄関脇にはプレハブの選挙事務所があった。候補者が林田さん。はあ~ん、この旅館の主人が候補者なのかな。

 ちょうどそのとき庭箒(にわほうき)をもった従業員が出てきた。僕は女将さんを呼んでもらった。ちょっと待って70歳ばかりの女の人が出てきた。僕が素泊まり一泊のお願いをすると、女将さんは僕と電動車イスをしげしげと見比べてから、

 

 「 お宅さん、歩けるの? 部屋は2階だけど大丈夫? 」
 「 いつも訓練しているからちょっとぐらいなら大丈夫、歩けますよ 」
 「 誰も他に面倒を見てくれる人はいないんでしょう。何かあったときには旅館(うち)が困るから他を

  当たって下さい 」
 「 ええっ、お宅に泊まるつもりでここまでやって来たんですよ。大丈夫、自分のことは自分で出来ますからお願いします 」

 

 「 申し訳ないけど、何かあったら旅館の責任になるので、お断りしますよ 」

 最初は申し訳なさそうな顔つきだったけれど、今度はきっぱりとした口調で言った。そのとき、何事かと選挙事務所から60歳ぐらいの松葉杖の男の人だ出てきた。女将さんから事情を聞いてその人も、
 「 車イスの人がひとりで旅館に泊まるのはやっぱり断ったほうがいいよ 」と言った。そして、
 「 安芸津まで行ったら旅館が二軒あるよ。まだ1時半過ぎ出し、車でも10分もかからないから、

   そっちへ行ったらどう?」
 「 車で10分でも電動車イスなら2時間かかるんですよ。それにバッテリー充電もしなければならない

   し・・・・・」
 「 それならうちの事務所で充電してもイイよっ 」
 「・・・・・・・。 ハイっ、分かりました。もうけっこうです。ありがとうございました 」

 

 僕は憤懣(ふんまん)やる方ない思いでその場を立ち去った。身体がわなわなと震えてくるのを感じた。まさか宿泊を断られるなど、想像だにしなかった。客が旅館を選ぶんであって、旅館が客を選ぶなんて思いもしなかった。僕はお客様なんだぞっ。車イスでも、何でも自分で出来るって言ってるんだから、泊めてくれればいいじゃないか。

 それにあの選挙事務所のオッサンはなんだっ。途中からシャシャリ出てきて、女将さんに指図がましいことを言って。おまけに、

 「 車で10分だよ、充分間に合うよ 」と軽く言ってくれた。

それがどれだけ大変か、分からないだろう。松葉杖と車イスの同じ障害者同士じゃないか。助け船を出してくれたっていいじゃないか。

 僕はかえって自分が惨めになるくらい、ありったけの汚い言葉を吐いていた。あのガソリンスタンドで神に捨てられて、あのコンビニでいったん神に拾ってもらったのに、ここに来てまた神に見捨てられた思いがした。

 

 僕は頭にきて安浦の町をどう通り過ぎたのか覚えていない。気が付けば海岸線を走り続けていた。そうか、ちょうど選挙の真っ最中で、ちょっとでも面倒なことに関わりたくなかったんだ。普段なら泊めてくれたかもしれないけれど。あの松葉杖のおじさんは、きっと後援会長か選挙事務所の責任者なんだ。あんな事なかれ主義の人たちに担がれている候補者なんて、どっちみちロクなものでもないんだろう。ああっ、僕は腹いせ紛れに、なんてイヤなことを考えているんだろう。情けなくなった。

 

 思わず飛び出したけれど、充電出来そうなところはどこもなかった。今更引き返して充電だけでも、なんて言えるはずもないし。僕にも意地ってものがあるんだ。なあ~、セニヤくん、分かるだろう。そうだ。これから電動車イスの君のことを、” セニヤくん ” と呼ぼう。僕の唯一の「旅」の友だちだ。よろしくお願いしますね。

 

 これから安芸津まで行かなければならない。気持ちを切りかえよう。道路地図帖には安浦から安芸津までは10.5キロメートルとある。必ずバッテリー充電が必要だ。安芸津には本当に旅館が二軒あるんだろうか。空き室はあるんだろうか。今度は泊めてもらえるだろうか。安芸津で宿がなかったら野宿だ。急がなければならない。急いでみたところで、結局のところ時速6キロメートルなんだけど。

 また警告ランプが点灯しはじめた。心なしか、エンジン音がぐうぅ~んグウォ~ンとあえいでいるように聞こえた。まるで、” あなたの愚痴は聞いてあげるけれど、ボクが苦しいとき、誰が聞いてくれるんでしょうかね ” と、訴えかけているように聞こえた。大丈夫、セニヤくん、僕らは運命共同体だ。いっしょに頑張ろう。ようやく瀬戸内海の景色も見えてきたけど、正直僕にはまだそれを楽しむ余裕はなかった。

 

 国道185号線には歩道がついているけど、がたんゴトン、段差がいっぱいあって、モロ身体に響いてくる。歩く人や自転車では感じないような小さな段差でも、それが何度も続くと車イスには大きな衝撃となって全身にこたえる。

 歩道はぜったいに車イスのことを考えて作ってはいない。この苦痛は車イスに乗った者しか分からない。僕はしかたがないから、車が通っていないときには車道を走っていた。こっちのほうが楽なんだもん。

 でも車道だって、道路の端には砂や砂利がたまっているし、空き缶や弁当ガラのゴミ袋まで投げ捨ててある。それをよけて通ると、後ろの車のドライバーたちからは、「 何やってんだよっ 」とクラクションを鳴らされる。こっちだって好きで車道を走っているわけじゃないんだ。でもきっとドライバーたちは、「 車イスで車道を走るなっ 」て、頭にきているんだろうなぁ。

 

 今の世の中は車社会だ。車の便利なように道路は造られている。道路では老人と車イスはただのおジャマ虫なんだ。のこのこ道路に出るよりも、家の中にいなさい、なんだ。こうして国道を走っていると、そのことがよりいっそう肌で実感できる。
 バッテリー残量に冷や冷やしながら、それでも小松原というところまでやってきた。自動車修理工場を見つけた。日曜日なのに仕事をしていた。僕は店主にバッテリーの充電をお願いした。いかにも職人気質のような店主は、いかつい顔をニコリともしないで、でも快く引き受けてくれた。

 

 「 日曜日でも工場を開けているんですね。おかげで助かりました 」
 「 日曜日の方がかえって忙しいんよー。うちゃー中古車の販売もやっているけぇーネ 」
僕は気にかかっていたことを店主に聞いた。
 「 安芸津には旅館が二軒あるって聞いたんですが、ありますか? 」
 「 ああ、あるよ 」
 「 そうですか。ありがとうございます 」

 

 ホッとした。選挙事務所のおじさんが言ったことは正しかったんだ。よかった。二軒あれば今夜は野宿をすることもないだろう。海からの風は少し冷たかったけれど、午後になってようやく暖かくなってきた。僕は日向ぼっこをしながら店主と整備士が立ち働いている様子をぼんやりながめていた。さっきまで日本は車社会だ。道路は車だけのためにある、なんてほざいていたのに、僕はこの自動車工場で充電をさせてもらっている。
 結局僕も自分中心の考え方しか出来ていないんだ。そして今度はまた、拾う神に助けられている。目先のことに捕らわれてああでもないこうでもないと右往左往するばかりだ。情けないったらありゃしない。

 1時間が過ぎた。もうこれ以上は無理かなと思いつつも、あと30分だけねばることにした。こうしてああでもないこうでもないと考えていれば、このバッテリー充電時間もけっこう大切な反省時間になる。さあー、そろそろ行かなくっちゃー。僕は店主に充電代がいくらか聞いた。店主は、
「そんなこと、いいよ」と答えた。

 顔はいかつくても、無愛想でも、心は優しい人なんだ。僕は店主に心からお礼を言って出発した。

 

 安芸津の町に着いたときには、もうほとんど暮れかかっていた。気の早いドライバーはヘッドライトを点灯けている。一気に狭くなった国道は昔ながらの宿場町の街道を思わせる。薄暗くて電動車イスではちょっとオッカナイ。

 町一番の大きな交差点の角に、確かに旅館が二軒あった。僕は門構えのある大きな旅館に入っていった。でも今夜はすでに満室だという。ええっ!、こんな田舎の旅館でも満室になることがあるの。

 僕はあわててもう一軒の旅館へ向かった。ここもいっぱいだったらどうしよう。野宿だ。僕は恐る恐る木乃屋旅館の玄関の呼びブザーを押した。奥から若い女将さんが出てきた。空き室はあるという。よかたぁ~っ。でももう夕食は出せない、朝食は大丈夫ですという。ハイッ、それでけっこうです。泊めてさえ貰えるのなら僕には大助かりだった。

 

 僕は部屋に上がる前に外で食事をすることにした。すぐ近くに寿司屋さんがあった。今日は初日だ。無事ここまで来ることが出来た。お祝いだ。ちょっと贅沢をしよう。僕は電動車イスを止めて、杖をついてよろけるようにして店に入った。カウンターにつかまり、にぎり寿司の ” 竹 1200円 ” を注文した。美味しかった。

 

 木乃屋の女将さんは、電動車イスを廂(ひさし)の下の夜露に濡れないところに置いてくれて、壁に埋め込んだコンセントに充電コードを差し込んでくれた。そして僕の荷物を抱えて二階の部屋に案内してくれた。部屋にはすでに布団が敷かれていた。もう階下の風呂に入る気力も体力もなくなっていた。僕は下着をかえて部屋の電気を消して布団の中に入った。
 街道を往き来する車の音が、部屋の中まで響いている。僕は車のヘッドライトが照らす天井を見ながら、今日あったことを思い返していた。何だかこれからの「旅」に起きそうなことが、今日一日で全部起きてしまったような気がする。反省しなければならないこともいっぱいあった。教訓も得た。本当に長い一日だった。僕は今朝この「旅」に出発したのに、それはもう遠い過去のように感じられた。

 

 

3月26日(月)
 今朝は気持ちのいい覚醒(めざめ)だった。昨夜は知らない間に寝入っていた。家ではベッドなのに、畳の和布団はどうかなと心配したけど、途中、トイレに立つこともなく、つるつると眠っていた。これが一番の体力の源だ。そして二番目は食事。朝ご飯は旅館の定番メニューだった。しっかりご飯もお代わりをして。女将さんは他の宿泊客にも甲斐甲斐しく食事の世話をしていた。微笑みを絶やさないその姿が好ましく思えた。女将さんの働く姿で、僕はしっかり元気の素までもらったような気がした。そして僕が街道に飛び出してときも、振り返ったら女将さんはまだ手を振ってくれていた。

 

 今日はお天気もいいし、暖ったかいし。ようぅーし、行くぞぉ。だけど街を出てすぐに、いきなりトンネルが待ちかまえていた。初めてのトンネルだ。ちょっと緊張した。

 そうだよねぇ~、道路にはトンネルが付きものなんだよネ。僕は狭いトンネルの中へすごすごと入っていった。やっぱりトンネルを通るのはちょっとした覚悟がいる。トンネルは夕暮れ時の安芸津町の街中よりもっと危険だ。トンネルの中にはもちろん歩道も路肩もなく、暗くて騒音で耳鳴りしそうで、独特のイヤな臭いがする。後ろの車はちゃんと僕のことを見てくれているんだろうか。僕はこれからどれだけトンネルを越えなきゃならないんだろうか。トンネルはプレッシャーだ。

 

 それでも僕は快調に飛ばし、ようやく竹原市街に近づいた。またぼちぼち充電タイムだ。ホントっ、安心して電動車イスを走らせていられるのは、朝の一時(いっとき)だけだ。常にバッテリー残量を気にしていなければならない。僕の足そのものなのなんだもの。電動車イスが止まれば、僕の「旅」も終わる。

 僕は昔よくアメリカの西部劇映画で見た、開拓者やアウトローたちが荒野を行くとき、たとえ自分たちの喉が渇ききっていても、まず愛馬に水をやっていたのを思い出していた。

 

 竹原の街はあっという間に通り過ぎてしまった。コンビニも見かけなかった。充電できるところがなかった。今どきコンビニもない街ってあるんだろうか。竹原の街を出ると、今度はだんだん山の中に入っていく。丘越えの国道185号線はアップダウンの連続。ガタガタの歩道。さらに充電出来そうなところがない。車は一台もやって来ない。ひとりぼっち。不安と疲労にストレスも加わって、僕の身体は電動車イスのシートの上で傾いてきた。

 

 大きく道路がカーブした先に看板を見つけた。「 バンブー・ジョイ・ハイランド ここを左折 」、竹の公園か。充電できるかもしれない。公園事務所ぐらいはあるだろう。でも国道から外れた脇道はさらに山の急斜面を上っていく。もし何もなかったらどうしよう。バッテリーを食うだけだ。これは賭けだ。行ってみよう。

 それからも深い谷ありのアップダウン続き。10分近くも走ってもそれらしきものは見えてこなかった。失敗したかなぁ。随分とバッテリーを食っちゃったしなぁ。でも今更引き返せない。僕って、軟弱だナ。行くと決めたら行くっきゃないだろうに。ここが我慢のしどころだ。

 さらに山道を進んでいると、やっと丘の高台に広々とした公園が見えた。その中の一番大きな建物へとまっしぐら向かった。「 竹の博物館 」は正面玄関が閉まっていて、中は真っ暗。ちょうど前庭の池の掃除をしている人たちがいた。

 

 「 今日は博物館はやっていないんですか 」
 「 今日は休館日だよ。公園事務所もみんなお休みだよ 」
 「 ええっ。困ったなぁ~。どこかに電動車イスのバッテリーを充電出来るコンセントはないでしょうか 」
 「 博物館の電源からドラムコードを引っ張っとるケー、それでええんじゃったら使いんサイ 」
 「 大丈夫だと思います。ありがとうございます 」

 

 ドラムにバッテリーコードをつなげると、充電ランプが点灯した。つながった。助かったぁー。そうだよね。官公庁は日曜日がお休みだけど、博物館や図書館は月曜日が代休なんだよね。普段はそんなこと気にもしていないけれど、これは大切なことだ。覚えておかなくっちゃ。

 掃除の人たちは市の指定の造園業者だった。休館日だから出くわしたなんてラッキーだったな。僕は賭けに勝ったのかな。途中で弱気を起こすぐらいだから、凄腕のギャンブラーというわけにはいかないネ。トホホだ。

 

 作業員さんたちはお昼になったらしく、お天道さんのあたるところで日向ぼっこをしながらお弁当を食べ始めた。そしてタバコを一服吸って、芝生の上でゴロッとお昼寝。池の水を掻き出す水中ポンプの音だけが騒がしく鳴っている。でもときどきは、春の鳥たちのさえずりも聞こえてきた。僕もうとうと眠たくなってきた。この先札幌に着くまで何度、バッテリー充電にドキドキしなきゃーならないんだろうか。

 

 僕は昨日の経験からいくつかの教訓を得た。

 その1、まずタウンページで調べてその夜の宿の予約をとること。

 その2は、予約連絡が取れないときには必ず3時には宿に入って、確実に一番でチェックインすること。

小刻みな行程でもその方が身体を早く休めるし、長旅は決して無理はしないことだ。

 

 僕は途中のコンビニでお弁当を買って緑の公衆電話に向かった。この分だと今日は三原まで行けそうだ。タウンページの〈簡易旅館〉の欄から二~三軒の旅館を選び出して電話をしてみた。fumifumi さんと i.Tera さんからもらったテレフォンカードが役に立った。でも旅館とは連絡がつかなかった。早すぎたのかな。また後で電話してみよう。電話番号が分かっただけでもよかった。失敗を乗りこえて、僕も少しは進化しているのかな、えへへへ。

 

 ああ、目の前には久しぶりに見る忠海の海だ。キラキラと輝く美しい春の海だ。きれいだなぁ。やっと海の風景を楽しみむ気分になれた。充電の心配がなくって、お腹もいっぱいで、今夜の宿の見通しもつけば、気分も良くなる。現金なものだ。
 瀬戸内の海を眺めつつ安芸幸崎までやって来たらコンビニがあった。僕は血液がどろどろになりやすくて高血圧症なので、水分補給が欠かせない。だけどその分オシッコの回数が増える。

 ペットボトルのお茶を買った。店員さんに店舗の外の壁埋め込みコンセントで充電をさせて欲しいと頼んだら、いとも簡単に ”はいっ、どうぞ ” と言った。僕にすればえらい覚悟で言ったのに、あっけなさすぎて気が抜けた。経営者だったらこうはいかないのかもしれない。
 早速コンビニの緑の公衆電話で旅館に電話をした。三軒目の三原市宮沖のはすい旅館と連絡がつき、予約がとれた。バンザーイっ!。

 でも僕は電動車イスの障害者だとは言えなかった。とにかく宿にたどり着いてから、旅館主に泣きつくつもりだった。こんなズルイ考え方を、はたして進化と呼べるんだろうか。これも「 旅 」の知恵だ。

 僕は安心したせいか、浜風は少し肌寒かったけれど日当たりのよい場所で、電動車イスのシートの上でコックンコックンと居眠りを始めてしまった。寝る子は育つ。これも「 旅 」の知恵で進化だということにしておこう、イヒヒッ。

 

 須波の街が近づくにつれてラッシュアワーの車が狭い道路にあふれだした。追い越し禁止の国道を大型輸送トラックやダンプカーや路線バスに乗用車。その間をぬってバイクやスクーターがすいすいと追い越していく。

 もう三原市だ。買物客や自転車も、忙(せわ)しない。買い物カゴやショルダーバッグ、そして自転車が僕の顔や肩先をかすめて通り過ぎる。タバコを持った手が僕に当たりそうになる。大型トラックやバスのタイヤの高さは、僕の目の高さと同じだ。オッカナくって、たまらない。

 僕は向かってくる人を止まって待っていると、会釈して通り過ぎる人もいるけれど、ほとんどは知らん顔。中にはなんでこの時間に電動車イスが通っているんだっとばかり、にらみつけて行く人もいる。自転車は許せても、電動車イスはダメなのかい? 

 だけど障害者も甘えてはいけない。車イスだからって我が物顔で車道を行くのは周りの人に迷惑がかかる。社会にはルールがある。とにかく障害があろうがなかろうが、人間、お互い様の気づかいが大切なんだ。これは僕自身への戒(いまし)めでもある。

 

 沼田大橋を渡った住宅街のせまい一画に、はすい旅館はあった。看板もないし、うかっとすると見過ごしそうな普通の仕舞屋(しもたや)風の木造旅館だった。声をかけても誰も出てこない。しかたがないから待っていると、ジャージー姿の中年のおばさんが自転車に乗ってやって来た。

 

 「 中田さんですか 」
 「 はい、電話で予約した中田です。よろしくお願いします 」
 「 お待たせしました。どうぞ中に入って下さい 」
 女主人は、電動車イスのことを何にも言わなかった。自転車の前カゴには公明新聞と聖教新聞がぐっすり積み込まれていた。新聞配達に行っていたんだろうか。電動車イスのバッテリー充電をお願いすると、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、自宅玄関の埋め込みコンセントに充電コードを差し込んでくれた。ひとまず安心した。

 

 案内された2階の部屋は八畳の間。部屋の隅にはうっすらと塵が溜まっている。所々壁土がはげ落ち、窓のカーテンも色あせて、糸がちょろちょろと毛玉を作っている。この旅館は開店休業中なのかなぁ。あんまり商売熱心とは言えないなぁ。愛想は良くないしそっけないし。でも親切なところもあるんだから、先入観で人を見てはいけないね。以前は宿泊客でいっぱいだったんだろうか。

 

 昔はこの沼田大橋を渡って三原の街に入るのが、本街道だった。この旅館もかつては木賃宿として大いに繁盛したのかもしれない。交通の流れが変われば人の生活も変わる。時代に取り残されるのが世の中の常なんだろう。
 階下から、お風呂の用意が出来ましたよぅーの声がかかった。僕はよろよろしながら階段を下りて風呂場に入った。自宅と旅館で共有している風呂だった。バスクリンの強烈な香りがした。臭い消しなんだろうか。洗濯機と洗剤は自由に使って下さいと言われた。僕はたまった下着を洗濯機にほりこんだ。

 

 洗濯物を抱えながら杖をついて息を切って階段を上り、自分の部屋に転がり込んだ。呼吸を整えてから反射式のストーブに火をつけ、壁に引っかけてあった紐に洗濯物を干した。それから電気コタツにもぐり込んで、買い置きしていた食パンと豆乳と野菜サラダをかじりはじめた。

 部屋の隅にある布団と毛布の上には、先ほどまではなかったアイロンのかかっていない敷布シーツが折りたたんでポンと置いてあった。今夜の客は僕ひとりみたいだ。経営はちゃんと成り立っているんだろうか。僕は電気コタツにもぐり込んで、あらぬ妄想をしていた。

 

 あっ、そうそう。忘れていた。熊野社会福祉協議会訪問介護センターのヘルパーさんたちに、第一報のハガキを書かなくっちゃー。

 

 

3月27日(火)
 朝、出発の用意をして階下に下りて女主人に朝のご挨拶をすると、インスタントのコーヒーをご馳走してくれた。素泊まりの料金を聞くと、そっけなく、” 3000円です ”。

  バッテリーを充電させてもらって、洗濯機を使わさせてもらって、石油ストーブをつけさせてもらって、朝のコーヒーをいただいて、それで3000円。これでよいのだろうか。そりゃー安いにこしたことはないけれど、僕はまったく恐縮してしまった。僕は女主人に、お世話になりましたのお礼を言って、国道2号線に向けて出発した。

 

 さあー、今日はどこまで行けるだろう。僕は三原市街の朝のラッシュを避けるため、宿を6時半に出発した。空はちょっとあやしい雲行きだけど、できれば尾道でバッテリー充電して福山まで足を伸ばしたい。福山駅前にはビジネスホテルはたくさんあるだろう。福山まで行けたら次の笠岡は楽勝だ。笠岡にはユースホステルがある。明日予約の電話を入れよう。

 三原市内を難なく通り過ぎ、山陽本線をまたぐ跨線橋やバイパスをやり過ごし、糸崎までやって来た。朝早く出発して正解だった。
 僕はまだ小さい子供のころ糸崎に住んでいたことがあった。いや、あったらしい。母がそう教えてくれた。あんまりよく覚えていない。ただ夜の海とお月さんがきれいだったことと、蒸気機関車が一日に何度も、ボっボっシュシュとブレス音をあげて、貨車がタタンタターンと線路を軋ませていたのを覚えている。糸崎は僕にとって懐かしいところだ。その家がどこにあったのかはまったく記憶にない。

 

 9時半に尾道駅に着いた途端、大粒の雨がダダダーッと降り出した。その後すぐにピカぁーゴロゴロとカミナリも鳴り出した。

 いやぁー、危なかった、助かった。カミナリ様は僕が尾道駅に到着するのを待っていてくれたんだろうか。ありがとうございます。
 駅の構内は雨宿りする人たちで、ごったがえしていた。僕は目ざとく改札口横にコンセントがあるのを見つけた。

 僕は駅員が切符検閲が終わるのを待って、
 「 すいません。あのコンセントで電動車イスのバッテリーを充電させていただけませんか 」
 「 ちょっとお待ち下さい 」
と言って駅員は事務室の中に入っていった。

 待っている間、僕は糸崎育ちの尾道の人間だ、旅の者ではありませんと、子供のころに喋っていた広島弁のイントネーションを思い出そうとしていた。

 事務室の中から駅長が出てきた。
 「 どれぐらい時間がかかりますか 」
 「 1時間もやりゃ~、ええと思うんですが。おジャマにならんよう、隅でええ子にしとりますけん 」
 「 くれぐれもお客さんに迷惑にならないよう、動き回らないで下さいね 」
そう言って駅長さんは事務室に戻っていった。ヤッタッー!。僕はアカデミー賞主演男優賞をもらった気分だった。でもすぐに自己嫌悪に陥った。旅の知恵と言え、お前のはただの小悪党の浅知恵だ。

 

 雨は時に小雨になったり大降りになったりしながらいっこうに止む気配はなかった。僕は電動車イスのハンドルに頬づえをついて、改札口を通る人、出迎える人に待ちわびる人、悔しそうに雨空を見上げる人。がやがやと騒々しい観光客や切符の自販機前の人たちの会話に、何となく聞き耳を立てていた。

 ここではいろいろな人生が交錯している。僕はまたはすい旅館のことを思い出していた。これからあの旅館はどうなって行くんだろうか。余計な心配なんだけど。

 

 3時間経過してバッテリーランプが充電完了を告げている。僕は駅員さんにお礼を言って、さっそく駅の食堂で尾道ラーメンを食べた。

 外に出ると雨はまるで冬の氷雨のように降り続いていた。しかたがないから僕はまた駅の待合室に戻って観光案内所の横の狭い場所に陣取った。電動車イスをバックで動かすたびに、ピーッピーッという警告音が駅構内に鳴り響く。みんな一斉にこっちを振える。僕は肩をすぼめて小さくなっていた。

 これからどうするかなぁー。時計は2時半を指している。もうここで5時間ねばったことになる。限界だ。それに今夜の宿のこともある。外は雨だ。福山にはとても行けそうにない。

 

そのとき、観光案内所の受付の若い女の人が、「 休憩中 」の表札を出して、
 「 事に行って来ます。お客さんが来たらすぐに戻ると言って下さい 」と僕に告げた。僕は、
 「 ええ、留守番をしています 」と冗談を言って微笑み返した。
観光案内所の中を見ると宿泊案内の表札があった。そうかぁ、観光案内所では宿泊案内もやっているんだぁ。僕は何だかこの女性(ひと)が助けてくれるような予感がした。休憩を終えて帰ってきてから、
 「 この尾道駅で一番近くて、一番安い旅館はありますか 」と聞いた。
 「 一番近くて一番安い旅館ですね  」 その女性は笑いながら台帳を調べてくれた。
 「 駅の右側の商店街を行った四つ目の角に芝田旅館があります。進行方向の右側ですぐに分かります。

   予約の電話を入れなくても多分空いていると思いますよ 」と、教えてくれた。

 

 小雨がしょぼ降る中、芝田旅館を目指した。途中のショッピングモールで今夜と明日の朝のお弁当を買った。

 そうだ。この手があったんだ。観光案内所ならヘンな旅館は紹介しないだろうし、旅館側もまんざら粗末な扱いもしないだろう。電動車イスだって邪険にはしない。これはまたひとつ勉強になった。

 

 芝田旅館も危うく見落としそうな小さな簡易旅館だった。50代後半ぐらいの女将さんが出てきた。駅の観光案内から紹介されたことを告げた。素泊まりならばと宿泊を引き受けてくれた。雨が降っているので電動車イスは車庫に入れてくれた。充電は駅でたっぷりしていたので必要なかった。2階の一番良い部屋に案内してくれた。この女将さんならきっと観光協会からの紹介をひけらかさなくても宿泊を引き受けてくれただろうと思えた。
 朝からの雨宿りでやはりちょっと疲れた。簡単な着替えをして電気コタツの中に入った。今日はもうお風呂はいい。階下まで下りるのも面倒だ。僕はお弁当をもごもごと食べはじめた。これで良かったんだ。先を急ぐばかりが能じゃない。この旅館に泊まれた幸運を感謝しよう。
 テレビをつけて、明日の天気予報を待っていた。僕は国道2号線に出て、本当に「 旅 」に出たんだという気がした。よくぞここまで来られたもんだ。まだ3日目だというのにもう2~3週間経ったような気がする。熊野町役場福祉課の人たちも訪問看護センターの看護師さんたちも訪問介護センターのヘルパーさんたちも、みんな信じられないだろう。ほとんどぶっつけ本番でここまで来ることが出来た。

 

でももしかしたら、

「 中田さん、そこまで元気なら、訪問看護も居宅介護サービスも必要ないでしょう 」

って言われたらどうしよう? 

 無事に帰ったら帰ったで、援助を打ち切られてしまうかもしれない。今はそんな心配してもどうにもならない。どうにかなるだろう。まずは生きて札幌に着くことだ。

 

 僕はこのとき、ふと、林芙美子の『 放浪記 』を思い出していた。

 尾道は林芙美子のゆかりの地。子供のころから行商をしていた実父(と云われている人)やその後の養父・母親に連れられて旅から旅への暮らしぶりだった。林芙美子は小学校を転々としなければならなかった。そしてこの尾道でようやく落ち着いて、小学校から女学校卒業までの多感な少女時代をこの地で過ごした。それまでは昨日泊まったはすい旅館やこの芝田旅館のような、木賃宿の暮らしだったんだろうか。

 

 〈 私は宿命的な放浪者である。私は古里を持たない…したがって旅が古里であった 〉
「 放浪記 」の書き出し部分だ。ともすれば暗くなりがちな自らの人生を、「 放浪記 」では林芙美子は実に明るくあっけらかんと書いている。

 

 思えば僕の人生も、旅から旅への流れ者だった。僕がまだよちよち歩きだったころ、家業が倒産して父は夜逃げ。親戚を頼って母と二人であっちこっちの旅暮らし。一時僕は遠縁に預けられていた。

 糸崎、三原、尾道に広島市内と転々とした。神戸に住んだこともあるし、瀬戸内海の小さな島に隠れ住んだこともある。
 親子三人がようやく一緒に暮らせるようになったのは、僕が小学校に入学するため引っ越した大阪市西成区山王町。ぎりぎり入学式に間に合った。ここ山王町はその昔知る人ぞ知る、大阪の芸人たちがたくさん住んでいる、人呼んで ” てんのじ村 ” と言われるところだった。僕はそんな浪速の芸人気質(かたぎ)に囲まれて少年期を過ごした。
 小・中・高校は大阪だったけれど、その間、西成区から天王寺区そして住吉区と市内を引っ越しの連続だった。高校に入ったころには、アパートを借りて自活していた。朝から深夜まで、学業よりもアルバイトばかりの生活だった。そして高校を卒業。僕はこれからどうやって生きていけばいいんだろうか。思い悩む日々がずうっと続いていた。

 

 そんなときに癌(ガン)になった。それはあわや死ぬかもしれないという病気だった。人間とは死ぬものなんだということを悟(し)った。もう悠長なことはしていられない。時間がない。僕は決心して写真を勉強するために東京に旅立った。20歳過ぎだった。
 東京ではフリーカメラマンとして寝たきり老人や独居老人の生活記録を取材していた。2年半を過ぎて新たなテーマを求めて北海道に移住した。札幌に自宅兼用の事務所をもって、出稼ぎ・日雇い・季節労働者の写真取材で北海道じゅうを回った。国際障害者年の10年間には身体障害者・難病患者をテーマにして全道を回った。障害者の生活実態を写真取材するためにネパールに行ったこともあった。

 

 香西さんや宮下さんたちと車イスでカナダ横断5000キロを横断する旅にも行った。アメリカ先住民の居住地を取材するためカナダ全土、アラスカ、アメリカ合衆国の各地を回ったこともあった。

 札幌に帰ってからはプロカメラマンを辞めて、いちアマチュアとして新たに出直すつもりで沙流郡平取町に移り住んだ。土木作業員をしながらさてこれからという矢先に重症筋無力症を発症し、縁故もなく友人知人に迷惑もかけられず、泣く泣く断腸の思いで北海道をあきらめ、30年以上ぶりに広島市内の両親宅に帰った。 そして広島大学付属病院で拡大胸腺摘出手術を受け、自宅での闘病生活。身体障害者手帳一種一級が交付され。僕にだってまだ何か出来る。負けてならんっ。そんな思いで今この「旅」に挑んでいる。

 

 僕の古里って、どこにあるんだろう。古里って、何なのだろう。僕にとっては両親の家も古里ではない。青春時代を過ごした札幌の街か。それとも平取町か。それとも今暮らしているこの熊野町か。

 僕はこれまでに間違いなく30回以上は引っ越しをしている。50回に近いのかもしれない。結局は根無し草なんだ。

 僕はその夜、気になっていた『つれづれの部屋』の fumifumi さん宛へのハガキを書いた。

 

 

第2信 広島から岡山へ

 

3月28日(水)

 6時半、朝のラッシュを避けて早朝から出発。天気予報では晴れのはずが薄曇りでまだ気温も上がらず、ちょっと寒い。途中のコンビニでホットミルクとヨーグルトを買う。国道から尾道水道を臨む。かつての尾道の繁栄の象徴だった造船所のクレーンも見えた。大晦日の除夜の鐘で有名な千光寺も見える。さようなら、尾道。そして行って来ます。

 

 松永を過ぎてから急激に腰と背骨が痛くなってきた。電動車イスの車体がいびつに左に傾いたまま無理な姿勢がたたって、筋肉が疲労し身体が硬直し出した。僕は土木作業員をしていたとき、測量もやっていたからよく知っているけど、もともと道路は傾いている。そんなふうに道路は造られているんだ。 

 

 日頃、乗用車で何時間運転していても、道路が傾いていることなんて身体に感じないし気にもかけないだろう。しかし電動車イスで運転しているとちょっとした道路の傾きがだんだん身体に負担を与える。

 歩行者用道路があればいいんだけれど、あっても全然整備されていないし、ガードレールや電信柱や道路標識灯、固定されたカラーコーンなど、電動車イスが通れないところはいっぱいある。またもと来た道まで引き返さなければならないことぐらい情けないことはない。

 そして歩行者用道路に敷設されたコンクリート板。排水溝もかねている。ここにも段差があって、とてもこの上を車イスでは通れない。

 結局は車イスのたの道路行政なんて、何ひとつ行われていない。僕はこの電動車イスの「旅」で、まさに今、身をもってそのことを体験させられている。

 

 ようやくたどり着いた福山の街は目を見張るばかりの近代的なビルが建ち並んでいた。さすが大都会だ。ここは一気に素通りして、東福山あたりまでやって来た。警告ランプがもうボチボチ充電しなさいよと点滅しはじめている。僕の身体も警告ランプだ。
 僕は国道を離れて高台の住宅街に入っていった。勘は見事に的中、大きな団地と公園の一角にあるコンビニを発見した。僕は先ず最初に緑の公衆電話で、笠岡ユースホステルに今夜の予約のための電話をした。誰も出なかった。僕は昼食用に野菜サンドウィッチと野菜ジュースパック、夜食用に角食パン5枚切り一斤と豆乳パックも買った。そしてオーナーに入り口の横にある埋め込み式のコンセントに充電を頼んだ。

 オーナーはしかめっ面しながら、しぶしぶ OKした。ちょっとイヤな雰囲気だなぁと思っていたら、案の定30分ほどして、

 「 もういいでしょっ。他のお客さんが見て真似をしたら困るんでねぇ 」

と言ってきた。有無を言わせない言い方だった。しかたがない。僕はその場を移動するしかなかった。

 僕は心のなかで、” ケチッ!” と声をあげていた。

 

 さてどうしようかとゆっくり周りを見渡していたら、団地の隅に駐在所があった。警察官がいた。僕は警察に物を頼むのはちょっと躊躇(ちゅうちょ)したけど、決心して電動車イスの充電をお願いした。福山東署伊勢浜交番の宮下さんは、50代ぐらいの人で、思いがけない気さくな人だった。

 

 宮下さんは、

 「 パトロールの時間だから、中に入れてあげられんが、外でもええかい? 」
と言って、快く駐在所の中のコンセントに延長コードをつなげてくれた。
 「 どこから来たのぅ 」
 「 福山からです 」
 「 どこまで行くのぅ 」
 「 笠岡まで 」
 「 ええっ!? 電動車イスで良く出かけているのぅ 」
 「 ハイ、慣れていますから 」 
 「 気をつけて下さいよ 」
 宮下さんは信じられんっと顔を横に振りながら、バラバラーとバイク音を響かせて出かけていった。僕は実直そうな宮下さんの後ろ姿に、ウソをついてゴメンナサイを言った。

 

 国道2号線を笠岡に向けてひた走りに走っていた。と言っても時速6キロメートルなんだけど。途中のコンビニで笠岡屋ユースホステルに電話した。ペアレントマネージャーはかなり年配そうなおじいさんの声だった。

 実は僕はユースホステルに宿泊するのはこれが初めてで、ペアレントマネージャーは若い人というイメージがあったんだけど。でも今夜の宿は確保した。後は笠岡を目指すだけ。とにかく早く宿に着きたかった。疲れが溜まってきているんだ。

 大門駅もやり過ごし岡山への県境も越えた。やった! ついに岡山だ。「 これより笠岡市 」の道路標識を見たときはさすがにうれしかった。これから何度県境いを越えることになるんだろうか。その一番目だ。だけど簡単には笠岡の街へ入らせてはくれなかった。手前でけっこう長そうなトンネルが待ち受けていた。

 

 トンネルには歩行者用道路の付いたものもあればただの路肩だけというのもある。歩行者用道路といっても人一人が通れるのがやっとで、ガードレールで仕切ってあったり、縁石の段差で電動車イスが通れないところもある。路肩にはドロや砂がこんもりと固まっているか、ときには空き缶やペットボトルや弁当がらなどのゴミ捨て場になっている。路肩は排水溝と兼用でコンクリート板をはめてある。段差でガタガタ。ドブくさい臭いがモワわぁ~っと鼻を突き刺し、車の排気ガスと混ざってトンネル内は異様な悪臭に満ちている。

 

 新しいトンネルには安全灯があるけど、古いトンネルの中は真っ暗。その暗闇の中を耳をつんざくばかりのエンジン音がゴウゴウと鳴り響く。電動車イスには前方にLEDランプが、後方には赤色のフラッシュランプが取り付けられているけれど、この暗闇ではたしてどれだけの効果があるんだろう。

 軽自動車は対向車があっても僕を追い越して行くけれど、大型輸送トラックだと僕のすぐ後ろで待っている。その間、アクセルをガガガーッと踏み鳴らし、対向車が通り過ぎたら大きなタイヤを僕の顔先でグルグル回転させて、マフラーの排気ガスを僕の全身に吹きかけて走り去って行く。そんなとき、ドライバーたちのチェっと舌打ちする声まで聞こえてきそうな気がする。

 暗闇の前方を注視して、バックミラーで後ろを確認して、目の前の段差や砂やドロやゴミやをよけながらのハンドル操作。ちょっとの油断も許されない。緊張と不安とストレスで腕の筋肉はこわばり、身体全体が硬直してくる。それでも前に進まなければトンネルは抜けられない。

 

 笠岡屋ユースホステルは、駅前の少し寂(さび)れた商店街から、ゴチャゴチャと折れ曲がった裏道を抜けて、古い民家の建ち並ぶその奥の方にあった。軽自動車でも通れそうにない路地裏を捜しあぐねてやっと笠岡屋ユースホステルにたどり着いたときは、もう薄暗かった。
 笠岡屋ユースホステルは僕が予想していたユースホステルとはまったく違っていて、普通の旅館だった。宿主(あるじ)は70代と思えるおじいさんおばあさん夫婦だった。他に従業員はいなさそうだ。

 会員証を提示して宿泊手続きを済ませてから、電動車イスの駐車とバッテリー充電を頼んだ。おじいさん宿主は裏庭の洗濯場に案内してくれて、何台もの洗濯機に接続されたコンセントを示してくれた。これでひと安心。ようやっと2階の6畳の部屋に通されたときには、もう精も根も尽き果てていた。
 部屋で横になって、ぼんやりとテレビの天気予報を聞いていた。そこへおばあさん宿主がポットを持ってきて、何だか客の値踏みでもするかのように僕と僕の荷物をギロっと見た。僕は起き上がってデイパックから押しつぶされた角食パンをとり出し、豆乳でごもごも押し流した。ああ、たくさんはいらない。ちょっとでいいから、何か美味しいものを食べたいなぁ~。

 

 横になって食休みをしていると、またおばあさん宿主がノックもしないでいきなり部屋に顔を出し、
 「 バッテリーの充電は、まだ終わりませんか 」と聞く。
僕はおじいさん宿主に話した説明をもう一度繰り返さなければならなかった。
 「 2時間ぐらいはかかると思います。電気代は100円もかかりません。ご主人にも了解をとってありま   すから、よろしくお願いします 」 
 「 あっ、そうー 」と言っておばあさん宿主は階下へ下りていった。
おじいさん宿主から聞いていなかったのかなぁ。こっちは疲れて口も利きたくないんだから、よろしくお願いしますよう~。
 それからどれくらいの時間が経ったろうか。また今度もノックなしでおばあさん宿主が現れ、充電が終わったか確かめてくれ、コンデンサーがあがらないか心配だと言う。さっき2時間かかるって言ったじゃーないっと心の中で思いながらも、しかたがない、おばあさん宿主を納得させるために、僕は寝床からごそごそ起き出し、玄関から裏庭のほうに回った。夜風が冷たかった。案の定、充電ランプは完了を示していなかった。コンセントを見ると、洗濯機数台分のコードがタコ足状になっている。
 「 自分たちのほうが無茶な電気の使い方をしているんじゃないかっ 」僕は小声で文句を言った。

 

 玄関ロビーまで帰ってきたけれど、疲れて息は切れるし、僕は階段を上がれず、長イスに横たわった。そしておばあさん宿主に宣言した。
 「 一晩中つけっぱなしにすることは絶対にしません。責任を持って電気を切りますから安心して下さい 」

おばあさん宿主はすごすごと自分たちの部屋に引き上げていった。

 僕は、おじいさん宿主がおばあさん宿主に、自分に相談もなく勝手に充電を引き受けたことに腹を立てて、それで八つ当たりしているのかもしれないと感じた。どうもあのおばあさん宿主がこの旅館を仕切っているらしい。見たとこ気が強そうだ。僕の方も充電が完了するまでは本格的に眠れなかった。

 

 そしてまたまたおばあさん宿主が現れ、今度はポットが足らなくなるから持っていくという。さすがに今度だけは温厚な(?)僕も、キレかかった。

 なんだってんだっ! 新しいお湯を持って来ましたというのが当たり前なのに、ポットが足らないから持って行くだトゥ~。ちょっと間違ってんじゃないの。そんなにこの旅館ではポットを用意していないのかい。どうなっちゃってんだ、この旅館は。もし夜中に目が覚めてのどが渇いたときは、どうすんだっ。それとも何かぁ~、僕がポットを盗むとでも思っているのか。ナメんなよっ。僕はありったけの罵詈雑言を心のなかで吐いていた。それでもぐうぅっと奥歯をかんで我慢した。

 時間がきたのでもう一度裏庭に行って、完了ランプを確かめた。充電をフルにしておくことが、明日の行程を確実にする。耐えるしかない。僕は部屋に帰って、ようやく安心して床についた。9時を回っていた。

 

 うつらうつら、僕は布団の中で眠りこけていた。と、そこへ今度はおじいさん宿主がノックをして現れ、サイクリングツアーをしている集団が自転車を裏庭に入れるので、電動車イスを脇に避(よ)けてほしいという。もう10時を回っていた。

 ええっ!、と思ったが、ここはユースホステルだし、これはしかたがない。玄関ロビーでは頭にヘルメットをかぶってサイクリングスーツを着た5~6人の若者が、がやがやと宿泊手続をしていた。

 

 こんな暗くなるまで自転車で国道を走っていたの? 

もともと電動車イスはジャマにならないところに置いてあったのに、ほとんど動かさなくてもいいほどだった。明らかに僕がそのために部屋から降りてきているのを知りながら、サイクリングツアーの若者たちは僕に一言のあいさつもなかった。ホステラーとしてのマナーはどうなっているんだろう。僕はすこし悲しくなった。

  もう何もないだろうと思って、電気を消して本格的に眠りに入った。と、寝入り端(ばな)のそのとき。またもおばあさん宿主が現れ、今度は入り口の襖越しに、
 「 テレビは消して寝て下さい 」と、宣(のたも)うた。

 

 僕は今度こそは頭に血が逆流して、枕を襖の入り口に叩きつけようと持ち上げた。しかし既(すんで)のところで思いとどまった。それでも下ろした枕に拳(こぶし)で殴りつけてしまった。ゴメン、枕さんに八つ当たりなんかして。

 それにしても、今夜はどうなっちゃってんだろう? 何が起きているんだろうか? ふつう、旅館がテレビを消して寝て下さいと、わざわざ部屋まで言いに来るだろうか。これは理不尽なことではないのだろうか。僕のことを障害者だと思って半人前に扱っているんだろうか。僕の考え過ぎだろうか。あのおばあさん宿主をどう理解すればいいんだろう。僕の考え方は間違っているだろうか。

 その夜僕はまったくよく眠れなかった。

 

 

3月29日(木)
 翌朝、僕はこんなとこにはもう居られないとばかり早く出発した。すっごく寒かった。国道2号線に出てすぐにトンネルが待っていた。木立に囲まれたそのトンネルもかなり古そうで、赤レンガ造りの入り口はうっそうと苔むしていた。朝の初っぱなからトンネル越えだ。僕はトンネルの暗闇を通り抜けながら、まだ昨夜のことが胸に突き刺さったまま、心の闇から脱け切らないでいた。

 

 はたして人間て何んだろう。僕はこの「 旅 」で、安浦の林田旅館、安芸津の木乃屋旅館、三原宮沖のはすい旅館、尾道の芝田旅館そして笠岡屋旅館と五軒の旅館を見てきた。人それぞれにはそれぞれの考え方があってそれぞれに生きている。何が正しくて何が正しくないのか。そんなこと、おこがましくってとても僕が言えるもんじゃないけど。

 僕は走りつづけながらも心ここにあらず。どこを走っているのか。まったく覚えていなかった。良く事故を起こさなかったもんだ。時速6キロメートルの電動車イスのてくてく旅。考える時間はたっぷりある。

 この「 旅 」は、僕の人間観察の社会勉強でもあるんだ。緊張と不安とひとり。だからこそ自分が見えてくる。それが僕の「 ひとり旅 」なんだ。

 

 金光(こんこう)までやって来て国道2号線の様相が一変した。ここからは玉島臨海工業地帯になる。高架道路の玉島バイパスが建設中。もちろん自動車専用道路だから自転車歩行者も、電動車イスも通れない。迂回して429号線に出る。この429号線が旧国道2号線だ。そして昔の山陽道の街道でもあるらしい。バイパスと同時にロータリー式インターチェンジが建設中だった。

 休耕中の田んぼや野原をユンボで掘り返し埋め返し。古い道路のコンクリートやアスファルトをはぎ取り。その残土や産業廃棄物を運び出すダンプカーが砂ぼこりと地ひびきを立てて走り回り。ブルドーザーがガーガー、ガトンゴトンとけたたましい音を出しながら、盛り土の転圧をしている。

 

 その建設現場を迂回する仮設道路が造られているけど、歩行者用道路には組み立て式のバリケードとトラロープで仕切られているだけ。ところによってはカラーコーンがポンポンと置いてあるだけのところもあった。

 仮設道路は簡単なアスファルト舗装がされているけど、ほとんどが砂利道。電動車イスの通行は半端じゃなく難しい。誘導員やガードマンも配備されていない。ただ赤い矢印の標識板が置いてあるだけ。何とも不親切な仮設道路だった。ダンプカーや大型トラックが搬入してくるたびに、砂ぼこりが舞い上がり前が見えなくなるほど。目も喉も痛い。

 ここはまさしく工事現場のど真ん中だった。周りを見渡しても僕だけ。そのときようやく気がついた。他に迂回道路があったんだ。僕が見過ごしだけか。工事関係者はまず歩行者はここを通らないし、まして電動車イスがのこのこやって来るなんて思ってもいないんだろう。それにしたってかなりいい加減な歩行者用道路だった。
 あっちこっちへとぐるぐると遠回りをさせられて、ようやく鉄橋の手前の産業道路に出た。その鉄橋も自動車専用道路標識になっていて、800メートルほど上流の老朽化したコンクリート橋を渡らなければならなかった。おまけに土手の一部が歩行禁止で、一旦土手を下りて集落の家並みをすり抜けてまた土手に上がるという回り道。

 僕はいい加減疲れてイヤンなってきた。わずか1~2キロのところをどれだけ遠回りさせられるんだろう。あっちこっち引っ張り回されて。冗談じゃないゾ。何んたる車社会なんだっ。腹が立ってきた。

 同じような高速道路だの産業道路だの何本も建設(つく)って。田畑をつぶして国土を痛めつけて。儲けさせているのはインフラ産業ばかり。使っているお金は国民からの血税。馬っ鹿ぁみたい。そんな道路行政が、いったいいつまで続くの?

 

 高梁川にかかる霞橋を越えれば、後は倉敷駅前まで一本道。だけど見栄えよく赤レンガで敷き詰められた遊歩道は電動車イスにすればただの段差にすぎない。観光都市倉敷だもの、しかたがないんだ。文句も言えない。 
 やっと倉敷ユースホステルにたどり着いて、その建物の景観にびっくりした。打ちっ放しのコンクリート造りでアールデコ調のモダン建築だった。玄関正面の花壇には季節の草花がガーデニングされている。笠岡屋ユースホステルとはえらい違いだ。これこそがユースホステルだと思えた。だけど正面玄関にはカッコいい石組みの階段があって、電動車イスは裏手の駐車場から回り込まならなければならなかった。
 ペアレントマネージャーの中安さんは40歳くらいの男性で、口ひげと顎ひげをたくわえていた。タータンチェックのシャツにイギリス製のようなジャージーのズボンをはいて、ちょっとヨーロッパのアルピニストを思わせる風貌だった。僕は電動車イスのバッテリー充電と、同室の人に迷惑がかからないようひとり部屋の便宜を図ってほしいとお願いしたら、中安さんは快く引き受けてくれた。

 

 中安さんのお話では、ユースホステルには日本ユースホステル協会が運営する直営ユースホステルと、旅館やペンションなどが経営する加盟ユースホステルもあるという。そんなことも知らなかった。

 このユースホステルは倉敷が国際観光都市として注目されたころに建設されたもので、ユースホステルの中でも特に長い伝統があるらしい。

 ヨーロッパでは障害者も旅をすることは当たり前という考え方があって、どんな小さな村のユースホステルもバリヤフリーになっているらしい。日本ではまだまだで、特に倉敷は建てられたのが古くて段差ばかりなんですよと、申し訳なさそうに言った。僕はヨーロッパでは障害者も旅をするのは当たり前というのを聞いて、何だかうれしくなった。

 

 風呂場ではシャワーが使えた。コインランドリーもあった。部屋で反射式の石油ストーブをつけて洗濯物を干した。部屋の窓から見下ろす倉敷の街や山々の景色は素晴らしかった。

 やっと落ち着いた。冷たいコンビニ弁当を食べはじめた。今夜はベッドで眠れる。それもうれしかった。とにかくゆっくり眠りたかった。

 今日も一日、いろいろ考え過ぎで頭の中がぐじゃぐじゃだった。背骨も腰もぎしぎしと痛い。一日ゆっくりする時間がほしかった。手足を伸ばして昼寝をしたい。もう一泊しよう。そう決め込んで僕は2段式ベッドの中にもぐりこんだ。

 深夜、はげしい雨音で目が覚めた。外は暗かった。天が雨を降らせてくれて、明日はお休みにしてもいいよって、言ってくれているような気がした。

 

 

3月30日(金)
 朝になっても小雨がしょぼしょぼと降っていた。窓越しから見える景色は雨に洗われてとてもきれいだった。鳥のさえずりが聞こえる。ウグイスも啼いていた。ゆっくり眠れた。

 やっぱりずう~っと緊張していたんだなぁ~。気分もいい。今日は一日ぼーっとしていよう。何だか今朝は、学校に行きたくなくて親に言い訳をいっぱい考えている小学生の気分だった。

 

 午前8:00。ヤッとばかりに起き出しフロントに行った。女の人がいた。中安さんの奥様だった。おはようございますのご挨拶をしてもう一泊お願いすると、快くいいですよと言ってもらった。これでひと安心。やっぱりコンビニ弁当を沢山買っておいて大正解だった。すでに他の宿泊客は出発していた。広いホールに座って倉敷の街とその後ろの山並みを、ひとりぼんやり眺めていた。僕はこんな静かな時間がほしかったんだ。部屋に引き上げてサンドウィッチを食べていたら、山鳩がデデーポッポと啼いているのが聞こえた。

 

 僕は間違っていたのかもしれない。

あの笠岡屋旅館のお年寄り夫婦にとっては、旅館こそが自分たちの生きてきたことの証しだったんだ。だんだん廃れていく笠岡駅前。何とか笠岡屋旅館の暖簾(のれん)を守りたい。ユースホステルに加盟して、たとえ少しでもお客を呼び込みたい。苦肉の策だったのかもしれない。
 とかくこの世は住みづらい。宿主老夫婦にすれば、一見(いちげん)客には氏素性を見定めて、それなりの扱いをするのは当たり前のことだったんだ。それが生き残りの知恵だ。おばあさん宿主は僕が杖をついて階段を降りるとき、「 気をつけなさいよ 」と声をかけてくれた。決して悪い人ではないんだ。ただ時として旅人を見下すことだってあるかもしれない。それが人間だ。

 

 三原のはすい旅館が廃れていくのは、それはそれでしかたがないことなのだろう。公明新聞や聖教新聞を配って、信仰や宗教活動に心の安らぎが得られるのなら、それでいいじゃないか。他人がとやかく言うことではない。商売繁盛だけが生きがいでもないのだろう。

 

 人間の真の姿なんてまるでよく分からない。世の中の移り変わりに右往左往して、自分ていったいどんな人間なの? 何ひとつとして確かなものはない。そして人間は誰でも必ず死んでいく存在だ。だからこそいっそう我が身が可愛い。でも自分がそうであるように、誰だって自分の一生が大事だと思っている。大切なのはそれをお互いに認め合うということなんだ。

 

 結局のところ「旅」とは人とのかかわり合いなんだと思う。煩わしいこともいっぱいあるけれど、そこから世の中が見えてくる。人間を知る。自分を知る。生きる道標(みちしるべ)をもらう。飛行機や新幹線や自動車で観光地にサッと行って、ケータイ電話で写メールして、高級旅館や豪華ホテルに泊まって美味しい料理を食べて。便利でお金をかけた豪華な旅行。その方が面白くて楽かもしれないけど。

 

 3月25日に熊野を出発して以来、思えば緊張の連続だった。不安なこと、身体や心の疲れ。イライラして何かに八つ当たりすることばっかりだった。覚悟はしていたつもりでも、電動車イスで「 旅 」をして、実際に障害者に対する世間の風当たりに打ちのめされそうにもなった。きれい事を言っても、結局自分の弱さに足掻(あが)いているだけだった。認めるのは辛いことだけど、それが僕だった。

 長い道のり、大阪までは予行演習のようなものだ。僕はまだ北陸に行ったことがない。そこからが「 旅 」の本番だ。ここで良いことも悪いこともいっぱい体験して、心と身体をもっと鍛えて、それを北陸路への糧(かて)にしよう。そう思うことで、ちょっとだけ心が軽くなった。

 

 窓から見える夜の倉敷の風景。繁華街のネオンサイン、それぞれの家々からこぼれている灯火(あかり)。それは心に沁みる美しさがあった。

 

 

3月31日(土)
 朝、雨は完全に上がっていたけれど、薄曇りで風はとても冷たかった。これから春になってだんだん暖かくなると思っていたのに、これじゃアノラックのほうがよかったのかなぁ。厚手の毛糸の手袋をしていても指先が冷たい。2月より3月のほうが寒い。今年は異常気象だ。国道にある気温表示電光板は10度。気温が下がるほどバッテリー消費が早くなる。9時を過ぎてコンビニも見つからず、風がひゅーひゅー吹いて、僕の身体も冷え切ってきた。

 

 我慢して西長瀬までやって来たら、ふとトヨタカローラ岡山自販の営業所が目に入った。従業員たちが正面玄関前や大きなショールーム・ウィンドウを水洗いしていた。その玄関前に「 福祉機器展示中、1階正面玄関ギャラリー 」の立て看板が目にとまった。

 行き過ぎようとしてハッと思った。福祉機器を扱っているならここで充電を頼もう。スズキじゃなくてトヨタだけど。ええい、この際いいことにしよう。

 僕は店内の受付カウンターで案内嬢にバッテリー充電のお願いをした。案内嬢は、
 「 お待ち下さい 」と言って、奥の事務所から責任者らしい男性を連れてきた。
 「 朝からお散歩に出て、バッテリー切れを起こしそうなんです。充電させていただけませんか 」
僕はまたまた大ウソをついていた。
 「 どれくらいかかりますか 」
 「1時間ぐらいかかると思います。おジャマにならないようええ子にしとりますから 」
責任者はギャラリー内の埋め込みコンセントを教えてくれた。

 ショールームの中は暖かくて、僕は居眠りを始めた。心の中で、” トヨタさん、ゴメンナサイ ” を言っていた。そして、” へんっ、中田輝義、いい根性しているよ!” とも思った。

 

 岡山市の中心街にやって来た。さすが大都市、交通ラッシュがすごい。車と人で交差点を通過するのも容易じゃない。有名な岡山城が何処にあったのかもわからずに街を抜けた。

 また充電ランプが点滅し始めた。東岡山駅で充電するつもりだったけれど、保ちそうにない。さっきコンビニ弁当を食べたのに身体はいっこうに暖かくならなかった。コンビニ弁当はけっして心も身体も温めてくれないんだね。

 何とかしなければと思いつつ前方を見ると、東岡山シティーホールという白亜の立派な建物が目に入った。” シティー ” というから公共の建物かと思ったら、それは葬儀場だった。ちょうどその日の葬儀が終わったところらしくて、参列者がタクシーで帰るところだった。僕は少し気が引けたけど、喪服のユニホーム姿の女性職員に、思い切ってバッテリー充電をお願いしてみた。

 

 炉前ホールはすごく暖かくて気持ちよかった。葬儀が終わったばかりで火葬炉の余熱がまだ残っているのだろうか。その余熱で暖まらせてもらっているなんて、ヘンな気分だった。

 僕は電動車イスから長イスに座り直した。すぐに睡魔がおそってきた。ちょっと不謹慎だと思っても勝てず、僕はもうどうでもイイヤと居直って、身体が長椅子に崩れていくのを止めなかった。

 

 たっぷり2時間充電することが出来た。この葬儀場では僕をこの近所の住民と思っているのだろうか。そしていつかはうちのお客さんだと思っているのかなぁ。僕はもうこの長イスで居眠りすることもないだろうし、ここの火葬炉で横たわることもないだろう。これはちょっとおもしろい出会いだったな。僕は事務所にお礼をいって外へ出た。出発する前にもう一度見上げて、豪勢な白亜の殿堂にさようならを言った。

 

 午後3時過ぎに東岡山駅に着いた。東岡山駅は新しく出来た高架線の駅で、まわりには何もなかった。駅前にはビジネスホテルはあるだろうと思ってここまで来たけれど、僕はどうやら勘違いをしていたようだ。失敗したなぁ~。

 しかたがないから次の上道駅へ行っても、ここにもホテルはなかった。駅前のショッピングモールでビジネスホテルを聞くと、岡山駅まで行かないとないという。ええー、ここまで来て、岡山駅まで引き返さなければならないの。僕はガックリきた。どうしよう? 

 駅前に数台のタクシーが並んでいた。タクシードライバーならこのあたりことを詳しく知っているかもしれない。僕は一番年配の運転手に尋ねてみた。

 

 「 確か工事関係者が泊まっているますの旅館というのがあったと思うのう~。

   電話帳で岡山駅前のますのビジネスホテルを調べて、場所を聞けばええんよ 」
 「 そのますの旅館というのは、ますのビジネスホテルの支店なんですか。

   それがこの近くにあるんですね。よかったぁ~」
 「 そうじゃ~。けんど、部屋が空いとるかどうかは、分からんよ 」
 「 ありがとうございました。調べてみます 」
 さすがタクシーの運転手。タウンページにも載っていないことを知っていた。これからは観光案内所だけでなく、運転手さんにも宿を教えてもらおう。

 

 僕は緑の公衆電話で番号を調べて、ますの旅館に電話をした。2~3回かけ直してやっとつながった。電話口には年配の女性が出た。僕は正直に電動車イスで「 旅 」をしている者で、上道駅まできて宿がなくて困っている。旅館に迷惑はかけませんから、素泊まりで一晩泊めて下さいとお願いした。女将さんは、
 「 じゃー、おいでなさい 」と言って、旅館の場所を教えてくれた。
ああ、助かった! 僕は運転手さんにお礼をいった。
 「 よかったのう~。気をつけて行きんさい 」
運転手さんは、そんなこと何でもないことよと、ケロっとした表情で答えてくれた。

 

 ますの旅館は、ここから小1時間ほど岡山に戻った藤井というところにあった。近くにあったコンビニで弁当を買った。ますの旅館は普通の住宅を旅館に改築した、土木作業員たちのための長期滞在型のビジネスホテルだった。

 女将さんは洗濯物干場に電動車イスを置かしてくれた。そして帳場に戻ってさっそく料金交渉。普段は一泊二食で4800円だけど4000円プラス充電代200円でどう?と聞いた。否応が言える立場ではなかった。

 女将さんは作業員たちが帰ってくる前に風呂をすすめてくれた。僕が風呂から上がったら、入れ替わりに作業員たちがドヤドヤと風呂場に入ってきた。帳場も食堂もごった返していた。もうまるで飯場だった。女将さんは男連中に、ああしなさい、それはダメっと、まるで親方口調で叱り飛ばしていた。そして賄いのおばさんさんたちにもてきぱきと采配を振るっていた。その口調がとても小気味よかった。

 

 女将さんはもう60代ぐらいだろうか。時おりハッとするよう徒(あだ)な色気がただよっていた。しかし決して下品ではない。帳場に座っている様(さま)は、実に堂々たる女将ぶりだった。

 昔はもっと目を引くような美人だったんだろう。ずうっと水商売で生きてきた女性なんだろうか。全国各地を渡り歩いて男出入りもあって浮き名も流して。人生の酸いも甘いも噛みしめて。そして今は二軒の旅館の経営者に収(おさ)まって。僕はそんな失礼な妄想を膨らませていた。でも女将さんの姿には、私はこうして生きてきたんだという自負心と誇りすら感じられた。

 食堂で飲んで騒いでいたお客たちも、9時30分になったらサッとそれぞれの部屋に引き上げた。テレビの音を大きくするでもない、飲んで騒ぐわけでもない、物静かだ。工事現場の作業員として働いていてもその辺りのマナーはちゃんと心得ている。それもあの女将さんの躾(しつ)けがいいからなのかしらん。

 

 僕は今夜の宿は、勝ち取ったという気がする。いろいろ失敗や勘違いもあったけれど、正直にタクシーの運転手さんにも、ここの女将さんにも事情を話したのが良かったんだと思う。だから天が味方をして、この旅館に導いて下さったんだ。ありがとうございました。
 今日も一日、いっぱいいろんなことがあった。本当に危なっかしいことばかりだったけれど。そう言えば熊野を出発してまる一週間だ。でももう一ヶ月も過ぎたように感じられる。時間の感覚って、不思議だよな~。明日から4月だ。

 

 

第3信 神戸が射程に入った

 

4月1日(日)

 ますの旅館を朝6時に出発。今朝も強烈に寒かった。近くのコンビニで温かいコーンスープ缶と野菜サラダで朝食。そして昨日引き返した上道駅前まで戻って来た。タクシーはいなかった。ここで宿を勝ち取ったはずなのに、何故か損をしている気分になる。人間て勝手なものだ。

 

 予定が狂っちゃったけれど、今日の行程は午前中目いっぱい飛ばしてJR赤穂線のにしかたかみ駅でバッテリー充電。駅は日曜祭日は関係ないだろう。そして海岸線に沿って日生(ひなせ)で宿泊。タウンページでは日生にかくい荘という旅館がある。10時過ぎに早目の予約電話を入れよう。距離は約30キロメートルほどだけど、途中には赤穂線の駅もあるし、何とかなるだろう。よし、飛ばすぞ!
 天気予報では夕方から雨のはずなのに、八時を過ぎたらポツリポツリと降り出した。ウィンドブレーカーにも雨粒が浸み出した。寒い。身体がかたかたと震える。電動車イスも寒いのかして今いちスピードに乗らない。セニヤくん、がんばれ、風邪を引くなよ。

 

 備前大橋を越えたところでサービスエリヤがあった。広い駐車場の一角には、大きなのぼり旗をいっぱいに立てて魚の直売市場が開催されていた。でもまだ開店前。自動販売機コーナーがあった。僕は目ざとく壁に埋め込まれた電気コンセントを見つけた。あそこなら雨露をしのげそうだ。問題は電気が通っているかだ。僕はそうっと電動車イスから直接コードを差し込んでみた。点滅した。ヤッタ、万歳っ! さて今度はどこで誰に許可をもらうかだ。と、そこへ、5~6人の清掃のおじさんたちがやって来てカラーチェアーにどっかと腰をかけてタバコを吸いはじめた。休憩時間らしい。僕はまとめ役らしいおじさんに聞いて見た。

 

 「 すみませ~ん。このコンセントでバッテリーを充電してもいいですか 」
 「 ああ、いいと思うよ。でも電気が来ているのかいな 」 僕は一旦抜いて改めてコードを差し込んで、
 「 ああ、来ていますっ 」と、歓喜の声をあげた。わざとらしいなぁ~、反省っ。
 「 よかったのう 」

おじさんは自分たちの会話に戻っていった。


 僕は充電代のつもりで自動販売機に100円コインを入れてホットココアを飲んだ。温かくって甘くってとっても美味しかった。この間にも引っ切りなしに車はやって来て、トイレに行ったりプラスチック袋をゴミカゴに投げ捨てたり自動販売機で缶コーヒーやペットボトル入りのお茶を仕入れたりして、またあわただしく国道に消えていった。世の中の人はみんな、忙しそうだ。まとめ役のおじさんは自分たちの話に飽きたらしく、今度は僕の方へ矛先(ほこさき)を向けてきた。

 

 「 その車イスがあったら、楽じゃろう? 幾らぐらいするもんなんじゃ~ 」
僕は充電のお礼もかねて、セニヤカーの価格や性能、充電時間や走り方などを丁寧に話した。車イス障害者への理解を深めてほしいという気持ちもあったけれど、何だかスズキ・セニヤカーの全国出張販売人になったような気分だった。

 掃除人のおじさん方は、
 「 よし、片付けてしまおうか 」と言って、自分たちの仕事に戻っていった。最後に、
 「 わしらもいずれは、こんな車に世話にならにゃ~ならんようになるんじゃのう~ 」
 「 こうして元気で働けるうちが、華(はな)よ  」と言った。
 「 え、そしたら僕にはもう華がないということ? あのねぇ~、おじさん方、車イスの障害者になったっ

  て華はあるもんですよっ 」僕はそう言いたかったけれど、やめた。

 

 寒さに我慢しながら1時間ぐらい充電したけど、空模様はますますあやしくなってくる。どうやら日生まで行くのは無理だ。宿を見つけなければ。にしかたかみ駅前に旅館はあるだろうか。そこまで空が保つだろうか。とにかく行ってみよう。ああ、いつだって宿と充電の心配ばっかりだ。

 

 やっぱり相当冷えてきているんだろう。出発してまもなくバッテリーランプが点滅しはじめた。おまけにポツリ雨だったのに、シャーシャーの小雨になってきた。薄いウィンドブレーカーはビチャビチャになって、手袋も雨水を含んで指先が冷たい。そうなんだよな~。道路にトンネルが付きものなら「旅」には雨も付きものなんだよ。雨合羽も用意していない。

 僕は山陽新幹線の高架下の道路なら、多少は雨が凌げるかもしれないと脇道を曲がった。高架下には道路がなくってフェンスで仕切られていた。今度は国道に戻れる道がない。そのまま裏道を進むしかなかった。雨足は一段と激しくなってきた。参ったなぁ~。と、そこへ突然細い脇道から、農家風のおじさんがひょっこりと現れた。

 

 「 このあたりに旅館はありませんか 」 僕は気がせいて早口で言う。
 「 旅館は、ねえ~のうぅ~ 」おじさんは、ゆっくりと、答える。僕はこのテンポに気が抜けた。
 「 ないんですかっ 」
 「 旅館は、ねえ~がぁ~、この先にぃー、ビジネスホテルなら、あるどうぅ~ 」
あのねぇ~、おじさんっ。それを先に言ってようぅ~。
 「 どうもありがとうございましたっ 」
 「 気ぃつけて行きんサ~イ 」

 

 何か、ヘンなおじさんだなぁ~。出発の日の朝に熊野の大峠で出会った、あのおばあさんを思い出した。
こんなところにビジネスホテルがあるなんて驚きだけど、助かった。でも部屋が空いているんだろうか。ひとつ済んだらまた次の心配をせにゃならん。とにかく先を急いだ。

 まもなく集落が見えてきた。狭い曲がり道を回り切って視界が開けたら、突然高台の上にさらに天を衝(つ)くような七階建ての白い豪華なホテルが現れた。どうしてこんな片田舎にこんな白亜の御殿のようなホテルがあるんだろう。宿泊料金は高いんだろうか。そんな心配をしている場合か。肝っ玉の小さい奴め!

 

 僕は広い駐車場の奥の正面玄関を一目散に目指した。そのホテルはトービ・ビジネスホテルといった。全面ガラスの玄関ドアーは自動式だった。雨で濡れたままでは気が引けた。セニヤくんを玄関口で待たせたまま、よろける身体を杖で支えながらふわふわジュウタンを踏みしめてロビーに入った。シャンデリアなどの玄関照明はまだ点灯されていなくて薄暗く、フロントには誰もいなかった。たとえ雨でずぶ濡れになっていても、尾羽打ち枯らしたように見られたくない、このホテルに気後れしてなるものか。毅然としてチェックインに臨むのだ。反面泊めてくれるだろうかという心配もあった。僕は背筋を伸ばしてフロントベルを鳴らした。奥の事務室からタキシード姿のフロントマネージャーが現れた。

 

 「 こんにちはー。僕はあの電動車イスで『 旅 』をしているんですが、今日はこの雨でもう先には進めま

       せん。予約も何もしていませんが、一泊お願い出来ますか 」
マネージャーは、シングルの空き部屋があるけどチェックインは3時だという。まだ1時間以上ある。
 「 ここで待たせてもらってもいいですか 」
我ながら、やはり切羽詰まった声音だったように思う。マネージャーは僕と電動車イスと両方を見て、何か事情を呑み込んだようにコクンと頷いた。そしてエクステンション・コールでメードルームを呼び出した。
 「 3階のシングルルームでしたら、お掃除が終わっているそうです。一泊6300円で夜食のサービスは

        行っておりません。朝食は和食洋食とも800円です。よろしいですか 」
 「 それで結構です。でもチェックイン前に入室すると、追加料金が要るのでは? 」
 「 サービスにしておきます 」
 このとき、フロントマネージャーはにッと笑った。僕もありがとうの気持ちを込めてにッと笑い返した。このフロントマネージャーはプロフェッショナルだなぁと思った。フロントマネージャーはロビーの奥にあるコンセントを示してくれた。セニヤくんのボディーをタオルできれいに拭いてあげた。部屋に入って濡れた衣服を脱ぎ捨てたら、張り詰めていた気力がパチンと切れて、へなへなとソファーに崩れ落ちた。それを待っていたかのように雨がダダダダダーッと、いっそう激しく降り出した。僕は身動きもままならず、ただぼう然と雨音を聞いていた。

 

 しばらくしてシャワーを浴びた。たまっていた洗濯もすることにした。バスタブにお湯をいっぱいに張って、そこへ洗濯物といっしょに小さな石けんも袋のシャンプーもリンスも全部放り込んで、身体ごと洗濯した。ジャバジャバと洗っているのか遊んでいるのか。狭いバスタブで悪戦苦闘。でもこの方法が一番手っ取り早い。

 僕は握力が弱く大物は手で絞れないから水が滴るまま浴室にぶら下げた。シャツはエアコンを「 強 」にして吹きだし口に引っかけ、パンツは電気スタンドの上に乗っけた。やっぱり紐と洗濯ばさみを持ってくるべきだったなぁ。

 洗濯が終わったときにはゼーゼーっ、ゼーゼーっ。今にも息が止まりそうなぐらい苦しかった。自分でもよくぞこここまで出来たもんだと思う。いつも洗濯はホームヘルパーさんに頼り切り。自分で手洗いなんかしたの初めてだった。これも「 旅 」に出たお蔭かも知れない。出発前にメール仲間の i.Tera さんが、” 夢への計画で、奇跡的に体力が回復されるかもしれないとも思うし、、、” と言っていたけれど、まさに予感的中だ。さすが i.Tera さん!

 

 僕はこれからの日程を考えてみた。明日は日生(になせ)を通り過ごして赤穂泊まり。そのまま250号線で室津(むろつ)の淨運寺ユースホステル。お寺さんのユースホステルってどんなところだろう。朝夕の勤行をやらされるんだろうか。

 次は姫路か高砂あたりのビジネスホテルに泊まろう。その次は垂水(たるみ)のユースホステル。そして次の日には、神戸だっ。神戸が射程に入った。何だか楽しくなってきたぞ。

 それにしてもお腹が空いたなぁ~。考えてみれば今朝出かけに食べたサンドウィッチとコーンスープと途中のココアだけだった。雨で食事どころじゃなかったもんなぁ。明日の朝はホテルの和朝食だ。それまで我慢だ。でもお腹が空いて夜眠れるのかしらん。トホホっ。
 僕は熊野社会福祉協議会訪問介護センターのヘルパーさんたちと、fumifumi さんにハガキを書いた。


4月2日(月)
 朝ご飯が待ち切れなかった。お腹の皮が背中にくっ付きそうだった。6時に目が覚めて、朝食時間の8時まで。それはもう拷問だった。7時45分になって待ちきれず僕は一階の食堂に向かった。ロビーにポツンとセニヤくんがいた。
 「 おはよう。よく休めたかい? 」 食堂には誰もいない。一番乗りだ。昨日のフロントマネージャーではなく、夜勤明けのウェイターが現れた。僕はおもむろに、「 朝定食和食¥800ー 」の食事券を差し出した。態度は大様に構えているが、実はアセっている。早くお膳を持ってきてくれェー! 

 やがてウェイターはゆるやかに優雅に僕のお膳をテーブルにセットした。僕もゆるやかに優雅に箸を進めるつもりだった、けど、ご飯とみそ汁のほのかな香り、生卵に味付け海苔に、鮭の切り身の焼いたのに、筑前煮と山菜のおひたしに大根のお漬物を見たとき、僕は完全に理性を失った。

 うんうんうんっ、ほむほむほむ。ご飯の三杯目もお代わりしようかと迷ったけど、さすがにそれは押しとどめた。これこそが朝ご飯だ。今朝の朝ご飯は、本当に良い朝ご飯だった。

 

 JR赤穂線伊部駅から国道250号線へ。備前市街も抜けて、僕は瀬戸内の海岸線を快調に飛ばしていた。少し寒いけど、海はきれいだし、走れ走れの気分だった。

 

 日生は古い歴史の漁港を持つ宿場町だった。古代から沿岸航海による中継港として栄えた。日生の町に着いたのは10時過ぎ。ぼちぼちセニヤくんにも僕にも充電タイムだ。僕はどこぞにコンセントはないものかと探し回った。でも町役場の出張所も郵便局も見当たらない。寂しげな商店街にはコンビニすらない。果たして今の世の中にコンビニがない町など存在するのか。

 漁協組合の建物の入り口には何段もの階段。門前払いを食らった気分がする。港に回ったら管理事務所があった。魚釣りをしている人に聞いたら、今日は月曜日でお休みという。この町を当てにしていたのに困ったなぁ。

 僕は岬のほうに大きな建物があるのに気がついた。どうもレストランのようだ。そっちへ回ってみようと思って、ひょいと、くい打ちされた板書きの看板に『 浜っ子作業所 』と書かれているのを見つけた。へぇ~、小規模授産所があるんだ! 

 

 その作業所は一棟建てのプレハブ住宅で、ちょっと見、自治会の集会所のようだった。20~30人くらいの人たちが忙しそうに立ち働いていた。野菜や山菜を洗って塩漬けにしてプラスチックの桶に漬け込む人。アルミ缶やブリキ缶を資源ゴミを分別する人。軽トラックから山積みされた段ボールを下ろして、ビニールひもで結わえて小山のように上へ積み上げている人。みんな段取りよくテキパキと威勢よく動き回っている。それはちょっとした産業廃棄物工場みたいだった。僕はその工場の中へ飛び込んだ。

 

 「 こんにちはぁ~ 」 

30代半ばの女性が駆け寄ってくれた。
 「 何でしょうか 」
 「 僕は電動車イスで『 旅 』をしている者なんですが、バッテリーの充電をさせていただけませんか 」
その女性は山本珠恵さんといった。山本さんは建物の中の作業室から延長コードを持ってきて、コンセントに差し込んでくれた。
 「 何にもお構い出来ませんが、ゆっくりしていって下さいね 」
そう言うと、山本さんはまた仕事に戻っていった。笑顔がさわやかな女性(ひと)だった。

 

 その間にも次々と軽トラックで空き缶や段ボールが運ばれてくる。積み荷が降ろされるたびに、それっ!とばかりにみんなで仕分けに取りかかる。仕事の分担や段取りがよく徹底されていて、見る見るうちに次々と片付けられていく。すうっごいなぁ~! 僕は圧倒されていた。

 働いている人たちをよく見れば、若者もいるけど中年っぽい人もいる。どうやらお父さんお母さん方と一緒になって作業をしているようだ。わいわいがやがやと楽しそう。

 作業室の方ではお箸の袋入れや紙箱の組立作業がやられている。作業所自家製の漬物をパック詰めしている人もいた。

 そのうち休憩タイムになった。ポットと湯飲み茶わんとお菓子が回りはじめた。山本さんがインスタントコーヒーとお茶菓子を持って来てくれた。お日様が工場の中庭を照らしているけど、まだまだ寒かった。冷えた身体に温かいコーヒーが沁みわたるようだった。

 

 山本さんに『 浜っ子作業所 』のことを聞いた。義務教育や養護学校を卒業しても、働く場所も行く当てもない知的障害や身体障害の子供を持つおとうさんお母さん方は、我が子の行く末が心配でならなかった。私たちが死んでしまったらこの子はどうなるんだろう? みんなで父母の会を立ち上げこの『 浜っ子作業所 』を設立した。山本さんもそのひとり。

 

 最初のころは地域の協力も理解もなかなか得られなかったけれど、段ボールや空き缶のリサイクル運動をする中で、徐々に賛同者が増えて、今ではこのあたり一円にリサイクルステーションのネットワークが出来るようになった。決められた曜日に父母の会のメンバーやボランティアの人たちが、各ステーションを回って集配しているんだそうな。これが作業所運営の大きな資金源になっているとも。今では創立メンバーの一人を議員として市議会に送り込み、山本さんをはじめ3人のお母さんが専従として勤務出来るまでになった。

 

 そしてこのプレハブ住宅を建て、やっと念願の社会福祉法人の認可が下りて、備前市から援助金が出るようになったそうな。ここに至るまで、お父さんお母さん方のどれほどの汗と苦労と涙と熱意があったことだろうか。僕は心の奥から感激した。

 どこの町にも障害者はいる。こんな片田舎の日生でも人の目に見えづらい大都会でも、障害者は懸命に生きて働いている。それがどれだけ尊いことか。僕はたまたま看板を見かけてここにやって来たけど、何かに誘(いざな)われたような気がした。僕はこの場にいることをとても光栄に感じた。僕も負けずに必ず無事に札幌に着いて見せるぞっと、改めて心に誓っていた。

 

 福浦峠までやって来た。小さな峠だけど兵庫県との県境だ。江戸幕府のころはこの峠が藩(くに)と藩(くに)とを隔てていた。峠が国境だった。次の町に入ったら明らかに言葉が違っていた。関西弁だ。峠とは不思議なものだね。あらためて峠とは何なんだろうかと思う。
 赤穂の街に入った。有名な赤穂の城を見たいとも思うけど、僕の身体がそれを許してくれそうになかった。駅の観光案内所で、一番近いホテルニュー浦島を紹介してもらった。早く休みたかった。

 

 

4月3日(火)
 この日の朝も、めちゃくちゃ寒かった。赤穂の街を離れると国道250号線は川の土手の上を走る。その先に橋があった。坂越橋と書いて ” さこし橋 ” と読むらしい。確かにそこから急な上り坂になった。高速道路並の新しい道だけど、狭い路肩だけで歩道がない。大型輸送トラックが黒いもうもうとした排気ガスを吐き出し唸りながら登って行く。さらにその奥は山また山。この坂道を越えなきゃならんのかぁー。僕は頭もうなだれて、寒々とした気分でこの坂道に電動車イスを進めていた。
 それからもずうーっと上がったり下がったりの山道の連続だった。寒くて身体も小刻みに震えてくる。手足の指の感覚も失せていた。僕はバッグからタオルを抜き出して、農作業のおじさんのように頬被(ほおかぶ)りをして寒さをしのいだ。それでも寒くてキーンという頭痛に襲われた。

 

 僕には風邪が大敵だ。僕の内服薬のプレドニゾロンはステロイド剤の一種で、免疫力をゼロにする。雑菌などにはまったくの無抵抗で、風邪を引くとクリーゼ(呼吸困難)を起こし、命取りになりかねない。僕は今まで三度クリーゼを起こし、ICU(集中治療室)で気管支切開、長期間の人工呼吸器の治療を受けている。寒さや疲労やストレスがいちばんの大敵だ。プレドニゾロンはとても良く効く薬だけど、その分沢山の強い副作用を持っている。でも止めることは出来ない。僕の命の綱なのだ。この間も大型トラックや乗用車がスピードを上げてバンバン通り過ぎて行く。トンネルを除けばこの峠越えが今までで一番つらいものになった。

 

 ようやく相生(あいおい)の街が見えて、工和橋(こうわばし)という交差点を右折したところに大きなスーパーマーケットがあった。開店したばかりで、店員さんたちが大忙しで陳列ケースや棚の品揃えをしていた。僕は缶入りの熱いコーンポタージュを飲んだけど、身体はいっこうに暖まらない。スーパーの中自体が寒いんだ。そうだよね。スーパーの中を暖房していたら、肉や魚や野菜はダメになっちゃうもの。それでも外よりましかと思い、案内係の女の人にバッテリー充電のお願いをした。その女性は一番はじのレジにあるコンセントを教えてくれた。

 これでひと安心だけど、背筋のぞくぞく感は取れなかった。30分ほどしたら朝のお買い物のお客さんで立て込んできた。レジの女の子たちが僕の様子をちょこちょこと伺っている。これ以上迷惑をかけられないと観念して、お礼をいって外に出た。外はスーパーマーケットの中と同じくらいに寒かった。

 

 寒さと疲労で身体が硬直している。どこか暖ったかいところで眠りたい。相生湾からの冷たい海風がひゅーひゅーと吹いていた。しばらくすると大きな公園があった。「 相生市立図書館入り口 」という看板を見つけた。今日は火曜日。図書館は開館している。図書館で暖まろう。図書館の玄関前まで行くと、まだ開館時間前だった。しかし開館日だ。僕はお天道様が当たっているところで待つことにした。ようやく玄関ドアが開いた。待ちかまえていた数人の後に従った。受付で関西弁まる出しの相生市民をよそおって、本の閲覧とバッテリー充電を申し込んだ。代わりの車イスを用意してくれた。僕は何食わぬ顔で書架から2~3冊の本を抜き取り、閲覧コーナーに陣取った。これで暖かい館内でゆっくり眠れると思った。なんという厚顔無恥な奴っ!とは、思わないことにした。でも心の中では相生市立図書館にお礼を言っていた。

 

 図書館を出て相生大橋を渡っているとき、急に空腹を感じはじめた。今朝食べたのは昨日の残り物のおにぎり2個だけ。どこまで行っても宿と充電と食事が心配事の三種の神器だ。相生の街を出て狭い国道を行けども、その先の工場地帯を行けども、コンビニもスーパーも見つからない。お腹空いたなぁ~。工員さんたちのためのコンビニか食堂ぐらいはありそうなもんなんだけど。

 

 やがて瀬戸内海の美しい風景が見えた。地図帖によると、はりまシーサイドロードというらしい。道路脇の松の枝の緑と海の青さのコントラストがとても美しい。岬の突端に出るとまた次の遠くの岬の突端まで湾曲した入り浜が続いている。その繰り返し。今まででいちばんきれいで雄大な風景だった。多分明日からは関西の大都市圏に突入する。こんな瀬戸内の風景はこれで見納めだ。僕はしばし電動車イスを止めてその景色に見惚れていた。崖の下から吹き上げてくる海風はとても冷たい。気分はいいけど、お腹は空いた。コンビニはない。

 

 やっと人里に下りて来たら、道路端に「生かき」ののぼり旗を数本立てた水産加工所があった。生カキかぁ、美味しいだろうなぁ。胃袋が刺激されたのか、ますますお腹が空いてきた。さらに下ると今度はカキ料理専門の高級料亭があった。パスした。僕は食事から見放されたという気分になってきた。

 いよいよ諦めかけていたとき、船着き場のある大きな魚加工場があって、その隣の2階に「 漁師料理 海宝 」という食堂があった。僕は作業中の若い男の子に食堂の人を呼び出して下さいと頼んだ。そうしたら工場の中からゴムの胸当てにゴム長靴姿の女の人が出てきた。この工場の女主人で食堂の女将さんだという。女将さんは僕の電動車イス姿を見て、びっくりしていた。作業員たちも一斉にこちらを振り向いている。

 

 女将さんは、「 当店(うち)の自慢は新鮮な魚介とお好み焼きだ  」と言った。でも僕はご飯粒が食べたかった。魚定食とあなご丼が出来るけど焼き魚は時間がかかるという。僕はあなご丼にした。待っている間に充電させてほしいと頼んだら、ホイきたっ!とばかりに僕を工場の奥の方へ案内してくれた。

 工場には男連中に混じって、女の人たちも沢山働いていた。みんな興味津々といった表情で僕のことを見ている。電動車イスの障害者を見たことがないのかなぁ~。僕はここで電動車イスに座って海を眺めながらあなご丼を食べたいと女将さんに告げると、

 「 なるほど、そのほうがイイネ。それも粋狂! 」と笑いとばして、コードをコンセントにつないでくれた。

 

 この工場では夜に前海で漁をしてこの船着き場に荷揚げしてすぐに加工するらしい。働いているのはこの近所の漁師や若者や主婦たち。あの女将さんというか、女主人が水産会社を立ち上げて近郷の人たちを雇い入れ給料を払ってみんなの生活を守っているらしい。女傑だ。大したもんだ。やっぱり自信を持って仕事をしている女の人の表情は、化粧っ気がなくても美しく輝いている。
 やがて2階から白い割烹着姿の板前さんがあなご丼を持ってきてくれた。みそ汁も付いている。僕はがっつきそうな自分をおさえて、一粒一粒ご飯を噛みしめるようにして食べた。

 

 「 お兄さん、どっから来たん? 」
 「 広島から 」
 「 ええっ! この車イスでぇ?! よ~う来たねぇ~。 どこまで行くん? 」
 「 大阪まで 」
 「 えええっ! 何しに行くん?」
 「 友だちの病気見舞いに 」 女将さんは僕の顔をじいーっと見つめなおした。
 「 みんなぁー。このお兄さん、友だちの病気見舞いに大阪まで行かはるんやとぅ~ 」
 またみんなが僕のほうをいっせいに振り返った。今度僕を見る目つきは、さっきとは違っているように感じられた。僕は申し訳ないけど札幌まで行くとは言えなかった。女将さんが小さなお椀を持って出てきた。
 「 今天日干しで仕上がったばかりの玉筋魚(いかなご)を食べんちゃい。おいしいよぅ~ 」
 お椀に山盛りの白くてきれいな魚は、いっぱいに海の香りがした。しょう油を付けなくても、そのままでと
っても美味しかった。これは海からの賜り物だ。ここまで空腹を我慢してきたからこそ与えられた恵みなんだ。僕は両手を合わせて ” ごちそうさま ” をした。僕は女将さんに、
 「 ありがとうございました 」の握手をした。女将さんは道路まで出てきて、
 「 気をつけて、がんばってぇー! 」と大声を上げながら大きく手を振ってくれていた。

 

 室津はその昔、室の泊(むろのとまり)と呼ばれた古代から沿岸航海の重要な湊として栄えていた。岩見港の名前の通り岩山に囲まれた小さな港だけど、岸壁はとても立派でまさに天然の良港だった。さぞかし往時には北九州からの交易船で賑わったことだろう。室津には立派な神社とお寺がたくさんあった。近在の船持ち旦那衆が寄進したものらしい。

 

 そんな中でも淨運寺はあの浄土宗開祖の法然上人とも縁の深い古刹(こさつ)だと聞く。僕はそんな古刹がユースホステルに加盟していることにすっごく興味を持っていた。朝夕の勤行(ごんぎょう)があるんだろうか。ご住職の講話か法談を聞かせてもらえるんだろうか。実は僕はまだ予約の電話をしていなかった。勤行よりも講話よりも、果たして部屋が空いているか。予約客でいっぱいだったら、本堂の端にでも寝かせてもらうしかない。

 

 清涼山淨運寺は、室津の町の細い路地や低い軒下を通り抜け、小高い山の中腹にあった。山門まで20~

30段の石段を登らなければならない。信者たちは仏様のお顔を拝むために、この階段をふうーふぅー、息を弾ませ登ったことだろう。僕もそうしなければならなかった。ここからは岩見の港も町並みも播磨の海も一望に見渡せた。玄関で、こんにちはーっと叫んだら、ご住職の奥様らしい50歳ぐらいの女性が奥から出てきた。僕が、
 「 今夜の宿泊をお願いします。予約なしで、申し訳ありません 」
と告げると、奥様はまったく予期していなかったという驚いた表情をされた。逆に僕は今日は誰も宿泊客はいないんだなと察知した。安心した。

 

 それから奥様はドラムコードを2本用意して、およそ50~60メートルぐらい石段下に駐車(とめ)てある電動車イスにつないで下さった。ごめんね、セニヤくん。今夜ここに置いていくけど、知らないオジサンに声をかけられても、付いて行くんじゃないよっ! 

 玄関横の控えの間でしばらく待っていると、奥様から、
 「 用意が出来ました 」と告げられた。僕は暗い本堂のご本尊様に両手を合わせてから、奥様にしたがって2階の和室に入った。息が切れた。奥様は、
 「 お風呂の用意ができたら、お知らせします。今日はお食事の用意を何もしていなくて、家族と同じものし

   かお出し出来ないんですよ 」と言われた。
よろしくお願いいたしますと答えた後で、勤行の時刻は何時でしょうかと聞こうかと思ったけど、聞きそびれた。

 さっそく石油ストーブに火をつけた。部屋からの眺めは素晴らしかった。風呂からあがってまた、播磨灘の夕陽を眺めていた。法然上人もこの夕陽を眺め、はるかな西方浄土を思い浮かべられたんだろうか。ああ、今の僕の極楽浄土は晩ご飯なんだけどなぁ。お腹が空いたなぁ。情けないなぁ。

 

 8時を過ぎて奥様が階段を上がってくる音が聞こえた。想像したとおり精進料理だった。でもその手料理は本当に美味しかった。

 夜になって勤行があるんだろうか。本堂の方に耳を澄ませていたけど、何も聞こえない。僕は結局諦めて眠ってしまった。夜中にお腹が痛くなって目が覚めた。便所に行った。下痢をしていた。行ったり戻ったりを繰り返さなければならなかった。今日は寒くて疲れて緊張して。ストレスが胃腸に来たんだろうか。やっぱり勤行をサボったから罰が当たったんだろうか。みんな原因だぁ~。

 

 

4月4日(水)
 朝焼けの播磨灘もとてもきれいだった。もしかして朝の勤行を誘われるかと思ったけれど、それもなかった。多分僕のほうから申し込むのが筋道だろう。朝の奥様の手料理も美味しくいただいた。下痢は止まっていた。出発のとき、本堂でご本尊様に両手を合わせてゴメンナサイを言った。結局ご住職とは会わず仕舞いだった。これではただの民宿に泊まったのと同じだ。心残りだった。

 淨運寺さんは何故、ユースホステルに加盟しているんだろうか。宗教法人として経営に少しでも役に立てばと考えられたんだろうか。檀家の人たちはどう思っているんだろうか。でも、いろんなお寺さんがあってもイイじゃないか。

 

 揖保川(いぼがわ)の橋を越えた。これからいよいよ関西の大都市圏に入る。田舎国道のような訳にはいかない。やはり都会の道路は疲れる。交通ラッシュ、四つ角交差点の段差、横断歩道の信号待ち、まるでかけ足のように通り過ぎる人波。地方国道の倍の時間とエネルギーがいる。今となってはどれだけ寒くて辛くたって、坂越峠やはりまシーサイドロードが懐かしく思えてきた。せっかくの姫路の街だけど通り過ぎることにした。またどこかの宿でゆっくり二泊したいなぁ~。安い宿がいい。ベッドがいいなぁ~。出来れば垂水ユースホステルで二泊したいな。それまで我慢しよう。

 

 姫路を出たところで、なんとこの4月なのにみぞれ雪が降り出した。ビチャビチャ雪がどんどん僕のウィンドブレーカーを濡らしていく。激しく降って前がよく見えない。危険だ。困ったなと思ったそのとき、目の前に郵便局があった。姫路的形(まとがた)郵便局の中野憲三さんは、僕に雪水を拭うようタオルを貸してくれて、 

「 どうぞゆっくりして行って下さい。雪はすぐに止みますよ 」と声をかけてくれた。

 

 僕にはまだ余裕があったけれど、お礼にキャッシュカードで預金を引き出すことにした。さてこれからどうしようか。僕は中野さんにこの辺りのビジネスホテルを聞いてみた。姫路に引き返さないとありませんという。岡山のときと同じだ。でも次の高砂市まで行けば、揖保駅前にはビジネスホテルがあるという。中野さんにここからの距離を尋ねると10キロもないという。10キロメートルなら2時間足らず。後ここで1時間充電したとしても、5時までにはチェックイン出来る。部屋は空いているかなぁ。ここに公衆電話はなかった。途中で予約の電話を入れよう。よし、行こう。僕はビジネスホテルの電話番号をメモしてもらって的形郵便局を出発した。

 

 山陽曽根(そね)駅から県道718号線に入った。産業用道路だった。路肩のない道路を大型輸送トラックやダンプトラックがバンバン通る。空は曇りだしだんだん薄暗くなってきてヘッドランプを点灯し始めた。自動車ならアクセルを踏み込んでスピードを上げるところだけど、電動車イスはいくら前進レバーを押しても最高速度は時速6キロメートルだ。公衆電話も見つからない。僕のイライラは募っていった。
 ようやっと揖保駅に着いた。駅前の商店街のその向こうに揖保ビジネスホテルがあった。先にコンビニで弁当を買ってから、僕はホテルに飛び込んだ。フロントの呼び鈴を押すと事務室からキチっとした制服姿の中年女性のクラークが現れた。宿泊をお願いすると、いきなり、
 「 予約の電話を入れましたか? 突然やって来て、もし満室だったらどうするのですか? 」
と怒られた。

 そしてその言葉には、” それがホテル利用の基本的マナーです ” という意味が込められているように感じられた。僕はいきなりどやし付けられて答えられる言葉も見つからず、あうっ、と口ごもり、” たしかに、それはその通りなんですが、実はぁ~・・・” と、言い返したいのに言葉が出なかった。やっとの思いでここまで来てホッとしているのに、僕はその場にカタカタと崩れ落ちそうになった。

 

 その女性のネームプレートと正面壁の営業許可書には「 北野和子 」とあった。このホテルのオーナーマネージャーだったんだ。北野マネージャーは、
 「 まあー今日はお部屋が空いているからよかったのですが 」
と言いつつ、アクセプト・シートを差し出した。僕の住所氏名と目的地を見て今度は北野オーナーマネージャーから、
 「 大阪まで行くんですかっ!? この電動車イスでは無理です 」と断言されてしまった。
 「 でも僕は広島からここまでやって来たんですよ 」
と、本当はそう言いたかったんだけど、語気の強さに圧倒されて何も言えなかった。僕にはそれが危ないから行ってはダメ!という意味なのか、それとも不可能だから止めなさいということなのか推し量れないでいた。 それでも北野マネジャーは電動車イスのコードをコンセントに差し込んで、エレベーターに近い部屋のルームキーを渡してくれた。僕は部屋に入ってドッと疲れてしまった。

 ベッドに横たわって改めて部屋の中を見渡した。よくあることだけど、ビジネスホテルでは見えるところは綺麗に掃除されていても、見えないところに埃がたまっていたり汚れていることがよくある。でもこの部屋はすみずみまで実に掃除が行き届いていた。

 

 ベッドメーキング、机の上のホテル案内のセットやスリッパの置き方、椅子テーブルの配置、ハンガーのかけ方。そこにはあるひとつの確かなポリシーが感じられた。浴室の上品なバスタオルやフェイスタオル。石けん・シャンプー・リンスの並べ方。隙がない。
 北野マネージャーは、かつて一流ホテルでメイドからフロントマネージャーまでたたきあげた女性なのかもしれない。それは負けてはなるものかという執念の修業だったのかもしれない。さっきの対応ぶりとこの部屋を見て、僕はそんな気がしてきた。それに言葉に訛りがなかった。東京辺りのホテルで修業したんだろうか。それが何故この揖保でビジネスホテルを経営しているんだろう。僕はまた悪いクセが出て、北野マネージャーの経歴・人となりなど、自分勝手な妄想を膨らませていた。

 

 

4月5日(木)
 朝出発するとき、北野マネージャーは真顔で、
 「 行けるのですか。大丈夫ですか 」と、やさしく声をかけてくれた。

 今日の目標は垂水ユースホステルだ。もし出来ればここで二泊してゆっくり身体を休めたい。僕の心も切実にそれを要求している。718号線は産業用道路だった。交通ラッシュを避けるために早い時間に出発したのに、どこから集まってきたのか狭い道路は車でごった返している。排気ガスと埃で空気がイガイガしている。がーがーという騒音に頭も痛くなってきた。

 

 僕は昨夜、北野オーナーマネージャーのことを考えて眠れなかった。また例によって朝の反省会をしようとしている。

 電動車イスの「 旅 」が大変だと知っているということは、北野さんの身内の誰かに車イスの障害者がいるということだろうか。夫は?子供はいるの? 身内の介護で毎日大変なんだろうか。お父さんお母さんの面倒を見るために一流ホテルを辞めて実家に帰って来たんだろうか。お父さんが経営していたホテルを継いだんだろうか。いや、違うな。自分で新たに起こしたんだな。北野さんはそれだけの根性を持っている女性だと思う。ああ、僕の妄想癖はまったく留まるところを知らない。

 最初は取っつき難くっておっかない女性だと思ったけれど。けっこう優しいところもあって、だけど反面頑固なところもあって。人間てまったく一筋縄では行かないな。人を先入観で見てはならないと思うけど。むずかしいもんだな、人生って。

 

 睡眠不足と疲れが少し暖かくなって睡魔となった。信号や歩道の左右確認。集中力が散漫になってきた。どこかで少し休まなきゃぁと思っているのに、惰性でそのままハンドルを握りしめていた。

 ふと我に返った。それが何分間だったのか記憶がない。ダメだ、これは危ない。気が付いたら杖がなくなっていた。知らない間に落としてしまったらしい。後ろを振り返っても見当たらない。引き返そうかと思ったけど、探し歩くのはさらに時間と体力を消耗する。ここまでずうっと一緒にやって来たのに。僕の不注意で頼みの杖を落としてしまった。がっくりきた。

 

 僕はもうすっかり体力が抜けてしまっていた。見ると道路の先に消防署があった。署員たちが消防車を整備したり装備の点検整理をしている。消防署の時計はちょうど九時をさしていた。僕は一番若くて一番忙しそうに立ち動いている消防士に、バッテリー充電のお願いをした。若い消防士は奥にいたベテラン消防士のところに走っていった。


 「 消防署内は部外者の立入りが禁止されているんです。駐車場なら構いませんが、それでもいいですか 」
駐車場の壁のコンセントにコードをつないでもらい、僕は朝日の当たるところで日向ぼっこをしていた。まだ気温は上がらず外の風に吹かれて震えていた。そこへ若い消防士がミルクと砂糖がいっぱいの温かいインスタントコーヒーを持ってきてくれた。いやー助かった。その若い消防士は、明石市二見分署の北山隼一さん、21歳、といった。
 「 中に入れてあげられたらいいんですけど、規則なんで、申し訳ありません 」
 「 いえいえっ、とんでもないことをお頼みしているのは僕の方なんですから。かえって恐縮しています。

   ありがとうございます」
 近頃では勤務が厳しくて若者が消防士になりたがらなくて、この分署で若手は自分ひとりなんですと、北川さんはいう。北川さんは子供のころから消防士にあこがれていたそうだ。何故って聞くと、
 「 人の命を守る大切な仕事だから 」と答えた。
 「 寒くないですか 」
 「 ええ、ちょっと寒いです 」
 北川さんは急いで署内に戻っていった。そして今度は毛布を持って帰ってきて、電動車イスの上から僕の全身をくるんでくれた。
 「 夜勤の交代の引き継ぎがあるんで、自分は行かなければなりません。気をつけて行って下さい 」
 僕は目元がきりっとしたこの若者が、けっして消防活動中の事故に遭わないよう願わずにおられなかった。歩道を行く人や車の人たちが、僕のことをジロジロと見ている。夜の火事で焼け出されたと思っているんだろうか。くすっ、少し笑えてくる。

 

 僕は北川さんとの出会いで元気をいただいたように思えた。杖をなくしたショックから立ち直れそうな気がした。

 あの杖は長い間僕を支えてきてくれた大切な相棒だった。それはセニヤくんと知り合うよりずうっと前からだ。それなのにセニヤくんばかりに話しかけて、あまりにもそばにいるのが当たり前だったから、杖のことを気にもかけていなかった。それなのに黙って僕を支えてくれていた。

 本当はあの杖はセニヤくんのことを妬いていたのかもしれない。そうだ、僕はあの杖に名前も付けてやっていなかった。ひょっとかしたら、あの杖は僕の身代わりだったのかもしれない。今から思えばあのとき事故に遭っていてもおかしくない状況だった。ごめんね、杖。ありがとう、杖。

 

 明石の街に入った。またぼちぼち充電の時間になった。僕自身も休憩が必要だった。ふと見上げると「 明石市立総合福祉センター 」という道路標識があった。明石市立福祉総合センターの広いロビーの奥の受付には若い二人の女の子がいた。二人とも今風の茶髪の女の子だった。

 僕は特に明石市民であることもよそおわず、また「旅」の途中ということも告げず、ただ電動車イスの充電だけをお願いした。二人は快く丁寧に応待をしてくれて、ホールの奥にある壁付きコンセントを教えてくれた。館内は暖かいしこれでひと安心だ。

 

 天井が高くて広いホールにはソファーやテーブルがいくつか置いてあって、おじいさんおばあさんたちが世間話に花を咲かせていた。

 リハビリ室や共同浴室から出てくる車イスの人。多目的ルームからスポーツ姿で汗を拭きながら出てくる数人のグループもいた。玄関から家族に付き添われて車イスの人がやって来た。かと思えばタクシーを呼んでほしいと受付に頼み込んでいるおばあさんもいる。迎えの人がまだ来ないのか、しきりに正面玄関先を気にしている人もいた。とにかくワイワイがちゃがちゃと、まるでご近所の集会所か老人の憩いの家のような雰囲気だった。僕はそんな騒音を子守歌のようにして、また居眠りを始めてていた。少し楽になった。

 

 頭もすっきりしたところで、僕は例のことをお願いしてみようと思った。手を上げて受付に合図したら、若い方の女子職員がやってきてくれた。
 「 実は途中で杖をなくしたんです。申し訳ありませんが、この福祉センターにどなたか置き忘れていった

   杖はないでしょうか。あったらお貸し願いたいんです。後で必ずお返ししますから」その女子職員は、
 「 ちょっと、お待ち下さい 」と言って、別の棟へ走り去っていった。
 僕にはダメでもともとという気分もあったけれど、何故だか知らないけど杖はあると直感していた。しばらくして女子職員が白衣の若い女性を伴ってやってきた。

 

 「この杖はずうーっとリハビリ室に置き忘れられていたものなんです。ちょっと短いですが、よろしかった  らお使い下さい 」
白衣の若い女性は作業療法士さんだった。そして女子職員が言葉を添えた。
 「 ちょうどこれ一本しかなかったそうですよ、よかったですね 」と、
微笑み返してくれた。僕はやっぱり!と思いつつ、お礼の言葉を述べた。

 

 女子職員が受付に戻ろうとしているところを僕は呼び止めた。その女子職員は天本ひとみさん、22歳、といった。僕は広島から札幌に向けて電動車イスの「 ひとり旅 」の途中であること、目的は僕の友人で筋ジストロフィー患者の病気見舞いと今生のお別れをすることなどを話した。僕の話がウソではない証拠に香西さんの手紙も見せた。天本さんは目をマジマジと見開いて読んでいた。天本さんは、
 「 彼女にも見せていいですか 」と聞いた。僕は、
 「 もちろんいいですよ 」と答えた。
天本さんは急いで受付に戻って二人で顔を突き合わせながらもう一度手紙を読み直していた。

 

 僕はアルミ製の杖を眺めていた。この杖は最後まで残っていたという。きっと僕のところにやって来ることになっていたんだ。僕はなくしてしまった藤木の杖が僕のドジさを心配して、今度はアルミの杖になって僕のところに帰って来てくれたかもしれないと感じた。新しい杖は重たくてすぐに手に馴染みそうにないけれど、僕は仲良しになろうと思った。受付から二人がそろって僕のところに来た。

 

 「 手紙を見せて下さって、ありがとうございました。感激しました。どうぞ札幌まで気をつけて行って

   下さい 」
 もうひとりの女子職員は阿山加代子さん、24歳、といった。天本さんと阿山さんから大きな紙袋を手渡された。中にはアメ玉やクッキーやおまんじゅうがいっぱい入っていた。僕はそれを有り難く受け取った。

 

 その後、718号線を走りながら考えていた。僕は何故二人に香西さんの手紙を見せたんだろう。最初受付の二人の茶髪を見たとき、ああ、今どきの女の子だと思ったのは本当のことだ。でも二人が相談し合って丁寧にお年寄りの世話をしている姿をみたとき、先入観を持った僕自身が恥ずかしくなった。僕はそのとき、世の中にはこんなこともあるんだということを伝えておこうと思った。これからの二人の人生に、僕のこんな「 旅 」でも、少しは役に立てたららいいなと思った。それが僕のお礼だったし、先に逝く者の努めだと感じた。

 今日は若者たちと出会い、若者たちに助けられた、若者感謝デーになった。

 

 718号線は明石港の手前で国道2号線と合流する。その昔、僕はこの明石の桟橋から船に乗って淡路島へ家出をしたことがあった。それは何度目かの家出で、たった一日の家出だった。そのころ僕は自分という人間が分からず、どう生きていいのかも知らず、かと言って自分が何をしたいのかも判断できず、イラつくばかりの20歳前の日々だった。現実から逃げ出したくなって、一日だけの家出を何度も繰り返していた。

 

 そのころ大阪で両親といっしょに暮らしていたけれど、家はとっても貧乏で両親の口げんかは毎日絶えなかった。

 僕は朝早くに大阪駅から明石まで来て、桟橋から船に乗って岩屋に渡って、バスに揺られて洲本で乗り換えて三原まで行った。三原では酪農をやっていると聞いていたから、牛と牧場が見たかった。こんな広いところで暮らせたらいいなぁと思った。しかしそんな願いが叶うはずがない。洲本から泉佐野まで大阪湾をフェリーで渡って、夜の12時ごろ家に帰った。両親は何も聞かなかった。懐かしいなぁ、明石港は。

 

 垂水ユースホステルに着いたときにはもう辺りは薄暗かった。ペアレントマネージャーにドミトリーをひとり部屋にして下さいとお願いしたら断られた。しかたがない。僕は通常料金の5割り増しを出して個室に泊まることにした。二泊してゆっくり身体を休めるつもりだったのに、がっかりだった。

 

 

4月6日(金)
 朝早く、垂水ユースホステルを出発した。国道2号線はそんなに混雑していなかった。順調に須磨の海辺までやってきた。須磨の水族館は僕が小学4年生の遠足で来たところだった。白浜と松の木は覚えているけれど、後はすっかり変わってしまっている。

 

 僕には大阪が近づくにつれて気の重いことがあった。それは全国筋無力症友の会大阪支部とのミーティングだった。出発前に、立ち寄りそうな支部へ援助をお願いする手紙を送っていた。でも僕の「 ひとり旅 」に決して好意的な反応は得られていなかった。突拍子もない目立ちたがり屋の、かえって自分たちの活動に迷惑な存在だと思われているようだった。正直言って気が重たかった。いっそやめようかとも考えた。大阪支部には長い歴史と伝統があるし、全国的にも影響力のある支部だ。やっぱり素通りして行く訳にはいかない。僕は針の筵(むしろ)に座らされる心境だった。僕は大阪支部長の浅野十糸子さんに電話をして、神戸に着いていることを連絡した。
 「 明日もう一度掛け直して下さい 」と告げられた。
案の定、反応は芳しいものではなかった。今日は体調が悪い日なのか、それともはた迷惑なことだと思っているのか、電話口の声では判断がつかなかった。次に僕は服部緑地ユースホステルに明日7日の予約の電話をした。ひとり部屋はないという。また便宜も図れないという。しかたがない、一応予約だけはした。

 

 神戸三宮駅。ここも懐かしいなぁ。僕が大阪に住んでいた時にも新開地までよく遊びに来たもんだ。中華料理屋さんで豚まんを買って、メリケン波止場に行って海を見て。メリケン波止場はそのころの僕にとって、見知らぬ外国ヘの夢を見る玄関口だった。あの中華料理屋さんは大震災で無事だったんだろうか。
 僕はこの際多少の贅沢はしてもイイヤと思い、三宮駅前の東急イン神戸に入った。フロントではダブルベッドの部屋を身障者サービスとしてシングル料金にしてくれた。それでも過去最高の宿泊料金だった。部屋に入る前に食事を済ませておこうと近くの食堂街を回ってみたけど、電動車イスで入れるレストランはなかった。せっかく三宮だ。神戸牛のステーキでもと思っていたのに。探し疲れてやっぱりいつものコンビニ弁当を買った。つまんないなぁ~。

 

 僕は部屋に戻って自棄(やけ)のやん八(ぱち)で、大洗濯をはじめた。ええいっ、このさい。高い宿泊料金の元を取ってやる。暖房を「強」にして、パンツもソックスも長シャツも、ジャージもウィンドブレーカーも、全~部丸ごと、洗ってやる。僕は神戸に来たとたんに、がめつさ丸出しの大阪人に逆戻りしていた。どや!、様(ざま)見さらせっ。しかしそれも ” 面白うて、やがて悲しき ” 僕の悪あがきだった。

 

 

4月7日(土)
 僕は今朝、少し朝寝坊をしたようだ。快適なベッドで久しぶりにぐっすり眠ることが出来た。8時30分になってホテルから浅野さんに電話をした。留守番電話だった。僕と同じで朝は調子が悪いのかもしれない。エンジンがかかるのは昼前からだ。重症筋無力症はなまくら病だとか気分屋病だとかいろいろ言われるけれど、身体が気怠(けだる)くて動きづらい悲しさは他人(ひと)にはなかなか分かってもらえない。しかたがない、それが重症筋無力症という病気なんだから。はっきりとした予定の立たないまま、僕は取り合えず大阪に向けて出発した。

 

 それにしてもと思う。僕は何とか電動車イスでここまでやって来た。でもそれは他人にとってはそれほどの関心事ではないのだろう。同じ病気をかかえている人たちにとっても、” ああ、そうー ” ぐらいなことなのかもしれない。僕は諸手を上げてよくぞここまで来たねぇ~って、大歓迎をして貰おうなんて、そんな気はさらさらないのだけれど。とにかく何か淋しかった。

 いや、何も期待するまい。分かってたはずじゃないか。何を今さら一人で勝手に落ち込んでいるんだ。自意識過剰だ。あはははっ。僕はバカで滑稽で、人生は本当に悲しいコメディーだ。芦屋市に入ったら、小雨がぱらぱらと降り出した。冷たい雨だった。

 

 芦屋市民センターではちょうど桜祭りを開催していた。しかしせっかくのお花見なのにあいにくの小雨模様。正面玄関の前庭には沢山の出店があって、その中には障害者グループも何軒か出展していた。土日は官公庁がお休みと充電を諦めていたのに、もっけの幸いとばかりに市民センターで充電させてもらうことにした。ロビーはごった返していたけど、暖かくてまた例によってうつらうつらと居眠りをしていた。

 僕は気を奮い起こしてもう一度、浅野さんに電話をしてみた。つながった。僕は今芦屋にいて、今夜は服部緑地ユースホステルに宿泊しないで、大阪の塚本か十三(じゅうそう)あたりのビジネスホテルに泊まるつもりだと早口で言った。浅野さんも今大阪支部の会員さんとミーティングが出来るよう手配中で、そのことをユースホステルにファックスを送ったことを早口で言った。そして、明日もう一度電話を下さい。そのときに場所と時間をお知らせしますということだった。つながったぁ! イイ方向に向かってたんだ。僕は僕の深読みと先走りが恥ずかしかった。ホント、僕ってアホなピエロで、人生は悲しいコメディーだった。

 

 武庫川大橋を越えた辺りからさらに小雨は強くなった。空模様もさらに怪しくなりそう。今日は限界だなと思った。サヌキヤサイクルという自転車屋さんを見つけた。自転車屋さんならこの近所のことを良く知っているかもしれない。僕は修理中の店主に、この近くにビジネスホテルはありませんかと尋ねた。そのときを待っていたかのようにザザザーと激しい雨が降り出した。間一髪だった。この絶妙なタイミング。僕は何だかこの自転車屋さんに導かれたような気がした。

 店主は知り合いに旅館があるという。そして店主が電話をしてあげようということになった。仕事場には、「 電動自転車・車イス特約店 修理賜ります 」のプレートが掲げられている。ああ~、やっぱりここに来るようになってたんだ。旅館は電話に出ない、留守のようだった。
 「 大丈夫。部屋は空いてるよ 」と、店主は請け負ってくれた。

 

 その旅館は町工場や住宅地の中を回り込んだ武庫川の土手下にあった。お馴染みさんでなければちょっと分かりづらい。その旅館、「 ホテル新宿 」の玄関口には自治会福祉相談員のシールが貼られていた。そして電動自転車と車イスがあった。家族の誰かが障害者なんだろう。僕は大声で、
 「 こんにちはーっ!」と呼んでみた。
何の反応もない。大丈夫なのかな~。別棟から主婦然とした人が現れた。僕はサヌキヤさんから紹介されたこと、今夜の宿をお願いしたいことを告げると、その主婦は、
 「母はいま外出しています。すぐに連絡を取りますから、2階に上がって待っていて下さい」
と言われた。電動車イスの充電をお願いすると、洗濯機と同じコンセントにつなげてくれた。通された部屋は布団が積み重ねてある六畳の間で、汗やタバコや酒の酸(す)えた臭いが壁に染みついていた。週刊誌やエロ雑誌も転がっている。ここも建設土木の作業員や行商人さんの長期滞在型の旅館なのかしらん。

 

 正直、どうなることやらと思った。電気コタツの温度が上がるにつれて、その臭いは部屋に充満してきた。少し笑えてきた。これが天の計らいなの?と思いつつ、もう従うしかなかった。雨もとうとう本降りになって、トタン屋根をパチンっパチンっと叩き続けている。この部屋で寝るのかな。イヤだな。ここで二泊は無理だな。それにしてもあのまま行ってれば今ごろずぶ濡れだ。昨日の東急インとは天と地だな。この落差を楽しむしかないか。くっくっく、思わず笑えてくる。苦っ苦っ苦っ! 

 

 しばらくして、この旅館の女将さんが、
 「 お待たせしました。隣に部屋を用意しました 」と、挨拶に現れた。
新しい部屋は幾分か小奇麗だった。昔風の衣紋(えもん)掛けと衣桁(いこう)が置いてあり、もう布団は敷いてあった。何だか場末の連れ込み宿の雰囲気だった。

 女将さんはもう60歳は越えているように思えた。愛想がよくていかにも客商売に慣れた女将という感じがした。軽く薄化粧をしている。東岡山のますの旅館の女将さんと似ているようで違っていた。この女将さんは多分根っからの宿屋の女将さんだろうと思った。僕は電動車イスのバッテリー充電のお礼を言ってから、
 「 公衆電話がありますか 」と尋ねた。女将さんは申し訳なさそうに、
 「 自宅用の電話しかないんですよ 」と言った。
僕は服部緑地ユースホステルに予約をキャンセルしなければならないことを話した。そしたら女将さんが、
 「 わざわざ一階まで下りるのは大変でしょう。私が代わりに電話をしてあげますよ。電話番号を教えて下さ

   い 」と言ってくれた。そして今度はポットとお茶を持って上がってきて、
 「 本当ならキャンセル料をもらうところだけれど、雨に降られて事情が事情だから支払わなくていいそう

   ですよ。よかったですね 」と笑って教えてくれた。
僕はキャンセル料のことよりも、女将さんの親切に感激してしまった。

 

 「 ありがとうございました。助かりました。後で必ず電話代を請求して下さいね 」 
 「 あっ、そうそう、浅野さんという女の人からユースホステルに電話があったそうですよ 」
女将さんは笑ってそう答えながら、階下に降りていった。そうか、そう言えば浅野さんはユースホステルに電話とファックスを入れたと言っていた。つながっているんだぁ。よかったなぁ。

 ああ、雨で弁当を買う余裕もなかった。昨日三宮で買ったおかき煎餅が残ってたっけ。これが今夜の晩ご飯だ。相変わらず雨は降り続いている。安心したせいか、僕はまた電気コタツの中で眠たくなってきた。この雨も、サヌキヤさんも、この旅館も、女将さんの親切も、おかき煎餅も、みんな天の配剤(はいざい)なんだろう。今日土曜日で熊野を出発してまる2週間が過ぎた。もう2ヶ月が経ったように感じる。人によって感じる時間の流れは相対的なもので、絶対的なもんではないのですね。そうですよね? アインシュタイン先生っ。あっはっは!

 

 

 

第4信 好っきゃねん、大阪

 

4月8日(日)

 僕は昨晩、熊野社会福祉協議会訪問介護センターのヘルパーさんたちと、fumifumi さんに第2報のハガキを書いた。
 朝はよく晴れていた。6時に出発。これでよかったんだ。すべてがうまく収まるように落着(おさまる)もんだ。旅館を離れるとき、女将さんに電話代のことを聞いたら、
 「 料金の中に、きちんと貰ってますよ 」と笑っていた。
 僕は明石市立総合福祉センターの天本さんと阿山さんから貰ったアメ玉をひとつかみして、女将さんに手渡した。女将さんは僕の姿が見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。電動車イスでどこから来たのか、どこへ行くのか、何のために、そんなことに一切触れず。よく気がついて愛想も良くって出過ぎず、決して客にへつらうこともしない。本当にこの女将さんは旅館家業の ” いろは " をよくわきまえた生粋の大阪の商売人さんだと感じた。もう二度とお会いすることもないでしょう。お元気で、お世話になりました。

 

 8時過ぎ、西淀川区に入った。いよいよ大阪府だ。しかしその感慨よりもまずバッテリーの充電だ。僕は西淀川区役所を見つけた。今日は日曜日でお休みなのに、何となく引き寄せられるように正面玄関から中を覗き込んでいた。ら、突然自動ドアーがするすると開いた。あれっ、と思って中に入ると、若い女の人が立っていた。
 「 ご苦労様です。投票所はこの奥です 」
あっ、今日は4月8日地方統一選挙の投票日だったのか。それで自動ドアが開いたんだっ。きゃはーっ、ラッキー! 僕は選挙管理委員会の受付の女の人に、バッテリー充電を頼んだ。
 「 投票は? 」
 「 ええ、ちょっと疲れたんで、休んでからにしますわ 」
僕はコンセントの場所を教えてもらって休憩した。家族連れの人たちがぞろぞろと投票場に入って行く。もし区役所の中を覗かなかったら。僕はその幸運の不思議さに思わず苦笑した。

 浅野さんに電話をした。待っていたという。
 「 午後2時半に、梅田駅前にある阪急デパートの正面玄関で待ち合わせましょう! 」
今朝の声は ” ハリ ” があった。何か吹っ切れた声のように感じた。違っていたかもしれないけれど。とにかく連絡はついた。充電はバッチリだし。これで安心して大阪入りが出来る。そう思うと例によって居眠りがしたくなってきた。

 

 淀川の長い鉄橋を越える。梅田繁華街の高いビル群も見えた。大阪だっ! 僕はとうとう大阪までやって来たぞっ! 鉄橋を渡りきったとき、僕は、
 「 今日はぁー、大阪さん! 」の、ご挨拶をした。
 梅田の高いビルは見えていても、電動車イスが通れる歩道がなくて遠回りばっかり。大阪駅前も梅田駅前もすっかり変わり、戸惑うばかりだった。

 ようやく大阪駅に着いた。駅のコンコースを抜けて近道しようとしたら、大阪駅ってこんなに段差があったの? かえって遠回り道になっちゃった。おまけに大阪人の足の速いこと。こんなだったかなぁ~。多分、大阪人は変わらないで、僕が変わったんだと思う。

 

 阪急デパートの正面玄関に着いたのが2時ちょっと前。間に合った。しかし待てども待てども2時30分を過ぎて3時になっても浅野さんは現れない。受付の案内嬢に聞いても正面玄関はここだという。おっかしいなぁ~。間違いないはずなんだけどなぁ~。浅野さんと会ったことはないけれど、僕が電動車イスだから目立つはずだし。3時半になった。縁が無かったのかなぁ~。諦めかけたとき、僕はもう一度案内嬢に確かめた。そうしたら、反対角の信号交差点側にもう一ヶ所玄関があるという。あわててそっちへ行ってみた。入り口に階段があって中に入れない。しかたがないから元へ戻って待っていた。ぼちぼち今夜の宿を見つけなければならない時間だ。

 困ったなぁ。そのとき、
 「 ああっ、中田さんここにいたのお~~っ! 」という声が聞こえた。
浅野さんだった。浅野さんはさっきの交差点側の玄関でずう~っと待っていたという。お互いの行き違いだった。とにかくやっと会えた。危なかった。

 

 浅野さんは大阪支部の会員さん数人を伴っていた。それから大阪新阪急ホテルのティルームに移動した。ティルームでは電動車イスがダメらしい。皆さんが僕の両肩を抱えてテーブルまで連れて行ってくれた。僕たちは改めて自己紹介しあった。

 

 池田さん、女性。池田さんは拡大胸腺摘出手術を受け、クリーゼ(呼吸困難)を起こして気管支切開。人工呼吸器をつけたことがあるとおっしゃった。しかも今、へバーデン結節の変形性関節炎を患っているという。僕とまったく同じ症状だった。
 垣淵さん、男性、副支部長。いまから50年前の1960年ごろでは重症筋無力症の原因も治療法もまだ分かっていなくて、多くの患者がクリーゼを起こして死んでいった。その後重症筋無力症が国の難病指定になって、マイテラーゼとメスチノンという新薬が開発されて、ようやっと重症筋無力症患者の死亡率が低くなった。垣淵さんはそんな頃に発病して、この病気と闘ってきた人だった。
 その隣には十河(そごう)さん、男性。十河さんは大阪から九州大学医学部付属病院の難病の専門医を頼って転院して、長い間特別治療室で寝たきりの治療を受けていらっした。今は言葉をうまくしゃべれない。多分、長い間人工呼吸器を付けたり、鼻からチューブを入れて栄養をとる寝たきり生活をしていると、喉の筋肉が退化して話せるようになるまで大変な時間がかかる。僕も経験している。そのまま声を取り戻せない人もいる。
 そして大阪支部長の浅野十糸子さん。浅野さんはステロイド剤のプレドニゾロン薬を長期に服用してその副作用で眼を悪くしてしまった。今では常時サングラスをしておられる。僕も最近では同じ副作用で、疲労すると眼球が爆発しそうなほど痛くなる。昼間はチカチカして景色が滲んで見えるし、夜になると薄暗くなってよく見えない。いずれ緑内障か白内障になるんだろうと覚悟している。そしてここに集まっている皆さんは大阪支部を創立させた大先輩で、全国の友の会にも影響力を持っていらっしゃるそうそうたるメンバーだった。

 

 僕の番になったとき、垣淵さんから ” 待ってました ” とばかりの質問を受けた。僕はちょっと身構えた。

 

 「 なぜ電動車イスなのか。飛行機や汽車ではダメなのか。なぜ携帯電話も持たないのか。もしものときは   どうするのか。何故一人でサポートもつけないのか。無茶なことをだと思わなかったのか 」

 

 僕はやはり疲れていた。朝早く出発して、やっと大阪駅まで来て、緊張しながら長い時間待って。正直なところ、今まで何度も尋ねられてきたことをまた繰り返さなければならないのかと、いっそう疲労感を募らせていた。でも話さなきゃー。そのためにここに来たんじゃないか。
 僕はケータイ電話をはじめとする現代のテクノロジーは人間が本来備わっている五感を鈍らせる。便利で効率性ばかりの今の社会に対するレジスタンスであること。そしてお役所の福祉担当者も病院や施設の医療従事者も学者先生や福祉の専門家も、障害者や難病患者を自分たちが管理するものだと思っている。自分たちの都合のいい枠に閉じこめようとしている。「 電動車イスひとり旅 」はそんな考え方に対するアンチテーゼのつもりだった。

 たとえ長期入院や施設にいる難病患者・障害者でも、人それぞれみんな自分の思いをもって生きている。障害者を一律に、ひと山いくらで考えて欲しくない。出来ないことを見るのではなく、出来ることを見て欲しい。個性を持ったひとりの人間であることを尊重して欲しい。難病患者・障害者だってやれることがあるんだということを分かって欲しくて「旅」に出たことも、僕は言葉に詰まりながら一生懸命に話した。

 

 そして香西さんの手紙も見せた。一緒にカナダの「 旅 」を挑戦した香西さんを励ますには、飛行機でもなく汽車でもなく車でもなく、僕が車イスで行かなければならなかったこと。サポートを付けないのはひとりで不安で辛くて条件が悪い「 旅 」だからこそ、自分自身が見えてくるという僕の信念からだった。
 「 分からない。納得できない。とても私にはそんなことは出来ない。したくもない 」
垣淵さんは、重々しい口調でそう言われた。他の皆さんはテーブルに目を伏せたまま押し黙っていた。いくらこれ以上お話しても、先輩方たちとは平行線のままだった。

 

 ここにおいでになる皆さんは、若いころに重症筋無力症を発症して、人生を狂わされてしまった方たちばかりだろう。理由(わけ)の分からない難病になって、まわりの同じ病気の患者たちは次々に死んで行く。どれほど苦しい思いで生きてこられたか。人生観も変わったことだろう。それでも重症筋無力症友の会大阪支部を立ち上げ難病活動を続けて来られた、その中で人生の意義を見出し、自負と誇りを持って今日まで生きて来られた。生命(いのち)こそが一番大切なんだ。生きて今在(あ)るということが幸せなんだ。そんな皆さんからすれば、僕の試みなんてまるで無茶で暴挙で、生命を粗末にする許し難い行為だと思われたのかもしれない。そんな元気な(?)難病患者の姿を見せると、国は重症筋無力症を難病指定からはずし、さらに医療費の負担を増加させるんじゃないかと、そう心配されておられるのかもしれない。

 申し訳ないと思う反面、僕は難病患者の実情をもっと世間の人たちにお知らせしなければならないとも考えている。そして詰まるところ、何に生きがいを感じるか。何に人生の価値を認めるか。どう生きようとしているのか。それが問題なんだと思う。僕の主治医の時信弘先生は、鼻向けの言葉として、
 「 人間長生きすることだけが、イイことではありません 」
といって送り出して下さった。医療の現場で数々の死を見てきた専門医の言葉として、僕は神妙に受け止めている。

 

 会話が進まず、気まずい雰囲気になった。浅野さんはさっきから会話に参加せずに、黙って聞いていた。僕はその姿を見たとき、浅野さんは僕の訪問を大阪支部長としてどのように対応しようか? ずいぶんと迷っておられたんだな~ということを初めて悟った。僕は心から ”ご苦労様でした ” のお礼を言った。
 同病だからと言って必ずしもお互いを理解し合えるとは限らない。香西さんは、” 100人の障害者がいれば、100通りのつくり方がある。それが福祉機器だ ” と、自分のコンセプトを語っていた。僕は、” 100人の重症筋無力症患者がいれば、100通りの症状と生き方がある。それが人間だ ” と思った。

 

 僕は何か心が満たされない。空虚だった。そしてお腹も空いていた(笑い)。思い出したら今朝から牛丼やさんの豚肉丼並しか食べていなかった。せっかくの大阪梅田駅前だ。何か大阪らしい美味しいものを食べたい。しかし新阪急ホテルを出たら、駅北口辺りは歩道から信号から電動車イスが通れないほど人込みでいっぱいになっていた。

 その人たちは通勤客や買い物客ではなくて普段着や仕事着の人、労務者風の人もいた。どうやらこの付近に競馬か競輪の場外券売り場があって、今日の全レースが終了したらしい。当てた人、予想を外した人、悲喜こもごも。三々五々に別れてベンチに腰をかけたり道路の縁石に座り込んだりそのまま路上にあぐらを組んだり。ワンカップ酒や缶ビールを飲みながら大声で反省会(?)をしている。辺り一面にははずれ券が花びらのように散り舞っていた。

 

 僕はこの電動車イスで広島からやって来た。そして先程まで大阪支部の人たちと真剣に自分たちの難病と生き方について話し合いをしていた。そしてこれから北海道へと向かう。ここにいるこの人たちはそんなことを知る由もない。また知ったところで全然関心すらないだろう。ただ今の今、ギャンブルに興じ、当てたか外したか、なんぼ稼いだかなんぼ損したか。一獲千金の夢だけだ。そしてそれは今日を生きるための大切なお金なのかもしれない。

  それぞれの人生がある。それが現実の世の中だ。何10年かぶりにやって来た大阪でこのような光景に遭遇するとは。これも、” よ~く見ておきなさい ” とおっしゃる、天の配剤なのかもしれない。

 

 今夜の宿に決めていた大阪弥生会館に向かった。予約をしていなかったけれどシングルの部屋が空いていた。向かいにコンビニがあった。せっかくの ” 喰いだおれ ” の大阪なのに、今日もコンビニ弁当だった。

 明日は大阪を離れる。あっけなくもたった半日の滞在だ。時間があれば行ってみたいところもいっぱいあった。

 大阪の街もこうしてみると高いビルや高速道路だらけになって、人の心も慌ただしく何んかささくれ立って、浪速の人間の情緒やとか人情たらゆうモンが、少のうなってきたんとちゃうやろか? 僕の好きやった大阪はどこに行ってしもたんやろ? 大阪は僕にとって最初の青春の地だった。明日は大阪を離れる。今度いつ大阪に来られるかは分からない。これが最後かもしれない。

 明日からはいよいよ北陸を目指す「旅」が始まる。

 

 「ありがとう、大阪。お世話になりました」

 

 

 

第5信 いざっ! 北陸へ

 

4月9日(月)

 週のはじめの月曜日、しかも大阪梅田駅前の朝の通勤時間、どれほどの交通ラッシュがあることか。僕は5時過ぎに大阪弥生会館を出発した。薄曇り空で、曽根崎警察署の前の交差点には排気ガスの臭いが残り、都会の饐(す)えた空気が低く充満している。もうちょっとでも早くこの街の喧騒(けんそう)から逃れたかった。

 ここから都島通りを何処までも進んで野江の交差点にぶち当たり、そこを左折すれば国道1号線。関目(せきめ)の吉野家で朝の定食を食べた。チェーン店て何処も同じ味なんだネ。大阪らしさが感じられなかった。

 

 守口市に入ってもまだ大都市圏の交通混雑は続いていた。ぼちぼち休憩と充電の時間。国道沿いの守口生野記念病院で充電のお願いをした。守口市を抜けてようやっと広々とした景色のところに出た。いよいよこれから北陸をめざす「 旅 」がはじまる。何処かで二泊してゆっくり休みたい。それには琵琶湖畔の和邇(わに)ユースホステルがいいかもしれない。それまでは我慢か、トホホ。今日は八幡市まで行こう。八幡市には石清水八幡宮があるからビジネスホテルや旅館はあるだろう。八幡市からは京都市に入らないで伏見から大津に出る最短距離を行こう。大津は観光地だから温泉旅館がいっぱいだ。安いホテルもあるだろう。大津から和邇までは一日で楽勝だ。関西の都市圏内だから無理をしない。和邇では琵琶湖を眺めながら一日のんびりしよう。ヤッホー!

 

 でもそれからが問題だ。琵琶湖北岸の近江今津から敦賀に向かう161号線、西近江街道だ。途中に追坂峠(おっさかとうげ)があるし、野坂山地には山越えの難所がいくつかある。ここを乗り切るためにはどうしても「まきの宿」で一泊しなければならない。手元のタウンページでは県外で、滋賀県の旅館ホテル情報は載っていない。果たして「まきの宿」に旅籠はあるんだろうか。

 

 そして次こそが最大の難所かもしれない。敦賀から越前武生(えちぜん・たけふ)へ国道8号線、敦賀街道は敦賀湾に面した細い街道の上に長いトンネルがある。多分ここも難所続きのはずだ。途中の杉津(すいづ)あたりに旅籠がなければこの敦賀街道越えはほとんど不可能だ。ここも圏外で旅館民宿情報が手に入らない。もちろん郵便局やコンビニの情報もない。さてどうしようか。僕は古代の人たちが越の国(こしのくに)に行くのにどれほどの苦労があったのか、改めて実感していた。
 でもそこで本来ならケータイ電話の出番なんだよね。こんな悩みは一挙に解決だもの。どんな情報だって検索ボタンを押せばイッパツだ。じゃー何故僕はそうしないの?

 

 僕は今、古代人と同じ目線と気分でこの「 旅 」をしたいと考えている。旅籠の心配をし、峠越えの難渋に嘆き、空や雲を見て明日の天気を推し測ってみようと思っている。それってどれだけの意味があるの? 苦労するだけじゃん。バッカみたい。何の得があるのさ。と人は言うかも。僕にもまだ分からない。でもこれが僕の「 電動車イスひとり旅 」なんだ。そうやってもう一度この日本という国を見つめてみたい。歴史に触れてみたい。それで何が出てくるのか分からないけれど。何かが出てくるだろうと思ってる。僕はそれを予感しているし、期待でワクワクしているんだ。

 

 枚方(ひらかた)までやって来た。広々としたところを走っているのは良いけれど、風が冷たくって身体がコチコチに固まっていくのを感じた。どこかで休憩したい。小高い丘の上にある病院を見つけた。僕は長い上り坂をのぼり病院に入った。その病院は星ケ丘厚生年金病院。ロビーは暖かかった。僕は受付で充電を頼んだ。今日は病院感謝デーだ。
 充電を終わって玄関ドアー開けたら、冷たい風に身体が震えた。今日はこれ以上は無理だな。さっそく予定変更だ。枚方に行こう。枚方の駅前ならビジネスホテルはあるだろう。僕は国道の信号交差点で緑の公衆電話を見つけて、イエローページに載っているビジネスホテルに電話をした。満室だという。そして枚方にはここ一軒だと教えてくれた。困ったなぁ。

 僕はホテルの人に旅館を聞いて見た。枚方公園駅に旅館があるが名前は知らないという。しかたがない。僕は枚方公園駅まで引き返すことにした。そうだ。枚方は有名な菊人形祭りのあるところだ。旅館はあるはずだ。しかしまた予約でいっぱいだったらどうしよう。僕は祈るような気持ちで枚方公園駅に急いだ。と言っても時速6キロメートルなんだけど。

 

 駅前の旧街道らしい細い道の奥に大川旅館があった。女将さんが遠来の客を抱きかかえるように出迎えてくれて、電動車イスの充電の世話もしていただいた。ここも今では建設関係者の長期滞在型旅館のようだけど、昔の旅籠の名残りが今もあるように感じられた。初っぱなから予定が狂ったけれど、これが「 電動車イスひとり旅 」のもうひとつの顔なんだ。

 

 

4月10日(火)
 朝6時半に出発。今朝もまだ寒かった。だんだん朝起きるのがつらくなってきた。布団から離れるのに時間がかかる。全身に温かい血が回り切っていないのに起きるのは苦痛だ。こんなときには頭の血の巡りも悪くて、とんでもないヘマをやらかす。ヤッチャッて気が付くときもあるから、用心のしようがない。
 出発のとき、ご亭主と女将さんにそろってお見送りをしていただいた。もう70代ぐらいだろうか。元気なご夫婦だ。いつまでもお達者で! 本当は大川旅館で朝定食を食べたかった。きっと心がこもって美味しかっただろうに。でもまたコンビニ弁当だ。野菜ジュースも飲んでいるけれど、やっぱり栄養のバランスが心配だよなぁ。

 

 八幡市に入った。大きく広がる水田地帯だった。この辺りから淀川にかけての一帯は、その昔古代ヤマト政権の第26代継体大王が開いた河内王朝のあったところとされている。宮殿があった樟葉(くずは)の地名もあるし、古来ここは渡来人が多く住むところで、彼らが軍馬を育てた牧野という地名も残っている。

 実をいうと僕は前から継体大王という人に興味があった。そして継体大王の育った越の国にも興味があった。それはヤマト政権の支配が及ぶ以前の、縄文期か弥生期の越の国に興味があったといった方が正確かもしれない。果たしてヤマト政権以前の越の国の人たちとはいったいどんな人たちだったんだろう。僕の尽きぬ想像の世界だ。

 

 そんな越の国から男大迹王(をほどのおおきみ)はやってきた。今の感覚から言えば、町会議員がいきなり無投票で総理大臣になったようなものかもしれない。派閥・門閥を避けて大和に入らず、この枚方で河内王朝を開いた、その政治感覚。しかも当時の枚方は宇治川・瀬田川・琵琶湖の水運を利用すれば越の国につながっているし、木津川を登れば奈良大和に近い。そのまま船で淀川を下れば難波の津に直結し、あるいは大船を仕立てれば瀬戸内海から北九州に届き、はては朝鮮半島を望むことが出来る。枚方は当時の水運交通の重要な要衝だった。

 継体大王はすでに男大迹王のころから百済とは密接な外交関係を持っていただろうし、枚方に移住した百済からの多くの技術者たちともすでに交流があったのかもしれない。イヤ、当時の航海路は瀬戸内海だけでなく、日本海も重要なルートだった。継体大王はヤマト政権と関係なく、越の国の三国湊(みくに・みなと、福井県坂井市三国町)から朝鮮半島への独自の交易ルートを持っていただろう。継体大王は優れたバランス感覚を持った政治家であると同時に、豊かな国際感覚の敏腕な貿易商でもあったのかもしれない。ああ、僕には越の国への思いは尽きないのだ。

 

 木津川を越えた。京都に入った実感がした。そしてまもなく宇治川大橋も越えた。横大路の交差点で成町にある寿々喜荘と電話連絡が取れた。これで今夜の宿はひと安心だ。一刻も早く宿に入って、明日のために身体を休めることが先決だ。伏見の街を電動車イスで旅館寿々喜荘を探し回った。旧街道からそれたところにやっと見つけ出した。コンビニ弁当を買って部屋に落ち着いた。伏見には小料理屋さんがいっぱいあって、おばんざい料理もあるのに。僕はコンビニ弁当。僕は、おーばんざい( 万歳っ )!の叫び声を上げてから喰らいついた。己(やん)ぬる哉(かな)の思いだった。

 

 

4月11日(水)
 京都のおなごはんはよく言われる。愛想たっぷりの表情をしていても、目は決して笑っていないとか。口で言うことと実際にやることとは違うとか。心の中は好いている人にも見せないとか。こっちになびいてくれているのかと思うと、たちまちつれない態度とか。ほんまに、人がええのか、” いけず ” なんかよう分からんとか。しかし京都のおなごはんは、キツおすわなぁ~、とも言われる。
 旅館寿々喜荘の女将さんは、30歳半ばの若女将で趣きのある女性だった。女将さんとして素人なのか玄人なのか。つかずはなれず、親切すぎることもないし、不親切でもないし。

 昨晩、電動車イスの駐車と充電を頼んだときも、本当に愛想よくて自宅の乗用車をどけて、軒のある駐車場に入れてくれた。しかし今朝出発するときには、消費税として250円の追加をツルっとした顔で言い渡された。消費税と称して追加料金を請求されたのは初めてだった。あれは駐車料金とバッテリーの充電代だったのかなぁ~。

 そんなことはともかくとして、僕は今日、和邇浜(わにはま)のユースホステルを目指す。1日の行程としては今までで一番長い約38キロメートルになる。僕は朝の6時きっかりに伏見を出発した。よ~し、今日は最長不倒距離を達成するぞーぉ。とは言っても4月の半ばというのになんという寒さだろう。真冬用の手袋をしていても指先がジンジンしている。

 

 まず竹田街道を南に下って宇治川に出る。そこから左折して伏見街道に入り観月橋を渡らず宇治川とお別れして六地蔵(ろくじぞう)まで進む。六地蔵は昔からの交通の要衝だった。ここには奈良街道、大津街道と今通ってきた伏見街道の三つが交差している。このまま上れば山科(やましな)から大津へ、琵琶湖畔をさらに北上すれば北陸・越の国(こしのくに)に通じる。南に下れば宇治平等院で宇治川を渡って木津川に沿ってさらに南下すれば奈良・平城京、さらに下れば大和の国・明日香(あすか)に至る。

 このルートは現代風に言えば、太平洋ベルト地帯の東京都と大阪・神戸間をつなぐ東名・名神ハイウェーか国道1号線に匹敵する。古代の政治・経済・外交・産業をむすぶ一大幹線ルートだった。

 山科川からもう少し行くと小野と深草に行き当たる。平安京のころの歌人小野小町に恋い焦がれていた深草少将(ふかくさのしょうしょう)が、百日間通い続けたら結婚するという言葉を信じ、九十九日目の雪の夜に凍死したという逸話が残っている。ホンマ、京都のおなごはんは、キツおすわなぁ~。あかんっ、京都歴史散歩になりそう!

 

 すぐに山科駅前の国道1号線から追分の名神高速道路のインターチェンジにぶつかった。気が付いたら合流地点の高速道路を走っていた。あわてて逆戻り。近道を探してようやく1号線に戻れた。もしパトロールカーに見つかっていたら。ドキドキものだった。
 それからの逢坂峠(おうさかとうげ)越え。ここは京に入る東海道の最後の難所。京の七口(ななくち)のひとつ、逢坂の関(おうさかのせき)があったところ。山と山に押しつぶされたような登りの峡谷に、細い国道1号線と東海道本線が並んでいる。歩道はない。大型輸送トラックやライトバン乗用車などが、僕の肩先をかすめるようにしてどんどん上っていく。谷間を吹き抜ける冷たい風が顔を刺す。頑張れよ、セニヤくん。もうすぐ頂上だ。

 そしてまもなく161号線との分岐点。そのままだらだら坂を下って、ようやく浜大津の街並みが見えてきた。やっと逢坂峠をこえた。しかし緊張しながらハンドルをにぎっていた僕の腕の筋肉が、ガチガチに硬直してもう動かなくなっていた。

 

 僕はびわこ競艇場の辺りから左折して大津市役所を目指した。大津市役所の前には高い石段があって庁内に入れない。困ったなと思ってよく見ると、大津歴史博物館の案内標識がある。こっちの方が断然イイヤ。僕は気力を振りしぼって博物館への急な坂を登っていった。その坂道には目を見張るばかりの立派な石垣があった。それはまるで戦国時代の城郭のようだった。

 大津歴史博物館では充電中に備え置きの車イスを貸してくれた。でも身体障害者割引は大津市民だけだった。京都市じゃ~、広島県交付でもOKだったのに。「 大津市・志賀町合併一周年記念企画展 」と「 大津の歴史と文化 」常設展があった。面白そうだけど、まず居眠りだ。2階の暖かいフロアロビーで休憩することにした。琵琶湖が一望に見渡せた。絶好の居眠りスポットだった。学芸員さん、ゴメンナサイ。

 

 小野に入ってから、また身体が傾(かし)がってきた。和迩川(わにがわ)にかかる橋を渡ったら和邇南浜の道標が立っていた。ああ~、やっと着いた。橋のたもとの自動車修理工場でユースホステルの場所を聞いた。次にコンビニも教えてもらった。コンビニで弁当とペットボトルのお茶と野菜ジュースと菓子パンを仕入れてからユースホステルに向かった。和邇ユースホステルは集落のいちばん奥にあった。この辺りには民宿や旅館が何軒も建ち並んでいる。だけどシーズンオフでみんなひっそりしている。和邇ユースホステルはユースホステルというより海の家だった。ペアレントマネージャーはやっぱり旅館主といった感じの70代ぐらいの老夫婦だった。僕はさっそく二泊出来るか確かめた後、
 「 個室をお願い出来ますか 」と尋ねた。
そしたら琵琶湖がよく見える一軒家に入れてくれた。きゃっほーっ! 喜んだのもつかの間、
 「 畳が傷むから、部屋で杖を使うなら気をつけてっ 」と言われてしまった。
その平屋の別荘からは、琵琶湖の白浜が一望に見渡せた。僕はさっそくシャワーを浴びて着替えをして電気コタツにもぐり込んだ。だんだんに暮れなずむ白砂青松の美しい景色を眺めていると、よくぞ1日でここまで来られたもんだと思う。これは大きい。これからの「 旅 」に自信を与えてくれる。あははは! 自然に笑えてくるほど、うれしかった。

 

 

4月12日(木)
 明け方、布団の中でタンタンタンタンという懐かしい焼き玉エンジンの音が湖水に響き渡るのが聞こえた。あれは漁師さんだろうか。それとも夜釣り客が帰って来たんだろうか。朝焼けの湖(うみ)を覗いてみようと起き上がったけれど、身体のあっちこっちが痛くてまた布団に戻ってしまった。今度目を覚ましたら大快晴だった。

 

 今日は何をして遊ぼうか。よし、大洗濯をしよう。簡単に朝食をとって、僕は例によって浴槽の中で洗い物もろとも命の洗濯を始めていた。 前庭で洗濯物を干していたら、宿主の老婦人が草取りをしていた。

 

 「 おはようございます。この辺りは本当にきれいな所ですね 」
 「 景色はキレイなんだけんど、家がボロになってしまってねェ 」
 「 もう古いんですか 」
 「昔は海水浴でいっぱいお客さんもあったんやけんど、今ではさっぱりやで。借金して家を改築しても、

  よう返し切らん。それに自治会の建替えの規則がやかましいんよぅ」
 「 はああ~ん 」
 「 民宿をやめてここから出て行く人が多いから、すっかりさびれてしもうたわぁ~。頼まれて隣の家を

   買うたんやが、修理せんとそのままやから、それが気になってねぇ 」
 「 こんなきれいなところに住めたらいいなぁと思うけど、いろんなこともあるんですね 」

 

 それで部屋で杖を突くなと不平を言っていたんだ。僕は笠岡屋ユースホステルのことを思い出していた。

 僕が大阪に住んでいたころは、海水浴と言えばせいぜい堺の浜寺公園ぐらいで、しかも日帰りだった。須磨やこの近江舞子(おうもみまいこ)に泊まりがけで海水浴に行くのはよっぽどのお金持ちだった。今では貧乏人でもハワイに行ける時代だ。ただ美しい白浜でのんびりするのはもう流行(はやら)ないのかもしれない。シーズンオフに京都からフォークグループやロックバンドが土日に練習に通ってくるから、それで何とかしのいでいると老婦人はいう。

 宿主夫婦は元は京都に住んでいて、火事で焼け出されて遠縁を頼って和邇浜まで流れてきたそうだ。当時は地主家主には火事の保障を受けられたけれど、借地借家人には何の保証もなくて裸同然で放り出された。民宿を始めたころは景気も良かったけれど今ではさっぱり。今さら京都に帰っても誰もいないし、結局ここでやって行くしかしかたがないという。僕はこの老夫婦がこれまでどんな道のりを歩んできたのか、想像していた。

 

 散歩がてら昨日のコンビニへお昼ご飯を買い出しに出かけた。そしてイエローページで明日の宿を探して電話をした。何軒か電話してやっと近江白浜の白浜荘に予約が取れた。ひと安心。電話口に出た番頭さんは僕が歩いて旅をしている者ですというと、ええっ~!とスットンキョウな声を上げていた。僕はその声が面白くて笑いをかみ殺していた。こんな正直な驚きの声を上げられる人はきっとイイ人なんだろうなぁ~。会うのが楽しみになった。 

 ついでにイエローページを確かめると、「まきの宿(しゅく)」にも数軒の旅館があることが分かった。これは大収穫だ。さらに心配していた杉津にも六軒の民宿があることが分かった。これも大大収穫だ。この時のホッとした気持ちはすぐには言葉に出来なかった。これで福井まで行けるっ!

 

 僕は別荘に帰らず、そのまま前浜でお昼のお弁当を食べることにした。ピクニック気分だった。電動車イスのタイヤが白砂に埋まりはしないかちょっと心配だったけど、意外に固かった。どこかで二泊したいとここまで我慢してきた甲斐があって、やっと今、最高の気分を味わっている。

 この淡海(おうみ)の海(み)、きらきら輝く青い湖(あおみ)、そして比良山の山並み、白砂の浜に打ち寄せるさざ波。耐えた後にこそ必ずイイことが待っている。そんなもんだネ、人生は。あっ、浜千鳥が飛んでいるっ! そう言えば、柿本人麻呂は『万葉集』で詠んでいた。

 「 近江(あふみ)の海(み)夕波千鳥(ゆふなみちどり)汝(な)が鳴けば
                   心もしのに古(いにしへ)思ほゆ 」 (巻三 二六六) 

 ああ~、柿本人麻呂が見たそのままの風景じゃないか! 僕はまったく今、万葉の世界にいる。なんて気分がイイんだろう! 

 柿本人麻呂は、心もしのに、古(いにしえ)の何を懐かしく思っていたんだろう。大津の宮のことだろうか。薄夕暮れの湖(うみ)に飛びかう浜千鳥に、何を託したんだろう。柿本人麻呂には何か心のうちに秘めた思いがあったんだろうなぁ。

 そのとき、とんびが2羽、喧嘩をしながら何か黒いものをついばんでいるのが見えた。それは鳥の死骸だった。この美しい白浜で万葉の世界に浸っていても、現実の世界ははるか昔から生きものたちの生存競争が事も無げにくり返されている。生と死がある。このようにして自然界は成り立っている。そして人間もその自然界の一員だ。
 僕は目を上げて北の方の空を見た。比良山系のはるか彼方にほんのりと雪をかぶった山々が見えた。僕はあの山の峠を越えて行くのだと思った。ぶるっと武者ぶるいかと思ったけれど、浜風にさらされて身体が冷えきっていた。充分に堪能した。思いを残すことはない。僕は急いで別荘に引き返した。

 

 部屋に帰って、さっそく電気コタツを「 強 」にセットして中にもぐり込んだ。ようやくひと心地ついて昼寝と決め込んだ。のはよかったんだけれど、このうたた寝で本格的な風邪引き状態になってしまった。背中がぞくぞくするし洟水(なはみず)がずるずる止まらないし、目もかすんできた。調子に乗って白浜で遊び過ぎた。今日は早寝しよう。でも僕はティッシュペーパーで鼻をかみながら熊野介護センターのヘルパーさんたちへハガキを書いていた。


4月13日(金)
 僕は老夫婦にお礼を述べて、国道に飛び出した。いろいろ大変なこともあるでしょうけれど、どうぞいつまでもお達者でお暮らし下さい。ありがとうございました。

 

 今朝も曇り空に浜風が吹いていて寒かった。昨日見た山々は見えなかった。僕はまた同じコンビニで食料を仕入れた。今は少し落ち着いているけれど風邪引きがぶり返さないかちょっと不安だった。身体は気だるいし腰はちぎれそうなぐらい痛い。ヤバイなぁ~。
 それでも我慢してJR湖西線の志賀駅までやって来た。駅には高架下の改札口しかなかった。駅員さんに事務室に入れて下さいとは頼めそうにない。もう一度国道に戻ると、滋賀郵便局が見えた。そうだ!、今日は金曜日だった。郵便局が開いている。僕はキャッシュカードでお金を下ろしてから、事務室に入り充電をお願いした。局長の川端さんと女子職員の藤森さんがいた。川端さんは丁寧にコンセントに延長コードを差し込んでくれた。局内は暖かかった。助かった。ひと心地ついた。そして僕はもう恥も外聞もなくおおっぴらに居眠りを始めていた。途中で何人かのお客さんがあったようだけれど、もう他人様のことを気にしていられなかった。

 

 僕はたっぷり2時間休憩し充電することが出来た。外を見ればお天道様が照っている。正直なところ動きたくなかった。しかし行かなければどうにもならない。僕は川端さんに心から長居(ながい)をしたお詫びとお礼を言った。川端さんも藤森さんも、やさしそうな表情でほほ笑みを返してくれた。あとはもう一目散に白浜荘になだれ込むだけだった。何処をどんなふうに走ったかまるで覚えていない。ちょっと熱っぽいのか頭も痛い。とにかく前だけを必死に見ていた。そしてまもなく白浜荘が見えた。そのときは本当にうれしかった。これでゆっくり眠れると思った。

 

 白浜荘はただの旅館ではなかった。本館は高層の豪華なホテル。フィットネスのスポーツ施設付き。別館は和風旅館。もうひとつ、トラックドライバー用の簡易ビジネスホテル。屋外にはテニスコートとオートキャンプ施設もある、総合レジャーセンターだった。

 僕はフロントで僕の名前を告げた。「 総合マネージャー 」のIDプレートを胸に付けたタキシード姿の支配人が現れた。もう ” 番頭さん ” とは呼べなかった。思った通りまだ若かった。僕は電話予約の中田ですというと、一瞬、驚いた表情の後、歩きの旅は電動車イスのことだと悟った支配人は、すぐ元の笑顔に戻った。この切りかえが実に見事だった。お客さんを観る目というのは、年齢や経験ではなく、接客業の天性かもしれない。支配人は、

 

 「 お客様には、別館和風旅館の一泊朝食付税込みで5600円でご提供させていただきます。本館ホテル

   の最上階が男性専用の大展望浴場がございますが、別館の女性専用風呂をお使いになって結構でござい

   ます。さいわい本日は女性客はおいでになりませんので。別館入口は段差が御座いませんからご安心下

   さい 」と、

 

よどみない口調で説明してくれた。そして支配人自ら別館に案内して部屋まで僕のデイパックを持ってくれた。電動車イスを玄関内に入れてくれてコードをコンセントに差してくれた。その身のこなしも見事だった。 部屋は和室だったけれど、12帖ほどもあって、床の間に段違いの飾り棚と立派に細工された欄間も付いていた。小さな庭があって池には鯉が泳ぎ、石灯籠も立っている。これでシングル料金とは僕には極楽のように思えた。

 さっそく風呂に行って身体を温めようと思った。だけど女性専用風呂と聞いては何だか気が咎める。結構大きな浴場だったけれど、僕は端っこの方へちょこっと遠慮がちに身を沈めた。誰もいないのに何だか恥ずかしい(笑い)。それでも僕はついでにパンツとシャツを洗わさせてもらった。ゴメンナサイっ!

 

 部屋に帰って、オイルファンヒーターの前に手ぬぐい掛けを置いて洗濯物を干した。電気コタツに入ってテレビの天気予報を見ながら冷たいコンビニ弁当を食べた。明日も今日と同じくらい曇り空で寒いらしい。

 僕は追坂峠越えは車が少ない日曜日の朝と決めていた。そのためには明日土曜日には「まきの宿に」着いていなければならない。明日も休めないのだ。外はまだ明るいけれど僕は眠ることにした。

 

 夜、何度も寝汗で目が覚めた。身体が熱っぽかった。浴衣が絞れば水が出てくるくらいに濡れていた。備え付けのもう一枚の浴衣に着替えてしばらく眠ったけれど、また寝汗で目が覚めた。オイルファンヒーターで乾かしてまた浴衣を着替えてまた眠るのを一晩中繰り返えしていた。その度に悪寒がおそってきた。呼吸が荒くなって身体が硬直していた。クリーゼ(呼吸困難)になるかもしれない。もしここでクリーゼを起こしたら、ホテルに救急車を呼んでもらっても助からないかもしれない。怖くなった。僕は電気コタツにもごり込んで、ありったけの毛布をかけて、じいっと天井を見つめていた。

 

 

4月14日(土)
 ちょっと眠れたのかな。朝は幾分か持ち直していた。でも「 旅 」をあきらめる気にはならなかった。出発の用意をして、僕は本館ホテルの一階レストランでバイキングスタイルの和朝食を食べた。本格的風邪の一歩手前、僕は体力維持のためにもモリモリと食べた。もう一度会いたかったけれど、” 番頭さん ” はいなかった。あの ” 番頭さん ” は、この白浜荘の跡取り息子さんなんだろうか。それともただの社員なんだろうか。いずれにしてもきっと立派なホテルマンになるだろう。

 

 本当は国道161号線に戻るのが近道なんだけど、僕は304号線の回り道を行くことにした。安曇川(あどがわ)の河口を見たかった。

 この辺りは渡来人で海人(あま)族の安曇(あずみ)氏の本拠地だった。古代、この河口には大きな湊があって、交易船が何隻も停泊していたことだろう。風邪引き状態なのにやっぱり僕の粋狂グセは直らない。しかしただ葦の原があるだけで往時を偲べるものは何もなかった。ここにきて辺りの風景は一変した。原野と田畑が広がるだけで人家がまるっきりない。人も車も通らない。この広い空間に僕ひとり。少し不安になった。もしここで僕に何か起きても誰も助けてくれない。これからの北陸はずうっとこんな調子なんだろうか。覚悟はしていたものの、正直僕は怖くなった。

 

 寒い。身体も震え出した。頭が痛くて身体は熱っぽい。その上お腹がグルグルと鳴ってキリキリと痛い。朝ご飯を食べ過ぎたのかなぁ。風邪と疲れと緊張が一気にやって来た。道の向こうに大きな風車が見えた。何かのレジャー施設かもしれない。僕は急いでそっちへ向かった。
 そこは「 道の駅 しんあさひ風車村 」だった。暖かそうなレストランを目指した。出て来たウェイトレスに休憩と充電を申し込んだ。” まだ開いていませんっ ” と、見て分からないのっと言わんばかりに断られてしまった。トイレだけでもと思ったけれど、あまりの怒気にひるんでしまった。しかたなく国道に戻って、ええいっ、こうなったら野糞だっ。覚悟を決めて、それ向きの適当な茂みを探した。

 

 しばらく行くと、贅沢は望めないけどまあまあというところを発見した。僕は杖をついて電動車イスから立ち上がった瞬間、我慢していたものが一気に噴き出してしまった。間に合わなかった。安心してお尻の筋肉がゆるんでしまったんだ。悔しいやら情けないやら。

 それでも用を足して、寝っ転がって全部脱ぎ捨てて下半身はすっぽんぽん。冷たい風がお尻に突き刺さる。泣きたい気分だ。幸い目の前に用水路があった。僕はお尻丸出しで匍匐前進(ほふくぜんしん)して汚れたところを手洗いした。着ていたものも水洗いした。手がちぎれるほど冷たかった。

 そしてまた匍匐前進して車が来ていないことを確かめてから、電動車イスのデイパックからパンツを取り出した。あわてて着替えをしたけど、ジャージーズボンの替えはない。これ一本だけ。手しぼりの濡れたままを履かなければならなかった。

 ようやく体勢を整えて、誰も見ていなかったことを確認して、何事もなかったかのように電動車イスを走らせた。濡れたジャージーズボンが冷たい風に当たって僕の全身を凍らせた。肛門さんが切れそうなぐらい痛かった。

 

 国道161号線と交差する信号までやって来ると、すぐそばに高島市新旭水鳥観察センターがあった。入場料を払って充電をお願いして、僕はたっぷり2時間、温まることが出来た。
 ようやっと「 まきの宿 」に入った。先ずコンビニで弁当を仕入れた。駅前のマキノ観光案内所に行った。人がいっぱいだった。ここってそんな人気観光スポットだったの? 予想外だった。僕は宿泊案内のコーナーに行った。若い女の子だった。
 「 駅にいちばん近くて、いちばん安い旅館ですね 」
 「 ハイ 」
 「 それなら喜楽さんがいいと思います。一泊朝食付です。電話を入れておきましょうか 」
 「 ハイっ、よろしくお願いします 」 
僕はもうひとつ大事なことを聞いておかなければならなかった。
 「 すみません。この先の追坂峠はどんな道路状態になっているのか、教えていただけませんか 」
 「 当方(うち)では宿泊案内だけで、道路のことは分かりません 」 僕は、
 「 ありがとうございました 」と言って引き下がった。

 

 マキノ町の歴史を書いたパンフレットがあったので読んでみた。「 まきの宿(しゅく) 」は古代から奈良時代にかけて西近江街道の陸路と海路の要衝として栄えた町で、駅家(うまや)が置かれた。駅家とは律令制で設置された主要な諸道の公用の旅行・通信のための施設とある。ああ、やっぱり「 まきの宿 」は峠越えの重要な拠点だったんだ。僕が追坂峠を越えるためには「 まきの宿 」の一泊が必須条件になると判断したのは大正解だったんだ。僕は今、古代人と同じ目線で「 旅 」をしている。いや僕自身がすでに古代人なのかもしれない。

 

 昔の旅人は歩いて旅をした。もしも路銀( ろぎん・旅費 )が事切れたり、また世間をはばかる渡世人、無宿人なら野宿も覚悟だった。途中で病気になっても誰も助けてくれない。いずれは野垂れ死。野良犬かカラスに食いちぎられるのが落ちだろう。雨露がしのげる宿の温かい布団は極楽だ。たとえ一汁一菜の麦飯でもおおご馳走だ。「 電動車イスひとり旅 」でここまでやって来て、僕はそんな昔の旅人の気分がよーく分かったような気がする。楽で早くて便利な現代の旅に逆らって、サポートしてくれる人もいなくて、携帯電話も腕時計も持たないで、時速6キロメートルで1日に20~30キロのひとり旅。

 

 それにしても現代の観光案内所は追坂峠の道路情報を持っていなかった。その代わりがケータイ電話の道路情報なんだろう。現代の ” 駅家 ” の仕事は変わってしまっているし、もう必要がないのだろう。今や追坂峠も車でひとっ飛びだ。昔の旅人は駅家にたどり着いて、ここの人たちに迎入れられたとき、どんなにホッとしたことだろう。現代人はケータイ電話や車にどれほど感謝しているんだろうか。ただ当たり前に使っているだけなんだろうな。これって本当に人間が進化していることになるの? 今ではあまり知られていない「 まきの宿 」が、僕には特別の感慨を持って思い出される場所になった。

 

 旅館喜楽は古い旅籠のイメージの残る旅館だった。僕に相応しいと感じられた。宿に入って部屋に落ち着いて、早い時間だったけれどお風呂に入れてもらって、申し訳ないけれど着ているもの全部大洗濯させてもらった。他のお客さんが入って来ないように祈りながら(大苦笑)。
 ああ、夜露に濡れないで、暖ったかい布団で眠られるのなら、極楽だ。明日はいよいよ追坂峠越えだ。早い目に寝よう。

 

 

4月15日(日)
 今朝はもう下痢は治まったように思う。風邪も少し持ち直したようだ。よかった。よし、しっかり朝ご飯を食べて体力をつけておこう。

 お膳に「 まきの宿 」の特産品の山菜漬け物が出ていた。辛くて舌が腫れあがりそうだった。保存食なんだろうなぁ。昔の旅人はおにぎりをもらってこれを腰に携えて、そして旅籠を出て行ったんだろうか。僕は我慢して有り難くいただいた。

 出発のとき、奥の調理場からご主人が割烹着姿のまま現れて、” 気をつけて行ってらっしゃいっ ” と、厳(いか)ついけれど愛嬌のある笑顔で挨拶してくれた。この老舗旅館を守るため、どうぞ頑張って下さい。

 

 「 まきの宿 」を離れるとたちまち人家はまばらになって、だだっ広い野原にで出た。山の方に向かって道路が1本あるだけ。一見なだらかそうな坂道は、どんどん勾配を上げて見る見るうちに標高を上げていく。今日は敦賀まで宿はない。何が何でも行くしかないのだけれど、こんな坂じゃバッテリー消費が早いんだろうなぁ。地図帖で見る限り集落も何もなさそうだ。道路幅はせまくて路肩は小さい。でも思ったほど車は多くなかった。峠越えは日曜日で正解だった。

 

 だんだん山が迫ってきて谷が深くなってくる。その分お天道様は道路まで届かず、日陰は寒かった。やっぱり心配した通り、バッテリーランプが点滅しはじめた。だけど山の真ん中で何もない。どこか民家に飛び込んで充電のお願いをしなければならないか思っていたら、三叉路の信号があってそこにJOMOの大きなガス・ステーションがあった。地図にはなかったのに。でも助かった。充電料金を取られるかもしれないけれど、今の僕は何より身体を温めたかった。これ以上風邪をこじらせたくなかった。

 

 僕は若いスタンドマンに充電のお願いをした。気軽に、
 「 いいですよ 」と言ってくれた。
そして長距離ドライバー用の休憩室に案内してくれた。休憩室には大型のオイルファンヒーターが取り付けられていた。スタンドマンはコンセントを指し示してくれた。僕は、
 「 お世話になります 」とお礼を言うと、若いスタンドマンは、
 「 これが仕事ですから 」と笑顔で応えて、素早く仕事に戻っていった。
そのきびきびとした動きがとてもさわやかだった。カッコイイなぁ~。僕は自動販売機の温かいココアを飲んだ。冷えて疲れた身体に沁み入るようだった。

 

 このガスステーションは整備工場のほかにLPGステーションも兼ねていて、大型輸送トラックが引っ切りなしにやって来る。ここは野口信号といい、国道8号線に通じる分岐点になっていた。スタンドマンたちは広いステーションの構内を走り回って仕事をしていた。みんなこの近辺に住んでいる若者たちなんだろうか。よく動くなぁ~!
 空も明るくなって晴れてきた。充分に休憩したし充電も出来た。僕はさっきのスタンドマンを探した。大型トレーラーを給油口に誘導していた。終わるのを待ってお礼を言った。スタンドマンは照れ臭そうに笑いながら、
 「 自分は当たり前のことをしているだけですから 」 その言葉に心動かされた。僕は聞いてみた。
 「 普通、ガソリンスタンドで働いている人たちを何て呼んだらいいんでしょうか? 何かカッコイイ呼び

  方って、あるんでしょうか? 」
 「 さあ~、特に思いつきませんねェ~。SSマン・・・? ぐらいでしょうか。大した職業でもないです

  から 」
若いスタンドマンは気恥ずかしそうに答えた。僕は、
 「  ありがとう  」を言った。でも僕は本当はこう言いたかったんだ。
 「 実は僕もプロフェッショナルでフリーランスの身体障害者なんだけれど、大した職業じゃぁ~ないんで

   す(笑い)。でも僕は胸を張って身体障害者ですって言うことにしているんです。だからあなたも胸を

   張って『  俺はSSマンだっ! 』って言って下さい  」
でも僕がこの若者に気軽にそう言えるのは、もう二~三度ここを通ってからだ。でももう二度と会うことはないだろう。名前を聞かなかった。お元気で! そして、頑張って下さい。

 

 山の頂上に近づくにつれて161号線は高速道路並の快適な道路になった。広い歩道も付いている。晴れて気温も上がってきた。見上げれば青空が見える。それは早春の清(す)んだ空だった。安心して走っていられるということは、いいことだなぁ。気が付けば第1級国道なのに前も後ろも車は一台もいなかった。静かだ。近くの林で鳥の啼く声が聞こえた。のどかな春の歌声だった。ああ、気持ちいいなぁ~。幸せなだなぁ~。

 

 それは不思議な時空だった。もし車の騒音が途切れていなかったら、僕は鳥の鳴き声を聞くことはなかっただろう。僕はしばし電動車イスを止めて鳥の声に聴き入っていた。

 

 そのとき、道路が震動していることを電動車イスの車体から感じた。車が登って来るのだと思った。その震動からそれは大型トラックだということも分かった。しかもかなり速度をあげているようだ。僕は危険を避けるために広い路肩へと退避した。

 やがて大きな車の爆発音が山肌に反響して聞こえてきた。その後ではるか前方のカーブから大型輸送トラックが姿を現した。黒い煙を噴き出して猛スピードで駆け上がってくる。僕は動かずその大型輸送トラックが行き過ぎるのを待っていた。後ろの安全を確かめてから僕は電動車イスの走行レバーを押してゆっくりと出発した。

 

 僕はこのとき、五感のすべてを研ぎ澄まして、事前に危険を察知して、それに対処していた。全身で見えないものを見て、聞こえないものを聴いていた。僕は「 旅 」をする中で、いよいよそんな境地に達したのかと感じた。そんな感触が、僕の身も心もすっきりとした快感になっていくのを感じさせてくれた。

 

 山はひとつだけで山ではないんだ。山と山が連なり、それが山脈というひとつの生き物になるんだ。そして山は大地とつながり、森や林や木の葉っぱの一枚とまでもつながっている。この大地に在るすべての森羅万象が、有機的なつながりの中で生きている。小鳥も人間もその輪の中にいる。そんなこと、今までは頭の中で知識として分かっていたけど、それを今、僕は身体全体で体感したように思える。

 

 さっき鳥の声を聞いたとき、それは心に沁み入る思いだった。時速6キロメートルの「 電動車イスひとり旅 」。世間様から見れば何てバカげてムダなことをやっているんだと思うかもしれない。しかしこの大自然と一体に成れたと感じるその瞬間が、僕に新しい生命力をもたらしてくれた。これこそが僕の「 旅 」の意味だったんだ。もしあのとき、車の騒音が消えたあの一瞬に鳥たちの声を聴かなかったら、果たして僕はこんな心境になっただろうか。それはまさしく天祐だったと思える。鳥くん、ありがとう!

 

 長い坂の頂上を越えると、「 ようこそ、福井県へ 」の大きな看板が目に入った。ああっ、いよいよ、福井だ。ヤッター! ついにここまで来た。僕は一歩一歩、越の国に入っていく。そのことがたまらなくうれしかった。
 国道8号線を一気に下りてきて、「 ようこそ、敦賀市へ 」の標識がある最初の交差点でビジネスホテルを見つけたとき、緊張が一気に溶けて力がヘナヘナと抜け落ちていくようだった。敦賀駅前まで我慢しようと思っていたけど、もうこれ以上の力はなかった。僕はそのリビエラというビジネスホテルに泊まることにした。

 

 50代後半の女性がオーナーだった。予約だけ済ませた。これで今夜の宿は確保できた。もうひとつやっておかなければならないことがある。明日泊まる杉津(すいづ)の民宿を確保しておかなければならない。僕は交差点に電話ボックスを見つけて飛び込んだ。

 杉津の民宿六軒に次々と電話をしたけど、電話がつながらなかったり、もう廃業していたり、長期休業中だとかシーズンオフで開業していないとかを告げられた。アセッた。そして最後の一軒の民宿かずやでは、もう泣いてすがらんばかりに頼み倒した。やっと予約が取れた。このときはもう全身の力が脱け切って電話ボックスの中に崩れ落ちてしばらく動けなかった。これで武生(たけふ)に行ける思ったとき、ホント、大げさだけど、泣けるほどうれしかった。僕はもう一度気力を奮い立たせて、コンビニへ弁当を買いに出かけた。

 ああ~、何か、力の出る美味しいものを食べたいなぁ~。

 

 僕はホテルの部屋に入って取りあえず仮眠をとった。2時間ほどで目が覚めて、コンビニ弁当を食べてからシャワーを浴びた。テレビをつけて天気予報を見た。6時から12時までの降水確率50%、12時以降は70%。雨が近づいている。ちょっと憂鬱になった。でも予約を取った以上は明日は必ず杉津まで行かなければならない。雨が降る前、朝の5時に出発しよう。今日も長い一日だった。それでも無事に追坂峠を越えて、敦賀に着くことが出来た。

 

 

4月16日(月)
 時計を5時にセットしてあったのに、アラームが鳴る前の4時30分に目が覚めた。気が立ってよく眠れなかった。東の空は明るかった。晴れるかもしれない。とにかく雨になる前に杉津に着くことだ。

 国道8号線はまだ暗かった。出発してすぐに小雨が降り出した。敦賀の中心街はアーケードを使って抜けられた。歩行者も車もほとんど見かけなかった。市街地を通り過ぎるころ少し明るくなってきたけど、雨足も激しくなってきた。

 

 大きな信号交差点に差しかかったとき、そのむこうに大きな森と巨大な鳥居が目に飛び込んできた。気比神社だ。薄明るい朝もやと雨が煙(けぶ)る中、大鳥居は超然として起立していた。

 それは周囲を圧する幽深な姿だった。諸手(もろて)をあげて覆いかぶさるような鎮守の杜は、大きく風になびいて、それ自体がまるでひとつの生き物ように、全身で息を弾ませるかのように蠢蠢(うごうご)とうごめいていた。空には墨を垂らしたような低い黒い雲が足早に去って行く。人の心を魅了(ひき)つけて止まないすさまじいばかりの霊気。すごいっ! 越前国一の宮気比神社は、まさしく物の怪の棲み家だった。

 

 市街地を離れてますます雨は激しくなってきた。ビニール傘を左手に持っていても、雨は全身に容赦なく降りかかってくる。大型トラックの風で傘は吹き飛ばされそうになった。電動車イスの車体は傾ぐし、片手運転では危険だ。そのうち国道は川のようになった。ずぶ濡れだ。雨宿りするところもない。どうしよう! 赤崎というところでコンビニを見つけた。僕は店の軒下に飛び込んだ。

 ウィンドブレーカーもその下のシャツも、すでにびっしょりと濡れていた。ああ、また風邪をこじらせてしまう。このまま杉津に行くのは無理だ。敦賀に帰ろうか。

 そのとき、コンビニにはビニールのカッパがあるかもしれないと気付いた。薄い透明のビニールカッパ上下を見つけた。早速僕は買って、トイレでパンツも着替えてカッパを着込んだ。僕はここまでの「 旅 」に、カッパひとつ持たないでやって来た自分のアホさ加減が情けなかった。雨はどしゃ降りで小降りになる様子すらない。やっぱり行くしかないのだ。いまさら敦賀に引き返せるかっ!

 

 国道8号線の右側は切り立った絶壁、ガードレール一本へだてて左は断崖。その下には敦賀湾。道路には路肩がなくて、双方一車線の細い国道が峻険な山と敦賀湾の間を縫うようにクネクネと通っている。道路に叩きつけられた雨水が空中に舞い上がり、もわぁ~とした霧状態。ほとんど視界がきかない。多分大型トラックの運転席からは、道路の隅でごそごそ動いている僕の電動車イスはよく見えないだろう。

 道路の轍(わだち)に流れる雨水はチャラチャラと音を立てて、もう川となっている。車が通るたびにまるで大きなバケツで狙いすましたように僕の全身にその川水をぶちまけて走り去って行く。大型トラックが電動車イスの車体を少しコツンと突っついただけで、セニヤくんもろとも僕の身体は敦賀湾上に飛び出して行くことだろう。でも僕は不思議とさほど怖いと思わなかった。

 

 「 へんっ、当たるなら当たってみろ。当たったって、痛い痛いって泣いてなんかやらないからなっ! 」
僕はカナダ横断の旅のときに、宮下さんが今の僕と同じように大雨の中、大型トラックの雨飛沫(しぶき)を全身に浴びながらサイクリング車イスで走っていたことを思い出していた。僕も全身ずぶ濡れになってその宮下さんの写真を撮っていたっけ。それが今、今度は僕が大雨に打たれて走っているなんて、なんという奇妙な因縁なんだろう。そんなことを思い出していると滑稽でクスリと笑えてくるんだ。

 

 松ヶ崎の岬を越えてまもなくコンビニがあった。電動車イスでも入れるほど充分に広かった。店の中は暖房が利いていた。暖ったかいヤ。店員が充電を許可してくれた。僕は熱々の缶入りのホットチョコレートを買って身体を温めた。道路地図帖を見た。杉津はもう少しだ。この充電で間違いなく杉津に行けるだろう。少し安堵した。その途端に僕は疲労で居眠りしそうになった。自分で自分の頬っぺたを叩きとばした。ここで居眠りをしたらまた風邪をぶり返す。眠ってはならないのだ。もう安心だと思ったときが一番危ないんだ。気を抜くな。がんばれっ!


 コンビニを出ると長いトンネルが待っていた。普段ならトンネルはイヤなところだけど、中は暖かくて車の水飛沫も飛んで来ない。このとき初めて思ったもんだ、トンネルって、イイなぁ~!(笑い)
 やっと平地に出た。小さな入江が見えてきた。杉津の町の入り口に郵便局があった。郵便局なら民宿かづやを知っているだろう。僕はキャッシュカードで預金を引きだして場所を聞いた。目の前の坂を下りたところだという。僕は勇んで坂を下りていった。

 

 民宿かづやは二軒あった。一軒は若主人が経営を引き継いでいる旅館かづやで、もう一軒は先代の老夫婦が隠居しながら続けているペンションかづやだった。

 若主人はこのペンションの増築に反対だったらしい。どうもこの親子はしっくりいっていないようだ。僕の前で言い争いを始めた。僕はそんなことはどうでもいいんだ。はやく部屋に入れてくれっと思っていたら、親爺の勝手にしろ!という雰囲気になって若主人が会話を打ち切った。結局僕は先代老夫婦の新築ペンションかづやに泊めてもらうことになった。これで一件落着かと思ったら、今度は先代老婦人が10時半に部屋に入るんなら追加料金を貰うと言い出した。先代老主人が、まあまあ~となだめすかして、ようやっと決着がついて僕はペンションかづやに入ることが出来た。

 

 ペンションのリビングルームからは、杉津の入江と敦賀湾が一望に見渡せる最高のロケーションだった。僕は案内してもらった先代老主人に素泊まり一泊料金¥4000を支払った。現金先払いの方がきっと先代老婦人も安心するだろうと思えた。先代老主人は電動車イスを充電してブルーシートを丁寧にかけてくれた。

 僕は何よりも先ず冷えきった身体を温めたかった。急いで風呂場の浴槽にお湯を張った。風呂場は広く贅沢な造りで、電気温水機が設置されていた。何事もデラックスにゴージャスに。僕は老主人の物の考え方が分かったような気がした。

 洗濯も終わってリビングルームは物干場と化してしまった。やっとひと心地がついた。夕暮れ近くなった敦賀湾を遠望して、無事に杉津に着いた実感を味わっていた。思えば無理をしたもんだと思う。無謀とも言える試みだった。しかしたどり着けば、これでよかったのだとも思える。これで敦賀街道の難所のひとつを越えて、明日は武生(たけふ)に着くメドも立った。これでよかったんだ。

 

 それにしてもひどい一日だった。よくぞあんな断崖絶壁の雨の中を、事故に遭わないで来れたもんだ。怖くないわけではなかった。でも先に進みたいという欲求の方が勝っていたんだと思う。その強い欲求が恐怖心を打ち消していた。最大の難所を最悪の気象状況下で風邪引きの最悪コンディションの中を飛ばしてきた。

 四肢に力がみなぎって、生きていることの実感を堪能(たんのう)していた。そしてやり遂げた充足感がここにある。過ぎ去れば、けっこう楽しかったなぁ~。何のことはない。結局僕はバカなんだ。こんなことでしか、生きていることの実感が得られないなんて、アホだっ!

 

 

4月17日(火)
 でも昨日の夜はそのままでは終わらなかった。やっぱり風邪をぶり返してしまった。熱で身体が思うように動かない。布団を何枚も重ねても寒さは取れないし、全身が小刻みに震える。寒いのに身体は熱っぽく寝汗ばかりかいている。着替えのシャツもなくなってきた。

 頭も腰も、とにかく全身の関節が痛い。寝苦しくって寝返りを打てば、呼吸がゼーゼーと乱れて息苦しい。小さな反射式の石油ストーブで濡れたシャツとパンツを乾かしながら、その合間合間に睡眠をとっていた。  

 やっぱり心配をしていたドカンっがやって来たんだ。ここでクリーゼ(呼吸困難)を起こしたら、どうにも手の打ちようがない。この家の先代老夫婦は重症筋無力症という難病なんて何も知りはしないだろう。

 

 もしものとき救急車は敦賀に行くの? それとも武生? 救急病院に難病の専門医は絶対いないだろう。福井まで行けば何とかなるかもしれない。そうだっ。富山には筋無力症友の会の支部がある。ということは神経内科の病院があって難病の専門医がいるということだ。でも果たしてそれまで保つか? 時間との勝負だ。もし富山の病院でドクターストップがかかったらそれっきりだ。札幌には行けない。香西さんとも会えない。そんなこと、絶対にダメだ。何とか気力と体力で風邪を治そう。クリーゼなんかに負けてたまるかっ! 僕にはやらなきゃならないことがあるんだ。暗い天井の一点を見つめて、僕は不安と緊張におののいていた。

 

 それでも明け方には少しは眠ったのかもしれない。先代老主人が現れた。出発の時間なのに姿を見せない僕の様子を見に来たらしい。9時を回ったという。僕は、
 「 風邪引きで出発出来そうにないのでもう一泊お願いします 」と頼んだ。先代老主人は、
 「 ああ、いいよ 」と言って母屋に帰っていった。しばらくしてもう一度老主人が現れた。
 「 うちのばあさんが、もう一泊するんだったら先に銭(ぜに)を貰って来いというもんやで 」 
 「 ええ~っ?! 」と、僕は思ったけど、先代老婦人ならそれぐらいは言うだろうと納得した。
僕はデイパックからお金を取り出そうとすると、もじもじしていた老主人が聞いてきた。
 「 飯はどうするのん? 食べんわけにはいかんでぇー。この先にコンビニがあるけんど、弁当を買って来て

   やるか」 
と言ってくれた。

 僕は親切だなぁと思った。そして宿泊費の¥4000ープラス弁当代として5000円札を手渡した。これでゆっくり休める。どうやら雨は上がったらしい。部屋にかかる木漏れ日が少しづつ晴れてきていることを教えている。何とか明日は出発したいんだけどなぁ。しばらくして老主人が弁当を持って帰って来た。そして、
 「 ストーブの灯油代としておつりは貰っとくよ 」とおっしゃった。

 

 老主人が帰っていった後、僕は思わず苦笑した。あの老主人は灯油代と称して、お使いのお駄賃が欲しいかったんだ。車で行ったからガソリン代だ。可愛らしくも、なんて子供じみた姑息なことをするんだろう。金が敵の世の中だ。しかたがない。とにかく眠ろう。

 

 4月18日(水)

 朝目覚めた時は、身体が少し軽くなっているように感じられた。ガラス戸を開けて空気の入れ替えをした。曇り空で冷んやりしていた。テレビの天気予報は夕方から夜にかけて雨。6時30分。よし、早い目に出発しよう。

 

 国道8号線に出た。まだ車は通っていなかった。静かだった。また僕の妄想タイムが始まった。あの先代老夫婦は元々は何の仕事をしていたんだろうか。漁師さんだったんだろうか。もとから旅館業だったんだろうか。何か違う気がするなぁ~。

 元々は杉津の田舎に住んでいた気のいい若夫婦だったのかもしれない。戦争が終わって昭和30年代から40年代にかけて神武景気がやって来て、人々の生活も落ち着いて豊かになってそこへレジャーブーム。新しい時代の観光スポットとして杉津辺りに海水浴のお客が押し寄せるようになった。

 

 ご先祖様からの大きな家を改築して海の家や民宿経営。たちまち日銭が入ってくる。わずか2ヶ月ほどで1年分の稼ぎが出来る。つらい漁師仕事よりなんぼか楽だ。みんな現金(かね)の魅力に取り憑かれてしまった。

 借金して新築増改築。杉津の町を上げて観光ブームに有頂天になった。しかし時代は変わって海水浴のお客はめっきり少なくなってしまう。廃業や転業。だんたん杉津の町も寂れていく。賑わった過去の思い出と借金だけが残った。地道に働いていた人の心もすっかり変わって、一獲千金の儚(はかな)い夢と、現金に対する執着心だけが残った。あの先代老夫婦はそんな人たちの中のひとりだったんだろうか。ああ、こんな妄想ばかりしているようじゃ、僕のアホは直らないね。大反省。

 

 杉津の街並みが終わったところで8号線はだんだん山の方に向かっていた。やがて大きな建物が目に入って来た。「 道の駅 河野 」。大型トレーラーもゆうゆうと駐車できるパーキングエリアがあって、レストランやベンダーショップ、レストルームやトイレも完備している。観光案内所もあった。

 レストルームには段差がなく直接電動車イスで入れた。中は広々として暖かくて清潔に掃除されていた。居眠りするのも充電するのも最高の場所だった。へぇ~っ、道の駅というものがあるのは知っていたけれど、こんな便利なもんだとは知らなかった。なぜ今まで気が付かなかったんだろう。これからの「 旅 」に強力な味方になってくれそうだ。イヤッホー、大発見だ。

 

 僕は福井にいるE・メールクラブ『 つれづれの部屋 』の仲間の akemi さんに電話をした。思えばメールのやり取りをしていても、話をするのは初めてだった。僕は手短かにいま河野の道の駅にいること、今夜は武生(たけふ)に泊まること、宿が決まったらもう一度電話をすることなどを話した。これで akemi さんとつながった。僕は安心してもうひと眠りすることにした。akemi さんの声は、メールでの文字から受ける印象とは違っていた。どう違っているんだろう? これも会ってからの楽しみだ。僕は、強力な「 旅 」の味方になってくれた「道の駅 河野」にありがとうを言って出発した。

 

 それからは山の中へどんどん進み、見る見るうちに標高は上がっていく。国道は心配したほど段差はなくて軽快だった。果たして頂上に登り切る手前で武生トンネルが姿を現した。

 武生トンネルは上り2車線と下り2車線のそれぞれ2基のダブル構造になっている。ふたつのトンネルの入り口にはコンクリートや巨岩でがっちりと固められていて、それはまるで地下ステーションか核シェルターに入る監視ゲートのようだった。僕はジュール・ヴェルヌの冒険小説『 地底探検 』( 原題:地球中心への旅 )を思い出していた。よーし、地底探検へ突入だ。

 トンネルには照明が点灯(つ)ていたけれど歩道はなかった。そうだよね、こんな山の中を歩いて通る人なんていないよね。広い排水溝の上にはコンクリート版が敷設してあってガタガタだったけれど、電動車イスでもゆうゆうと通れた。

 

 トンネルを出るとそれからは下り坂で、僕は一気に武生の街へとなだれ込んだ。市街に入ると武生駅前に向かった。駅前に武生パレスホテルという立派なホテルがあった。もう疲れ切って宿探しも面倒になっていた。贅沢だけどここに決めた。

 フロントに行くとシングルルームが空いているという。もちろん充電もOK。僕は部屋に入ってすぐにユースホステル福井青年会館に電話をして明日の予約をとった。部屋は空いていた。ああ~、よかった。ようやっと無事に武生にたどり着いたと実感を持った。長い一日だった。

 

 僕はシャワーを浴びながらシャツやパンツやソックスの洗濯を始めた。ビジネスホテルでは溜まった下着の洗濯は日課になってしまった。ボロボロになった下着やパンツは途中で捨て荷物も大分軽くなった。デイパックも雨風に打たれてぼろぼろになっていた。

 例によって洗濯物をルームエアコンの前にぶら下げたり、電気スタンドの傘の上に置いたり、テレビの上に並べたりして乾かした。部屋は洗濯物だらけだった。その中で冷えたおむすび弁当を胃袋に流し込んでいた。来る途中で何軒かレストランや食堂はあったけど、飯よりも宿が先決だもんなぁ~。いったん部屋に入ると、さあ~食事に出かけましょうなんて気力はさらさらなくなっちゃう。やっぱり僕にはコンビニ弁当しかないんだね。ホント、ちょっとでイイから、何か美味し~いものを食べたいよなぁ~。

 

 僕はふたたび akemi さんに電話をした。今、武生駅前の武生パレスホテルにいることを報告。ところがびっくり、akemi さんはこれからホテルまで来るという。車で飛ばせば30分ほどだという。ええっ、僕はあわてた。部屋はシャツやパンツの洗濯物だらけ。ジャージーも全部洗って着るものがない。洗濯物を急いで取り込んで浴衣着のままで待つことにした。

 午後7時過ぎ、akemi さんはフロントからの連絡なしにいきなりドアのノックととも登場した。akemi さんはスラッとした長身にスラックスを履き、センスのいい服を着こなし、髪の毛もボーイッシュにまとめた別嬪(べっぴん)さんだった。挨拶を交わす声は少しハスキーがかっていた。僕は正直うろたえた。下着やパンツを片づけておいてよかった。実はもっとおばさん然とした女性を想像していたけど、大間違いだった。   akemi さんはあれやこれや打ち合わせをした後、すぐに福井へと帰っていった。僕は別のことで疲れて果てていた。だって正直に告白すれば、いい年こいても僕は今だに女性は苦手で、晩稲(おくて)なんだもん。

 

 

4月19日(木)
 昨夜も寝汗をかいて良く眠れなかった。でも杉津の夜ほどではなかった。少しは快方に向かっていると思う。とにかく持力で風邪を治すんだ。
 僕は福井鉄道福武線に沿って北上して福井入りをすることにした。6時30分に出発して8時過ぎに鯖江に到着、鯖江市総合健康福祉センターで休憩と充電。福武線に戻って三十八社口(さんじゅうはっしゃぐち)の交差点で、一膳飯屋麻生食堂の看板が目に入った。電動車イスでも入れそうだった。受付の中年女性は僕を見てびっくりしていた。僕は店内にただよう美味しそうな匂いに昏倒しそうだった。アツアツの卵焼きを食べたいと思ったけれど、陳列ケースにない。厨房の賄いの女の人に、
 「 焼き立ての卵焼きを食べたいのですが、作ってもらえませんか 」と聞いてみた。
その女性は、” よっしゃー、任せなさい ” とばかりに胸を張って引き受けてくれた。僕はみそ汁と酢の物と漬物と野菜サラダも注文した。さてどんな卵焼きが出てくるものかと待っていたら、それは極く普通の卵焼きだったけれど、極く普通の家庭の食卓を飾る手料理そのものだった。ほんわり湯気立つその卵焼きのなんと美味しかったこと!

 

 食事中、後からやって来た60代のご夫婦が僕の目の前の席に座った。二人そろって両ひじ付いてお椀は音を立ててずるずる吸い込むは、御飯は大口に掘り込んでふっちゃくっちゃとほお張り、テーブルの上にご飯粒をまき散らし、終わりにお茶をすすって口の中でぶくぶく鳴らし、仕上げはゲップに爪楊枝で歯をチリチリとせせり出した。僕は僕の食事を台無しにされたような気がした。
 「 なんでぇっー?、他にもテーブルがあるのに、よりによって僕の前に座るわけっ?! 」
せっかくイイ気分で食事をしていたのに。

 

 でもこの老夫婦は仲がよさそうだった。おばあさんはおじいさんに魚の骨を取って身をほぐしたり、みそ汁をふうふうと冷ましたり、お茶を注ぎ直したり、おじいさんのこぼしたご飯を自分の口に入れたり、何くれとなく世話をしている。おじいさんの方はその度におばあさんの方を見てほもほもと頷いている。

 ひょっとかしてこの痩せこけたおじいさんは若いころから病気がちだったのかもしれない。このおばあさんが身の回りの世話から家計のやりくりまで、全部面倒を見て来たんだろうか。人にはそれぞれいろんな人生がある。ちょっと見では分からない。僕はさっきまで悪態をついていたけど、心の中で、” お二人さん、お元気でネ ” と話しかけていた。

 勘定をするとき、さっきの賄い婦さんに、
 「 卵焼きがとっても美味しかった、ありがとうございました 」
と言ったら、当然でしょう!とばかりに胸を張って笑っていた。

 

 昼過ぎに福井市に入り、ユースホステル福井青年会館にチェックインした。僕はもう青年ではないから少し面映ゆい(苦笑)。青年会館ではベッドのある個室を用意してくれた。僕は2日間、福井市民になるんだという気分だった。さっそくシャワーを浴びて昼寝をした。

 まもなく akemi さんがやって来た。今夜は akemi さんの友人で僕のことを応援してくれている人たちが歓迎会を催してくれるという。ひとりは松本真人さん。松本さんは老人福祉施設の事務局長をなさっており、僕が熊野を出発以前に、akemi さんを通じて、障害者が旅をするときの心得などを教えて下さっていた。

 もうひとりはニックネーム・ジェーソンこと古村道夫さん。ジェーソンさんは消防署に所属する救命隊員だった。でも今夜は夜勤になって出席出来なくなったとのこと。akemi さんは歓迎会の前に福井市内を案内するから出直してくるという。僕の臨時の市民生活はにわかに忙しくなってきた。

 

 akemi さんが5時過ぎに青年会館にやって来た。これから市内観光だ。まず福井城に行った。天守閣は消失したけれど、石垣は創建当時のままだそうな。福井城は江戸幕末の名君といわれた松平春嶽の居城だった。坂本竜馬がこの城で松平春嶽と会っている。してみるとこの石垣を坂本竜馬も見たんだ。何か感慨深いなぁ~

 そのあと市内を回って、車は足羽川(あすわがわ)を渡る橋に通りかかった。足羽川の堤や土手には一面に菜の花が咲いていた。時は夕暮れどき。菜の花の黄色が夕陽の橙色に溶け込んで、それはかつてこの地球上に存在したことのないような色を醸し出していた。僕は思わず ” わあーっ ” と声を上げていた。僕は akemi さんに気づかれないように心の中で歌を歌っていた。

   ♪ 菜の花畠に 入日薄れ 見わたす山の端(は) 霞ふかし
     春風そよ吹く 空を見れば 夕月かかりて にほひ淡し ♪    
                      (文部省唱歌 「朧月夜(おぼろづきよ)高野辰之詞)」

僕はこの足羽川の堤に小宇宙を感じた。
 この後、足羽山に登った。薄暗くなった山道に一瞬、ヘッドライトで照らされた白いカタクリの花を見た。この山は野草の種類の多さで知られているらしい。でも不思議な山だなぁ~、この足羽山は。硬さを感じる。山全体に漂うこの空気感。福井の街のど真ん中にあるのに、けっして福井の街に馴染んでいない。それはまるで独立したものであることを自己主張しているようだった。

 

 歓迎会のトンカツやさん「 蔵 」。お店の中に入ったら先に松本さんは来ていた。改めて自己紹介をした。松本さんは50代後半ぐらいで、恰幅のいい人だった。松本さんは若いころに東京暮らしをしていて、郷里の福井に帰るために東京から甲州街道や中仙道を継(つ)いで歩いて帰ったことがあるという猛者(もさ)だった。

 そしてやっぱりいつも通り、何故電動車イスで何故ひとりで何故携帯電話も持たないのかというところから会話は始まった。そして結果もいつも通り充分に理解は得られなかった。しかたのないことだ。

 松本さんは老人介護施設の事務長をなさっている。松本さんの口調や物腰にはどこか管理する側の人たち特有の匂いが感じられた。ご自分では気が付いておられないかもしれないけれど、管理される側からはすぐにそれと分かるものなんだ。それもしかたがないことだった。
 akemi さんが『 つれづれの部屋 』のみんなのメールをプリントして手渡してくれた。僕は久しぶりに懐かしい仲間と再会した思いだった。そして今夜参加できなかったジェーソンさんの手紙も預かってくれていた。僕は akemi さんに送られて青年会館まで引き上げてきた。疲れて風呂に入る気もしなかった。でも『 つれづれの部屋 』の仲間たちのメールはゆっくり読み返した。そこには僕の体調への気遣いと無事に札幌到着を支援する言葉が書き綴られていた。熱いものが一気にこみ上げてきた。ありがとう!、『 つれづれの部屋 』の皆さん。
 ジェーソンさんからの直筆の手紙には、

テリーさんこと
中田輝義 様

あなたの意気込みと冒険心に感動しております。
旅の途中の安全と心身の健康に充分注意をして頑張って下さい。
本日はテリーさんに会えないですが、
自己紹介がてら手紙を加藤女史( akemi さん)に預けます。なかなか手紙も送れないみたいなので、
このような形で失礼します。
                                 ジェーソンこと、古村通夫

 手紙には写真が添えられていた。消防士のヘルメットにアメリカ国旗のマントを羽織りアイスホッケーのマスクをつけて手斧まで持って、ホラー映画『13日の金曜日 』の殺人鬼ジェーソンそのまんまの扮装の写真だった。僕は思わず笑えてくるよりも、9・11テロで亡くなったニューヨーク市の消防士の遺族たちへの募金活動をする人が、何故殺人鬼のジェーソンの扮装をするのか。そのことにすっごく興味を持った。何か意味があるんだろう。僕はジェーソンさんに直接聞きたかったけれど、今夜会えなくて残念だった。
 そして akemi さんてどんな人なんだろう。松本さんて本当はどんな人なんだろう。そんなことを考え始めると、疲れているのに僕はやっぱり興奮しちゃって眠られなくなっていた。ああ~、臨時福井市民生活は1日目から忙しいや。

 

 

4月20日(金)
 今日は「 旅 」のお休み日なのに、やっぱり6時に目が覚めた。もう少し寝ていようと思ったけれど、早起きがクセになったのか、と、まだうつら~っとしているとき、 akemi さんがやって来た。ドアーの外に合図したかと思うと、今度はジェーソンさんが例の『13日の金曜日』の扮装まま叫び声をあげて飛び込んで来た。いきなりでびっくりした。ジェーソンさんは救命隊の夜勤明けで一睡もしていないのに、昨晩参加できなかったお詫びにと僕を歓待してくれているんだ。僕にはその気持ちがうれしかった。いろいろお話ししたいこともあったけど、これから家に帰って眠ると言われれば、引き止める訳には行かなかった。

 ジェーソンさんはこれからの日程を聞いた後、
 「 あわら温泉に行きませんか。芦原(あわら)には公務員用の宿泊旅館があります。割引料金で宿泊でき

   ますよ」

と言っていただいた。

 温泉で一泊かぁ~。予想もしていないことだった。願ったり叶ったりだけど、それは親族身内だけということで、僕はジェーソンさんの妹婿ということになった。福井で突然、僕に義理の兄さんが出来た。書類が必要なので明日の出勤前の6時にここのフロントに預けておくと言われる。そしてもし「 旅 」の途中で何かあったら、救命士の私まで連絡下さいと言っていただいた。大感激だった。結局最後までジェーソンさんは扮装のままで、僕は義理のお兄さんの顔を見ず仕舞いだった。どうなっちゃってんだろうか。愉快な人だけど、やっぱりちょっとヘンかなぁ~。

 

 

 ジェーソンさんが帰って行ったあと、akemi さんが、
 「 何かお役に立つことがありませんか 」
と尋ねてくれた。僕のデイパックがもうぼろぼろになっていたので、
 「 カバン屋さんに連れて行って下さい 」
とお願いすると、もう使わなくなったハイキング用バッグあるから持って来てあげるという。僕は甘えることにした。こんな時間なのにakemi さんは仕事を抜け出して来てくれたたんだろうか。そう言えば、akemi さんは何のお仕事をしているんだろう。家庭の主婦っぽくないし年齢不詳だし。akemi さんも愉快な人だけど、やっぱりちょっとヘンだと思う。そして松本さんも歩いて東京から福井に帰ってくるという人だし、どっちかというとやっぱしフツウ じゃないし。福井にはヘンな人が多いのかなぁ~。

 

 僕は部屋に帰ってデイパックの荷物を整理した。旅の荷物は軽い方がい い。それは人生の「旅」も同じかもしれない。自分の身についた余分なものをそぎ落とし、自分の生き方に見合った本当に必要なものを荷物に詰める。執着心を捨てれば、身も心も、「 旅 」はすっかり軽やかになる。
 夕方、akemi さんが再来訪。約束のバッグを持って来てくれた。手ごろな大きさなんだけど、ピンクというか牡丹色というか、とにかく目立つ。女性用だからしかたがない。 でも天からの贈り物だ。そして今日まで僕といっしょに「 旅 」をしてくれたデイパックに、” ご苦労さんでした、ありがとう!” のお礼とお別れを言った。僕はakemi さんに、僕の代わりに『 つれづれの部屋 』の仲間へメール送信で書き込み入力して下さいと手紙を託した。akemi さんは快く引き受けてくれた。

『 つれづれの部屋 』に集う、なつかしい皆様へ、

皆様方の応援の声を、一部、akemi さんのプリントにより拝読しました。
みなさんの温かい励ましの言葉に大感激しております。ありがとうございます。
元気に「 旅 」を続けております。

kurikuri さんは書かれました:
今年の春の天候はほんとに不安定なので、大変だろうなと思っていました。
時々見かける電動車椅子、のんびり歩道を走っているのを見ます。
テリーさんもこうしているのだろうか。しかし、荷物を乗せるスペースの狭さに驚いています。
今更ながらテリーさんの「 最悪パンツは掃き捨てします 」の言葉の意味を感じています。
歩道をのんびり走っている姿を想像していましたが・・・
そうですよね。北海道まで安全な歩道が繋がっているわけないですよね。
トラックと併走してしまうんですよね。しかし、テリーさんはそれも承知で走っているんですね。
ただただ、無事に帰還なさることを祈っています。    

                                                                                                             くりくり

メール文をありがたく拝読しました。
読み終わって、” 僕の「 旅 」を分かってくれている ”、涙があふれるほどうれしかったです。

i.Tera さんへ、
いつも僕の身体を心配してくれているあなたのメール文を読み、大感激しました。
大きな元気をもらいましたよ。

minebou さんへ、
元気でやってますか? 帰ったら、またメ~ルの中でいっぱい飲りましょう!

JUNJIさんへ
気比の松原へは行けませんでした。心に余裕はありますが時間の余裕がありません。素通りでした。
でも早朝雨にけぶる気比神社の大鳥居と杜は、それ自体が生々しく息づいていて、
それを見られただけで大満足でした。

fumifumi さんへ
『 つれづれの部屋 』を取りまとめていただいて感謝の言葉もありません。
僕のことを実際の弟か、身内同然のように気づかっていただいている心情が伝わってくる
fumifumi さんの文面に、言葉に、心が熱くなりました。ありがとうございます。

みなさまへ、
僕は間違いなく無事に帰ります。沢山の楽しいお土産話をもって。待っていて下さい。     
僕はこの福井の地で新しいエネルギーをいただきました。感謝の心でいっぱいです。
そして又、明日からの「 旅 」へと突き進むことができるでしょう!

 

ありがとう! 福井っ!
ありがとう! akemi さん!
ありがとう! 『 つれづれの部屋 』の仲間たちっ!
                                terry 拝。 07. 04. 20

  
 そのあと、僕は akemi さんが「 加藤曙見(あけみ)」という書家であることを初めて知った。akemi さんがこれまで10年以上取り組んできた筆墨文字による書作展の作品集を見せてもらった。僕は、
 「 プロとしてやっているんですか 」
と聞いたら、プロではなく、一時、師についたことはあるけれど、書家の団体の封建的な体質が嫌いで今はどこにも所属しない、独学でやっているという。金沢や東京で個展を開いたこともあるけれど、地元の福井ではジェーソンさんや松本さんやごく親しい人しか知らないという。それなのにこの書作展の小冊子を僕に見てほしいという。それはとっても光栄なことだけれど、なにしろ僕は明日の朝福井を出発しなければならない。じっくり拝見しようと思っても時間がない。もう少し早く教えてくれたらなぁ~。でも akemi さんが決心するのも時間が必要だったんだろうし。僕は感想を必ず手紙で送ることを約束して、お元気で!を告げて、さようならをした。

 僕は部屋に入ってから明日の用意を点検してベッドに入った。このまま静かに僕の臨時の福井市民生活は終わるはずだった。でも僕は作品集から目を離されなくなって、結局夜更かしをしてしまった。

 

 

4月21日(土)
 出発の朝が来た、ちょっと寝不足気味だった。6時に用意を整えてフロントに下りるとすでにジェーソンさんからあわら温泉の「 旅館  越路 」の助成券、ジェーソン さんの身元保証の証明書。それと「 旅館 越路 」までの詳しい地図。その手書き地図にはジェーソンさんの実直な人柄が表れていた。

 

  外は雨だった。いつもこうだ。休みの日に晴れるのに、出発する日はきっちりと雨だ。今日からは牡丹色のハイキングバッグが新規のお仲間だ。セニヤくんと仲良くやってね、牡丹ちゃん。そうだ、君は女の子で牡丹ちゃんという名前にしよう、あっはっは! 僕はビニールカッパに身をつつんで出発した。

 

 午後2時過ぎ、やっとあわら温泉の越路に着いた。小さな旅館かと思ったら近代的な高層ビルの超豪華なホテルだった。僕は間違いなくジェーソンさんの義理の弟ですという顔をして、フロントでチェックインを済ました。電動車イスは広いロビーの隅に駐車をさせてもらって充電した。
 部屋から広い田んぼでトラクターが代掻きをしているのがよく見通せた。身体が冷えきっていた。さっそく大浴場に向かった。僕は疲れながらも杖をついて大浴場に行ける自分にびっくりしている。このまま元気になればいいなぁ~。そうはならないだろうなぁ~。後でまたドカンと来るのが怖いなぁ~。杉津で風邪で唸っていたのがまるでウソみたいだ。

 

 部屋で休憩していると、ジェーソンさんから電話が入った。無事についたのかい?と僕の安否を確かめてくれる。どこまでも心やさしい人だ。すぐにもう一本外線が入った。今度は akemi さんからだった。同じように僕の到着を確かめる電話だった。

 僕はしばらくしてもう一度 akemi さんに電話をした。
 「 もし明日日曜日でお休みならあわら温泉までお出でになりませんか。お話したいこともあるんです 」akemi さんは、
 「 お伺いします 」と即答してくれた。
 僕はもう一度書作展の作品集を読み直した。それから夕暮れが暗くなるまでぼんやりと越前平野と春の農作業を見ていた。暗くなってもうトラクターの姿は見えないのに、タンタンタンというエンジン音だけが畑一面に鳴り響いていた。その暗い畑の真ん中を、えちぜん鉄道三国芦原線の一両電車の明かりだけが、ゴトンゴトンと音を立てて通り過ぎて行った。遠くの山の稜線が空中に浮かんで見えた。きれいな景色だった。ああ、熊野を出発してちょうど4週間、1ヶ月。もう 1年も昔のように思えるなぁ~。

 

 

4月22日(日)
 朝起きてテレビの天気予報を見れば、北陸地方は嶺南嶺北とも大雨注意報。僕は無理をして akemi さんに芦原に来てもらうのが気の毒になった。僕は akemi さんが来るまでひと眠りしたいと思った。「 旅 」の疲れも感じる。うとうとしているところに akemi さんがやって来た。僕は思わず握手をして、よく来られましたネ!の挨拶のハグをした。akemi さんはびっくりしていた。ゴメンナサイ!(笑い) だけどやっぱり僕にすればわざわざ来てもらって大感激だった。やっぱり人恋しさもあったんだネ。 akemi さんは、
 「 何処に行ってみたいですか 」と聞いてくれた。僕は即座に、
 「 三国港と九頭竜川の河口を見たい 」と答えた。

 

  僕たちは車に乗って出かけた。途中には起伏に富んだきれいな田園地帯が広がっていた。果樹園では梨の木がかわいらしい花を咲かせていた。30分ほどで三国の街にやって来た。akemi さんが地元の名所旧跡を案内してくれた。その後僕たちは「 道の駅 みくに 」ヘ行き、酒まんじゅうと揚げ立てのはんぺんを買ってお昼にした。僕は話を切りだした。

 

 僕は akemi さんの「 書 」のオリジナルを観ていない。この印刷された作品集から推測するだけだ。いったいこの書家はどんな気持ちで「 書 」に取り組んでいるんだろうか。その心構えとは何なんだろう。作品集で akemi さんは言う。

 

 「 私は私のために書いている。それは人に見てもらえるようなものではないかもしれないけれど 」
 「 私は『 書 』を描いている。絵を墨で描いているつもりでいる 」

 

 作品集は加藤曙見という一人の書家の成長の記録であり、また心の変遷だと思えた。それは世間の無理解に対する慟哭(どうこく)であるのかもしれない。墨文字の一字一字がそれを雄弁に語っている。

 

 表現者は誰でもその人なりのアプローチを持っている。要は完成作品だという考えもあるけど、アプローチの方法でその作家の体質がわかる。これは大いなる矛盾だ。自己矛盾は決して悪いことではない。創作活動の源だ。その自己矛盾と試行錯誤の中で作家は磨かれる。

 

 加藤曙見という作家は、ここまで書画壇を離れて一人でやって来た。意地や自負もある。何の後ろ盾もない苦労は、長年フリーランスのプロカメラマンでやって来た僕にもよく理解出来る。孤独ほどむごい作業はない。しかしそれが宿命だ。

  その上であえて akemi さんに伝えたかった。もう少し心に余裕を持てないだろうか。自分だけに固執するのではなくて、素直な気持ちで他の作家のアプローチを学ぶことで、自分の表現の幅が拡がる。たとえ他人の心ない感想や批評にさらされても、だからと言って決して自分の値打ちが下がる訳ではないんだ。

 

 書画壇や作家たちの団体というものはどうしても醜悪な一面を持っている。しかたがないんだ。人間がやっていることだもの。清濁併せ呑む。その心の余裕がその作家の作品に奥行きと深みを与える。人間的な成長がある。
 それを今の akemi さんに言っても理解してもらえないだろう。言ったところで聞ける状態ではないのだろう。待つしかない。見守るしかないのだ。

 僕は akemi さんの話を聞いているだけで、結局何にも言えなかった。長い付きあいになりそうだ。海の方からモクモクと雲が立ち上がってきて、やがてポツポツと雨が降りだした。僕たちはベンチから引き上げて車に戻った。

 そしてあわら温泉まで帰って来た。ホテルの玄関前で akemi さんに、ありがとうとさようならを言った。akemi さんは、
 「 気を付けて、お元気で 」と言ってくれた。
雨が激しくなりそうだった。僕は去って行く車が見えなくなるまで見送っていた。

 

  部屋に帰った僕は、ドッと疲れが出て動けなくなっていた。やはり緊張して話していたんだろう。でも快い疲れだった。

 僕はこんな会話に飢えていたんだ。ついぞ最近、熊野に移り住んでからも、作品づくりとか人生論とか、話し合う相手がいなかった。それは心にぽっかりと穴が空いたようで淋しかった。疲れたけれど心の中には充足感があった。やっぱり僕はこんな人間なんだね。表現とか創作とか、そんなヤクザな世界にしか生きられないんだ。

 

 

第6信 さあ〜、富山へ行こう

 

4月23日(月)

 出発の朝が来た。元の「 ひとり旅 」に戻る。さあー、富山に行こう。そして今日は月曜日だ。官公庁が開く。今日の予定をどうしようか、セニヤくん。ここから金沢まで2日かけるとしたら、今夜は小松泊まり。ちょっと長くてキツイかなぁ。コマ切れで行くなら今夜は大聖寺辺り。旅館かビジネスホテルはあるだろう。先ず305号線で吉崎に行って充電。しかしあわら温泉街を抜ける道路を間違えて、回り道の29号線に出てしまった。

 この二日間、福井でのんびりして「 旅 」の勘が鈍っちまったんだろうか。まあ、いっかっ。でも大阪までと比べて、あんまりギスギスしなくなったなぁ~。ジタバタしてもしかたがないという気もするし。余裕も出て来たんだろうか。多少の自信もついたんだね、キット。

 あわら温泉街を抜けるとゆるやかに起伏に富んだ平野に出た。青い麦畑が一面に広がっている。麦の穂先が波のようにゆったりと揺れて、その輝きのなんて初々しいこと。だけど野原を吹き抜ける風は冷たい。僕はビニールカッパを取りだして防寒着かわりに着込んだ。ビニールカッパって、便利だ。

 

 小さな湖が見えた。北潟湖だ。この先に吉崎御坊(よしざきごぼう)がある。でもだんだんお腹がグルグルと鳴って差し込んできた。吉崎まで保ちそうにもない。僕は一度琵琶湖で我慢しすぎて下痢をしくじったことがある。覚悟を決めて、杖をつきながら茂みに入って行くと、おあつらえ向きの二股になった枯木を見つけた。僕は洋式トイレの便器にようにして跨がった。水洗のノブはなかったけれど、快適だった。湖を眺めて鳥のさえずりを聞いて、今度の野糞はよい野糞だった。

 

 ここかぁ~、蓮如が築いた吉崎御坊は。蓮如上人記念館は立派な御殿のような建物だった。目の前には入江を囲む鹿島の森が広がっている。北潟湖の細い砂州の突端がすぐに外海に通じている。小さな島々が荒波を防いでおだやかな入江をつくっている。ここは天然の良港だ。かつてこの吉崎湊(みなと)は、日本海を行く北前船の中継地として大いに繁栄した。若狭の敦賀、九頭竜川河口の三国湊、その次にこの吉崎湊。海上運輸にも有利だし、京都からの情報も入手しやすい。

 

 僕は何故、奈良や京都の仏教界から追われた蓮如が、次の布教の根拠地としてこんな田舎の吉崎を選んだのか理解できなかった。でもこうしてこの地に立ってみると、蓮如の戦略眼はさすがっ!と思える。

 新しくこの地にやって来た商人たちに海上交易で巨万の富をもたらした。その経済力を基盤にして浄土真宗本願寺派は強大な宗派に成長してゆるぎない宗教王国をつくる。蓮如はまさに総合貿易商社「 本願寺派 」の第八代代表取締役社長として、辣腕(らつわん)をふるう会社経営者だったのかもしれない。

 でも宗教が経済力を持つってどういうことなんだろう。宗教組織と個人の信仰とはどんな関係になんだろう。宗教と政治ってどんな関わりがあるの? 何かしっくりこない。
 記念館内には浄土真宗なのに、何故かモーツァルトのシンフォニーが流れていた。けっしてキライじゃ~ないけど。喫茶コーナーで受付嬢に温かいココアを注文して、窓の外の景色を眺めながら、僕はたっぷり2時間も遊ばさせてもらった。

 

 大聖寺に向けて出発した。着いたところでハッと気が付いた。ここはもう石川県だっ! 全然気が付かなかった。福井県さん、お世話になりました。石川県さん、こんにちは、よろしくお願いします。
 大聖寺駅前には高級ホテルがあって料金が高そうだった。客待ちをしているタクシーの運転手さんに聞いたら、隣りの加賀温泉なら駅裏に安いビジネスホテルがあるという。お昼の2時過ぎでまだ早い。僕は加賀温泉まで足を伸ばすことにした。

 加賀温泉駅裏にあったのはビジネスホテルではなくて簡易旅館だった。聞けば今夜はもうすでに満室だという。参ったなー。大聖寺まで引き返すか。

 僕は加賀温泉駅に戻った。タウンページで調べると小松にはビジネスホテルが数軒あった。僕は電話をしまくって、小松駅前にある「 ビジネスホテル 大地 」に予約が取れた。でも道路地図帖を見たら14キロほどある。ここから2時間半ほどの距離。バッテリーは保たないだろう。この加賀温泉駅で1時間充電して出発するのは3時半。小松駅には6時。もう暗くなっているなぁ。危ないなぁ~。でも宿は確保した。これは賭けだ。行くしかない。僕は臍(ほぞ)を固めた。

 

 僕はどんどこ進んでいた。と言っても時速6キロメートルだけど。もうこのころには段差をどう上手く乗りきるか。カーブでのハンドルの切り方、直線コースでもどうやったらバッテリー消費が少なく運転出来るか。頭で考える前に身体が反応していた。セニヤくんと一心同体になった気がした。そして僕は賭けを楽しんでいる自分にも気が付いていた。何が違ってきたんだろうか。心境の変化か。やっぱり僕はこんな人間なんだとも思える。これが僕の悲しい性(さが)なんだ、キット。
 小松駅に着いたときはもう暮れかけていた。バッテリーも何とか保ちこたえた。「ビジネスホテル 大地  」はすぐに見つかった。僕はコンビニで弁当を買ってからチェックインした。フロントの夜勤の中高年の男性に電動車イスの充電を頼むと、今までそんな経験がなかったらしくって、オーナーに聞いてみるという。電話で確かめてから結構ですと言った。宿泊料金は明日請求するとも言った。僕は充電代を取る気だなと察知した。でももうそんなことはどうでもイイや。それよりも何よりもよくぞここまで来れたもんだと思う。僕は賭けに勝ったんだ。

 

 

4月24日(火)
 「 ビジネスホテル 大地」を朝6時30分に出発した。出発の時に請求書を見たらやっぱり充電代をとられていた。しかたがない。それより僕は今日も、どんどこ進む。” どんどこ村の村長さん ” になるんだ! 余勢を駆って今日は金沢まで行くことにする。途中で金沢ユースホステルに予約を取る。お昼の充電は能美市役所だ。よし、ゴーッ。

 

 軽快に飛ばし過ぎたのか、能美市役所はまだ開いていなかった。どこかに何かないものかと周りを見ると、てらい子育て支援センター寺井ふれあいプラザがあった。入り口にスロープが付いてる。受付けで充電のお願いをすると、中年女性のセンター長が出てきてコンセントに設置してくれた。今日は暖かい。僕はこのまま玄関のスロープで充電しながら居眠りすることにした。でも子供を連れた若いお母さん方が次々にやって来て居眠りどころじゃなくなった。

 ここでは若いお母さんが子供たちと一緒に遊んで、コミュニケーションのとり方を勉強しているらしい。大都会では核家族が増えて、若いお母さんが子育ての方法が分からなくて悩んだりノイローゼになったり。時には我が子を折檻(せっかん)して殺してしまう悲惨な事件も起きている。

 ところが今やこんな田舎都市でも子育て支援が必要になってきているらしい。過疎化が進んで人口の減少。子育ての経験を持つお年寄りが少なくなってきた。ここに集まってくる若いお母さん方には切実な思いがあったんだ。

 

 僕は1時間半ほど粘って出発した。そこからは一気に道幅はせまくなって地方道か生活道のようになってきた。辰口(たつのくち)まできたとき、この先に新しく開通した川北大橋は自動車専用道路だということが分かった。道路地図帖をよく確かめると、なるほど小さい文字で ” 普通車100円 ” と記載(かいて)ある。ありゃ! 計画変更、プラン Bだ。

 しかたがないから僕は旧道の辰口橋を渡って白山市経由で金沢に入ることにした。えらい遠回りになっちゃった。でもこの辰口橋から眺める手取川の風景は見事だった。新道は早くて便利だろうけど、旧道の景色はこんなに素晴らしいんだぞ!って、僕は川北大橋に言ってやった。
 辰口から白山市までの新道路は畑の真ん中を一本ピューと通っていて、車も人も全然通らない。吹きっさらしでとにかく寒い。震え上がった。でもはるか平野のその向こうに雪をいただいた美しい山脈を眺めることが出来た。だんだん北に帰ってるんだなぁ~と感じる。そんな気分に浸っていても寒さは堪える。前方に高い建物の大きな街が見える。あそこまで我慢しよう。

 

 国道8号線とぶつかったところに公立松任石川中央病院があった。見上げるばかりの大きな病院だった。こんな病院があるとこの近辺の人たちは安心だ。中に入ると大きく湾曲した円形型の立派な受付けカウンターがフロアーの中央にデーンと置かれていた。一流ホテルのフロントみたいだ。暖かくって疲労が一気に蕩(とろ)けそうになった。

 受付けで責任者を呼んでもらうと、ナースの服装をした相談係の中年女性が現れた。僕が充電を申し込むとそのナースは、僕を重症の患者と勘ちがいしたらしく(僕はそんなに哀れな姿をしていたんだろうか、苦笑)

、早速別室に案内してくれた。なんとそこは授乳室だった。気恥ずかしいなぁ~と思ったけれどしかたがない。小さな子供がナースに連れられて授乳室に入る電動車イスの僕を見て、不思議そうな顔で後を追っかけてくる。参ったなぁ~。あのねェ~、何でもないんだから向こうへ行ってねっ。

 部屋に診察用のベッドがあった。僕は充電をセットしてからベッドに横たわった。そしてすぐに眠った。気持ちのいい眠りだった。1時間ぐらいで目が覚めた。バッテリーはフルまで回復していなかった。身体が重たかったけれど、いったん充電を中断して金沢ユースホステルに電話をした。予約が取れた。これでひと安心。もう少し寝ていよう。

 

 公立松任石川中央病院を出て、国道8号線から今度は157号線に入った。外はもう夕暮れだった。ちょっとゆっくりし過ぎたかなぁ~。でもあとは金沢まで一本道だ。僕はまた ”どんどこ村の村長さん " になった。

 

 金沢市に入った。ラッシュアワーと重なってしまった。目抜き通りの歩道には通勤帰りの人や買い物客であふれ出ていた。進みづらい。それに金沢の街って、案外坂の多いところなんだね。バッテリーがしっかり警告ランプを点滅し出した。北陸一番の大都会だなぁ~なんて感心していられなくなってきた。
 ユースホステルのある卯辰山(うたつやま)までは金沢市を南から北へ突っ切らなければならない。途中で近江町市場があった。夜食に美味しい惣菜料理でも買っとこうかなと思うけれど、とてもそんな余裕はない。結局コンビニでおにぎり5個と野菜サラダとお茶のペットボトルを買った。

 

 ようやく卯辰山下まで来た。今度はユースホステルへ行く坂の登り口が分からない。自転車に乗った小粋なお姐さんが通りかかった。坂の入り口を尋ねると、
 「 私ぃ、昔、ユースホステルでアルバイトをしたことがあるのぅー 」とおっしゃる。
 「 案内してあげるから、ついて来なさ~い 」
僕はいそいそとくっついて行った。

 お姐さんは自転車で、川端筋にあるお茶屋さん通りをすいすいと走って行く。夕暮れどきに提灯(ちょうちん)の灯がともり、色街の風情(ふぜい)が漂いはじめていた。お姐さんから、
 「 ユースホステルに入るのはまだ早いから、ちょっといっぱい飲っていかない? 」
って、誘われるようなことは、絶対にないようなぁ~、いっひひひ! 
そのときお姐さんが僕の方を振り返って、
 「 この橋を渡って行けばいいから、じゃ~ね 」
と言い残して、ペダルを大きく踏み込んで去って行った。ありがとう!を言う間もなかった。

 

 金沢ユースホステルに着いた。ペアレントマネージャーの小川さんに充電と個室をお願いしたら、部屋番号のない小さな控え室を用意して下さった。トイレと浴室が隣り部屋にあった。さっそくシャワーを浴びた。疲れたけれどすっきりした。そしておにぎり3個をパクついた。せっかくの金沢なのに、トホホだった。でも金沢に着いたんだ。ヤッターっ、だった。

 

 明日はもう富山県だ。富山市には会いたい人がいる。全国筋無力症友の会富山支部長の山崎美智子さん。実は僕が熊野を出発する前に友の会の各支部に「 お願いのこと 」の手紙を出したとき、唯一返事をもらえたのが山崎さんだった。僕の「 旅 」が友の会ではあんまり歓迎されていない中、山崎さんからの手紙に僕は大いに勇気づけられていた。

前略
 お手紙を拝読させて頂きました。
 ご依頼のこと、お引き受けいたします。
 北海道までの長い長い旅、お身体のことがとても心配になりますが、
 新たな一歩を踏み出されました勇気にたくさんの応援をお送りします。
 どうぞご無理をなさらずに、がんばらずに、
 あっち見、こっち見、立ち止まりをなさりながら旅を楽しまれますように。
 道中のご無事をこころよりお祈り申し上げております。
 体調を崩されませんように、くれぐれもお気をつけて下さいませ。
 お会い出来ます日を楽しみにしております
                                 かしこ
    二月二十二日
                             友の会富山支部  山崎美智子

 山崎さんのひらかな文字は、ゆるやかで大きくて上品で、そこには平安王朝の香りがした。僕は出発前から山崎さんてどんな女性なんだろうと、会うことを楽しみにしていた。

 

 

4月25日(水)
 朝のテレビの天気予報では、6時から9時までは雨、午後から晴れ。外はもうパラパラと小雨が降り出していた。僕は6時30分に金沢ユースホステルを出発した。

 

 さて、どうやって富山に行こうか。359号線で富山に向かうのが最短コースなんだけれど、道路地図帖では途中の砺波(となみ)市まで山の中で何にもない。どこかにバッテリー充電出来るところあるだろうけれど、この賭けはしたくない。国道8号線の小矢部市経由には「倶利伽羅(くりから)源平の郷(さと)」という道の駅がある。峠越えになるしトンネルもあるけど、こちらのコースの方が確実だ。だけど隣りの富山県の旅館情報を石川県のタウンページでは調べられない。小矢部(おやべ)に着くまで分からない。小矢部には旅館の一軒ぐらいはあるだろう。この賭けはやらざるを得ない。

 

 寒くて震えながらも「道の駅 倶利伽羅峠源平の郷」にたどり着いた。途中の山々はようやっと冬のモノトーンから、新芽の緑の季節に変わりはじめていた。春の近さを感じさせる。「 道の駅 」には倶利伽羅峠の戦いのミニ博物館があった。館長さんに充電のお願いをしたら快くOKしてくれた。ついでに僕は心で念じるように尋ねてみた。
 「 ところで小矢部にはビジネスホテルはありますか 」 館長さんはいとも気軽に、
 「 ええ、駅前にありますよ 」と、教えてくれた。
ホテルがあるんだっ! よかった。賭けに勝った。

 

 倶利伽羅峠の戦いは、1183年、木曽(源)義仲が平維盛らの平家軍を「 火牛の計 」で破ったことで知られている。木曽義仲は角に松明をつけた暴れ牛4~500頭の大群を平家の陣になだれ込ませた。平家の武者たちはパニックになり、地獄谷へ真っ逆さまに転げ落ちていった。この勝利が転機となって木曽義仲は源頼朝より先に京都上洛をはたす。今でもこの地獄谷で死んでいった武者たちの霊を弔う首塚が多く残っているそうな。

 

 国道8号線はくりから駅を通過してさらに標高があがり、見晴らしもよくなった。この辺りの山は不思議な山だなぁ~。お椀を伏せたような丸い山なのに、それがいくつも折り重なって、谷間は切り立ったように深い。狩人や杣人(そまびと)でないかぎり、迷い込んだらなかなか出られそうにない。倶利伽羅トンネルが見えてきた。レンガ造りの朽ちた入り口には、木立がうっそうと茂っていて気味が悪い。歩道もなく照明灯もなく、中は真っ暗だった。入り口の案内板には長さが962メートルと書いてある。今までで最長のトンネル。何かちょっとイヤな雰囲気だった。

 

 僕は今までどれくらいのトンネルを越えてきたんだろうか。長いのから短いのから数も覚えていない。歩道もない路肩だけで、照明灯のない暗いトンネルを大型輸送トラックや乗用車が僕の肩先をかすめるようにしてバンバンすっ飛ばしていく。

 エンジン音がトンネルの壁に反射してゴウゴウと鳴っている。排気ガスで息が詰まる。路肩には泥のたまりや水溜まりも出来ている。車が吹き飛ばす不潔な水しぶきをかぶることも度々あった。ときどき路肩にはビックリするような物が落ちている。弁当がらや空き缶ならまだしも、ゴム長靴やスニーカー、シャツや男物のパンツに軍手、婦人物のハイヒールが片ッポだけ落ちていたこともあった。まるでごみ捨て場だ。鼻がひん曲がるほどの悪臭も放っている。そんな落とし物にハンドルを取られて車道に飛び出したら、タイミングよく(?)後ろから走ってきた車に当てられたら、それで一巻の終わりだ。バックミラーに気を取られていたら目の前の障害物を見落としてしまう。トンネル内は緊張と不安の連続だった。

 

 さていよいよ、倶利伽羅トンネルの入り口に立ったとき、それが不思議と心は平穏だった。イヤだとか、怖いとか、中に入りたくないだとか、そんな気持ちもなかった。トンネルがあるから入る。それだけだった。暗闇の中、前方ランプが照らし出す2~3メートル先だけをじいっと見つめて、ガタガタ、車体がゆれるままに身をまかせていた。

 

 そのうち、トンネルの中の耳をつんざくばかりの轟音も聞こえなくなってきた。辺りのもわ~っとした生温かい臭気や、壁や天井にびっしり生えているコケから滴り落ちる水しぶきも、気にならなくなっていた。意識が薄れたわけでもない。むしろ五感のすべてを研ぎ澄ませて緊張感をみなぎらせていた。かと言って力が入りすぎているのでもない。何も考えず頭の中は空っぽだった。それは不思議な時間の流れだった。

 

 僕は心の中に小さな硬い石ころがあるのに気付いた。その石ころはだんだん大きくなって、僕の身体の中で次第に大きい塊になっていくのを感じた。それが快感になった。そんな夢想がどれくらい続いていたんだろう。時間や空間といった観念もなかった。気が付いたらトンネルを出ていた。ふう~っと自分の意識に戻ったとき、車の騒音が一気に耳に入ってきた。そのとき初めてトンネルを抜け出たことが分かった。ただ、外の空気は美味しいなぁ~と感じるだけで、特別、ヤッター!とも思わなかった。そしていつも通り、淡々と電動車イスを走らせていた。少し後になって僕は考えた。「 無の境地 」とはこういうことを言うんだろうか。倶利伽羅トンネルは、僕の生涯の忘れられない場所となった。

 

 小矢部の石道駅まで下りできた。ひときわ高いビルがあった。あれがホテルだと思った。ビルに向かうと果たしてそれが小矢部ビジネスホテルだった。今日は勘が冴えてるね。部屋は空いていた。もう力が一気に抜ける思いがした。オーナーの女性は白い割烹着姿だった。オーナーというより女将さんと呼んだ方が似合っていた。僕は部屋に入って気が付いた。夜食の弁当を買っていない。でも今から外出するのは面倒だ。しかたがない。空きっ腹かかえて眠っちまおう。ふとテーブルを見るとお茶受けに大きなケーキが添えられてあった。僕はホグホグと一気にむしゃぶりついた。これで晩ご飯は終わり。でもそれは美味しいケーキだった。

 

 それから僕はタウンページで富山の宿を調べた。「 KKR富山(銀嶺)」に連絡がついて予約が取れた。友の会富山支部の山崎さんにも電話をした。明日富山に着くこと。「 KKR富山(銀嶺)」では二泊すること。出来れば27日金曜日にお会いしたいことなどを告げた。山崎さんは、
 「 ご苦労様でした。体調はどうですか? 」と心配して下さった。
何だか身内の人の声を聞いているようでうれしかった。山崎さんの電話の声は年齢不詳だったけれど、とても可愛らしい声だった。僕はシャワーを浴びて下着も洗って、ベッドに入った。ああ僕は今、富山にいる。 

 

 

4月26日(木)
 今朝も曇り空で寒かった。4月も終わりかけているのに、この寒さはいったいどうしたことなんだろうか。今年はやっぱり異常気象なんだね。僕はもうお腹がペコペコで、ビジネスホテルを出てすぐ近くのコンビニに飛び込んだ。

 

 今日は富山市をめざす。まず16号線で砺波市に行く。ここには市役所があるし「 道の駅 砺波 」がある。

 砺波市から富山市までがけっこう長い。でも道路地図帖によれば、途中に「 いこいの村 」があるし富山病院もある。何とか充電は出来そうだ。

 今日は神通川も越えるんだね。これまでいくつ大きな川を越えてきたのかなぁ~。それからの16号線は、両脇の家並みの軒下をくぐり抜けるような狭い旧街道のような道が続いていた。能越自動車道の高架線を抜けたら田んぼ畑の向こうに砺波市の街並みが見えてきた。

 

 繁華街に入るとすぐに市立砺波総合病院があった。ここで充電してもいいや。僕は電動車イスのまま院内に入ると、すぐ看護婦詰所があった。その部屋の前の壁にはちょうどコンセントが埋め込まれている。僕はドアをノックした。

 中から若い女性の看護師さんが現れた。僕が充電のお願いをするとちょっと待って下さいと告げて部屋のドアを閉めた。かわりに責任者らしい看護師が出てきた。
 「 この病院内に電動車イスが入ることは許可されていないので出て行って下さい 」
と、にらみつけながら言われた。

 僕は一瞬自分の耳を疑った。まさか看護師さんからこんな言葉を聞くとは思いもしなかった。僕はもう一度頼もうとしたら、その看護師は詰所のドアをバタンと閉めてしまった。

 僕は急激に怒りがこみ上げてきた。受付に行って事務長を呼び出してもらおうかとも考えた。公立の病院なのにこんな看護指導をしているのかと抗議したかった。僕は怒りで身体が小刻みに震えて、呼吸が苦しくなってきた。

 この場からはやく立ち去りたかった。悔しかった。今までこんなあからさまな仕打ちを看護師から受けたことはなかった。このまま事務長に面会を申し込でも、かえって僕の身体に変調をきたすだけだ。このまま引き下がらなければならない自分自身が情けなかった。

 

 「 何んもっ、ここだけが充電の場所でもないさ! 」
すぐに高架線のとなみ駅があった。エレベーターで駅の待合室に行った。ここにはコンセントがあるかもしれない。駅の売店の向こうにコミュニティールームという待合室があった。50人ほど座れるプラスティックチェアーがあって、大きなテレビも置いてあった。僕はいちばん後ろのイスの近くの壁にコンセントがあるのを見つけた。延長コードを入れるとバッテリーランプが点灯した。そこへ掃除のおばさんがやって来た。僕は、
 「 このコンセントを使って充電してもいいですか? 」と聞いたら、おばさんは笑顔いっぱいで
 「 どうぞどうぞ 」と言ってくれた。
僕はその笑顔に救われた。

 さっきの病院のあの中年女性看護師のギスギスとしたものの言い方はどういうことなんだ? 看護師が心に余裕を持っていなくて、どうして患者にやさしい看護を出来るというんだ。病院の規則・規則でストレスだらけなのかしらん? だったら可哀想だとも思うけれど。でもあの看護師は病院の仕事をしているだけで、けっして病人の看護をしているわけじゃないんだっ。
 コミュニティールームは暖ったかくて快適だった。やっと気分も落ち着いた。これでよかったんだ。無理して病院側に抗議していたら、僕の身体がどうにかなったかもしれない。僕の「 旅 」は抗議して回ることではない。札幌に着くことなんだ。これでよかったんだ。僕はそう自分自身に言い聞かせた。

 

 砺波市からは今度は国道359号線に乗り換えた。頼成(らんじょう)の森までやって来た。近くにドライブインがあった。電動車イスが入れそうだった。僕はここでバッテリー充電と食事をすることにした。

 頼成の森からの道はさらに登り勾配になっていた。山の頂上まで延々と続きそうだった。レストランで1時間以上は粘ったけれど、もう少し充電すればよかったかなぁ~。それからもまわりの山はどんどん奥深くなって、登り勾配もきつくなってきた。やっぱりあのレストランでもう少し粘るべきだった。後悔しても始まらない。
 頂上に着いた。山風がキツイ。僕は辛抱たまらなくなって電動車イスにもたれてオシッコをした。セニヤくんっ、こっちを見るなよッ! そこからかなり下って来たところで眼下に広がる大きな街を遠望した。富山だっ! あれが富山市だ。でもまだあんなに遠いのかぁ~。あそこまで行かなければならないんだ。ガンバロー、セニヤくん。

 

 途中の婦中町長沢まで下りて来た。どこかで充電出来ないかとキョロキョロしていたら、そこへ近くの駐在所に車が止まって、私服の警察官が家族連れで帰って来た。そうだ駐在所に頼んでみよう。広島の福山でも助けてもらったことがあったじゃないか。そこは八尾警察署古里(ふるさと)駐在所といって、勤務しているのは横山孝行巡査だった。横山さんは、
 「 いや、ちょうどよかった。用事があって駐在所に戻って来たんだれど、これからまた出かけるところ

   だったんですよ。駐在所の玄関に車イスを停めて下さい。寒いからどうぞ中に入って 」
とやさしく駐在所の中に招き入れてくれた。そして今度は奥様が温かいお茶とお菓子を持ってきて下さった。僕は大いに恐縮してしまった。その後また家族で出かけていった。

 

 僕は駐在所の留守番をすることになった。何だかヘンな気分だった。でもそこは芝居っ気たっぷりな僕のこと。臨時の警察官の気分になって、世情は安泰か?とばかりに外の景色を眺めていた。でもそんなの長続きはしないで、反射式石油ストーブのお陰で僕はうつらうつら眠ってしまっていた。車が帰って来た物音で目が覚めた。横山さんだけ帰って来た。自宅の方からのドアを開けて横山さんが顔を出して、
 「 大丈夫ですか? 」と尋ねた。
僕は寝ぼけて、あわや敬礼をして、異常ありません!と答えるところだった。

 横山さんは何にも聞いてこないので僕の方がかえって恐縮して、国民健康保険証と身体障害者手帳を提示した。でも横山さんはちらっと目を通しただけで名前も住所もメモしなかった。横山さんはなんと警察官らしくない警察官なんだろうか。この人は人間を信じていると思った。横山さんにとって駐在所勤務は天職なんだと思えた。

 

 僕はたっぷりと充電をして身体も心も温めることが出来た。僕は横山さんに感謝を述べて出発した。さあー、急がなければもう夕暮れどきだ。速星(はやほし)大橋を渡りJR高山線の陸橋を越え、北陸自動車道の高架をくぐり抜け神通川にかかる婦中大橋を渡り、国道41号線と直角に交差する掛尾の信号を左に折れて、後は富山駅へ一直線に北上した。市内の目抜き通りに着いたころにはもう真っ暗だった。
 商店街の歩道はイルミネーションやネオンサインでとっても明るかった。僕はバッテリーを節約するためヘッドランプをわざと点灯(つけ)なかった。駅前に近づくにしたがって歩行者も増えてくる。僕は歩行者にぶつからないよう用心した。

 こんなに暗くなるまで電動車イスを走らせたことはなかった。富山県庁まで来たときに「 KKR富山(銀嶺)」に連絡をとった。山崎さんから二度までも電話が入っていたことを教えられた。僕のことを心配していただいている。ありがたいことだった。

 僕は勇気百倍、人混みを物ともせずに走り続けた。そして富山駅を通り抜けてやっと「 KKR富山(銀嶺)」に到着した。八時を回っていた。フロントマネージャーが待ちかねたようにしてチェックインの手続きをした。今日は疲れたろう、セニヤくん。ゆっくりお休みなさい。
 僕は部屋に入ってまず山崎さんに無事到着を連絡した。そして明日の午前10時、富山駅の待合室で会うことになった。お互い一面識もないけれど、僕が電動車イスだからすぐに分かるはずだ。その後はもう弁当を食べるのがやっとこさで、バタンきゅーだった。ああ~、ようやく富山市に着いたんだなぁ~。

 

 

4月27日(金)
 朝目が覚めたとき、身体がギシギシ痛かった。途中寝汗で目が覚めて着替えをした。でもよく眠れたようだ。身体は重たいけれど気分はいい。思えば敦賀の杉津で風邪引き状態になって、「 旅 」を断念しなければと思えるようなこともあったけれど。友の会の山崎さんがいる富山に着けば何とかなるだろうと頑張ってきた。その富山に生きてたどり着くことが出来た。ああ、よくぞここまで来れたもんだ。

 

 カーテンを開けて窓の外を見れば文字通りの目が覚めるような雲ひとつない大快晴だった。僕はトイレに行った。窓から見たら真っ正面に白く輝く立山連峰が見えた。なんてきれいなんだろう! 僕はトイレも忘れてしばらく茫然と眺めていた。恥ずかしいけれど、ちょっとだけ涙が出た。

 

 僕は早い目に出発をした。富山駅の外観はいかにも地方都市の表玄関という懐かしい風情があった。コンコースへは段差もなくてスムースに進入出来た。待合室はそんなに大きくはなかった。これなら山崎さんはすぐに僕を見つけてくれるだろう。僕は大阪支部とのすれ違いを思い出していた。約束の時間が近づくとドキドキしだした。山崎美智子さんて、果たしてどんな女性だろう!?
 10時ちょっと過ぎに山崎さんが小走りにして現れた。挨拶もそこそこに僕たちは駅の隣にあるデパートの喫茶室に行くことになった。改めてお互いの病歴をかねた自己紹介をした。山崎さんは眼がクリッとして前髪を切り整えたおかっぱ頭のヘアスタイルで、化粧っけも全然なくって。いま56歳ということだったけれど、本当に可愛らしい少女のような ” おばちゃま ” だった。そして遠慮がちにおしゃべりする声は、透明感のある響きを持っていた。

 

 山崎さんは高校3年生の終わりごろから体調の変化に気付きはじめて、でもそのまま就職して、その2ヶ月後に発病していたことが分かった。最初はどの病院に行ってもはっきりとした診断をして貰えず、何ヶ月も過ぎてやっと重症筋無力症だと判明したという。僕と同じ拡大胸腺摘出手術を受けて、それから入院と療養生活のくりかえし。就職した勤務先は、結局2ヶ月間だけ働いて退職した。

 それからは体調不調が長く続いて家事手伝いぐらいで、ほとんど引きこもりの生活を余儀なくされたそうだった。そのうちお父さまの家業が倒産して事業整理。家を売り払って転居。長男のお兄さまが事業再建に乗り出したときに、自分も何かの役に立ちたいと一念発起して、お兄さまの手助けをしたということだった。今はその努力の甲斐もあって事業は順調に進んでいるとおっしゃっている。

 

 「 失礼ですが、結婚されたことはないのですか 」と僕が聞くと、山崎さんは恥ずかしそうに、
 「 ありません 」と答えた。
もし山崎さんが重症筋無力症になっていなかったら、18歳の普通の女の子は普通の恋をして普通の結婚をして子供を産んで、在り来たりかもしれないけれどごく当たり前の夫婦生活を送って、そして56歳。もう2~3人のお孫さんに囲まれて幸せに暮らしていたかもしれない。それなのに重症筋無力症という難病が18歳の少女の夢も恋も奪ってしまった。僕はさらに失礼な質問をした。

 

 「 重症筋無力症にならなかったら、結婚していましたか 」 
山崎さんはきっぱりとした口調で言った。
 「 ハイ、結婚したかったです。結婚して幸せになりたかったです 」 
僕はちょっと目頭が熱くなった。
 友の会富山支部のメンバーは県内に散らばっていて年に1回の総会ぐらいしかお互いに会えなくて、活動も今いち低調気味だとおっしゃる。今日も私一人しか来れなくて申し訳なく思っていますとも言って下さった。 僕は山崎さんに会って、お話し出来ただけでも充分だった。そしてお互いに元気で生き抜きましょう! と握手しあった。

 

 帰りの電車の時間が来た。改札口で山崎さんから富山名物のますの寿司をいただいた。そして富山支部と山崎さん個人からのお餞別も手渡された。思わぬことに僕はビックリした。山崎さんは改札口を通り過ぎてプラットホームの向こうに消えていった。
 ありがとうございました、山崎美智子さん。ひょっとかしてもう会えないかもしれないけれど。一期一会。僕は山崎さんと貴重な時間を共有したことを生涯忘れません。いついつまでもお元気でお過ごし下さい。

 

 帰り道、僕の心はほっくほくになっていた。どんなところでどんな場所にいようとも、自分の境遇にめげずに必死に生きている人は、必ず存在(い)る。人間とはなんて愛(いと)おしくて、健(けなげ)な生きものなんだろう。

 

 

第7信 この道の向こうに、新潟がある

 

4月28日(土)

 「 KKR富山(銀嶺)」を出発する。また電動車イスの「 ひとり旅 」だ。そしてこれから新潟をめざす。新潟では読売新聞社郡山支局の加藤 仁(まさし)氏と会う約束をしている。何10年ぶりの再会になることだろうか。僕がまだ現役のフリーカメラマンだったころで、重症筋無力症の一種一級の身体障害者になる前。果たしてどんな会話になることだろう。

 

 今日はまず30号線を北上して富山港から富山湾沿いに魚津市まで行く。宿の予約は取っていないけれど泊まるところはあるだろう。そして例の如く、昨日あれだけ天気が良かったのに、出発の日にはやっぱり曇り空の小雨模様。どうしてこんなにめぐり合わせがいいんだろう。かえって笑えてくる。立山連峰の雪渓も今日は曇(どん)よりねずみ色だ。

 

 富山港過ぎから富山魚津1号線にかわって浜黒崎までやって来ると、いきなり視界が広がって大きな川が現れた。

 常願寺川だぁ~! この常願寺川は越前の九頭竜川と同じ大きな氾濫を起こす ” 暴れ川 ” として知られている。かつてこの辺りは大きな中洲がいくつもあって川幅は250メートルもあったという。どれほど壮観な景色(ながめ)だったことだろうか。

 僕は、エジプトがナイルの賜物で、越前平野が九頭竜川の賜物なら、この越中平野は神通川と常願寺川の賜物だろうと思う。だけど今は護岸工事が行き届いてゆったりと流れている。僕は常願寺川を越えている。言いようのない感激を覚えた。

 

 常願寺川の今川橋の真ん中に来たとき、日本海が見えた。それは冬の日本海のような白い大きな波をけ立てて押し寄せる鉛色の海だった。僕はしばらく見惚れていた。こんなにも荒れた海なのに、こんなにも美しい。僕はすでに三国港でも日本海を見ているはずなのに、何故か初めて本物の日本海を見たような気がした。

 橋の下の岩礁でひとり海釣りしている人を見かけた。その岩礁に大波が砕け散っている。危なくないのかなぁ~。釣り人は二本の竿を同時に操っていた。僕は思わず、ああ、2本かい(日本海)!、とダジャレを飛ばしてしまった。

 

 水橋という町に入った。この小さな漁村が、かつて1918年に全国で起きた米騒動の発端の地だとされている。もとは魚津市の漁村の主婦たちが、米の値段の高騰にたまりかねて米屋に押しかけて安売りを要求したのが始まりだった。

 そのことを聞いたこの水橋の漁村の主婦300人が、米屋に押しかけて今度は米を奪う事件が起きた。それを新聞が ” 越中女房一揆 ” として報道したため、富山県下から京都・大阪・神戸・東京へ、そして全国へと広がった。やがて全国の農民や都市の労働者まで巻き込む大きな大衆運動にまで発展した。

 この影響で時の寺内正毅内閣が退陣させられてしまった。今はおだやかな町だけど、かつてそんな大騒動のきっかけとなったところだと思うと、少し感慨深くなる。

 

 その水橋地区に入って来たとき、今までパラついていた小雨が本降りになってきた。僕はガソリンスタンドでビニールカッパに着替えようとしていたら、目の前の民家に「 小規模多機能ケア施設 中村町ぬくもりの郷 」という小さな木の看板が目に入った。同じことならここで充電と休憩をさせてもらおう。僕はドアをノックして、
 「 こんにちはぁ~ 」と大きな声で呼んでみた。
中から30代の半ばの女性が出てきた。僕が雨宿りと充電のお願いをすると、
 「 ちょっと待ってて下さいね 」と言って中に戻って行った。
今度は30歳ぐらいの若い男性が出て来た。名刺をもらうと「 社会福祉法人 とやま虹の会 地域福祉部生活相談員 濱川和哉 」とある。ここは水橋地域全体のデイケアサービスセンターだった。濱川さんはその責任者。その濱川さんが、
 「 大変だったでしょう。どうぞ中でお休み下さい 」と,
僕を丁寧に招き入れてくれた。

 改装した大広間にテーブルとイスがあって、30~40人ほどのお年寄りたちがテレビを見たり、わいわいとお話をしている。中にはひとりでつくろいものに精を出しているおばあちゃんもいた。

 向こうの部屋では2~3人のお年寄りが寝っ転がってリハビリ作業士さんに按摩をしてもらっている。気持ち良さそうだ。

 交代でお風呂に入っているらしくって、出てきたおばあちゃんが次の順番の人を大声で呼んでいる。どうやらこのおばあちゃんが仕切っているらしい。三分の二以上がおばあちゃんで、けっこう大広間はうるさい。おじいちゃんたちは隅で小さくなっている。かわいそう! あっはは。

 

 僕が最初に会った女性はここの介助員で黒崎むつみさんといった。途中、浜黒崎という地名を見かけたから、地元の人なんだね。その黒崎さんが顔なじみのお年寄りたちを相手に、これまた小気味のいい口調で切り盛りしている。僕に熱いお茶をご馳走してくれた。

 

 「 どちらから来られたんですか。この辺りの人ではないですよね 」
そう問いかけられたとき、僕の頭の中にいろんな思いが交差した。
 「 広島県の熊野というところから来ました 」 
 「 ええっ!? あの原爆の広島からですかぁ~。それでどこに行くのですか 」
僕はもう札幌に行くと言ってもいいころだと思った。山陽道では正直に、” 札幌です ” と言ったって、誰も信用してくれない。変人扱いされるだけだったろうけど。でももうここまで来たら、言っちゃっても平気だと思えた。
 「 えがぁ~っ! なんで札幌までぇ~?! 」
黒崎さんは動転したような声で聞きかえした。僕は正直に進行性筋ジストロフィーの難病患者の友人を励ますためだと答えた。
 「 失礼ですけど、お宅も障害者なんでしょう。それなのにひとりで電動車イスで札幌まで行くんですか 」
 「 はいっ 」
 「 皆さん、ちょっと聞いてぇー。この人はねぇ、筋ジストロフィーという難病患者の友人を励ますため

   に、広島から来て札幌に行くんだってぇー。すごいねぇ~っ 」 
そのとき、話し声が一瞬止まった。そしてこの世のモノではないものを見たという顔つきで僕を見つめた。やっぱりまだダメだったか(くすんっ)。僕は肩をすぼめて小さくなっていた。黒崎さんは、
 「 私忙しいからお構い出来ませんが、自分の家だと思ってゆっくりして行って下さいね 」
と言って台所の方に行った。

 

 僕は誰も腰かけていない二人掛けのソファーを占領していた。もうお昼寝が習慣化している。身体が暖かくなるにつれてだんだん身体が傾いていくのをどうにも止められなくなった。

 実はそれから先のことを覚えていない。とにかく次に目が覚めた時には僕は完全にソファに寝ッ転がっていた。” マズイっ!” と思ったけれど、もう手遅れだし、第一起き上がれない。それからも僕はウトウトとろとろとしていた、自分ん家(ち)みたいに。この居眠りは本当に気持ちのイイ居眠りだった。
 次に目が覚めたら11時40分だった。お弁当屋さんがお昼ご飯の配達に来て急に騒がしくなった。僕はたっぷり2時間も居眠りをした。こんなこと、かつてない快挙だった。

 これ以上の長居は迷惑になる。僕は皆さんにお礼を言って出発することにした。黒崎さんが玄関口まで見送りに出てきてくれた。僕は何を思ったのか、さっきのダジャレを黒崎さんに話してみることにした。
 「 さっきね、常願寺川の河口で投げ釣りをしている人を見かけたんですよ。竿を2本で釣っていました。

   僕はそのとき思ったんです、ああ、2本(日本海)かい? 」 
黒崎さんはニヤリと笑って言った。
 「 そういうことですか、うふふ。でも2~3日前に同じように魚釣りをしていた人が波に呑まれてさらわ

   れたまま、まだ遺体が発見されていないそうなんですよ。怖い海ですよ、日本海は 」 

 

 僕は、参った!と思った。そんな日本海を駄ジャレにしてしまった僕の迂闊さが恥ずかしくなった。それ以上に ” 怖い海ですよ、日本海は ” と事も無げに言ってのけた黒崎さんにも、参った!と思った。まぎれもなくここには越中女房一揆を起こした土地柄のDNAが、今もその子孫に受け継がれていた。ありがとうございました。お世話になりました。僕は気持ちのイイ居眠りを生涯忘れません。どうぞ皆々様、いつまでもお達者にお暮らし下さいませ。

 

 僕は小雨の中をビニールカッパを着て、富山魚津1号線を走っていた。よかったな~。「 水橋中村町ぬくもりの郷 」と出会えて。僕は長い歴史の流れの一端に、ほんの短い瞬間だったけれど我が身を置いた実感が持ててうれしかった。

 

 僕は一気に魚津駅までぶっ飛ばした、時速6キロメートルで(笑い)。駅の観光案内所でビジネスホテル美浪を紹介してもらった。ビジネスホテル美浪は駅と目と鼻の先にあった。そして駅前には飲食・居酒屋がたくさんあった。今日は外食することにした。今日はそんな気分だった。ちょうど開店したばかりの焼鳥屋さんが目にとまった。お客は誰もいなかった。僕はウーロン茶の氷割りで焼き鳥をたらふく食べた。と言っても3品で串6本だったけれど。久しぶりの焼き鳥はとっても美味しかった。止(とど)めに梅とオカカのおにぎり。こういう日もなけりゃー、ダメだよなぁ~。ごちそうさん。

 

 

4月29日(日)
 早朝、ホテルの3階の窓から日本海を見る。昨日と違って雲ひとつない大快晴。窓の下、北陸本線の向こうに大海原が広がっている。青い海だ。青い日本海だ。昨日の鉛色の海もきれいだったけれど、この目も覚めるような青い大海原も、見事だ。

 

 僕は早速身支度を整えて駅前の大通りに飛び出した。誰もいない。そして真っ正面に立山連峰が朝日に輝いている。真っ青な大空に銀色のお山。なんと神々しい立ち姿だ。まさに立山だ。おはようございます。素直に頭(こうべ)を垂れて手を合わせたくなる。

 

 国道8号線に出た。ああ、この道の向こうに新潟がある。だんだん朝の目覚めがキツくなってきた。起きなければと思ってもなかなか起き上がれない。カウントダウンで、3、2、1、ゴゥー、と言ったあとで、まだベッドで寝ている。

 でもやっと起き出して、一歩街道に踏み出せば、この「 旅 」の空の下、気分がいいじゃないか。やっぱりここが自分の居場所なんだと思う。雨の日は雨の日なりの風情はあるけれど。いや、やっとそう言えるようになったのかなぁ。やっぱり晴れた日の「 旅 」の空の下。こうしていられることの幸せを感じる。うん、「 旅 」とはいいもんだ。

 

 魚津の街はずれ。片貝川(かたがいがわ)にかかる片貝大橋にやって来た。行く手左に日本海。右手には立山連峰。そして白馬の山頂も見える。なんと贅沢な光景なんだろう。片貝川の河原はコンクリートの河川敷ではなくて、自然のままだ。大きいのやら小さいのやら。川底にすき間なく並んだ石は、まるで片貝川が長い年月と労力をかけて、せっせと丹念に敷詰めたようだ。流れる川水のなんと清冽なこと。山の風と海の潮風がこの片貝大橋の上で出会って、ひゅー、ひゅーって、朝のご挨拶をかわしている。

 

 ああ、気持ちいいなぁ~。この橋の上はまるで天国だ。確かに見わたせば北陸自動車道の高架道路が通っている。電線を張った鉄塔も野原を突っ切っている。山の中腹には三々五々、集落も見える。だけどそんなものを心の目を閉じて見ずに、心の目を見開いてさらに遠くの風景を眺めれば、かつて縄文人や弥生人が見ていたままの世界が見える。

 山があって森があって川があって野原がある。目を見上げれば輝く大空。人間の営みに必要なものがすべてそろっている。なんと豊かな自然なんだろう。僕は迂闊にも何故だか知らないけれど、目から涙があふれ嗚咽が出るのを禁じ得られなくなっていた。唇をかんで声がもれるのを我慢していた。ウィンドブレーカーの袖で涙を拭きとって、国道の方を振り向いた。

 

 「 ちっぽけな世界だなぁ~ 」 
確かに国道8号線は大きくてとても立派だ。そこを忙(せわ)しなく大型トラックや乗用車やバイクがすっ飛ばして行く。これが現代だ。なんて薄っぺらい世界なんだろう。こんなチマチマとしたところでこんな世界しか知らずに生きている。なんか悲しいなぁ~。僕はもう一度橋からの眺めを見た。写真を撮ろうなんて思いもしなかった。

 僕の瞳がレンズで僕の瞼(まぶた)がシャッターで、僕の心がフィルムだ。魂でとらえた風景は、僕の血となって肉となって決して奪われることはない。僕は目を閉じてゆっくりと瞼で超スローなシャッターを切った。カシャーン。そして僕は橋の上から立ち去った。もう一度見ておこうなどと未練たらしく振り返えらない。振り返る必要もない。この風景は永遠に僕の心と身体の一部になった。

 

 黒部市の街を抜けた。僕はまだユースホステル天香寺の予約を取っていなかった。大丈夫だろう。予約でいっぱいだったら、お堂の片隅にでも泊めてもらうしかない。
 朝日町の交差点に着いたのは午後2時前だった。天香寺へはここから県道13号線を行く。コンビニで食料を仕入れる。北陸自動車道の高架をすぎて、地図によれば小さな川の橋を越えたこの辺りなんだけれど。誰かに聞いて見ようと思っていたら、ちょうど道路に若いお坊さんがひょいと飛び出してきた。
 「 すみません。天香寺はどこですか 」
 「 うちのお寺です。お泊まりですか 」
僕はこの偶然の出会いのラッキーにびっくりした。
 「 はい、そうなんです。途中で予約の電話が出来なかったんですが、お部屋は空いていますか 」
 「 はい、大丈夫ですよ。ちょうどよかったですね。今から出かけて夕方まで帰って来られなかったところ

   なんですよ」
 「 あのう~、僕ってラッキーですか(笑い) 」
 「 はい、ラッキーだと思いますよ(笑い) 」
面白いお坊さんだ。

 

 そして僕と一緒にお寺まで引き返して、充電用の長い延長コードを用意して下さった。天香寺は曹洞宗のお寺だった。山門や本堂・方丈も、古そうだけれど禅宗のお寺らしい厳かな雰囲気に満ちていた。本堂の中で宿泊の受付けをした。

 ここには僧房の大広間しかなくて個室はないという。でも僕には奥の小さい部屋を当てがわれた。若いお坊さんの配慮だった。手続きが終わって、本堂の仏様の前で座禅を組み、ご挨拶をした。何故だか知らないけれど、ふう~っと何かに包まれたような感触があった。僕はここに来ることになっていたんだと感じた。

 

 

4月30日(月)
 朝、目が覚めたときはまだ薄暗かった。多分この明るさは5時すぎだ。寒くて寝床を離れ難かったけれど、僕はやっ!と掛け声をあげて起き出した。身支度を整えて本堂に行った。小さな明かりだけで、目を凝らさないと本堂の仏様たちのお姿はよく見えなかった。薄暗い中に大きな仏様や小さな仏様が何体もおいでになった。曼陀羅の世界を想像した。僕は足を折り曲げられないから、両足を投げ出して僕なりの座禅をした。とても静かだった。

 ” 熊野を出発してここまでやって来られたのは、あなたのお陰です。心より感謝しています。僕が決して

   僕の我がままだけで、この「 旅 」をしているのではないことはもうご存知ですよね? 

   どうぞ僕の心根をよくよく見定めて、これからもお守り下さい。そしてもしあなたが僕に少しでも疑いが

     生じたときには、僕の生命を奪い取っていただいてけっこうです。

  それでは行って参ります。  ”

 月曜日の朝の国道8号線はもう車でいっぱいだった。ゴウーゴウーと音をたてていた。でも僕の心は静かでおだやかだった。

 

 国道8号線の城山トンネルは歩行者も自転車も通行が禁じられていた。旧道の県道60号線を行く。JR北陸本線に沿う海際の道路だった。青い海がきれいだ。今日は天気が晴れて気持ちもいいんだけれど、風はやっぱり冷たい。でも昔、旅人は浜風に吹かれて潮水をかぶりながらここを通ったんだろうなぁ。

 

 「 道の駅 越後市振の関 」に着いた。現実に戻ったような気がした。途中に幾つかの難所を通過して来たのに、まるで感触がない。狐につままれたような気分だった。熊野の大峠の「 障の神(さえのかみ)」のことを思い出した。ここの親不知子不知の道祖神(どうそしん)が、熊野から連絡を受けて、この難所にいる悪い者を何処かへ除いてくれたんだろうか。

 ああ、思い出した。松尾芭蕉が「奥の細道」で言っていた ” そぞろ神 ” とは、このことを言うのかもしれない。でも僕には、途中の記憶が途切れていることに不快感はなかった。むしろ気持ちのイイ感触が残っていた。

 

 その昔、北海道静内郡日高東別におられたアイヌ民族の故葛野辰次郎エカシ(長老)をおたずねして、いろいろなお話を聞かせてもらった後、僕が車で札幌に帰るときにおっしゃったことがある。
 「 道路のカムイ(神)のなかには、いい性根のカムイもいるけれど、悪い心がけのカムイもいる。

   いい性根のカムイと仲良くしながら帰れよ 」
この言葉は、葛野エカシからいただいた僕の財産だった。きっと僕は性根のいいカムイとお話しながら、難所を歩いていたんだろうと思った。

 

 「 道の駅 越後市振の関 」を出て、国道8号線はいよいよ海岸の岩壁沿いを行く。歩行者用道路はあるけれど、狭くて段差があって、おまけに途中縁石に仕切られて、電動車イスでは通れない。しかたがないから道路を走る。肩先を車がバンバン走っていく。ちょっとオッカナイ。

 

 天険トンネルの手前まで来た。ここは歩行者や自転車の通行を禁止されていなかった。でも歩道も路肩もなかった。トンネルの入り口横に旧道があった。だけどチェーンが張ってあって、通行不能の道路工事看板があった。どっちの道を行くか。トンネルを行けば必ず向こう側に出られる。でも何故か今日はトンネルを行きたくなかった。虫の知らせかもしれない。旧道がどうなっているのか分からない。何か起きても、誰も発見してくれないだろう。携帯電話も持っていないし。でも旧道を行こうと思った。誰かがトンネルを行くなと、教えてくれているよう気がした。これは賭けだ。よし、行こう!

 

 旧道はアスファルト舗装されていたけれど、でこぼこで陥没したところには大きな水溜まりが出来ていた。ガードレールもない、そのままその向こうは断崖。この間の新潟地震で倒れた大きな枯木が、所々で行く手をさえぎる。崖崩れの土砂もそのままだった。完全に道路が遮断されていたら、引き返さなければならない。それは恐ろしく時間とバッテリーの無駄になってしまう。緊張感で身体がピリピリした。そんな中でも僕はふと立ち止まって、日本海の風景を楽しんでいた。静かだなぁ~。一生のうちにこんなこと、そう何度も体験出来ることではない。この一瞬を充分に楽しもう。でもようやっと親不知観光ホテル裏に出て来たときには、やっぱり心からホッとした。

 

 そこからの国道も断崖絶壁を切り取ってそこへ道やトンネルをくっ付けたような道路が続いていた。こんなところによくぞ道を造ったもんだ。さぞかし難工事だったんだろうなぁ。それからの歩道には段差や縁石があって、車道を行くしかなかった。ドライバーたちはまさかこんなところに電動車イスがいると思わないから急ブレーキ。道路は狭くてクネクネと曲がり、見通しは最高に悪い。急カーブで車がチョコンと当たっただけで一巻の終わり。そこに後続の車が追突すれば大事故になる。

 

 ようやく「 道の駅 親不知ピアパーク 」を見つけた。疲れがドッと来た。身体の筋肉がガチガチに硬直してうまく動かない。呼吸も乱れる。

 駐車場には大型輸送トラックや観光バスや乗用車であふれかえっていた。ガードマンがピーピーと笛を吹いて、気ぜわしく交通整理の旗を振っている。

 海鮮市場やお土産屋さん、レストランもシーサイドパークにも、もうもう人でいっぱい。出店で魚や貝の干物を焼いている売り子たちが煙がもうもうと立ちこめる中、大きな売り声でお客を呼んでいる。

 

 わいわいガヤガヤ、ギャーギャー、その騒がしいこと。あの親不知での静寂との落差。でも僕にはこの騒がしさが何とも快いものに感じられた。

 家族がいて恋人同士がいて友だちがいて、大声をあげて笑って楽しんで。それって、すっごくいいじゃない。何んも複雑なことなんてないんだ。人間て、娑婆(しゃば・ルビ)の世界って、これでいいんだよ。ネェーっ、それでいいんだよねぇー。

 

 「 道の駅 親不知ピアパーク 」を出てすぐに今度は駒返し洞門が待っていた。駒返し洞門は断崖から飛び出して、海上を走る陸橋の自動車道になっている。そこへ北陸自動車道の高架道路とJR北陸本線の高架鉄道が折り重なっている。それらがみんな海の上にある。もうビックリするような光景だった。

 

 駒返し洞門はゆっくりと下り坂になっている。車もスピードを上げる。ここはおっかなくて車道は走れない。電動車イスのタイヤが脱輪しそうな小さい歩道を行く。ちょっといやな予感がした。どうかこの歩道が段差のないまま行ってくれ。通り切れなかったらバックでトンネルの入り口まで引き返えさなければならない。

 

 ちょっとの間なら怖くて怯(ひる)んでもいいよ。でも立ち止まってはいられない。引き返すことも出来ない。行くしかないのだ。僕は脱輪しないよう細心の注意を払いながらハンドルを握っていた。歩道のコンクリート板はところどころ剥がれてガタガタになっている。ちょっとでもハンドル操作を間違えば脱輪して車道に転げ落ちる。
 「 てやんでぇ~、べらぼうめぇ~。大型トラックが怖くって、電動車イスの「ひとり旅」が出来るかってん

   だっ! なんのこれしき、卒業式(しき)だっ! 」

 

 もうすぐそこに洞門の出口が見えた。これでひと安心と思った。その一番最後のところで大きな段差の縁石のまま歩道が切れていた。もうこれ以上先は進めない。ええーえっ、そんなー、ここまで来たのにぃ~。もうあと30~40メートルのところだった。

 悪い方の予感が的中した。やっぱり洞門の入り口までバックで引き返さなければいけないのか。前にも行けず後ろにも返せず。困った。どうしよう?! 

 待て。落ち着け。何か手を考えよう。そうだ。車をとめて、ドライバーの人に電動車イスを担いで下ろしてもらおう。僕は次ぎにやって来た車に手を大きく振って止まっての合図をした。ドライバーは僕にビックリして反対車線に飛び出してしまった。

 運悪くここはカーブの終点で見通しが悪い。急ブレーキを踏むとトンネル内の重大事故になりかねない。他人様を事故に巻き込んではならない。ではどうする? 僕はまた緊張と疲労で身体の筋肉が硬直しはじめている。呼吸も苦しい。頭の筋肉まで硬直する前に何かを考えなければ。

 

 と、そのとき、トンネルの壁に埋め込まれた緊急用の電話が目に入った。よし、助けを呼ぼう。でもつながるんだろうか。やってみるしかない。僕はボックスを開けて指示通りにダイヤルを回した。つながってくれっ! まさに神仏に祈る思いだった。警察につながった。

 

 「 どうしましたかぁ~? 」
 「 こんにちはぁ~! 実は僕は電動車イスで駒返し洞門を通過していたんですが、歩道が切れてこのまま

   進めなくなって立ち往生をしています。申し訳ありませんが助けに来て下さい 」
 「 今どこにいますかぁ~? 」 
トンネル内は自動車のエンジン音が轟いて、まったく声がよく聞こえない。
 「僕はぁ~、今ぁ~、駒返しトンネルのぅ~、糸魚川方面出口近くのぅ~、NO・4という緊急電話のとこ

  ろにいまぁ~す」
 「 電話をいったん切って、ちょっと待って下さい 」
 「 わかりましたぁ~。ご迷惑を~、おかけして申し訳ありませ~んっ! 」

 

 僕は電話がつながって本当に嬉しかった。でももっと本音を言えば、せっかくつながった電話を切りたくなかった。5分か?10分か?待っているのが長かった。そしてやっと電話が鳴った。
 「 今パトロールカーに連絡を取りましたから、すぐにそちらに向かいます。そのままもう少しお待ち下さ

   い 」
 「 はーいっ、ありがとうございましたぁ~。待ってま~すっ 」
 イヤ~っ、こんなこと初めての経験だった。僕が自分で車を運転していたころには、何度となくトンネルで緊急電話を見かけたけど、これってただの ” 飾り物 ” じゃなかったんだネ。ああ、僕ってこんなときに。なんて不謹慎な奴なんだ。中田輝義のバカっ!

 

 20分ほどして糸魚川方面から赤い警告灯を回しながらパトロールカーが坂を登って来た。それはまるでジョン・ウェインの映画「駅馬車」で、騎兵隊が突撃ラッパを鳴らして援軍にやって来たような気分だった。警察官は50代後半のベテランと20代の若い警察官だった。僕は事情を説明した。若い警察官が歩道が切れていることを現場検証していた。パトロールカーの後ろではもう数台の車が数珠繋ぎになっていた。ベテラン警官が若い警察官に、
 「 持てるんでないかぁー 」と言って、よいこらせっ!といとも簡単に車道に下ろしてしまった。

 

 それは呆気ないほどだった。僕は警察署まで連行されるじゃないかと内心ビクビクしていた。そうなりゃー「 電動車イスひとり旅 」はパァーになるかもしれない。でも警察官たちは渋滞を直ちに解消するためか、
 「  気を付けて下さいね  」と言って坂道を下りて行った。

 

 ホッとした。待っていたドライバーたちが僕の方をチラチラ見ながらパトロールカーに続いていった。ちょっとバツが悪かった。僕は全部の車が通り過ぎて ” ほとぼり ” を冷ましてから、やおら何事もなかったような顔で、坂を下って行った。

 

 糸魚川の街に入る手前で糸魚川警察署を見つけた。中に入ると当直の警察官がいた。僕は駒返し洞門で助けてもらったこと。名前も聞かなかった二人の警察官にお礼を言いたくてやって来たことを伝えた。当直の警察官は、” 分かりました。今まだパトロール中なので帰って来たら伝えておきますよ。ご苦労様でした ” と笑って応えてくれた。
 糸魚川駅前に観光案内所があった。僕は一番近い駅前通りにあるビジネスホテルクローバーを教えてもらった。オーナーはおばあさんでとても気さくで親切だった。僕を抱きかかえて部屋まで連れて行ってくれた。部屋に入るなりベッドにドっテンと横になった。もう身動きがつかないほど疲れた。親不知子不知の難所も越えた。今日もいろんなことがあった。あり過ぎだよ。今夜は外食にして美味しいものを食べたいところなんだけれど、とてもそんな元気はないや。

 

 

5月1日(火)
 今日から5月なんだね。テレビの天気予報を見て知った。今日はどこまで行けるんだろうかと道路地図帖を見た。僕はそのとき新潟県に入っていたことにやっと気がついた。ボケてんのかなぁ~?! 

 思えば昨日の僕はどこかチョット面妖(おかし)かった。やっぱり親不知子不知の難所越えで緊張していたのかしらん? 今日は何とか上越市まで行きたい。地図帖で調べたら40.5キロあった。ちょっとキツイか。でも他に泊まれそうなところもないし。上越市ならビジネスホテルはあるだろう。疲れ気味だけど、切りがいいし。よし、行っちゃえー。

 

 僕は朝の5時にホテルを出発した。天気予報では南新潟は午前中は曇りで夕方から大荒れの強風注意報。外は寒かった。5月というのにまだこの寒さだ。国道8号線はJR北陸本線に沿って海岸線を走っている。潮風に吹かれて身体も凍りそうだった。でも晴れた朝焼けの日本海は素晴らしくきれいだった。こんな美しい風景を見ていると心の中までも洗われるよなぁ~。これからずう~っと東北までこの海といっしょなんだもんな。

 

 浦本から久比岐(くびき)自転車歩行者道があることが分かった。案内板を見ると、もとは廃線になった北陸本線の単線路で直江津まで通っているらしい。確かに鉄道線路らしく、崖や岬の海岸線をギリギリ縫うよう続いている。この道なら快適だ。でも高台にある線路は海風に吹きっさらし。向かい風で思うようにスピードに乗らない。セニヤくんも寒いのか、今いち馬力が弱い。

 予定では「 道の駅 能生(のう) 」で充電休憩するつもりだったけど、もう身体が冷えきって我慢できない。バッテリー消費も早くてすでに警告ランプが点灯していた。能生(のう)の町には町役場があるからそこで暖まろう。それまでがんばろうー、セニヤくん。

 

 能生川の橋の上で、僕と同じスズキセニヤカーに乗っているかなり年配のおじいさんと出会った。
 「 こんにちはぁー、お元気ですか 」と声をかけると、
 「 ああ、ええようぅ~、あんたはどうじゃぁ~っ 」と、元気な声がかえってきた。
すれ違っただけの短い会話だったけれど、何だか仲間と出会ったような気がする。この町にも電動車イスの人がいて元気に暮らしている。
 糸魚川市能生事務所には大きくて立派なスロープが作られていた。こんなちょっとした気づかいが障害者にとってはありがたい。ここの町政がしのばれた。だから電動車イスでお散歩を楽しんでいるお年寄りと出会えるんだネ。8時30分の始業時間、能生事務所では心よく休憩充電の便宜を図ってくれた。入り口近くの暖かい相談室でゆっくり居眠りをすることが出来た。あんまり気持ちが良くって気がついたら2時間近くも居眠りをしていた。役所でこんなにゆっくり出来るなんてめずらしいことだった。

 

 街を出たらすぐにトンネルが待ちかまえていた。久比岐自転車歩行者道にはいくつものトンネルがある。長いの短いの、いくつかのトンネルをくぐり抜けて「道の駅 能生」があった。ここはカニの直売で有名なところらしい。大きな海鮮市場があった。カニ料理のレストランや食堂もあった。バッテリー充電はたっぷりだったけれど、僕のお腹はペコペコで充電の必要があった。総合案内所で若い責任者が出てきた。

 

 僕が充電のお願いをするといきなり、
 「 困ります。電動車イスは出て行って下さい 」と言った。
 「 ええっ、電動車イスはダメなんですか。何故ですか? 」
 「 電動車イスはフロアーを傷つけるし、他のお客さんに迷惑がかかります 」
僕はカチンときた。
 「 お宅では車イスのお客をみんなそんなふうに扱っているんですか? それが営業方針なんですか? 

   僕は今までいろんな道の駅に行ったけれど、こんなことを言われたのは初めてですよっ! 」
僕はこの若い責任者をにらみつけていた。
 「 それっておかしいんじゃないですかっ!? 」 気押されたのか、
 「 ちょっと待って下さい 」と言って事務所の中に戻った。
僕は怒りで身体がわなわな震えてくる思いだった。その責任者は、
 「 けっこうですが、でもあんまり中をうろうろしないで下さい 」 そう、早口で言った。
 「 そうですか。分かっていただいてありがとうございました。ここで充電させてもらいますから、

   このコードをコンセントに差し込んで下さい 」
僕はそう言って延長コードを差し出した。

 

 若い責任者はバツが悪そうに受け取った。僕は充電中のランプを確認してから、すぐ向かいにあるファーストフードのレストランに向かった。杖をついていても、怒りと緊張で身体が硬直してひっくり返りそうになった。テーブルについてからカレーライスを注文した。何故だか分からないけれど、この怒りをしずめるのはカレーがいちばんイイと思えたんだ。
 「 けっ!、最初(なは)っから長居をする気はなかったんだいっ! おおべらぼうめっ! 」 

 

 でも、分かったんだろうか、あの若い責任者は。自分が障害者を差別しているということを。だけど逆にあの若者も、あの車イスの奴め!って、怒っているかもしれないと思った。

 本当は僕はあの若者に冷静に事の理非を糺(ただ)さなければならなかったのかもしれない。でも僕にはとてもそんな余裕なんかなかった。かえってあの若者に差別意識を助長させてしまったかもしれない。でもいつかはあの若者もあの障害者が怒っていたのはこういうことだったのかと、気付いてくれるだろうか。それも空しい期待なのかもしれない。もっとうまいやり方もあったんだろうけど、後は祈るばかりだ。

 

 僕は元の自転車歩行道に戻っていた。電動車イスで走り出したとたんにお腹がゴロゴロ。原因はさっきの「 道の駅 」だ。僕はようやく見つけた茂みの排水路で用を足した。

 そのとき散歩中のおばあさん二人連れが大声でやってきた。ここまで誰も自転車道路にいなかったのに、こんなときに限って出くわすなんてっ! 僕はあわてた。大きく前かがみして息を殺していた。おばあさんたちは話に夢中でそのまま通り過ぎて行った。ああ、びっくりした! ちょっと泡食ったけれど、日本海を見ながらの野糞は、いい野糞だった。

 

 谷浜まで来たときにコンビニがあった。僕は緑の公衆電話で今夜の宿の予約をしておこうと思った。そのとき、コンビニから30代半ばぐらいの男の人が出てきた。僕が、
 「 すみません。直江津の駅前にはビジネスホテルはありますか 」
と尋ねた。その男性は電動車イスが珍しいのかそれとも僕が珍しいのか、上から下までじろじろと見回してから、
 「 駅前にも市内にもいっぱいあるヨウ~ 」とぶっきらぼうに言った。そして、
 「 駅前に行くんだったら、国道8号線を行くより、もうちょっと先から左に曲がる旧道を下って行った

   ほうが近道だヨウ~ 」 
 「 ああ、そうですか、ありがとうございました 」
僕がお礼を言うと、その男性は軽く会釈をして軽トラックで過ぎ去って行った。

 駅前にビジネスホテルがあるんだったら、まずひと安心だ。予約だけはしておかなければとタウンページを繰っていると、さっきの男性が軽トラックをすっ飛ばして引き返してきた。家に帰って上越市の観光マップを持って来たという。そこにはビジネスホテルも市内道路も詳しく載っていた。わざわざ持って来てくれたんだ。大感激だった。
 「 ありがとうございました。お名前をお聞かせ下さい 」 その男性は照れくさそうに小声で言った。
 「 イタヤ 」 そしてまた軽トラックをすっ飛ばして帰って行った。
 ” イタヤ ” って、板谷さんなのかそれとも板屋さんなのか聞き漏らしてしまった。どこの ” イタヤ ” さんか分からないけれど。” イタヤ ” さん、ありがとうございました。心よりお礼申し上げます。

 もう辺りはすでに薄暗くなっていた。僕は市街に入って観光マップに載っている最初のビジネスホテル元気人に向かった。スロープもあってそのまま玄関から受付けまで入れた。シングルの部屋が空いていた。この宿は ” イタヤ ” さんからの贈り物だと思えた。

 

 

5月2日(水)
 直江津(なおえつ)には高い建物が少ないから街全体を眺めることが出来る。やっぱり上越(じょうえつ)市という名前よりも僕には直江津の方がピッタシ来るなぁ~。

 直江津の街を包むようにして高田平野が広がっている。はるかに遠望すれば妙高連峰の山々が取り囲んでいる。広い大地と遥かな大空。なんと見事な風景なんだろう?! 街があって平野があってその真ん中を関川が流れ、前には海がある。およそ人間の営みに必要なものの全てがここにある。一つの地域として完結している。僕はまたしばし見惚れていた。

 後ろを振り返れば小高い山があった。あの春日山城から上杉謙信もこの同じ風景を見ていたんだろうか。そして残雪の白い妙高連山のはるか向こうの信濃や甲斐を、武田信玄を睥睨(へいげい)していたんだろうか。

 

 ここは古代、越の国の中心地だった。奈良時代の律令制で国府と国分寺が置かれたところだった。直江の津は、北は蝦夷地から南は越前や若狭の国はおろか、遠く出雲地方とも交易ルートを持つ日本海の重要な中継港だった。

 直江という地名は、出雲王朝の中心地だった島根県斐川町にも存在(あ)る。昔、この直江津に住み着いた人たちは、出雲の人たちと同じ朝鮮半島からの渡来人だったんだろうか。とにかく越の国と出雲の国には何かのつながりを連想させる。

 この先に越後出雲崎がある。僕は島根県の出雲大社に行ったことがあるし、日御碕(ひのみさき)にも立ったことがある。ほとんど360度の眺望。荒しぶく大波小波、風は逆巻き、はるか水平線の彼方から湧き上がるように大空に向けて雲の群れが巻立つ。まぎれもなくここは出雲だと思えたものだった。

 そしてドドドドーっという音が聞こえてきそうな、海に沈む巨大な夕日。これこそが日御碕だとも思えたものだった。果たしてそれと同じ光景が越後出雲崎でも見られるのだろうか。

 僕は以前に、アイヌ語学者の知里真志保(ちりましほ)著「地名アイヌ語小辞典」(昭和59年復刻版)を読んだことがある。アイヌ語で「出雲」は、なんて解釈するんだろうか興味を持った。調べて見ると、

  i - イ  ① 第1人称目的格の人称接頭辞 (以下省略)
       ② 第3人称主格
         (中略)
         地名の中では、クマやヘビなど、恐ろしい神の名を呼ぶのをはばかって、単に ” それ ” と

         云ってすますことも多い。 

 

         i - ru- o- nay〔イるオナイ〕それ(=クマ)の・足跡が・郡在する・沢。 

                      [ 意訳: クマの足跡が多くある沢 ]
         i - ot- i〔イおチ〕それ(=ヘビ)・郡在する・所。

                      [ 意訳:ヘビがたくさんいるところ ]

                             (「地名アイヌ語小辞典」、p34)

  to と(とー) 沼;湖。

          古くは海とも云ったらしく、北海道の山中の忌詞では海を to と云い、樺太の祈詞や

          古語では海の風を「とーマゥ」 to- maw(トーの風)と云う。

          また海の凪を「のと」notoというのも no-to(よい・海)の意だった。

          日本でも九州や沖縄で海をトと云った例があり、壱岐や対馬でもそうだったらしいから

          たぶんそれと関係があり、結局は古い朝鮮語とも結びつくかも知れない。

                               (「地名アイヌ語小辞典」、p130)

 知里真志保によればアイヌ語には、” が ” や、” づ ” などの濁音は標準的にないと言っている。「出雲」は「い・つ・も」となり、” i- to-maw ”(イートーマゥ)の意訳は、” 恐ろしい神様が海の風を吹かすところ ” となる。確かに日御碕は風の強いところだった。越後出雲崎もおなじだろうか。

 でもこんな独断や妄想ばかり言っていると、知里先生から「 これだからシロートはコワイ! 」って、大目玉を食らいそうな気がするなぁ~、あっはは!、大苦笑!

 

 ここまでいっしょだったJR北陸本線は直江津から信越本線にかわる。何故北陸本線は直江津が終点なんだろうか。それはやっぱり古代の北国街道の最終地が直江津だったし、当時、ここまでがヤマト政権で、ここから北は蝦夷地だったからなんだろうな。

 新幹線や特急列車やただ速くて便利なものだけを利用していると、いろいろな地方の特色や成り立ち、人びとの暮らしぶりが見えなくなってしまう。でも当世の人たちからは、” だから何だってんだっ。そんなことを知ったところで何の役に立つんだ ” と、言われそうな気がするけど。

 

 天気予報では雨降りなんて言わなかったのに、突然のにわか雨が降ってきた。僕は急いでビニールカッパを着込んだ。やっと「 オオガタショッピングセンター 」というところまでたどり着いた。ずぶ濡れになってしまった。このオオガタショッピングセンターには緑の公衆電話はなかった。僕はまだ今夜の宿の確保をしていない。今日は柿崎まで行くつもりにしていたけれど、柿崎には旅館はあるんだろうか。いつまで経っても危ない橋ばっかり渡っているなぁ。
 雨の中、ようやく柿崎駅に着いたら駅の隣に岩野屋旅館があった。部屋は空いていた。よかったぁー。岩野屋のご主人はとっても気さくな人だった。まだ早い時間なのに部屋に上げてくれた。電動車イスも充電してくれた。

 夕方になって泊まり客もどんどんとやって来た。もうちょっと遅い時間に到着していたら泊まれなかったかもしれない。ラッキーだった。

 僕は部屋に落ち着いて、電気コタツにもぐり込んで居眠りをしていた。耳を澄ますとかすかに波の音が聞こえる。海は鉛色、ドドーッと浜に押し寄せる大きな波も小さな波も、みんな三角に鋭くとがった白い刃先のようで、それはまるで銅で作った大根おろしのおろし金のようだった。きれいな景色だなぁ~。海が生きてるって感じだな。僕はその波の音を子守歌のようにしてコクリコクリしていた。

 岩野屋旅館は日本海の荒波を聞く宿だった。

 

 

5月3日(木)
 岩野屋旅館の朝ご飯は、自家製の山菜料理や漬物や煮物が並んだ家庭料理だった。みそ汁はいくぶん濃かった。北国のみそ汁だと思った。だんだんと北へと帰っているんだと感じた。

 昨日と打って変わって今日は晴れて暖かく、海はおだやかだった。絶好の電動車イスドライブ日和りだ。さあー行くぞっ! 今日は柏崎だ。国道は海岸線ギリギリを走っていた。道路は快適だった。海は朝日に映えてキラキラと輝いていた。暖かくって気持ちいい。

 

 今日は何だかいつもと違ってバイクの数が多いような気がするなぁ。けたたましい爆発音を立ててすっ飛ばして行く。

 あっ、そうか、世間ではもう全国的にゴールデン・ウィークなんだ。それにしてもツーリングのバイカーたちの運転は乱暴だなぁ。センターラインを飛び出してウォ~ンとひと吠え、フルスピードで追い越していく。車間距離があろうがなかろうがお構いなし。マナーもモラルもない。そのうち10数台並んだバイク族がドッドッドとやって来た。リーダーがトップをとって、ナンバー2がラストを締めて。スピードこそ出していなくても道路を占有している。後続車は付き従うしかない。

 

 やっと休みがとれて、ドッとくり出して来たんだろうか。日頃のストレスやウップンも分からないことはないけれど。だからってやりたい放題というのは如何なものでしょうか。ネェ~、バイカー諸君。この青く輝くきれいな海をよく見て見給えよ。何とも心が安らぐじゃないか。僕のように時速6キロメートルとは言わないけれど。ちょっとスローダウンして人生をゆっくり見つめ直してみようよ。そんな余裕もないのかい。短い休暇、急げ急げで大事なことを見落としていないかい。

 

 でもこのグループの中には、バイクよりも仲間が欲しくって、一緒に行動している人もいるんだろうか。結局人間なんてひとりなんだよ。親がいて兄弟姉妹がいて妻や子供があって友だちがいても、つまるところ人間はひとりで死んで行くんだよ。それを悲しんだり避けて通るんじゃなくて、だから生きてある限りは、人と人とのつながりを大切にしようよということなんだ。甘えたりすがったりするんじゃなく、性根を据えて生きてみようということなんだ。難しいことだけど、覚悟を決めなきゃ~いつまで経っても自分が辛くなるばかり。そうじゃないかい、皆の衆。

 

 柏崎には3時過ぎに着いた。今日はここまで。駅前の観光案内所でサンシャインホテルを紹介してもらった。事務の女の人にお礼を言うと、” ここはいいホテルですよ ” と教えてくれた。ホテルに到着すると、玄関にはスロープが設えてあった。

 

 

第8信 良寛さんに会っちゃった!

 

5月4日(金)

 さあー、今日は出雲崎まで行くぞ。でも出雲崎まで「 道の駅 」はないし、道路地図帖を見ても充電出来そうなところがない。ウィークデーだけど途中に町役場もないし。でも柏崎・刈羽原子力発電所があった。ちょっと寄ってみようかなぁ~。 
 「 すみませんが、電動車イスのバッテリー充電をさせてくれませんか。お宅には電気は沢山あるでしょう

   から、ちょっとだけ分けていただけませんか 」って頼んだら何て言われるんだろうか。
 「 この障害者は何を言ってるんだっ! 」って、バカにされて追ん出されるんだろうか。それとも、
 「 東京電力本社に問い合わせしなければ何とも出来ません 」と、
お役所のように慇懃無礼(いんぎんぶれい)に門前払いを食らったりして、くっくっく、苦っ苦っ苦っ!、大笑い。

 

 ホテルサンシャインを6時30分に出発。近くのコンビニで朝食に角食パンを買った。352号線は海岸線の旧街道らしい道だった。天気は晴れているけど今日も寒かった。僕はビニールカッパを防寒着代わりに着込んでいた。気温が低くて案の定すぐにバッテリーランプが点滅し出した。宮川公民館があった。でも玄関の扉は硬く閉ざされたまま。どうしよう。ちょうどそのとき、隣りの民家からおじいさんが出て来た。僕はおじいさんに、
 「 この電動車イスで『 旅 』をしている者ですが、バッテリーの充電をさせてくれませんか 」
と頼んでみた。おじいさんは、
 「 ああ、そりゃ~、大変なことでェ~。車庫のコンセントを見てみまショ~ 」
と言って、軽トラックを出してごそごそと車庫の奥を探しはじめた。そしてコンセントの延長コードを僕に渡してくれた。
 「 ちょうどよかった。これから出かけるところじゃったんだァ~。ゆっくりして行って下さい 」
と告げて、軽トラックをぶるんぶるん言わせて街道を走って行った。玄関は開けっぱなし。奥に声をかけても返事がない。不用心だなぁ。この世には泥棒なんていないと思ってるんだろうか。車庫の中には鉄こてや木こて、電動工具やスコップにセメント袋が置いてあった。どうやらあのおじいさんは左官屋さんらしい。
 「 いいですよ、それじゃ僕が代わりに留守番をしましょう! 」
僕は玄関前で日向ぼっこをしていた。

 

 しばらくすると今度はおばあさんが手押し車に掴まりながらゆっくりとやってきた。
 「 どちらさんですかァ~  」 ああ、この家のおばあさんだったんだ。
 「 『 旅 』の者ですけど、お宅のおじいさんに助けてもらって充電をさせて貰っているんです。おじいさん

   は何処かに出かけられました 」と説明すると、おばあさんは、
 「 ああ、そうかいっ。私っしゃ~、もう少し遊んでくるから、ゆっくりして行きなさい 」
と言って、また元の道へと引き返して行った。

 僕はだんだん可笑しくなってきた。随分とのんびりしているなぁ。似た者夫婦なんだな。しかたがないからまた僕が留守番をしていた。玄関の表札を見た。「 新潟県柏崎市・・・ 大津誠司 」 大津さん、お世話になっています。ありがとうございます。

 

 人通りの少ない街道にもときどきは人が通る。僕の方をちらっと見て行く人もいるけれど、中には頭を下げて会釈をする人もいた。僕のことを何だと思っているんだろうか。もちろんこの集落の人間でもないし大津さんの親戚でもないことは分かっているはずだ。おもしろいなぁ~。この集落の人たちの心根に触れたような気がした。充分に充電させてもらった後、お礼の置き手紙をして大津家を出発した。玄関のドアは開けたままにしておいた。

 

 それからの海岸線は複雑な地形が続いていた。いくつもの岬や入江があった。その入江には小さな漁港もあり、細長い集落が山と海の間にへばりつくように続いている。水平線にはやはり佐渡の島影は見えなかったけれど、海に飛び出した岬からの景色は素晴らしかった。風光明媚とはこのことだ。道路は双方一車線。自転車が通れるほどの歩道があり快適だった。それにしてもこの辺りはお寺の多いところだなぁ。

 

 やっと出雲崎の街並みが見えてきた。今までの集落から比べればびっくりするような大きな街だ。僕は旧街道に入った。街の入り口のところでいきなり首塚に遭遇した。案内板を見れば、昔ここで囚人たちの処刑が行われたそうで、今は供養塔が建っている。乗用車が一台通るのがやっとの細い街並みを行く。途中で良寛さんが出家して剃髪をしたという曹洞宗高照寺があった。街の奥の方には実家の菩提寺の円明院もある。出雲崎には何軒か旅館があるのを知ってちょっと安心した。

 

 「 道の駅 天領の里 」に向かった。広場にはフリーマーケットが開催されていた。よくぞこれだけ人が集まったもんだと思えるほど、会場には人も車もごった返していた。そうだ、ゴールデンウィークなんだ。物産館やレストランも満員で電動車イスが入れる余裕はなかった。どうしようかなと思っていたら、「 天領の里 」観光案内所の本部テントを見つけた。事務所の職員らしい中年のおじさん方が、名物団子と大きなポリバケツに氷をたっぷりほうり込んで冷やした缶ジュースを売っている。僕はまずお腹ペコペコを解消してから、充電出来る場所を尋ねた。責任者の人がこのテントにはドラムコードを引いているからそれを使えばいいよと教えてくれた。助かった。運良く本部テントに行き合ったものだ。

 

 やっとひと心地がついた。責任者の人が、この辺りの人かと尋ねてきた。広島県からこの電動車イスで「 旅 」をしていると答えると、その場にいた数人の職員たちが、ええっ!と声を張り上げた。いつ広島を出発したの? 一日にどれだけ進めるの? 充電をいつもこうやって頼んでいるの? 宿はどうしているの? と、矢継ぎ早の質問。みなさん、この世のものではないものを見たというような顔をして僕を凝視している。何だか照れくさくなっちゃった。

 

責任者の人から
 「 ところで今日はどこまで行くつもりなの? 」と尋ねられた。僕が、
 「 この出雲崎に泊まろうと思っています 」と答えると、
 「 予約は取っているの? 」
と再度聞く。僕はこれから宿を探そうかと思っていることを告げると、責任者は、
 「 ええっ! 」とまた声を張り上げた。
 「 今日はどこの旅館も予約客でいっぱいで、今から泊まれる所なんてもうないよーっ!」 
今度は僕が、「 ええっー! 」と大声を張り上げる番になった。そうだ、ゴールデンウィークなんだ。迂闊だったなぁ~。どうしよう! 責任者の人も、
 「 これから隣町まで行くのは大変だし、困ったなぁー 」 
他の職員たちと相談をし始めた。
 「 ちょっと待ってね。今町役場の人と相談しているから 」 
僕の方からお願いしたわけではないのに、この人たちは僕のことを真剣に心配をしてくれている。僕はだんだん熱いものがこみ上げてきた。もうこの人たちに委ねるしかない。

 

 この職員さんたちは出雲崎町から「 道の駅 天領の里 」のいっさいの運営を委託された株式会社シダックスの正社員だった。責任者は小林正雄さんといった。小林さんは携帯電話であっちこっちへと折衝してくれていた。どこかにまだ空き部屋はあるのか。こうなっては僕は ” まな板の鯉 ” の心境だった。10数分後、小林さんは、
 「 宿が見つかりましたよ。ちょっと元に戻らなければなられど、石地というところにある吉野茶屋さんが

   宿泊を引き受けてくれたから、行ってみて下さい。ただし食事はできない素泊まりですよ 」
と教えてくれた。

 言葉もなかった。ただただ、両手で小林さんの手を握りしめて感謝するばかりだった。他の職員さんたちも笑顔で、” よかったね、これで安心だ ” と喜んでくれた。僕は再度みなさんにお礼を述べて、吉野茶屋に向けて出発した。
 ここから石地まで5~6キロメートル、一時間はかかる。でもそんなことを厭(いと)える立場ではなかった。どういうことだろうか? 一面識もない旅の者に、こんなにも親切にしてくれるなんて。ただただ有り難かった。

 

 吉野茶屋に着くとご亭主が笑顔で迎えてくれた。女将さんがさっそく部屋に案内してくれた。別棟の業者向けの簡易宿泊旅館のようだった。昨日まで満室で今日は僕ひとりだという。海がよく見える部屋だった。すぐに電気コタツの中にもぐり込んだ。やっと身体が、そして心までも暖まってきた。「 旅 」の途中で受ける恩ほど、身に沁みるものはない。僕は日本海の荒波をぼう~っと眺めていた。

 

 僕はその海を見ながら、良寛さんのことを考えていた。またまた、長い寄り道になりそうだ。

 

 良寛さんは江戸時代の終わりごろ、この出雲崎の名主の長男として生まれた。本来は父の後を継いで名主になる人だった。しかし少年のころ、名主見習いとして天領を治める代官と農民たちとの間に起きた争いの調停役をしたときに、双方の言い分をあまりにも正直に取り上げたためにかえって紛争がまして、仲裁は失敗に終わった。このことが父の名主の立場を最悪にした。すっかり自信をなくし、この俗世間ではとても生きて行けない自分を自覚して、良寛さんは仏門に入ったという。

 

 良寛さんの詩歌、和歌、漢詩、俳句、書作が、現代の文人作家、歌人俳人書家に学者、多くの文化人に与えた影響は計り知れないと言われている。良寛さんには子供のころから、いや僧侶になってからも、数々の奇行奇談が今に伝えられている。それが世間の常識からは外れているとか、いや子供のような純真な心を持ち続けた人だとか、後世の人たちを大いに悩まして、評価は両極端に別れている。良寛さんについて何らかの論評を加えたり考察することは、何かしら躊躇するものがあるらしい。または或る種の心構えというか、気魂をもって臨まなければならないようだ。

 どうも良寛さんについて考えることは自分自身を考える試金石になるのかもしれない。それほど良寛さんは、古今の学識者や芸術家にとって何かを触発させられる存在らしい。

 

 良寛さんは子供のころから人付き合いが下手くそで、いつもひとりで本を読んでいるような子供だった。七歳の頃、父親から叱られたことがあった。納得できない思いで上目づかいで父を見上げると、父から、
 「 親をにらむような子供は鰈(かれい)になるぞっ 」
と怒られた。行方知れずになった良寛さんを家中のものが探し回ると、海岸の岩場に立ちすくんでいた。
 「 何をしているのかっ 」と問いただされると、まだ幼かった良寛さんは、
 「 私は、いつカレイになってしまうんだろうか 」
と、真顔で心配していたという。人の言葉をすぐに信じて疑うことのなかった幼年時代の逸話だった。

 

 名主の名代として罪人の処刑に立ち合って、そのことが契機となって22歳の時に得度して地元の高照寺で剃髪する。22歳のとき、たまたまやって来た曹洞宗の国仙和尚に従って、備中(岡山県)玉島の円通寺に赴く。師の国仙和尚より良寛の名前を与えられる。ここで国仙和尚が亡くなるまでの12年間、あらゆる経文、漢書、万葉集和歌集を学びきびしい修行を行うが、師の死後、仏門を離れて漂泊の旅に出る。国仙和尚という後ろ盾を失ったこともあり、また仏門といっても結局は俗世間と同じ、宗派教団の中では出世争いがあり、檀家制度の中で温く温くと胡座(あぐら)をかいている僧侶たちの腐敗と堕落ぶりに失望したためとも言われている。
 いや失望というような生やさしいものではなかったのかもしれない。良寛さんにすれば、そんな仏教界ではもう一刻たりも生きて行けない自分を自覚して、息も出来ないほどの閉塞感、全身での拒絶反応を起こしたのではないかと僕には思える。

 

 全国を行脚(あんぎゃ)したあと、38歳のとき、故郷の出雲崎に帰って来る。そして74歳で没するまで、終生、宗派に属さず寺を持たず家を持たず庵の仮住まい、妻や子を持たず働きもせずにぼろ衣をまとい、近郷近在に托鉢をしてお百姓に食べ物を恵んでもらう常乞食の一生涯を送る。子供たちと日なが一日中手まりをしたり、隠れん坊に興じたり。また近くの遊廓では遊女とおはじきをしたり。ある早朝、野良作業にやって来たお百姓が葉陰に隠れている良寛さんを見つける。
 「 何をしているの? 」と聞けば、良寛さんは、

 「 しいーっ! 」と人さし指を口に当てて、
 「 静かにしておくれっ。子供たちに見つかるではないか! 」
と答えたという。良寛さんは一晩中隠れん坊をしていたというのだ。

 

 また時にはお百姓たちと膝を交えて世間話に花を咲かせ、時に昂(こう)ずれば共に般若湯(酒)を飲む。煙草も吸うし、誘われれば肉だって魚だって食らう。ひとり淋しくいるときには孤独を慰めるために、詩歌・漢詩・俳句を詠み書画にいそしむ。子供たちから凧揚げの文字を書いてと頼まれれば気安く「 天上大風 」と書くことはあっても、たとえ裕福な人や高名な人から書を請われても簡単には引き受けない。人に見せるものじゃない、止むに止まれない自分の正直な心情を書いているだけだから。

 こんな調子の暮らしぶりだから、まわりには「 奇特な人 」としていろいろな援助をする人もいたけれど、良寛さんの生き方考え方が理解出来ず、中には危害を加える人もいたそうな。
 そりゃー、そうだろう。世間では天明3年(1783)の大飢饉から10数年経った今も、毎年のような凶作に越後地方の農民衆の生活は困窮の極限にあった。そのお百姓さん小作人衆から米などのお布施で命をつないでいる。代わりに何処かのお寺を再興するでもなく有難いお説教をするでもなく。世間からはただ遊び呆けている破戒僧としてか目に映らなかったことだろう。

 

 それは現代でも同じことだ。同じ禅宗の臨済宗のお坊さんでもあった作家の水上勉は、著作「 蓑笠(さりゅう)の人 」で、良寛さんのことをただの怠け者として厳しく批判している、らしい(笑い)。僕は申し訳ないけれどその本を読んではいない。しかしきっと良寛さんはそんなことにいっさい頓着(とんじゃく)しなかっただろう。そんな世間の評判とか価値判断とかを超越していたというか、すでにそんなものを受付けられない頭脳の構造になっていたのではないかと僕には思える。

 

 良寛さんのこれまでの数々の事跡を考えてみて、僕には良寛さんというお人は、子供のころから多少自閉症かそううつ病の傾向があったように思えてならない。もちろん僕は良寛さんと会ってお話したわけではないけれど。でも長年フリーカメラマンとして多くの心身障害者とお付き合いしてきた僕の勘がそう思わせる。心に障害を持っている人は、世間では当たり前にそうしていることがどうにも受入れられない。何故そうしなければならないのか? その理屈がよく呑み込めない。そのことが世間からは知能障害者と誤解されやすい。

 

 それは人一倍感受性が強いからなんだ。一見、ぼう~っとしているようでも、実は見るもの聞くものに心が鋭敏に働きすぎて、辛くて悲しくてやり切れないんだ。その代わり常人には持てない突出した才能や、人間や社会に対する洞察力、精神活動に優れた能力を持っている人も多いと言われる。良寛さんにはそれが詩歌や漢詩に俳句づくりだったのかもしれない。僕はそんな気がしてならない。

 

 もうひとつ、余分なこと。
 僕がフリーカメラマンの当時、僕は自分の好きなテーマの写真しか撮らなかった。しかもモノクロ写真にこだわっていた。もちろん写真を撮って売らなければ飯が食えない、生きて行けないのだけど。でも僕には僕のテーマの寝たきり老人、心身障害者、難病患者の写真取材をしつつ、同時にコマーシャルの仕事をこなす、そんな器用なことが出来なかった。だから僕に回ってくる仕事なんてごく限られていた。決まった収入はないし極貧状態だった。

 

 通常フリーカメラマンと言っても事務所やスタジオを持ち、少なくとも留守番電話かファックスは当たり前なのに、僕には1DKの自宅兼用暗室の民間アパートがやっとこさだった。広い北海道を取材するのに自家用車もない。借金して便利な最新式の機材を買ったりすると後で命取りになる。常にカメラバッグと身ひとつで動ける仕事しかしなかった。僕は経営者にはなれないんだ。

 こんな僕だったから同業のカメラマンたちからも仕事先からも、ありゃ~アマチュアに毛の生えたプロカメラマンだと完全にバカにされていた。でも僕はこのやり方だからフリーランスとして生き延びられると覚悟していた。

 

 何ヶ月も仕事がなくて持ち金も切れて飯が食えなくって、角食パン6枚切りを朝昼夜と2枚ずつ食べて、それで一日をしのいでいた。でも僕は貧乏と闘っているから、贅沢なんかしていないから、だから寝たきり老人や心身障害者、難病患者の人たちと同じ目線で生きられる。だから写真が撮れるんだ。それこそが僕の誇りだと思えたものだった。

 正直言って、辛かった、淋しかった、耐えられない孤独感にも苛まれた。お金もなくなってお腹も空いてどうにも行き詰まって、人恋しさにベッドで布団を被ってのた打ち回っていたこともあった。そんなとき僕の友だちが僕においしい御飯をご馳走してくれたり、1週間も家に泊めてくれたことも度々あった。友人たちが言っていたものだった。
 「 今どき、お前のような生き方を誰でも出来るものじゃない。そこまでやれることが羨ましいと思ってい

  る奴もけっこういるんだよ。そんなお前を助けてやりたいとも思っているんだよ。ゆっくりして行けば

  いいよ。自分の家にいるつもりで 」

 

 僕はあふれる涙をこらえることが出来なかった。僕のことを分かってくれている。僕はこんな友人たちに支えられて写真を撮っている。生かさせてもらってるんだ。なんて幸せなことなんだろうか?! 僕は僕だけのためではない。この友人たちに応えるためにも、僕は決して敗けてはならないんだ。自分の写真を貫くんだ。それが僕の恩返しであり、僕が生かさせていただいていることの意味なんだ。そう思ったものだった。

 

  翻(ひるがえ)って思うのに、はなはだ僭越なことだけど、良寛さんも僕と同じような気持ちだったんじゃないだろうかと想像する。僕は良寛さんに僕と同じ匂いを感じる。何だか肌に触れるような親近感がある。良寛さんもさぞかし生きることが辛かったろうなぁ~とも想像する。早くお迎えが来てくれたら何んぼか楽になれるだろうにと、そう思える日もあったろうと推測する。

 

 しかしそうもなるまい。この目の前にいるこのお百姓たち。凶作飢饉が続いているのに代官所からは年貢米をきびしく取り立てられ、名主庄屋からは労役に駆り出される。それは自分が名主見習いをやっていたからよく知っている。日々の悲惨をなめ尽くしている。そんなお百姓衆には堅苦しいお説法よりも、楽しく世間話をしてあげる方が、よっぽどか心和むのではないだだろうか?

 

 幼い子供たち。ひょっとかしたら口減らしのために水子や間引きで殺されていたかも知れぬ。大人になっても親と同じ一生水呑み百姓だ。せめて今のこのとき、手まりや隠れん坊でいっしょに遊んであげよう。

 

 遊女たち。自分で望んで遊女なんかになったんじゃない。親や幼い弟妹たちを助けるために売られてこの遊廓に身を沈めたのだ。昔、無邪気に遊んでいた女の子に戻っていっしょにおはじきをして遊んであげよう。良寛さんはこんなふうにも考えていたんじゃないのかしらん? 

 

 たとえ私の生き方考え方がよく理解されなかったとしても、世間の皆様から馬鹿にされて嘲り笑われることがあったとしても、これがお釈迦様から私に与えられた仕事なのだ。だから私はみなさんからお飯をいただいて、生かさせてもらっている。なんと有り難いことだ。そう、良寛さんは思ったことだろうか。

 

 僕は今、「 電動車イスひとり旅 」をしている。宿に食事は自分持ちだけれど、バッテリー充電だけは1日に3回、必ず何処かで誰かにお世話にならなければ「 旅 」は一日も続けられない。それは良寛さんの常乞食に似通ったものがあるのかもしれない。ただ、良寛さんと違うのは・・・。

 

 良寛さんのそれまでの生涯は、人様から貰ったぼろの墨衣のような、寂寥感に満ちたモノトーンのような風景だったかもしれない。だけど晩年には貞心尼という人生の理解者を得ることが出来た。貞心尼は法弟であり詩歌の弟子でもあり親子ほどの歳の差があったけれど、この尼僧との交わりが、良寛さんの生涯の終わりに、どれほど四季折々の草花や樹木の緑葉のような艶(あで)やかな彩りをもたらしたことだろうか。もちろん僕にそんな人徳があるわけがない。たぶん僕は一生ひとりだろう。そんな光明は得られないだろう。僕はそれでいいと思っている。

 

 出発のとき、多くの人から無謀なことだと言われた。携帯電話も持たないで、サポートもいなくてひとり旅。どこかで何か不測のことが起きたとしても誰も助けてはくれない。死ぬつもりはないけれど死ぬ覚悟を定めての「 ひとり旅 」だった。そして良寛さんは言っている。

  ” 地しん(震)は信(まこと)に大変に候(そうろう)(中略) 
    うちつけにし(死)なばし(死)なずにながらえて
    かかるうきめ(憂き目)を みるがわびしき

    しかし、災難に逢う時節には 災難に逢うがよく候
    死ぬ時節には 死ぬがよく候
    是(これ)はこれ 災難をのがるゝ妙法にて候   ”

 この一文は良寛さんが71歳のときにあった新潟三条大地震で、知人に宛てた手紙だそうな。良寛さんは自分も地震で死んでいたかもしれないのに、生き長らえてこうして他の人たちの惨状を見ることがとても辛いと嘆いておられる。そして災難に遭うときは災難に遭えばいい。死ぬときには死ぬのがよいことだと、そうおっしゃっている。

 その昔、旅立とうとする友を見送った輩(ともがら)は、行く先に馬の鼻を向けて旅の安全を祈ったと聞く。僕には何だか、良寛さんが僕のために遺しておいてくれた鼻向けの言葉、励ましの言葉のように思えてならない。
 それにしてもなんという人生観・死生観なんだろう?! 決して投げやりの言葉なんかじゃない。良寛さんはやり切ったんだと思う。生き切ったんだと思う。その上での言葉だと思う。見事という他ない。それは良寛さんの凄然とした生き様を語るのにもっとも相応しい言葉のように思える。

 

 僕はだんだん薄暗くなってきた部屋で朝買った角食パンを生のままかじっている。あっ、たまたま偶然に角食パンだ。あっはっはは! あれから何10年、僕の生活ぶりも生き方も、何も進化していないなぁ~。佐渡島は見えなかったけれど、水平線近くのボヤらとした雲間に大きく沈む夕陽を見ることが出来た。黄金色とあかね色が交ざった輝く海。天上界に通じる大きな一筋の道をつくっている。まさにあの向こうに西方浄土があるんだろう。夕空には雲がいっぱい出てきた。今夜はあの芭蕉が詠んだ、

 ” 荒海や 佐渡によこたふ 天の川 ”

のような満点の星空は、望むべくもないなぁ~。

 まぁ~、いっかっ!

 

 

5月5日(土)
 朝早く吉野茶屋を出発して、出雲崎まで戻ってくるのに小1時間かかった。今朝も寒い。空は曇より、海は凪(なぎ)ていた。「 道の駅 天領の里 」付近はもう車で混雑していた。出雲崎の街を足早に通り過ぎて来たけれど、コンビニは一軒も見当たらない。実は僕はもうお腹がペコペコなんだ。昨日の朝からまともな食事をしていない。空腹で寒さが余計に堪える。何処かに何かないかしらん?

 

 郷本というところまで来たら民宿が一軒あった。朝食だけでも何とか食べさせてもらえないものかと、玄関先で大声で呼んでみた。何の反応もない。時計を見たら9時前だ。休業中なんだろうか。もう一度呼んでみたけれど、ダメだった。僕はとぼとぼと街道に戻った。大声を出してかえって余計にお腹が空いてきた。

 もう少し行くと、手入れの行き届いた松の枝がある立派な門構えの家の前で、草刈りをしている60歳ぐらいの男の人を見かけた。

 

僕はそのご主人に、
 「 この辺りに食事ができるところはありませんか 」と尋ねた。ご主人は、
 「 どうしましたか 」と聞き返した。
僕は「 旅 」の者で、昨晩石地の吉野茶屋に泊まったのだけれど、素泊まりで夕食も朝食もまだ食べていないことなどを話した。ご主人は仕事の手を休めて、
 「 それは困りましたねぇ。この先食堂はありませんよ。ちょっと待っていて下さい 」
と言ってすたすたと奥の方へ行ってしまった。

 しかたがないからその場にいると、今度は奥さんと一緒に出てきた。急いでおにぎりをこしらえたという。小さなお盆の上には、のり巻きのおにぎり梅干し入り二個と漬物とアメ玉とペットボトルのお茶がのっていた。奥さんは有り合わせのものしかなくて、ごめんなさいとおっしゃる。僕は感激で胸いっぱいになってしまった。ご主人は延長コードを持ち出して充電もさせてくれた。ご主人は、
 「 眺めの良いところで食べた方がいいでしょう 」
と言って、僕を抱きかかえて海辺の岩壁に座らせてくれた。
 「 ゆっくり召し上がって。終わったら教えて 」
と告げた後、また庭仕事をはじめた。

 

 おにぎりは温かくてほんのりと磯の香りがして、ちょうどいい塩加減だった。でもその塩加減には、僕の頬を伝う涙の味も加わっていたのかもしれない。ご主人に僕の旅日記帳に住所と名前を書いてもらった。「 新潟県長岡市・・・ 小熊洋一 」 小熊さん、奥様。このご恩は一生忘れません。ありがとうございました。

 

 僕はまるで夢見心地で国道を進んでいた。ああ、今の世知辛い世の中に、見ず知らずの「 旅 」の者にこんなにも親切にして下さるお人がまだおいでになるんだ。なんと有り難いことなんだろうか。まんざらこの世の中、捨てたもんじゃない。そう思わせてくれる。一見、見えづらくても、人の世に心はあるものなんだ。そのことを天は教えて下さっている。

 

 寺泊(てらどまり)の街までやって来た。休憩と充電が必要だった。街に入るその入り口に寺泊水族博物館があった。チケット売り場で充電のお願いをすると、館長の新谷裕幸さんが事務所から大きなドラムコードを持って現れた。館内の展望台で充電しながら休憩するよう進めてくれたけど、恐れ多くてこのまま玄関口で充電させてもらうことにした。

 ようやっと天気は晴れて外でも充分に暖かかった。今日は5月5日、子供の日。館内も外のイベント会場も家族連れでいっぱいに賑わっていた。次に若い男性の職員さんがわざわざやって来て、

 「 何か困ったことはありませんか。遠慮なく言って下さいね 」と様子を見に来てくれた。
この寺泊水族博物館には優しいスタッフが多いんだなぁ。青い海がとてもきれいだった。気分がいいなぁ。

 

そこへ今度は40代と思われる女の人が、
 「 電動車イスの旅人がいるって聞いたもので 」
と、ホットコーヒーとクッキーを持って現れた。出勤途中の国道で僕の姿を見かけたという。差し出された右手の指は全部なくて、左手指にはかろうじて何本か残っている。手全体が火傷のただれた古い傷で覆われていた。

 僕は思わず失礼を省みず、
 「 どうされたんですか? 」と聞いてしまった。
その女の人は、6歳のとき囲炉裏(いろり)に落ちて大やけどを負ったのだという。何度か移植手術をしたけれどうまく行かなかった。もうこのままで生きて行こうと決心してから気持ちが落ち着いたと言われる。僕はまた、
 「 この手で勉強するのは大変だったでしょう?! 」
と失礼な質問繰り返してしまった。それなのにその女性は明るい笑顔で、
 「  頑張って、ここまで来たんですよ  」と胸を張って答えた。
 僕はこみ上げてくるものに我慢出来なかった。そのひと言で、この女性がこれまでどんな生涯を送ってきたか、一瞬にしてすべてが見えたような気がした。僕は思わず彼女の両手の拳(こぶし)をなでなでしていた。誰だって身も知らぬ赤の他人に自分の傷跡を触られるなんて、大嫌いなことかもしれない。それなのに彼女は僕のされるがままにしていた。

 お互い目を見つめ合った。もう何も言うことはなかった。彼女も僕の生涯を察知したんだろうと思う。もう初めて会ったような気がしなかった。
 「 野口英世ですね 」 僕がぽつんと漏らすように言うと、彼女は、
 「 そんな立派なもんではないですよ 」と笑って答えた。それから、
 「 どうぞ無事に『 旅 』を全(まっと)うされますように 」
と言って、足早に館内に戻って行った。

 

 それまで我慢していた涙がどっとあふれてきた。小学校では同級生からどんなイジメにあってきたことだろう。親御さんは、この子はもうお嫁に行けないかもしれないとどんなに気に病んだことだろうか。今と違ってパソコンもなかった時代に、どうやって鉛筆を持って勉強したんだろう。人一倍負けん気で努力をしたんだろうなぁ~。そして公務員試験に合格して水族博物館に勤務することが出来た。並大抵の苦労じゃなかったはずだ。普通なら職場の同僚から嫌がらせを受けるかもしれない。でもここの皆さんだったら大丈夫そうだ。

 

 何処にだって障害者はいるんだ。ちょっと見、障害者は家にこもっているから、世間様はこの世に障害者なんて何処にもいないって顔をしているけれど。ところがどっこい、何処にだって障害者はいて、精いっぱい生きて。あの日本海の荒海のようなこの世の中で、敗けまいと精一杯頑張っているんだ。
 「 どうだっ、分かったかっ! 」 僕は大声でそう叫びたい思いだった。そしてその後で、
 「 どうか『 この世の中 』さん、こんなにも切なくも健気に生きている障害者のことを、どうぞ分かって

   やって下さい、お願いいたします 」 

それは僕の心からの祈りだった。

 

 充分に充電をした後、館長の新谷さんをお呼びしてお礼を述べた。先程の女性のことを尋ねると、下篠美恵子さんだと教えてくれた。彼女はとても頑張り屋さんでみんなの牽引力だとも教えて下さった。それを聞いて僕はさらに幸せな気持ちになった。ありがとうございました、新谷さん、そして下篠美恵子さん。僕はあなたから「 旅 」を完遂させる新たな勇気をいただきました。もう再び会えないかもしれないけれど、どうぞ共に頑張って生きましょう!

 

 僕は車で混雑している402号線には入らず、旧街道を行くことにした。相変わらずお寺さんの多いところだった。きっとこの辺りは信仰心の厚い人が多いんだね。それにしても昨日会った大津誠司さんといい、「 天領の里 」の小林さん、小熊洋一さん、奥様、そして寺泊水族博物館の新谷さん、下篠さん。何故見も知らぬ赤の他人の「 旅 」の障害者に、こうまで親切にしてくれるんだろう。そのとき僕に思い当たることがあった。
 昔からこの越後長岡地方は、瞽女(ごぜ)さんがおいでになるところだった。生まれながらか途中からか、目が見えなくなって農家の働き手になれない女の子が、口減らしのために家を出されてしまう。瞽女の親方の家に預けられ、瞽女唄と三味線を習い覚えて、村々を回って家々に祭文や口説き歌を門付けして。旅芸人として自分の力だけで生きて行かなければならなかった女性たちのことだ。夫や子供を持つことを掟で許されず、一生涯旅から旅への暮らしだった。

 そんな境遇に身につまされたこの越後地方の人たちは、瞽女さんを大切に見守ってきた。そんな習わしが今の平成の時代でもまだ息づいていたんだろうか。遠い昔から育まれてきたこの地方独特の伝承が、きっと僕を守ってくれたんだと思う。白岩の信号から県道二号新潟寺泊線に入り、信濃川分流の大河津大橋を越えたとき、ここで出雲崎とお別れだと思った。ありがとうございました。出雲崎のことは一生涯忘れません。

 

 「 道の駅 国上 」にやって来た。ここもゴールデンウィークで家族連れでいっぱいだった。先ず腹ごしらえと食堂に行ったら大混雑。しかたがないから売店の山菜おこわ弁当でお昼御飯を済ます。農産物直売所があった。農家のおかあさん方が店番をしている。
 「 バッテリー充電が出来るコンセントがありますか 」と尋ねると、
 「 ああ、こっちへおいでなさ~い 」
と笑顔で答えて、野菜がいっぱい詰まった段ボールを片付けて、電動車イスの通り道をつくってくれた。このふれあい市は地元でも人気があるらしくって、常連さんとおかあさん方の野菜類の出来具合や値段交渉の飾らないやり取りは、聞いていてとても楽しかった。

 

 出発の前に緑の公衆電話で調べると、吉田駅前に「 ミナトホテル 」があった。電話予約するとシングル部屋が空いていた。そして福島県読売新聞社郡山支局の加藤 仁氏に電話を入れた。加藤さんは電話口で、
 「 ついに新潟まで来たかぁ~! 」
と、感無量の声を上げていた。僕も詰まりながら今夜は燕市吉田駅前にあるホテルミナト泊まり、明日はいよいよ新潟に向けて出発することを告げた。
 「 身体の調子はどう? 」
と気づかってくれたけど、公衆電話からの長距離電話ではままならず、大丈夫!と早口で答えて、詳しいことは会ってからの約束をして電話を切った。うまくつながった。やっぱりちょっとお互い興奮していた。僕は意気揚々、吉田駅へと出発した。

 

 ここはもう越後平野のど真ん中なのだ。越後は米どころ。広い見わたす限りの田んぼを、農家の人たちが田植え機のエンジン音をカタカタと響かせ田植えをしていた。稲棚をいっぱいに積み込んだ軽トラックが次々と稲苗を下ろして行く。農家にとっては一年のもっとも忙しい季節だ。晴れた大空の下、水田がまるで緑のジュータンのように広がっている。なんて清々しい光景なんだろう。

 

 振り返れば、弥彦山がどっしりと腰を落とし、働く人たちの姿をゆったりと眺めてござる。地底から湧き上がったかはたまた天から忽然と舞い降りたか、こんな平地に何故こんなお山があるんだろう。不思議だなぁ~。それでいて何ものにも揺ぎようのないこの存在感。はるか縄文・弥生の昔から、何千年もの間、人々の暮らし、行く末を黙って見守ってござった。やっぱりおもしろいお山でござる、弥彦山は。

 

 吉田駅のホテルミナトは大きなビジネスホテルだった。チェックインすると加藤さんから電話伝言が入っていた。部屋に入って加藤さんの携帯電話に電話を入れると、明日休みがとれたので朝一番で郡山市から新潟に向かう。途中で落ち合おう。そして奥さんの直子さんも一緒にやって来ることになった。さすが新聞記者、やることが素早いっ! 

 それにしても携帯電話って便利だな(苦笑中)。明日会えるんだぁ。直子さんとも何10年ぶりかなぁ。どんな再会になるんだろうか。何だか今夜は興奮してとても眠られそうにないや。

 

 

5月6日(日)
 午前6:00、ホテルミナト出発。街外れの公衆電話で加藤さんの携帯電話に連絡。国道116号線を北上中。歩道を走行中の電動車イスに注視されたし。途中バッテリー充電による長時間休憩時には、逐次報告の予定。車の運転にご注意あれ。天気晴朗なれど風強し、以上。Z旗上がる。

 

 116号線は平野の中のまるでアメリカのフリーウエイのような高架道路で、吹きっさらしの風が冷たくてたまらない。加藤さんに報告した以上今さら街中に逃げ込むことも出来ないし。9時過ぎ、ようやく西川町の信号角にあるコンビニに到着した。

 さっそく携帯に電話を入れると運転中の加藤さんに代わって、奥さんの直子さんが出た。久しぶりに聞く声だった。若々しかった。

 今、磐越自動車道で新潟市内に接近中。バイパスを使って116号線を南下する。到着はおよそ30分後の予定。何だか時間刻みのドラマチックな展開になってきた。心臓がドキドキする。でも食事の後は居眠りがクセになっていて、トロントロンしているところを肩をポンと叩かれた。加藤さんだった。僕は思わず電動車イスから加藤さんの大きな肩を抱きしめた。加藤さんも負けずに抱き返してきた。しばらく動けなかった。ようやく顔を見つめると少し皴がふえて髪の毛は真っ白になっていたけれど、間違いなくそこに加藤 仁がいた。まだ言葉にならなかった。

 

 「 思ったより元気そうで安心したよ 」 
加藤さんから重たい口を開いた。
 「 うん、何とかここまで来られたよ。新潟まで行けば加藤さんに会えると思っていたからね 」
そばに直子さんが立っていた。
 「 お久しぶりでした。わざわざすみません。相変わらず美人ですねー 」 
 「 あはっー、さっそくそんなお世辞が飛び出すようなら、安心だわ~。あっははは! 」

 

 加藤さんが、『 つれづれの部屋 』のfumifum さんから送られてきた手紙を渡してくれた。中を開けると、それは僕を気づかい、心配し、励ましてくれている、『 つれづれの部屋 』の仲間からのメール文のプリントだった。またもう言葉にならなかった。さっきと違った熱いものがこみ上げてきた。
 まだ充分に充電していなかったけれど、さっそく加藤さんと「 ふたり旅 」、じゃなくって、直子さんもいれて「 三人旅 」となった。加藤さんが僕の「 旅 」の最初のサポーターになった。

 

 こうして一歩街道に踏み出せば、時間の空白がウソのように思えてしまう。知り合っておよそ30年、そしてほとんど20年ぶりの再会、お互い歳をとって変わり果てた姿になったけど(笑い)、こうして肩を並べて歩いてみれば、何の遠慮もない昔ながらの友だち同士。離れていても友とは有り難いものだ。そしてお互いの20年間の出来事を、時速6キロメートルの電動車イスのように、ゆっくりと語らい始めた。

 

 

 

 加藤さんはあれから、北海道室蘭支局、北見支局を渡り歩いて、現場をいったん離れて東京本社で新聞編集のデスクワークに転じて、それから故郷の仙台の東北総局に戻り、そして今、福島県郡山支局に支局長として赴任している。現場大好きの事件記者加藤さんは、定年退職までにさらに新しい任地に飛び回ることだろう。

 

 加藤さんはそれでもいいけれど、付いて回る直子さんは大変だ。もともと直子さんは看護婦さんだった。それがとうとう専業主婦にされっちまった。愛する夫のためとはいいながら、心の内にはいろんな葛藤もあっただろうに。黙って夫について来た。どれほど直子さんの支えがあったことだろうか。今では子供たちは独立し、ようやくの水入らず。のんびり仲良く 暮らしていたんだ。と思いきや、加藤さんは転勤転勤の連続でストレスが高じて、少々のうつ気味になったという。

 幸い重症にはならなくて、根気よく治療して今では完治した。その病いの中、もともと日本酒が大好きな大食漢。糖尿病を併発してしまった。一時は今より10数キロも肥満状態だったという。直子さんに励まされ食事療法の結果、やっと元の体重まで落とすことが出来た。

 

  加藤さんはその昔 ” ジャンボ ” と渾名(あだな)されるぐらい、身体ががっしりしていて声も太めで、風貌だけではよっぽどか豪放磊落に見られがちだけれど、本当は繊細な神経の持ち主なんだ。僕は最初に会ってこの人の瞳を見たとき、いっぺんに性格を見抜いてしまっていた。

 いろいろ仕事上で辛いことがいっぱいあったんだろうと思う。今ではすっかり元気になって、こうして二人で休日を作ってあっちこっちへドライブ旅行に出かけるようになった。苦労してきたことが報われたんだ。よかった、羨ましいことだ。

 

  僕の方も、この間に起きたいろんなことを語った。プロカメラマンを辞めて、いちアマチュアとしてやり直すために、札幌から日高の平取町に引っ越したこと。 ここで生きるために勉強して土木の資格を取ったこと。加藤さんに紹介したことのある当時付き合っていた彼女とは、結局うまくいかなくなって別れたこと。

 重症筋無力症になって北海道を断念。郷里の広島の実家に帰ったこと。8時間にわたる胸腺摘出の手術を受け、その後6ヶ月以上の入院生活を4度も体験したこと。写真を諦めなければならなくなったこと。クリーゼ(呼吸困難)を起こして3~4度死にかけたこと。

  『 つれづれの部屋 』のエッセイ集を自費出版したこと。身体障害者手帳一種一級が交付され、電動車イスが広島県から補装具として認可を受けたこと。それで北海道にもう一度 帰って香西さんや友人たちと再会しようと、「 電動車イスひとり旅 」を思い立ったことなどを順番に話した。国道を行く車は引っ切りなしに続き、道路の上は騒音だらけだったけれど、僕たちの会話は静かに続いていた。

 それまで車で付かず離れずついて来ていた直子さんが車を降りて、僕たちの写真を撮りはじめた。お互い写真を生業(なりわい)にしてきたもの同士なのに、そう言えば二人のツーショットはなかった。これはいい思い出になる。
   
 電動車イスの時速6キロメートルは、人の歩くスピードより少し速い。ともに歩き出しておよそ2時間10キロメートル以上、加藤さんの足がちょっともつれ はじめている。でも今日は何としてでも新潟市内まで行きたい。スピードを緩められない。ゴメンね、加藤さん。でも加藤さんは、これで今夜飲む酒がいっそう 旨くなると頑張っていた。ようやく新潟大学駅前に着いた。

 

 何処か充電と休憩の出来るところを探さなければならない。駅近くに緑の丘病院老人保険施設があるのを見つけた。僕はいつもの通り電動車イスのまま病院内に入っていた。加藤さんも一緒に付いて来た。実はちょっとどうかな? と思った。

 1階奥のフロアでは、看護師さんと入所中のお年寄りたち10人ぐらいでリハビリ訓練に取り組んでいた。僕は担当の女性リハビリ作業士さんに事情を話してバッテリー充電のお願いをした。作業士さんは僕と加藤さんの両方を見てちょっと迷ってから、

 

 「 今日は日曜日で責任者がいないので、申し訳ありませんが対応できません 」
と断られてしまった。僕はやっぱりっ、と思った。今までいろんなところで協力してもらうことが出来たのは、僕が一人で、車イスの障害者だからだ。そこに健常者が一緒だと施設側は警戒する。しかも加藤さんは胸に携帯電話を、肩からカメラをぶらさげている。

  失敗したなぁ~。入る前に加藤さんと打ち合わせしておけばよかった。加藤さんにはサポーターの初日、この辺りの微妙な空気がイマイチまだ読めない。これは 「 電動車イスひとり旅 」をやって来た者にしか分からない人の心の機微なんだ。でも今さら加藤さんにジャマだからこの場から去ってくれとは言えないし。他を当たってもいいんだけ れど、僕はもう疲れて動きたくなかった。僕はもう一度、
 「 1時間ぐらいでもけっこうなんです。けっしてご迷惑のかかるようなことはいたしません。

   お願いします」
と押してみた。30代の女性作業士さんはまだ迷っていたけれど、
 「 院内をうろうろ動き回らないで下さいね 」
と言って、玄関にあるテーブルセットの脇のコンセントに案内してくれた。

 

  助かった。ようやく落ち着いたけれど、加藤さんも落ち着いたのか携帯電話とカメラをテーブルの上にドッカと置いて、大きく股を開いて休憩を始めた。そして よく透る声で直子さんに携帯電話で現在の居場所を報告しはじめた。マズイなぁ~。でも僕は何にも言えなかった。案の定、30分も経たないうちに女性作業士 さんがやって来て、
 「 施設長からすぐに出て行ってもらうようにと言われました。申し訳ありませんが、帰って下さい 」
と、きっぱりとした口調で言われてしまった。しかたがない。僕たちはすごすごと出て行くしかなかった。

 

  加藤さんは首をかしげている。玄関前の駐車場には直子さんの車が待機していた。福島ナンバーの見知らぬ車が勝手に駐車しているのは、さぞかし目立ったこと だろう。施設側としたら余計に警戒心を強めたのかもしれない。僕はこの辺りの状況をどう加藤さんに説明しようかと迷っていた。ツライところだなぁ~。
 「加藤さん、施設側は僕たちのことを警戒したんだと思う。基本的にはこんな施設は部外者以外は立ち入り  禁止なんだよ」 
僕はそう言うのがやっとだった。新聞記者としての加藤さんに僕の正直な気持ちを伝えたい。
 「 これが障害者を取り巻く現状だし、そんな中を僕はここまでやって来たんだよ 」
そうも言いたかった。でもせっかく福島から来てくれて20年ぶりに会ったのに、という遠慮が先に立ってしまった。自分の弱気が情けなかった。まだまだ、僕はダメだなぁ~。

 

 「 もうお昼だからどっかでメシを食おうか 」と加藤さんが聞いてきた。僕はちょっと迷ってから、
 「 いいよ、コンビニを見つけてキチンと充電したいから、行って 」と答えた。加藤さんは、
 「 俺はもうこれ以上を歩けないからメシ食って、先に新潟市内に入ってホテルを見つけておくよ 」 
 「 ああ、その方がいいね。僕はとにかくこの116号線をどこまでも真っすぐに行っているから、

   後で見つけて」 
加藤さんは直子さんと新潟方面に向けて車を走らせて行った。僕も116号線に戻った。また「ひとり旅」に戻った。

 

 これでよかったんだ。僕はやっぱり「 ひとり旅 」の方が性に合っている。サポーターが居たら居たで、難しい問題も起きてくる。僕にはチームプレーが出来ない。個人プレー向きの人間なんだと改めて実感する。

  それにしてもよくぞここまで人様にバッテリー充電の助けを受けながらやって来られたもんだ。そりゃー確かに僕は充電させてくれそうなところを見つけ出そう として、最大限の勘を働かせてやってきた。正直僕の努力の成果だと思う。しかし思わぬところで何度も助けてもらったのも事実だ。でもそれは僕がひとりで頑 張っているのを見るに見かねて、助けてあげようと思っていただいたのが本当のところなんだ。

 もしサポーターと一緒だったら、また違った助けられ方があったかもしれないけれど、こうまで他人様に守ってもらえることはなかったと思う。これこそ僕の「 電動車イスひとり旅 」だったんだ。僕は心からそう思っている。

 

  冷たい雨が降ってきた。変わりやすい天気だ。僕はビニールカッパに着替えた。さあーどうしよう。このまま新潟市内に行くのはもう無理だ。かと言ってこれか ら2時間バッテリー充電をすれば新潟入りはずうっと遅くなる。僕ひとりだったらそれでもいい。だけどせっかく加藤さん夫婦が福島からやって来てくれている のに。早くホテルに着いてゆっくりしたい。

 

 雨の中、青山までやって来た。日産サティオ新潟西店があった。僕はショールー ムに入って行った。カウンター窓口にいた若い整備士に、この辺りに警察署がないか聞いてみた。中央警察署は街の中心地にあるという。そしてスズキ自販新潟 もやはり街の中心地にあるという。僕は、困ったッ!と声をあげてしまった。若い整備士が、
 「 どうしたんですか? 」と尋ねてくれた。

 

  僕は正直、待っていたと思った。僕は今までの事情を包み隠さずに打ち明けた。そして警察署かスズキ自販店に電動車イスを預かってもらって、明日早朝取りに 来るつもりだったと説明した。その上で僕は改めて、日産の製品ではないけれど、この電動車イスを一晩だけ預かっていただけけませんかと切り出した。僕のこ のスットンキョウなお願いに、若い整備士はびっくりした表情をした。次に苦笑を噛みころした。それは、
 ” 思いもしなかった!” という表情だった。僕はその表情を見たとき、
 「 よし、イケルっ! 」と直感した。

 

 中田輝義、お前って奴は、本当にずる賢くって、イヤミな奴だなぁ~。若い整備士は店長のところに行って何やら相談をはじめた。そしてカウンターに帰ってきて僕に告げた。
 「 当店(うち)は、あす月曜日はお休みなんですよ。ショールームも整備工場もシャッターを閉じてしまい

   ます。だから店内でお預かりすることは出来ないん です。出来ないんですがぁ、店長にお願いして、

   整備工場の裏の駐車場に置いてもいいのであれば許可しますということになりました。バッテリー充電

   の完了ラ ンプは私が帰社のときに確認をしてコードを外しておきましょう。それでいいですか 」
それで完璧だった。そして店長にもこの特別の計らいにお礼を言った。店長は、
 「 ああ、いいですよ 」と笑顔で答えてくれた。

  こんな若者もいるんだなぁ~。何でも会社のマニュアルどおり、規則規則に縛られて臨機応変の対応が出来ない若者をこれまでたくさん見てきた。そんな看護師 やコンビニ店員もいた。なのにこの若者は自分から店長に掛け合ってくれた。今どきめずらしい若者だ。僕は感激していた。そしてもうひとつ、大事なお願いが あった。
 「 すみません。電話を貸して下さい。友人と連絡を取らなければなりませんので 」 

 

 中田輝義、お前はどこまでもド厚かましい奴だなぁー。若い整備士はプッシュホンを外線用にして僕に渡してくれた。僕は加藤さんの携帯電話に連絡した。不思議なことに加藤さんは100メートルも離れていないところで待機していた。息の合ったコンビは健在だった。

 5分もしない間に加藤さんはやって来た。加藤さんに事情を話すと、加藤さんは店長と若い整備士に深々と頭を下げてお礼を言ってくれた。僕はセニヤくんに、
 「 一晩ここで我慢をしてね。ごめんね。知らないオジサンが遊ぼうって誘いに来ても、絶対に付いて行っ

  ちゃダメだよ」
と、よくよく言い聞かせた。これで一件落着した。直子さんは、
 「 さすがっ! 中田さんでなければ、こんなこと誰も思いつかないわっ 」
と言って、車の中でキャッキャと笑い転げている。僕にすれば苦肉の策だったんだ。

 

 加藤さんが予約をしてくれていたビジネスホテルアスターにチェックインした。僕たちはそれぞれの部屋に落ち着いた。しばらくして加藤さんが僕の部屋にやって来た。
 「 何を食べたい? 」と聞く。僕は、
 「 焼き魚が食べたい 」と言った。
加藤さんは携帯電話であっちこちに観光案内情報を検索していた。へえ~そんなことまで出来るの? 携帯電話ってすごいんだねー。けど加藤さんは現代人は携帯電話にこき使われているとボヤいている。

  ホテルにタクシーが迎えに来て僕たち三人は意気揚々出かけて行った。その夜僕たちは新潟の郷土料理店でおいしい料理に舌鼓を打ち、加藤さんは元糖尿病患者 なのに久しぶりの大食漢ぶりを発揮し、かつ大いに昔話に花を咲かせ。あんなこともあったなぁ~、こんなこともあったよなぁ~って。最高の夜を過ごした。そ れは生涯忘れられない夜となった。

 

 

5月7日(月)
 朝7時、僕と直子さんは日産サティオ新潟西店へセニヤくんを迎えに行った。加藤さんは昨夜の痛飲がたたってまだ寝ている。今日はゴールデンウィーク明け の月曜日。市内へ向かう車で反対車線は大混雑をしていた。サティオまでは20分もかからない。大きな駐車場はチェーンで仕切られ、整備工場はガッチリと シャッターが閉じられていた。奥に回るとセニヤくんがポツンといた。
 「 おはよう! 寒くなかったかい? ごめんね。迎えに来たよ。さあー、いっしょに行こう 」
キーを差し込んで充電ランプを点検すると、フルバッテリーになっていた。そう言えば店長も若い整備士の名前も聞かなかった。日産サティオ新潟西店さん、お世話になりました。ありがとうございました。

 

 直子さんは車で先に帰って行った。僕とセニヤくんは混み始めた歩道を新潟ヘ向かって進んだ。ふと前方を見ると直子さんがカメラを構えている。

 ははん、僕の写真を撮ろうってワケね。じゃ~、お願いします。直子さんは行きつ戻りつ、名(?)カメラマンぶりを発揮していた。やっぱり写真を撮られるなんて、恥ずかしいことだなぁ~。僕は長年、どれだけ他人(ひと)を恥ずかしい思いにさせてきたんだろうか。
 信濃川にかかる有明(ありあけ)大橋を渡ったとき、やっと本当の新潟入りを果たした実感がした。橋のたもとで直子さんが低い位置でカメラを構えて待って いた。ほう~、交通ラッシュの中、有明大橋の大きな道路標識を背景に入れて撮ろうってワケね。なかなかいいセンスしてるじゃん。僕は直子さんのためにス ピードを落として進んだ。そのカットで納得したのか、今度は本当に帰って行った。新聞記者(ブンヤ)の女房殿になっちまったなぁ~。僕は可笑しくってしか たがなかった。

 9時30分、ホテルに帰着。加藤さんがコンビニ弁当を買って待っていてくれた。早速部屋で食事をとった。そのとき加藤さんから切り出してきた。
 「 今日はこれからどうするの。俺等は美術館か博物館に行って、午後郡山に帰るつもりだけれど 」
僕は今日はお休みにしてこのホテルでゆっくりしたいと言うと、加藤さんは、
 「 ここの新潟支局に顔見知りの記者がいて、あんたを記事にしてもらおうと思っているんだけど、どうだろ

   うか」
 僕はマスメディアに取り上げられることの良さも悪さも怖さもよく知っている。それは加藤さんもよく分かっている。でもこれから先はまったくのひとり旅。新聞で紹介されれば僕を守ってくれることがあるかもしれない。
 「 俺は一緒にメシを食って、励ますことぐらいしか出来ないけれど、新聞に載ればいいこともあると思う

   んだよね。きっと誰かが助けてくれるよ 」
 僕を心配してくれる加藤さんの気持ちがうれしかった。僕は有り難くその申し入れを受けることにした。さっそく加藤さんは新潟支局に電話をした。その記者 はすでに取材予定があり明日ではどうかと聞く。明日は出発しなければならない。それじゃー隣りの聖篭町(せいろうまち)役場で10時に会いましょうという ことになった。

 

 そして11時。加藤さん夫婦の出発の時間がきた。加藤さんは、
 「 俺がしてあげられるのはここまでだ。後は気をつけて頑張ってナ 」と言った。直子さんも、
 「 是非とも達成させて下さいね。吉報を待っていますから 」と言ってくれた。
僕は加藤さんと熱い抱擁を交わした。僕が、
 「 今生(こんじょう)これが最後かもしれないね 」と言うと、加藤さんは、
 「 札幌の北海道支社に取材を交渉しているから、多分札幌で会えるよ 」
とケロッとした顔で言ってのけた。

 さすが現役の事件記者だ。もうそこまで手を回していたのか。そのとき玄関のフロントで僕たちの様子を聞き入っていた女性オーナーマネージャーが、
 「 実は私の親友も、重症筋無力症なんです。偶然ですねぇ~!? 」
と声を上げた。僕たちも、ええーっと声を上げた。ホント、なんという合縁奇縁。加藤さん、あなたはなんというホテルを選んでくれたんですか?! 何かに仕組まれているとしか思えないようなこの偶然。そして僕たちは札幌での再会を約束して、加藤さん夫婦は出発して行った。

 

  僕は部屋に引き上げてきた。いよいよひとりになった。また明日から「 ひとり旅 」だ。ひとりのときは淋しくないのに、ひとりになると急に淋しくなってしまう。僕は気分転換にシャワーを浴びながら大洗濯をはじめた。午後になって近くの コンビニで弁当と郵便ハガキ10枚を買ってきた。大津誠司さん、『 天領の里 』の小林正雄さん、小熊洋一さん、寺泊水族博物館の新谷さん下篠美恵子さん、そして日産サティオ新潟西店宛にもお礼のハガキを書いた。すっきりした。

 

 新潟でやっと「 旅 」の半分。東北・北海道は大きくて広い。これからが本当の本物の本番だ。明日からは「 みちのく ひとり旅 」が始まるのだ。

 

 

第9信 みちのく、ひとり旅

 

5月8日(火)

 ホテルアスターを5時30分に出発した。空は曇り風が吹き、外気は身震いするほどに寒い。僕のウィンドブレーカーは陽に曝され雨に打たれて色もかなり褪せてしまっている。ビル街には車も人通りなかった。

 

 10時までに聖篭町役場に入らなければならない。僕は信濃川にかかる萬代橋を越え新潟新発田村上線をひた走りに走った。交通ラッシュに遭わなかったけれど、バッテリーを大分消費してしまったらしく、新崎の信号辺りから警告ランプが点灯し出した。前方に高くて大きな建物があった。新潟リハビリテーション病院だった。ああ、助かった。僕も休憩と充電のリハビリをしてから社会復帰することにした。

 

 思いのほか時間を食ってしまった。病院を出発して計画変更。豊栄ICで国道7号線に乗り換えた。高架に上がったら自動車専用道路。本来は電動車イスは通れない。僕は覚悟を決めてインターチェンジのランプを登った。車はハイウェイ並にすっ飛ばしている。行くしかない。それでもバイパスには幅1メートルほどの路肩があった。ヤバイかなぁ~と思っていたら、悪い予感が見事に的中。大型ボンゴ車のパトロールカーが、” ウォ~ン ” と警笛音を鳴らしてやって来た。

 

 ちょっと太った警官がボンゴ車から降りてきて、
 「 どうしましたかぁ~。ここは自動車専用道路ですよぅ~ 」
もうしかたがない。僕はありのままの事情を正直に話した。
 「 10時に聖籠町役場で人と会う約束があって新潟新発田村上線をやってきたんだけど、遅れそうなので

   バイパスと知らずに七号線に入ってしまったんです。ゴメンナサイッ! 」
その警官はほう~ほう~と頷いてからボンゴ車に戻って行った。同僚と何か相談をしている。このまま警察署に引っ張られたらどうしよう。読売新潟支局に電話をしなくっちゃ。警察署で記者のインビューを受けることになるんだろうか。参ったなぁ~。

 今度は相棒の警察官と2人で車から出てきた。もう一人の警察官は少し痩せ気味だった。太ったのと痩せた警察官。いいコンビだ。あっはは! なんて、笑っている場合じゃない。
 「 事情は分かりました。でもこの道路は危険だし、放っておくわけにはいきませんから、電動車イスを

   聖籠町役場まで搬送します。いっしょに乗って行って下さい 」という。
 「 大丈夫ですかぁ。30キロ以上はあるんですよ 」
2人の警察官は電動車イスをしげしげと眺めていた。
 「 持てそうだなぁ 」 そう言って二人はさっさとボンゴ車の中に積み込んでしまった。
 「 さあー行きましょう 」

 

 太った警察官は僕を助手席に乗せて車を発進させた。痩せた警察官が後部座席で電動車イスを押さえ込んでいる。車が走り出してから50代ぐらいの太っちょ警察官が聞いてきた。
 「 言葉が違っているようだけど何処から来たのう 」
 「 広島県の熊野町からです 」
 「 ええっ! 一人でこの電動車イスでここまで来たのぅ~ 」
 「 ええー、そうです 」 僕は覚悟を決めた。
 「 実は僕の筋ジストロフィーの友人を見舞うために北海道の札幌まで行くつもりなんです 」
 「 うんがあ~っ!? 札幌までぇ~~!! 」
二人の警察官は言葉にならない言葉を発した。僕は嘘でない証拠に香西さんからの手紙と国民健康保険証と身体障害者手帳を見せた。二人の警察官は無言になった。

僕は、
 「 お世話になった人たちに署名をしてもらってるんです 」
と告げて、旅日記帳に名前を書いてもらった。

 新潟北警察署の浅野誠治さんと痩せ気味の長谷川幸広さん。署名の横には、” 頑張って下さい ” の添え書がしてあった。こんなに心やさしい警察官もおいでになるんだ。でも札幌までの全コースを電動車イスで走破するつもりだったのに、ついにここで途切れてしまった。ほんの10キロメートルほどなんだけれど、悔しいなぁ~。ナイショにしておこうかしらん? そんな訳にも行かないよなぁ~。

 

 聖籠町役場には10時過ぎに着いた。僕は浅野さんと長谷川さんに熱いハグハグを交わして別れた。役場の総合案内所に行くと職員さんがいきなり、” 中田さんですか ” と聞く。びっくりした。聞くと園田記者は先程まで待っていたけれど、突然の事件発生で急きょ新潟に帰って行ったという。電動車イスの人を見かけたら、事情を話して待っていてくれるよう頼まれたのだという。さすが全国紙の力とはすごいもんだ。僕は丁重に会議室に案内された。せっかくパトロールカーに乗っけてもらって急いでやって来たのに。でも、世の中ってこんなもんだ。おかげでオモシロイ警察官とも出会えた。

 

 1時間以上が過ぎた。園田記者はまだ現れない。この会議室はお昼休みの休憩場になるらしい。12時になっても来なかったら出発をしよう。せっかく加藤さんが手配してくれたんだけれど、縁がなかったんだ。そんなことを考えていたら、ようやっと園田記者が現れた。
 園田将嗣さんはまだ30歳前の若い記者だった。挨拶もそこそこにさっそくインタビューが始まった。そして定石どおりの質問。「旅」の目的は? 何故飛行機ではなくて電動車イスなの? 携帯電話も持たないでサポートも付けないで一人なのは何故? そして僕の生まれは? 出身地は? どんな経歴? 僕は緊張している。この初対面の記者にうまく旅の事情を伝えられるだろうか。 

 

 「 旅 」の目的を言うなら、香西さん夫婦とどのように出会ってどのように友情を育んできたかを話さなければならないだろう。当然僕たちのカナダ横断5000キロメートルの「クロス・カナダ・ウィールチェアー・チャレンジ」のことも話さなければならない。この共通の体験があったからこそ、僕は電動車イスで香西さんを励ますために札幌まで行こうとしているのだから。

 

 何故ケータイもないサポートもなしで電動車イスなのかと聞かれたら、僕は今の世の中の効率性や便利さではなくて、時速6キロメートルのゆったりとした速さで、時には風になって、まわりの風景の一部になって。心の目で自然を見つめたかったからと答えなければならないだろう。昔の旅人と同じように一日の里程(みちのり)を宿場から宿場へと進むことで、はるか縄文の昔からのその地方の成り立ち、歴史や風土、人々の暮らしぶりに肌で感じてみたかった。

 そしてこの「 旅 」は、自分自身を見つめ直そうとする「 旅 」でもある。自分はどんな人間で今までどのようしてに生きてきたのか。これからどう生きようとしているのか。それには「 ひとり 」で在ること、孤独であることがとても大切なこと。あえて困難な「 ひとり旅 」だからこそ、自分自身が見えてくる。時速6キロメートルの速さが、僕に充分考えられる時間を与えてくれる。

 

 次に僕は、僕が何故こんな考え方をするようになったのかを話さなければならない。僕がまだ若かったころ、副睾丸ガンの手術を受け、長い間ガン病棟にいた。その間、同じ病棟の入院患者が次々に死んで行くのを目の当たりにした。

 死の恐怖と生命の尊さ。かけがえのない人生。これがきっかけとなって僕は寝たきり老人・身体障害者・難病患者をテーマとするフリーカメラマンになった。

 その僕が運命のめぐり合わせか難病患者で1種1級の身体障害者になってしまった。写真の夢も断たれた。それでも負けてはならないと思い、この「 電動車イスひとり旅 」に挑戦している。まわりの人たちからは無謀だとも言われている。しかし僕はこのチャレンジ精神が香西さん夫婦を励ますことになると確信しているし、また他の身体障害者・難病患者に、” 常識なんかに負けるな ” ” 頑張れば出来るんだ ” というメッセージを送られればと願っている。

 

 ぼちぼちお昼時になってきた。会議室に弁当とお茶を持った職員たちが集まりはじめた。僕はもう声は枯れるし顎も動かなくなっていた。園田記者は話のおおよそは掴んだようだけれど、まだ腑に落ちなさそうだった。

 そうかもしれない。これは警察発表の事件やトピック記事でもない。生きた人間の物語だ。現代感覚いっぱいで、まだ人生経験も少ないこの若者には理解しがたいだろう。価値観が違うのだ。もし園田記者が、” こりゃダメだ!” と思ってボツにしたって、それはしかたがないことだった。

 役場前で写真を撮ったあと、園田記者は急いで新潟ヘと帰っていった。僕はホッとした途端、かたかたと音を立てて崩れ落ちそうなぐらい疲れた。何とか我慢をして新発田市へ。駅前のホテルセブンエイトにたどり着いた。

 

 

5月9日(水)
 今朝はちょっと小雨の空模様。寒い。早く暖かくなってくれないかなぁ。僕はホテルを6時に出発した。「 道の駅 神林 」に着いたときにはやっぱり寒さで疲れ切ってしまっていた。でも頑張ったおかげで村上市はもうすぐそこだった。

 「 道の駅 」の案内所に高橋さんという市役所を定年退職された男性のボランティアがおいでになった。その高橋さんの知り合いの女性が村上駅前の観光案内所にいるというので、電話で紹介して貰った。話はトントン拍子、今夜の宿が確保できる。高橋さん、ありがとうございました。

 

 教えられた通りの近道を通って村上駅前にやって来た。駅舎はいかにも地方都市らしいこぢんまりとした建物だった。駅前広場に警ら中の警官が立っていた。聞いてみようかどうしようかと迷ってふと振り向くと広場の反対側のビルの中に観光案内所を見つけた。僕は電動車イスをターンさせてそっちへと向かった。
 「こんにちはー。先程道の駅の高橋さんから紹介して貰った者です」
僕は事務所の前から呼びかけた。中から40代ぐらいの美人女性が笑顔で出てきた。
 「お待ちしていましたよ。今夜の宿泊ですね」
その女の人は僕の電動車イス姿を気にも留めないにこやかな表情で迎えてくれた。

 

 そのとき後ろから先程の警ら中の警官が突然、
 「 免許証を見せて下さい 」と言った。僕はあまりにも唐突な言い方に意味がよく理解出来なくって、
 「 ええっ、なんですか? 」と聞き返した。警官は
 「 この車の免許証です 」とつっけんどんに言った。
それはまるで犯罪者に対する尋問のような言い方だった。僕はカチンときて、
 「 この電動車イスは道路交通法では歩行者扱いになっていて、免許証は要らないんです。警察官なのにそん

   なことも知らないのですか 」 
僕は思わずそう言ってしまった。

 まだ20歳過ぎの若い新人警官だった。そう言えばさっきちょっとだけこの警官と目が合った。あのとき僕は観光案内所を見つけて急いでターンをした。それをこの新人警官は何か怪しいと勘違いしたのかもしれない。僕はこれで説明し終わったと思い、あらためて案内所の女性から宿を紹介してもらおうとしたら、今度新人警官は、
 「 身分証明を見せて下さい 」と切り出した。
その言い方も警察権力を振りかざしたような高圧的な言い方だった。僕はさらにカチンときてしまった。 
 「 僕はこの電動車イスには免許証が要らないと伝えて、あなたの質問にも誤解にも答えました。この上

   身分証明を見せる必要はないと思います 」 
 「 身分証明の提示を断るのですか 」 
 「 ハイ、具体的な理由を述べたので断ります 」
それでも新人警察官はその場に立ち続けていた。僕は無視した。そして案内所の女の人に、
 「 なんかヘンな事になっちゃって、ごめんなさいね 」と謝った。その女の人は、
 「 ああ、いいですよ 」と言って、微笑み返してくれた。
事の成り行きを見ていたのに逃げないでいるこの女性を、僕は肝のすわった女性(ひと)だなぁ~と感じた。

 

 新人警察官はまたも念押しするかのように、
 「 身分証の提示を拒否するんですね 」と言った。案内所のまわりに人が集まり出した。
 「 必要がないので断ります。この案内所に迷惑がかかるからこの場から離れて下さい 」
と僕は言った。ようやっと新人警察官はそこから立ち去った。
 「 いったい何なんでしょうねぇ~ 」 僕が照れ隠しに案内所の女性に言うと、
 「 そうですねぇ~ 」と笑って受け流してくれた。
彼女にすればどう言ったらいいのか分からなかったかもしれない。そして駅前の近くの石田屋旅館を紹介してくれた。

 僕はお礼を言って旅館に向かおうとした矢先、今度は新人警察官が少し先輩格の若い警察官に伴われてやって来た。
 「 お父さん、身分証明ぐらい見せてくれてもいいじゃないですか。何か不都合なことがあるんですか。

   どこから来たんですか。上の名字ぐらい教えて下さいよ 」
と実に小生意気そうな先輩の警察官が言った。 
 「 しつこいなぁ~、教える必要がないと言っているじゃないですか。第一、僕はあなたのような息子を

   持った覚えはありません。気安く『 お父さん 』なんて呼びかけないで下さい。失礼ですよ 」 

 

 そのあとも二人の警察官は僕の後をぞろぞろとついてきた。石田屋旅館に着いた。僕は電動車イスに座ったまま、旅館主に素泊まりの一泊を申し込んだ。旅館主は僕と警察官二人を見て、どぎまぎしている様子だった。そして客室は2階で身体障害者には無理だからという理由で宿泊を断ってきた。僕は引き下がるしかなかった。僕は二人の警察官にきつい口調で言った。
 「 僕をつけ回すのはやめて下さい。旅館主がびっくりして宿泊を断ってきたじゃないですか。

   非常に迷惑です 」 
 「 泊まるところだったら警察署の方でお世話します。だから住所と名前だけでいいから教えて下さいよ 」
 「 ふざけたことを言うなよっ! 」 
僕は冷静になろうと思ってもつい大きな声を出してしまった。

 僕はもう一度案内所に戻らなければならかった。通り過ぎる人たちは何事かとこちらを見ている。
 「 はっきり伝えます。迷惑なのでこれ以上つきまとわないで下さい 」 
もうこの二人の警察官は意地と面子(めんつ)だけだと僕には思えた。

 

 案内所に戻って事務の女性に石田旅館から宿泊を断られたことを報告した。彼女はまだ警察官がいるのを見て全ての事情を察知したようだった。

 僕はこの先にビジネスホテルがあることに気付いていた。でもそこは旅館組合に加盟していないという。僕は行ってみることにした。その間、今度はパトロール制服姿の中年警察官がもうひとり増えていた。

 普通ベテラン警察官なら二人の若手警察官の中に入って、まあ~まあ~とうまく取りなすところかもしれない。なのにこの中年警官も同じテンションで ” 名前は? ” と僕に迫ってくる。三人の警察官が寄って集(たか)って権力を振りかざして自分たちの面子を保とうとしている。僕はこの警察官たちをだんだん哀れにも滑稽にも思えてきた。

 

 そのとき小生意気な先輩警察官がベテラン警察官の威を借りるようにして言った。
 「 お父さんは、障害者だから世の中をひねくれた考えでいるんだよ。もっと素直になったらどうですか 」 「 無礼者っ! 今何と言った。あなたは今、障害者に対する重大な差別発言をしたんだゾ。分かってるの

   かっ!? 何んも世間を知らない若造が分かったようなことを言うなっ! あなた方が今やっているこ

   とは、ただの嫌がらせ、弱いものイジメでしょうが。直ちにやめなさいっ!」
僕は怒りで頭の血が逆流しそうになった。新人警察官が情けない顔をして僕をチラッと見た。

 「 おい、新人警官、だいたいお前が最初の初動捜査のミスからこんなことになったんだぞっ。謝れっ! 」
僕はそう言いたかったけれど、身体が震えて声にならなかった。


 ビジネスホテルトラベル・インに向かった。オーナーは、二人の警察官がせまいロビーにひしめいていたけど、宿泊を引き受けてくれた。そしてバッテリーの充電も引き受けてくれた、のはいいんだけれど、しっかり充電代として100円請求された。しかたがない。この場ではもう否応が言えなかった。僕は宿帳に正しい住所と名前を書いた。きっと警察官たちは後でチェックするだろうと感じた。僕が部屋に上がろうとするのを、警察官たちはまだ悔しそうに見上げていた。

 

 僕は部屋に入ってもしばらくの間、怒りで身体がわなわなと震えて止まらなかった。ちきしょう! バカにしやあがって。障害者を何だと思っているんだ。くそったれっ。

 僕はよっぽどか村上警察署長に抗議に行こうかと思った。でも結局警察署では僕が不利になるだろう。素直に警察署長が謝るはずがない。悪くすれば事情徴集で拘留させられかねない。

 読売新聞社新潟支局の園田記者に連絡しようかとも思った。でも、止めよう。ここで足止めを食ったら札幌行きが遅れてしまう。でもこの怒りを、辱(はずかし)めを、僕は我慢するしかないのか! 悔しさと情けなさでいっぱいだった。

 

 長い時間、ベッドで寝っ転がってやっと心と身体が折り合ってきた。僕はシャワーを浴びた。食料は何も残っていなかった。何か食べておかなければ。もう外は暗かった。出かける気力はない。出前があるのかフロントのオーナーに聞いた。扱っていないという。しかたがない、我慢するか。僕はオーナーに警察官に宿帳を見せたか尋ねてみた。案の定、開示したという。僕はつとめて冷静に言った。
 「 地元の警察署とよい関係でありたい気持ちは分かります。でもあなた方には職業上で知りえた客の

   プライバシーには守秘義務があるのではないですか。それが旅館業の信義でしょう」 
オーナーは苦笑いをしていた。

 なんだぁー、旅館組合に入らないほどの気骨のある人かと思っていたけれど、これじゃただのわがままな商売人じゃあないか。ベッドに入ってもなかなか寝つかれなかった。せっかく昨日は新潟北署の二人の警察官に親切にされたいい思いがあったのに、今日は一転、天国から地獄にたたき落とされた気分だ。

 

 

5月10日(木)
 ろくに眠ってもいないのに、朝5時に目が覚めた。すぐに出発しよう。僕はもうたとえ1分たりとこのホテルにいたくなかった。とにかく早く村上市から離れたかった。街外れの岬を回ってようやく村上市が見えなくなったとき、ホッとした。でもやっぱり昨日のことが胸に突き刺さったままだった。

 

 僕は何か悪いことでもしたんだろうか。あの若い警察官たちの悦に入った表情を思い出すだけでおぞましかった。あの若造警官は小学校か中学校でイジメばっかりやっていたんだろうか。それとも逆にイジメられっぱなしだったんだろうか。今その仕返しをしてるつもりなんだろうか。そんな想像をしている僕が、逆に汚らしい人間に思えて情けなくなる。

 

 僕はそのとき昔の瞽女さんたちのことを思い浮かべた。行く先々の村では、どれほど差別と偏見にさらされたことだろうか。石を持って追われるようなことがあったかもしれない。そして良寛さんのことも思い出していた。先入観や無理解のために、どれほど生きることの辛さ悲しさを思い知らされたことだろうか。ここまでいろんな人たちとめぐり会ってきたけれど、僕には村上市がいちばん悲しいところになってしまった。

 人間て何なんだろう。人の本性って何なんだろう。障害者って、本当はガラス細工のように繊細で傷つきやすい人間なんだぞ。それが何故悪い。

 

 345号線の海岸線は美しいはずなのに、僕は何処をどう通り過ぎたのか分からないまま、気がつけば「 道の駅 笹川流れ 」に着いていた。前浜の大きく広がる青い海を見た。きらきらと輝いていた。少し心が安らいだ。
 くわがわ駅前にちどり食堂があった。僕は昨日の昼から何も食べていなかった。空腹感もないのだけれど、何か食べておかなくちゃ。僕は大奮発をして焼き魚定食¥1500ーを食べることにした。ほかほかの焼き立てはとても美味しかった。

 それから「 道の駅 笹川流れ 」の観光案内センターに行き、充電させてもらった。受付の若い女の子が次の町の勝木には町営の「 交流の館 八幡 」という宿泊施設があることを教えてくれた。ここからはまだ20キロばかりあるけれど、今日はそこまで行こう。早速予約の電話を入れた。部屋は空いていた。僕は情報を教えてくれた受付けの女の子にお礼を言って出発した。

 

 越後寒川(えちごかんがわ)までやって来たら、はるか日本海の水平線から不思議な形相をした鉛色の雲がモクモクと空に舞い上がろうとしているのが見えた。ちょっとイヤな雰囲気だった。

 ちょうど脇川郵便局があった。キャッシュカードでお金を引き出して充電をさせてもらった。ソファイスに落ち着いてから窓の外を見たら、風が少し強くなって海も波が立ちはじめていた。こりゃぁー来るなぁー。郵便局員さんに今日の天気予報を聞くと、午後から荒れた天気になって夕方からは雷注意報が出ているという。

 

 午後2時すぎ。勝木まではあと5.5キロメートル。僕はビニールカッパを着込んで出発した。まもなく空は曇りだし風はますます強くなって、波は大きく逆巻きはじめた。もうすぐ雨になる。日本海は大嵐の前兆。でもなんて美しいんだろう! まるで悪魔のささやきに応えるかのようなデモーニッシュな白い波濤が、海獣の雄たけびをあげながら海辺に向かって突進してくるようだった。もし許されるのなら僕はこのままこの景色を眺めていたい気分だった。
 5時過ぎ、それまでポツリポツリと我慢をしていた小雨が、僕の勝木の到着を確かめるようにして、だんだんと大降りになってきた。どうやらギリチョンで間に合った。「 交流の館 八幡 」は廃校になった元中学校の校舎を改築したものだった。放送室だったフロントでチェックインすると、校務員のような実直そうな夜勤のオジサンが、
 「 読売新聞新潟支局の園田さんから、中田さんという人が宿泊したら電話をして下さいと、連絡が入って

   います 」
と教えてくれた。僕は、ええっ、とびっくりした。何故僕がここに泊まると分かったんだろうか。さすが新聞記者だなぁ。でも何んだろう。追加取材だろうか。僕は校務員のオジサンに許可をもらって電話をした。

 

 それからの園田記者の電話取材は1時間にわたった。ちょっと疲れてきた。やっぱり園田記者には納得出来ないことがいっぱいあったんだ。でもこれだけの追加取材をするということは、記事になるということなの? どんな小さな記事でも最初の取材が大切なんだよね。取材が終わって電話代を尋ねると校務員のオジサンは、
 「 何か大切なお話のようだし、いいですよ 」
と言ってくれた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 それから僕は部屋へと案内された。「 さくら 」という名前の音楽教室だった。部屋に入った途端、空が一転にわかにかき曇り、ピカーッと光ったかと思うとドドドーンという雷鳴が轟き、ダダダーっと車軸を流したような大雨となった。僕は部屋の灯もつけず、光る稲妻を見入っていた。雷光が照らし出すその一瞬だけ姿を現す山の稜線の木々は、大きく揺れて、まるで手を上げて踊っているように見えた。

 僕の耳にはベートーベンの田園交響楽の第4楽章(雷雨・嵐)が聞こえてきた。僕は指揮台に立つマエストロの気分になって、大きくタクトを振り上げていた。

 

 雷鳴よ、鳴れ、轟け。生命あるものの詩(うた)を称(たた)えよ。

 

 

5月11日(金)
 朝、まだ雨がパラついていた。風もすごかったもう一泊しようかと弱気になる。テレビの天気予報は午前中は曇り空で風強し。でも午後から晴れ。次のあつみ温泉まで18キロちょっと。身体は疲れているけれど、昨晩の雷鳴で村上市のイヤな出来事はもう完全に払拭されていた。

 

 村上市には古代、蝦夷地監視の磐舟柵(いわふねのき)が置かれたところと聞く。とすれば、さしずめ北海道へ帰ろうとする僕は関守から怪しまれ尋問を受けたということだろうか。そう解釈すればこれは愉快な出来事だ! あっはは。さぁー、負けないぞ。行こう。

 

 9時過ぎに山形県に入った。ここは鼠が関(ねずがせき)。日本海からまるで真冬のような冷たい風が吹き荒れている。雲の切れ間からお天道様のひと筋の光が差し込み、スポットライトのように海の波しぶきを輝かせていた。このモノトーンの世界。なんて美しいんだろう。海は無限の力を秘めている。そして山にはあらゆるものを統治する根源がある。人間はそれらによって生かされている。

 

 小さな半島のようになった岬を越えて坂を下りてきたところに、コンビニがあった。僕は朝食をとった。そこへ、かっぽう着姿の近所の主婦がやって来た。レジの若い女の子にコピー機の使い方を教えて欲しいと言っている、らしい。言葉がよく分からない。今度はレジの女の子の言葉も分からなくなった。さっきは標準語っぽかったのに。最後のところだけ分かった。
 「 いづもすまねぇっすのぅ~ 」 
山形弁なのだ! 僕はそのとき腰が抜けるほどに感動した。あの岬をひとつ越えただけで言葉がまるで違っている。ここはもう東北なんだ。帰って来た! そんな思いが電流のように僕の身体を駆け巡った。

 

 途中でトイレがしたくなって「 道の駅 あつみ 」に立ち寄った。うれしいことに障害者用トイレがあった。僕は中に入ってビックリ。オスメイト対応のトイレが完備されていたんだ。オスメイトは腹部に人工肛門や人工膀胱を付けている人たちのためのトイレだ。大都会の公衆トイレでも滅多に見かけない。こんな地方の「 道の駅 」で見かけるなんて僕には大感激だった。だんだん障害者に対する意識が変わってきているんだろうか? それならうれしいなぁ~。
 あつみ温泉街は割烹旅館や高級ホテルが建ち並ぶ観光リゾート地で、簡易旅館やビジネスホテルの雰囲気ではなかった。今日はここに泊まる予定にしていたけれど、三瀬のユースホステル鶴岡へ電話をして部屋が空いているようだったらこれから行ってみようか。そうすれば明日には酒田市に着ける。およそ8キロ1時間半。よし行ってみよう。

 

 ユースホステル鶴岡には着いたときにはもう夕方で薄暗かった。ユースホステル鶴岡は直営のYHで、倉敷のYHと同じようなコンクリートの打ちっぱなしでアールデコ風の立派な建物だった。ペアレントマネジャーの菊池良麿さんは30歳そこそこの若い人だった。僕はまた無理を言ってドミトリー部屋に一人で寝かせてもらった。それは有り難かったんだけれど、しっかり充電代として100円取られちゃった、あっははは!

 

 

5月12日(土)
 さあー、今日は長駆(ちょうく)、酒田市まで行くぞ。僕は国道7号線から藤島由良50号線に乗り換えて、加茂水族館で休憩充電させてもらった。

 そのあと、国道112号線を快調に飛ばして庄内空港までやって来た。充電を頼もうと出発ロビーのカウンターに行くと誰もいない。ふとエクステンション・テレフォンが目に入った。受話器を取り上げると女の人が出た。電動車イスの充電をさせてほしいと事情を話すと、” ただいま、そちらにお伺いいたします ” と答えた。きれいな声だった。すぐにアテンダントの制服をビシッと決めた若い女性が現れて、カウンターの内にあるコンセントに延長コードを差し込んでくれた。

 受付けカウンターの横には小さなブースがあって、コインを入れる自動マッサージ機が置いてあった。僕はそこにゆったりと足を伸ばした。眠たくなってきた。それはまるでファーストクラスで外国旅行に旅立つ心地だった。

 庄内空港を出たらずう~っと松林が続いていた。と、突然キジが鳴き出した。久しぶりにキジの鳴き声を聞いた。感激だった。

 

 酒田市に入る手前で、土門拳記念館に向かう案内標識を見つけた。迷ったけれど行かないことにする。僕がカメラマン修業をしていたころ、お手本にしていた写真家が二人いた。一人はドロシア・ランゲともう一人は土門拳。ドロシア・ランゲは1930年代アメリカ大恐慌下の失業者やホームレス、不況に苦しむ小作農民に移住労働者をテーマにした写真取材を行い、後のドキュメンタリー写真の発展に大きな影響を与えた女性報道写真家。
 一方土門拳も、絶対非演出のリアリズム写真を提唱して、日本の報道写真家の第一人者となった。原爆投下から13年経ってなお後遺症に苦しむ広島の被爆者の姿を追った「 ヒロシマ 」。1950年代の終わりごろ、政府の石炭から石油へのエネルギー政策の転換により、切り捨てられて行く筑豊炭鉱の労働者たち。親たちの出稼ぎで一家は離散。そんな悲惨な貧困の中で生きる子供たちの姿を温かい視点でフォトキャンペーンに取り組んだ「 筑豊のこどもたち 」。

 その後、土門拳は激務で脳出血を起こし車椅子生活になりながらも、日本文化、古寺、仏像の写真撮影を続けライフワークの写真集「 古寺巡礼 」を完成させる。また土門拳の写真に対する考え方を著した随筆集「 死ぬことと生きること 」は僕の人生の書ともなった。

 

 少年期、僕は自分がいったい何者なのか、どう生きればいいのか、何が出来るのか、まったく分からない日々を過ごしていた。そんな心のデラシネ生活の中で、副睾丸ガンを患い、はじめて死の恐怖を体感した。死を恐れていたのは一生懸命に生きていなかったからだ。一度きりの人生を大切に生き切ろう。

 ようやく精神的に立ち直ってそう覚悟がついたとき、写真をやっていた友人からドロシア・ランゲと土門拳の写真を見せられた。

 素晴らしい! たかがモノクロの写真でこれだけのことを世の中に訴えかけることが出来る。僕もこんな写真を撮りたい! それがフリーカメラマンを目指すきっかけとなった。

 そして僕のテーマは出稼ぎ労働者、寝たきり独居老人、身体障害者、難病患者。生命の尊さ。僕はドロシア・ランゲと土門拳から大きな影響を受けたし、生きる道標(みちしるべ)を与えてもらった。

 その土門拳の写真記念館がすぐそこにある。僕は何度もボロボロになるくらい土門拳の写真集は観ているし、横浜で開催された写真展ではオリジナルプリントも観ている。もう僕の血となり肉となっている。こんなチャンスは二度とないことは知っている。だから、行かないでおこう。僕はそう決めた。

 

 いよいよ山形市街に入る手前で、はるか松原越しにはっきりと鳥海山が見えた。東北を代表する霊山のひとつ。明日はどんな姿を見せてくれることだろう。そして出羽大橋まで来た。最上川。なんという大河なんだろう。広島市民球場が10個も入りそうな中洲がふたつもあって、その間を三つの分流が悠々と流れている。その川幅のなんと広いことか! この中洲が最上川の歴史を雄弁に語っている。見上げる空と同じぐらい、最上川は大きい。今までたくさんの川を越えてきたけれど、これほど雄大な川はなかった。

 僕は何だかとてもうれしくなって、大声で笑っていた。あっははは! 最上川だ。いっひひひ! 鳥海山だ。僕はまぎれもなく、” みちのく東北 ” にいるんだ。

 

 酒田駅前に着いたときにはもう薄暗かった。いちばん最初に見つけたサカタステーションホテルに行くとオーナーが受付けフロントで新聞を読んでいた。そして僕の姿を見るなり、
 「 あっ! あなた、この新聞の人でしょっ! 」
といきなり大声で指さされた。見れば僕の記事だった。掲載されたんだ。ちょうどオーナーがその記事を読んでいるところに僕が絶妙なタイミングで現れたらしい。何ともコッパ恥ずかしいやらで、僕は、
 「 どう~も・・・ 」とうつむくしかなかった。
部屋は空いていた。チェックインが終わったらオーナーは、
 「 この新聞、差し上げます 」と手渡してくれた。

 

 僕はまずシャワーを浴びて、やおら落ち着いてから新聞記事に目を通した。全国版の社会面3段モノクロ写真付き。予想よりも大きな記事になっていた。扱いづらい話をよくまとめたと思うけれど、苦労しているなぁ~とも感じた。

 そして、” 香西さんは近ごろ、「 もう体の自由がきかない 」と弱音を吐くようになったとか、” もう一度会って頑張って生きろ、と伝えたい ” とか、書いてある。僕はこんなことは言わなかった。香西さんはこんな弱音を吐く人じゃないし、僕もこんな偉そうなことは決して言わない。やっぱり新聞記者は自分のイメージで書きやすいように記事をまとめてしまう。これじゃーこの新聞を香西さんに送れないよ。参ったなぁ~。

 

 

5月13日(日)
 サカタステーションホテルを朝6時に出発。どしゃ降りの雨だ。今朝のテレビの天気予報を見てもここ2~3日は回復の見込みはない。行くしかなかった。酒田バイパスを迂回して国道7号線に出る。雨で鳥海山は見えない。この時期になっても北国の雨は肌が凍るぐらい冷たい。朝ご飯も食べていなかった。
 やっと「 道の駅 鳥海 」に着いた。小雨になっていた。鮮魚市場や野菜直売場に特産品コーナーに食堂・軽食・甘味処もあって人でいっぱいだった。大きな駐車場を買物帰りの主婦2~3人がこっちに向かってやって来る。

 そのうちのひとりが、
 「 お宅、新聞に出ていた人でしょう! 記事を読んで感激したんですよ。偶然ってあるもんなんです

   ねぇー。頑張ってくださいね 」
と言って握手を求めてきた。ビックリしたぁー!。恥ずかしいなぁ~。僕は辺りをゆっくり見回した。これじゃ道端でオシッコもできないようー。でもこれって自意識過剰なんだよネ。世間じゃそんなに関心があるわけないもの。すぐに忘れっちまうよ。いつも通りでいこう。でも僕は人目を気にしながらスゴスゴと一番奥にある「 味の駅ふらっと 」に行った。屋台風のギョウザ屋さんがあった。僕は隅の方で小さくなってスタミナもりもりギョウザ定食を食べた。

 

 出発するときには幾分か晴れ間も見えはじめていた。鳥海山が顔を出していた。頂上付近には足早に流れる雲がたなびいて、そして天空に霧散して行く。雲の切れ間から深く切れ込んだ谷間に残雪が見えた。鳥海山には、何やら幽玄の世界を感じる。
 有耶無耶の関(うやむやのせき)を越えたとき、ついに秋田県入りした。けれど、またどしゃ降りの大雨が降り出してビニールカッパの中まで濡らしはじめた。僕は疲労と緊張と身体も冷え切って、腰もちぎれるほどに痛くなっていた。ふくらはぎも浮腫(むく)んでいる。小雨がパラつく中、どうにか象潟(きさかた)に着いた。

 駅前に山形旅館があった。女将さんが出てきて部屋はあるという。疲れた。とにかく早く部屋に入って休みたかった。女将さんは電動車イスを玄関の中に入れましょうと言ってくれたけれど、石の階段がある。
 「ちょっとぅー待ってネぇ~」と女将さんが言って、小走りで隣りの散髪屋さんからご主人を呼んできた。旅館と理髪店と両方経営しているらしい。ご主人は大きな板を抱えていた。聞くと、車イスの人がお客さんでやって来たときのために、いつも板を用意しているという。僕は感激しちゃった。こんな気づかいをしている人も世の中にはいるんだ。電動車イスが無事玄関の中に納まると、ご夫婦そろって手をたたいて喜んでくれた。僕は腰が痛いのも忘れ、心が救われる思いになっていた。

 

 

5月14日(月)
 山形屋旅館の朝ご飯に、女将さんが自分ん家(ち)でつけた漬け物や山菜料理が出た。そしてなんと温めたミルクが出された。僕が北海道じゅうを写真取材で回っているときに泊めてもらった旅館でも、みそ汁と並んで温めたミルクが出されたことがあった。北国の朝食の習慣なんだろうか。懐かしいなぁ~。この一杯のミルクが僕に気力体力を回復させてくれた。

 出発のとき、またご主人が板を持ち出してきた。大きな施設で立派なスロープがあるのも確かに助かるけれど、やっぱりこんなちょっとした心づかい、思いやりがいちばん心に沁みる。ご夫婦が手を振って僕を送り出してくれた。お二人ともいつまでも仲良く元気でお暮らし下さい。ありがとうございました。

 

 にかほの町までやって来た。仁賀保郵便局でキャッシュカードのお金を出して、局長さんに充電のお願いをした。僕が手紙を書きたいと伝えると、別に机を用意して、電動車イスからアルミ椅子に座らせてくれた。親切な局長さんだ。今まで介護の経験をしたことがないらしくって、ちょっとぎこちなかった。でもうれしかった。

 

 今朝から心に引っかかっていることがある。僕はまだ両親に手紙を出すか迷っていた。実は僕は今回の「 旅 」を両親に告げずに出てきた。申し訳がないとも思うけれど、ああのこうのと説明するのも煩わしかったんだ。

 

 僕は父とは物心がついたころから折り合いが悪かった。父は酒乱気味でいつも酔っぱらうと、時には母にも暴力を振るっていた。僕はいつも怖くて震えていた。女遊びもしていた。父は本当に利己的で自分勝手で、自分の酒代は惜しくないのに金銭には細かく、家は常に借金状態だった。その昔、家業が倒産して再興もままならず、父にはうっ積したものがいっぱいあったのだと思う。いま思い返しても本来は気の小さい小心者で商売の才覚もない父には、母に当たり散らすしかなかったんだ。

 

 母は耐えていた。今の時代なら考えられないことだろうけれど、母の実家もすでに没落していて、離婚しても行き先は何処もなかった。当時の子持ちの女が働けるところなんて、水商売か、ごく限られていた。経済的自立なんて出来る時代じゃなかった。母は僕がいなかったらとうに別れていたと言うけど(その言葉を聞かされるのは子ども心にとてもつらかった)、母はやはり父にすがっていて、家を出る勇気がなかったのだと思う。

 

 父はそんな母を見越して余計不満のはけ口にした。父は卑怯な男だった。人間としても最低だったと思う。僕は子どものころから父と親しく話をした記憶がない。親戚の叔父さんか、母の再婚相手か、それ以下の存在だった。一時僕は遠縁に預けられていた。月々の仕送りも遅れがちだった。朝夕の食事がだんだん粗末なものになる。僕はその家に馴染めず、田舎の山や林の中でひとり遊んでいた。たまさか見つけた野良犬が僕の遊び友だちだった。

 親子三人がやっと一緒に暮らせるようになったのは小学校に入学するとき。そのときも父の酒乱は続いていた。今夜も父が酔っぱらって帰ってくるのではと、不安におびえる毎日だった。

 

 父は僕が中学校を卒業するとすぐに金を稼げるよう丁稚奉公に出すつもりだった。母が高校だけは出してやってと泣いて頼んだので高校に行くことは出来たけれど、僕は学費を稼ぐためにアルバイトばかりしていた。僕なんかいない方がいいんだろうと思って、高校2年生のとき、アパートを借りて家を出た。それ以来父母とはべつべつだ。

 それからはあっちこっちへ流れ者同然の生活。もし僕が学業をキチンとしていたら、僕の人生も変わったものになったかもしれない。そしてもし、僕が写真という自己表現手段に出会っていなかったら、僕はとんでもない人の道からはずれた生き方をしていただろうと思う。

 

 今さらこんな愚痴を言っても、恨(うら)み辛(つら)みを言ってもしかたのないことだ。人間成るようにして成ってきたのだから。たまに父と会っても昔のことはいっさい話をしない。必要なことを言ってそれ以上の会話はない。父を許しているか? 許すも許さないもない。過去からは逃れられない。

 

 人間とは弱いものだと思う。とくに男は弱い(笑い)。その中でも僕なんていつまでもぐじぐじして、一番弱い男の部類に入るんだろう、きっと。

 だからと言って、「 人間は弱い 」ということに甘えてはならないとも思う。人間には可能性がある。「 人間の弱さ 」をただ鵜呑みにするのではなく、人間にはやれば出来るという「 強さ 」もあるはずだ。その両方を見ていないと本当の「 人間の姿 」は見えてこないのだと思う。そして ” 弱さと強さ ” の中に、人間としての ” 尊さと美しさ ” があるのだ思う。でもやっぱり、常に弱さに振り回されて、人間の心は表と裏のギリギリのところにあるんだろう。

 

 「 道の駅 にしめ 」で休憩充電した。小雨のつかの間の晴れているときに見えかくれする鳥海山。僕はボケ~っと眺めていた。由利本庄に着いて駅前のステーションホテルに泊まった。早い目にベッドに入った。腰が痛くて寝返りが難しい。駅に発着する列車の音がすぐ窓の下で聞こえる。深夜には長い貨物列車がカタンカタンと線路のきしむ音をプラットホームに響かせて通り過ぎていった。その夜、僕はなかなか眠れなかった。

 

 

5月15日(火)
 ステーションホテルを6時に出発。今日も雨。お天道様は晴れの日もあることをもうすっかりお忘れになっちゃったんだろうか。いよいよ全身の疲れがピークにきているように思える。今日は特に腰がちぎれるほどに痛くて、硬い電動車イスのシートに座っていられないほどだった。ふくらはぎの浮腫みと足首の関節炎で、ソックスをはいていられない。ズック靴も脱ぎ捨てて裸足になった。とうとうエコノミークラス症候群になっちゃったんだろうか。ああ、参ったなぁ~。カッパから垂れた雨水が足首を冷やして気持ちがいいけど、指先が冷えて感覚がない。

 

 20キロほど先の「 道の駅 岩城 」には、ホテルウェルサンピア岩城がある。今夜はそこに泊ることにしよう。電動車椅子の座席には、旅客機のファーストクラス並みのシートを取り付けられないものかなぁ~。
 海岸に面した酒田街道を一路、北に向かう。誰とも出会わない。車もほとんど通らない。本当の「 みちのくひとり旅 」だ。そしてしょぼ降る雨、雨。そして「 ひとり旅 」。僕は何となく思い出して、熊本県民謡の五木の子守唄を口ずさんでいた。

  ♪ おどま勧進勧進 あん人たちゃよか衆 よか衆ゃよか帯 よか着物(きもん)
  ♪ おどんが打っ死(ち)んだちゅうて 誰りゃ泣いてくりゅか 裏の松山 せみが鳴く
  ♪ おどんが打っ死(ち)んだば 道ばた埋(い)けろ 通る人ごち 花あぐる
  ♪ 花は何んの花 つんつん椿 水は天からもらい水
               (勧進(かんじん)=小作人、よか衆(し)=お金持ち、分限者)

 ああ、人間が生きて行くことの悲しみは、いったいどこにあるんだろう? 人間が生きて行くことの喜びって、いったい何なんだろう?

 

 「 道の駅 岩城 」に着いてさっそくホテルウェルサンピア岩城に行った。ところが本日は全館貸し切り。部屋は全室空いていないという。あっちゃ~、当てが狂っちゃった。もう一軒あったホテルを探し当てると、それはラブホテルだった。

 どうしよう・・・、と言ったって結局は秋田まで行くしかない。とりあえず充電だ。総合交流ターミナルで充電させてもらった。

 ここには温泉施設があった。ええいっ、この際ひとっ風呂入っちゃえ! 僕がデイパックの牡丹ちゃんを背負いながら匍匐前進してチケットを買いに行くと、受付の女性が、” 何だぁ~、この人は?!” と僕を見下ろしていた。” 大丈夫っ、自分ひとりで風呂に入れますから ” と、僕は見つめ返した。

 

 大浴場は暖かくって気持ちよかった。ぶくぶくの泡風呂で腰を温めた。ここに泊まれたら最高だったのに。大部屋にある自動マッサージ機に寝っ転がっていると、突然カミナリがゴロゴロ、ピシーッと鳴って、大雨降りの嵐になった。あのまま出発していたら、どういうことになっていたんだろう? 天の上においでになるどこかのどなた様が、” まあ~、お風呂に入ってゆっくりしなさい ” って、教えてくれたんだね。

 

 僕は公衆電話からユースパルあきたユースホステルに電話をした。障害者用の部屋は空いていた。身体障害者手帳の交付番号を告げて間違いなく今夜の予約を勝ち取った。秋田市内までは約20キロメートル。こうなるともうのんびりしていられない。充電は充分にしたし、よし、行くぞ行くぞ行くぞーっ。

 

 途中の国道でスーツ姿の中年男性が僕を待ち構えていて、スススーと寄って来た。そしていきなり、
 「 身体は大丈夫ですか? 電動車イスの調子はどうですか? 」と声をかけてきた。
びっくりしたっ。何だっ、この人は!? 僕はてっきり新聞記事を読んだ人かと思って、スピードを緩めずそのまま走りつづけていた。後を追っかけながら、
 「 スズキ自販岩手の者です。激励に来ました 」
ええっ?!、僕はさらにびっくりした。

 

 僕がここを走っていることをどうやって捜し当てたんだろう。僕はようやく立ち止まった。その人は「 スズキ自販岩手 特機課課長 玉川 修 」さん。名刺を見て盛岡からわざわざやって来てくれたことを知った。僕は全くもって恐縮してしまった。
 「 わざわざ盛岡から、ありがとうございます。電動車イスも調子はイイです。今日中に秋田市まで行かなけ

   ればならなくて、急いでいるんで、走りながらお話させてもらっていいですか 」
 「 あっ、どうもすみません。本社から連絡がありました。無事を確認出来ればいいんです。青森までは

   我社(うち)の管轄なんで、何かあったら電話をして下さい。気をつけて、頑張って下さい 」
後ろを振り向くと玉川さんは大きく手を振ってくれていた。せっかく盛岡から来てもらっているのに、タイミングが悪くってすげないことをしてしまった。ゴメンナサイ! 今はたった1分でも惜しいんだもの。後でお礼のハガキを書こう。

 それにしてもよくぞ捜し当てたもんだなぁ~。さすが営業マンだ。

 

 考えてみれば今回の「 電動車イスひとり旅 」で、僕以上に過酷な旅を続けているのは、このセニヤくんかもしれない。なのに故障もなく事故もなく文句も言わず僕をここまで連れて来てくれた。セニヤくんがいなかったら、僕の「 旅 」はこの先一キロメートルだって進めない。こんな頼りがいのあるセニヤくんを作ってくれたスズキの設計・技術陣に乾杯だ! 

 だけど浜松市にあるスズキ本社がわざわざ僕のことを気にかけてくれているなんて、すっごいなぁ~。今や僕はスズキ全社の期待を一身に受けているんだろうか。えっへへへ、大丈夫、がんばりますよ。さぁ~、行くぞ行くぞ行くぞーっ。

 

 僕は市内へと一直線に急ぐあまり、国道7号線からそのまま秋田南バイパスに直行してしまった。バッテリーランプが警告を点灯している。あと5キロメートルも走れないだろう。このまま高速自動車道を行くしかない。

 もうお日様は西空に沈み、夕闇が迫っている。街のネオンサインがあざやかに輝きはじめていた。雄物大橋を渡りバイパストンネルをくぐり抜け、やっと臨海十字路の交差点にたどり着いたときには、最終警告ランプが点灯していた。今まで最終警告ランプが点滅したことはなかった。

 どうしよう。どこかで充電するか。このままユースホステルまでなだれ込めるか。もたもたして決断が遅れればそれだけバッテリーは消費するばかりだ。時間との勝負。よし、行け。セニヤくん、つらい思いばかりをさせるけれど、頑張ってくれよな。僕の心臓はドクンドクンと高鳴っていた。

 そしてそこから5~600メートルばかり行ったところに、ユースパルあきたを発見。緊張と疲労。僕は玄関ホール前で電動車イスのハンドルに顔を埋めたまま、しばらく動けなかった。

 

 

5月16日(水)
 朝、レストランで能代東中学校2年生の生徒たちといっしょの食事になった。わいわいがちゃがちゃ。男子生徒と女子生徒が互いに助け合って、食器の配列、配膳をしている。冗談を言いあったり軽口を飛ばしあったり、仲がいい。それは実に麗(うるわ)しい光景だった。明日の日本を支える若者たち。どうぞそのまま素直なイイ男イイ女になって下さい。

 

 僕は前の晩、かなり遅い時間になってから、全国重症筋無力症友の会の秋田支部長小笠原康治さんに、秋田市到着の電話をした。出発のとき、ご挨拶の手紙を送っていたけど、そのままになっていた。僕は急な面会のお願いをすることに猛烈に気が引けていた。でも小笠原さんは突然の電話にもかかわらず、心よく承知して下さった。はたして今日の10時過ぎ、小笠原さんが僕の部屋にやって来て下さった。うれしいことに奥様も同伴だった。

 

 開口一番、小笠原さんからは、
 「 ひとりでここまで来たんですか?! てっきりサポートといっしょだと思っていたのに。よくぞ来られま

   したねェー」と言われてしまった。
 改めてのご挨拶、そして先ず僕から簡単な「 ひとり旅 」の経過を告げて、お互いの病歴、歩んできた道を語り合った。今日まで一面識もなかったのに人生の一番苦しかったことをさらけ出して語り合える。それは同じ病気を闘ってきた者にしか分かり得ない連帯感なのかもしれない。富山支部の山崎美智子さんも同じだった。小笠原さんご夫婦とは、初めて会ったという気がしなかった。

 

 小笠原さんは何人かの従業員を雇う電気関係の会社経営者だった。それが中年になって突然の発病。長い闘病生活。経営の破綻。それまで専業主婦をして勤めた経験もなかった奥様が、いきなり一家の大黒柱として働かざるを得なくなった。

 慣れないアルバイトやパート勤務。すでにお子様方は独立していたとはいえ、奥様にとってそれはどんなにご苦労なことだったろう。また小笠原さんもかつては会社経営者として順風に仕事をしていたのに、我が身の腑甲斐なさに、どれほど苦しまられたことだろう。

 当世の若い夫婦ならさっさと離婚していたかもしれない。でも小笠原さんご夫婦はこうやって助けあって生きてきた。それがどんなに尊いことだろう。

 お二人はもう60代に見えた。いくつもの試練を乗り越えて来ただろうご夫婦の顔は、とても柔和に見えた。誰もあえて苦労なんかしたくはない。でもそこを耐えてきたからこそのこのご夫婦の仲の良さなんだろう。うらやましい限りだ。

 

 小笠原さんは秋田の街を案内しましょうとおっしゃって下さったけれど、如何せん疲れ切っている。僕は心づかいだけをいただいて丁重にお断りをした。そして明日の朝、見送りに来ると言って帰って行かれた。

 小笠原さんは今ではこの秋田で難病患者・障害者のためのサポート活動に取り組み、若い後継者を育てているという。全ての人に当てはまらないかもしれないけれど、病気や障害や苦労が、かえってその人を強くすることだってあるんだ。ああ、会ってお話が出来てよかった。

 

 

5月17日(木)
 昨日はあれだけ大快晴だったのに、出発する今朝にはまたしびしびと小雨が降っている。イヤンなるなぁー。小笠原さんが今朝は一人で見送りに来て下さった。フロントマネージャーに頼んで記念撮影。
 「 またお会いしましょう。必ず札幌への『 ひとり旅 』を完遂させて下さいね、無事到着の知らせを期待し

   て待っていますからね」
 僕たちは堅い握手をしてお別れをした。

 

 

 雨の影響なのか渋滞に巻き込まれて秋田市街を出るのに手間取ってしまった。今日は八郎潟ぐらいしか行けないだろう。駅前には旅館があるはずだ。

 

 僕はこのごろ宿探しにちょっといい加減になっている。余裕が出てきたというよりも、お天道様が見守って下さっているんだから、余計な心配はしなくていいんだという気分になってきた。こんな心境にたどり着いたのも、何度も心臓ドキドキの経験してきたからなんだけれど。

 

 僕は小笠原さんからお土産にもらったバナナとアメ玉を朝ご飯代わりにして、もぐもぐペロペロ、楽しんでいた。

 

 「 道の駅 しょうわ 」は、お花市場があったり野菜売り場があったり特産のお土産品売店もあったりで、北海道弁で言う ” あずましい ”「 道の駅 」だった。この雨のせいか、お客さんは数えるほどだった。

  僕は事務所に行って充電をお願いした。新聞記事のコピーも頼んだ。自分のことを書いた新聞記事のコピーだなんて、とっても恥ずかしいことだったけれど。事務所の女の子は、僕と電動車イスと記事とを何度も見比べていた。恥ずかしかった。コピー代を渡そうとすると、くしゃくしゃの笑顔で、” いいですよ ” と言ってくれた。顔から火が噴いた。

 

 あっちこっちへ近況報告の手紙を書いた。県立広島病院の主治医時信先生へ。そして父と母にも手紙を書いた。

 突然秋田の旅先から手紙とコピーが送られてきて、父と母はさぞかしビックリするだろう。怒りもするだろうか。父と僕とのわだかまりは、この先一生、もう解消することはないのだろう。

 僕は一生父を愛せないだろうし、また父もただ息子というだけで心から打ち解けることもないのだろう。なのに僕は手紙とコピーを送ろうとしている。母へ心配をかけて申し訳ないという思いもあるけれど。

 僕は僕の父を恋しいと思っているのではないだろう。父親という存在そのものに対して憧れを持っているんだろう。今度の「 ひとり旅 」で、僕はどれほど人間的な成長をしているんだろうか。疑わしい。何か、悲しい。

 

 八郎潟の町に近づくにしたがって、雨はますます強くなってきた。デイパックの牡丹ちゃんまで雨水でずぶ濡れになっている。もう限界だった。

  八郎潟駅前に佐藤旅館があった。部屋は空いていた。板前姿のご主人が何とか玄関内に電動車イスを入れるよう工夫をしてくれたけれど入らなかった。セニヤく んは雨の中に置き去りになった。あまりにも可哀想だと見つめていると、ご主人が奥から工事用のブルーシートを持ち出してきて、すっくりセニヤくんを包んで くれた。セニヤくん、ゴメンね。雨の中に一人にして。風邪引くなよ。

 僕は部屋に入ってパンツから下着からみんな取っかえて、ヤッとばかりに電気コタツのなかにもぐり込んだ。

 

 

5月18日(金)
 一晩中の雨だった。朝、起き出しても篠を突く雨が降り続いていた。腰は相変わらず痛い。ふくらはぎから足首までパンパンに腫れている。朝ご飯のとき、女将さんにもう一泊をお願いすると、今日はあいにく満室だという。しかたがない。行くしかないのだ。でも朝から雨の中を出発するのは、かなりの覚悟がいる。 絶対に風邪を引いてはならないのだ。

 

 「 おはよう。大丈夫だったかい 」 セニヤくんと朝のご挨拶をした。
ご主人がデイパックを入れたらいいと言って、分別ゴミ用の大きなビニール袋を持ってきてくれた。これで牡丹ちゃんは雨に濡れないですむ。ご主人の気づかいが有り難かった。今まで何故ビニール袋に気が付かなかったんだろう。僕の頭も硬直しはじめている。

 

 やっぱり今日も三人は雨の中だった。セニヤくんは風邪を引いてなさそうだし、向かい雨を物ともしないで軽快に走っている。そんな姿にかえって僕のほうが励まされている。
 いっこうに小降りにならない中を「 道の駅 ことおか 」までやって来た。寒くて震えていた。まだ開館していなかった。しかたがないからトイレ兼用の休憩所で充電をした。建物の中でもやっぱり寒い。自動ドアが開くたびに冷たい風が吹き込んでくる。

 たまらず僕は物産館の「 ぐりーんぴあ 」に移動した。こっちの方が何んぼか暖かい。野菜直売場には開店準備の品揃えをしている女の人がいた。休憩所が寒いのでこっちへ移ってきたと告げると、
 「 ああ、あっちはまだ寒いがらねェ~。ここでェ暖まりなさ~い 」
その女の人の声には館内よりももっと暖かい響きがあった。
 「 ナイショだぁよう~ 」 と言って、充電もさせてもらえることになった。
 「 すみません。この辺りに泊まれるところがありますか 」
 「 ああ、もうちょっとゆぐとぅ、旧道の方にぃ、ほなみ荘って旅館がありますようぅ 」
 「そうですか。ありがとうございました」

 正直なところ、僕はもうこれ以上一歩も動きたくない心境だった。でもこの女性にこれ以上の迷惑はかけられない。ここに居たって、どうにもならない。

 

 国道7号線から離れて羽州街道の旧道を行くと、まもまく琴丘郵便局があった。恥ずかしながら僕はトイレの我慢が出来なくなっていた。郵便局に飛び込んで若い局長さんにトイレを貸して下さいと頼むと、
 「一人で大丈夫ですかぁ」と気づかいながら僕を奥のトイレに手を引いて連れていってくれた。トイレから出てきてホッとしているところに局長さんは、
 「 お見かけしないお顔ですね。どこから来たんですか 」 
しかたがないから僕は正直に広島から札幌への「 ひとり旅 」の話をした。他の若い女の局員さんも、
 「 きやあ~ぁ!? 」と声をあげた。
 「 それで今日はどこまで行くんですか 」 
 「 能代の駅前まで行けばビジネスホテルはあるだろうと思っているんですが 」 
 「 ああ、能代市内にはいっぱいありますよ。ちょっと待って下さい。このまま7号線を行くんだば、

   八竜(はちりゅう)郵便局にも寄ってったらイイですよ。私から電話を入れておきますから 」 
 「 ええっ、ありがとうございます。助かります 」 
 僕は1時間以上も暖まって充電してから出発した。この若い局長さんはいつも郵便局にやって来るお年寄りにも親切なんだろうなと思った。

 

  雨は小雨だけど、風は思いっきり強くて冷たい。乾ききらないビニールカッパで身体が凍りそうだった。八竜郵便局はすぐに見つかった。若い局長さんが待って ましたとばかりに出迎えてくれた。それなのに僕はまた一番にトイレのお願いしてしまった。僕の両足はもうすでにコチンコチンに固まって動かなかった。今度も局長さんがトイレまで抱きかかえて連れて行ってくれた。局内は暖かかった。でも居眠りどころか僕はもう一度トイレをお願いしてしまったんだ。僕は郵便局をトイレ代わりに使っている。ちょっと恥ずかしかった。

 

 2時間近く経って、僕は出発することにした。お礼を述べると、仕事中の若い職員さんたち全員が立ち上がって拍手をしてくれた。僕は心から感激していた。

  もしあの弱気のまま、ほなみ荘に泊まっていたら、こんな感激はなかっただろう。ツライことはどこにでも転がっている。そんなとき、けっして弱気になるな。 あきらめず、前向きに生きること。きっと道は拓ける。分かっているつもりでも、目先の困難でつい弱気をおこしてしまう。そこが頑張りどころなんだ。「 ひとり旅 」が今日も僕にそんなことを教えてくれていた。

 

 八竜郵便局でタウンページで調べてもらった能代市のホテルミナミに到着した。もう一軒ビジネスホテルがあったけど、ホテルミナミの玄関にはスロープが付いていた。
 「 セニヤくん、今日もお疲れさまでした。今夜はここでゆっくり眠ってね。いつも、ありがとう 」
夜、寝る前に、テレビの天気予報を見た。明日も雨、雨。やっぱり雨の中を行かなければならないのか。

 

 

5月19日(土)
 出発前にもう一度テレビの天気予報を確かめた。本日の降水確率午前中100%、午後からも100%。最高のコンディションではないか(苦笑)。行こう。弱気を起こすな。今日もきっと何かいいことがある。僕は小雨がしびしび降る中、ホテルミナミを出発した。

 

  能代の街をはなれて2時間、国道7号線羽州街道には冷たい雨が降りしきっていた。あたり一面、霧雨と靄がかかって何も見えない。いよいよどしゃ降りになっ てきた。逃げ場も何もない。ふと見ると道路脇に道路工事の現場事務所が見えた。工事看板には「 鹿島道路(株)東北支店 大台野道路舗装工事現場事務所 」 この際どこでもいいや。事務所のガラス戸を叩いた。

 

 「 すみません。監督さんはおいでになりますか 」 
 奥から現場代理人の伊藤英正さんが出てきた。雨宿りと充電をお願いすると、監督さんは若い現場技術員の越田紀昭さんに、” お世話してあげて ” と言ってくれた。

  越田さんはさっそく仮設電柱の電源ボックスにコンセントをつないで、プレハブの作業員休憩所に連れて行ってくれた。作業員は現場に出払って誰もいない。越田さんは大きなガスストーブに火を入れてくれた。北国では寒いときには火が何よりのご馳走(もてなし)だ。越田さんは、” これで大丈夫ですか ” と尋ねてから僕をひとりおいて現場へサッサと出かけていった。

 僕をこの土地の人間だと思ったのかしら。休憩所には何も置いていないけれど、ちょっと不用心じゃないかと思う。簡単に着替えをして濡れた服とビニールカッパを乾かした。ガスストーブに抱きつきたいほど寒かったけれど、だんだん部屋の中は暖かくなってきた。ああ、助かったなぁ~。

 

 普通よっぽどの用事がないかぎり、多少の偏見もあって地元の住民でも、まして通りすがりの者が気軽に工事現場事務所にやって来ることなんて、そうそうないことかもしれない。

  僕は以前に土木会社に勤め一級土木施工管理技士の資格を取って、現場代理人も勤めたことがあった。それはプロカメラマンを辞めて、いちアマチュアとして創 作活動をするつもりで札幌から日高地方の平取町に移り住んだとき、臨時作業員として雇ってもらった土木会社の社長に何故か見込まれて、土木や測量の勉強を 頼まれたことがきっかけだった。

 まさに芸は身を助ける。この経験がなかったら、今日僕はこの建設現場事務所へ気軽にやって来ることはなかっただろう。土木の資格や測量の勉強なんて、本来写真とは関係ないことだった。

 でも風景写真を撮影するとき、この知識が思わぬところで役に立った。人間、何でも一生懸命にやったことは、あとあとめぐりめぐって役に立つこともあるんだ。そんなことを思い出していた。この雨宿りは、イイ雨宿りだった。
 僕はお礼の置き手紙をして工事事務所を出発した。みなさん、どうか事故のないように。無事に工期に間に合いますように。ありがとうございました。

 

 雨も上がって、遠くに白神山地が顔を出し始めた。麓の谷から雨霧が立ちこめている。それはまるで天の雫(しずく)に浄められた白神様の姿だった。なんてきれいなんだろう。僕はまた一つの想像をめぐらせていた。
 はるかインド洋上で発生した熱帯性低気圧は、ヒマラヤ山脈に当たってアジアモンスーンとなって、地球の自転にしたがって東南アジアから中国大陸へ。

 東シナ海を越えて日本海を北上して。福井平野を潤し、富山平野に恵みの雨をもたらし、越後平野を豊かな農地に作りかえて。長い旅の果てこの白神山地に出会って大量の雨を降らせる。

 ここ数日来、僕をさんざん苦しめてきたこの長雨は、実は世界最大級のブナの原生林を育てていた慈雨(じう)でもあったんだ。

 数万年前からの大自然の営み。雨に煙(けぶ)る白神山地の風景。それに比べて人間はなんてちっぽけな存在なんだろう。無言でかつ雄弁にそのことを教えてくれている。ありがとうございます、白神様。お教えを一生、心に抱いて生きていきます。

 

 米代川にかかる二ツ井大橋を渡るころから、また警告ランプが点灯し始めた。何とか「 道の駅 ふたつい 」まで保つだろうか。三つの長いトンネルを冷や冷やしながら通り抜けて二ツ井の街が見えたときには、ホッとした。

  そしてきみまち坂を登り切ったところで、「こ」の字型に蛇行する米代川のむこうに雲の切れ間から七座山(ななくらやま)が見えた。なんと幽玄な姿なんだろ う。古代から神が御座します霊山と称えられてきた神南備(かんなび)の山。思わず頭(こうべ)を垂れたくなる。こんな七座山が見られる幸運も、雨の中を我 慢してここまでやって来たからなんだね。

 

 「 道の駅 ふたつい 」には、二ツ井町観光協会の事務所があった。事務局長の畠山政美さん(男性)が常勤していた。” 寒かったでしょう ” と言って、抱きかかえるようにして暖かい事務所内へ招き入れてくれた。畠山さんは町役場を退職なさった後、ここの事務局長に迎え入れられたという。さぞかし有能な官吏だったことだろうなぁ。言葉使いに実直で温厚な人柄がうかがえた。畠山さんはこの二ツ井町の歴史を流暢に語って下さった。それは我が故郷を愛 して止まないという口ぶりだった。僕はすっかり居眠りをするタイミングを外されてしまっていた(笑い)。でもその語り口は子守歌のように快かった。

 

  出発のとき、七座山がお日様にきらきらと照らし出されているのが見えた。麓の林から水煙が舞い上がっている。それはちょうど、日本海でひと泳ぎして陸(おか)に上がってきた七座山が、火照(ほて)った全身の肌から湯気立たせている姿を連想させた。七座山さん、気持ち良さそうですね、あっはは!

 

 鷹巣盆地に入ったところで、西鷹巣駅に向かう広域農道を発見した。この近道を行ってみよう。ちょうど田植えの真っ盛りだった。北国の田植えは本州にくらべて遅い。あっちこっちの田んぼで農家の人たちが忙しそうに早苗を植えている。

  そして小さな川堤には本州最後の白い山桜が咲いていた。よく見ればその向こうでツツジも。みんな一斉に咲き出している。なんとも北国らしいなぁ~。盆地を囲む秋田の山々はとても元気そうだった。美しい風景だなぁ~。あの山から清らかな水がこの盆地に流れて稲を育てる。こんな山々がある限り、日本はまだまだ大丈夫だ。

 僕は何だか歌を唄いたくなってきた。

  ♪ 田舎なれども サーハーエ
    南部の国は サー
    西も東も サーハーエ
    金の山 コーラサンサエー  ♪     (「南部牛追い唄」 岩手県民謡)

 僕はその日は、鷹巣駅前のホテル松鶴に泊まることにした。宿泊料金は高そうだったけれど、何よりも電動車イスのままフロントの奥まで進めるのがよかった。

 今日も一日、たくさんなことがあった。僕の「ひとり旅」は、なんだかんだ言っても、今、充実していると思う。これも天にいるどこかのどなた様が見守って下さっているからだろう。

 

 

5月20日(日)
 ホテル松鶴を6時出発。今日も雨。でも幾分か温かさを感じる。少しずつでも春に向かっているんだろうか。相変わらず腰は痛い。ふくらはぎから下はパンパンに腫れて、まるで革袋に水をいっぱい詰め込んだみたいだ。

  裸足にあたる雨水が痛い。でも靴を履いた痛さよりこの方がまだラクなんだ。ああ、まだ雨は降り続いている。朝からずうーっとだ。疲れた。お腹も空いた。で もこの辺りにはコンビ二もない。休憩もしたい。なによりぼちぼち充電タイムだ。何処か暖かいところでほっかほかのおいしいご飯を食べたいなぁ~。でも何に もない。日曜日で郵便局も閉まってる。

 

 国道7号線立花信号の交差点から旧道に入って、そのまま大館市内へ。今日はここまでだ。大館駅構内にある観光協会の案内所で、駅前のビジネスホテルまる斎に予約を取ってもらった。これで今夜の宿は確保できた。僕はがっちりと食事をした くって近くの電動車イスで入れそうなレストランに向かった。ガバッと食ってやった。

 

 そしていよいよ気にかかっていた香西さん家(ち)に電話をした。電話口に光子さんが出た。本当に懐かしい声だった。大館まで来ていることを告げると、歓声を上げて喜んでくれた。熊野町の介護センターのヘルパーさんから読売新聞の記事コピーが送られてきていることも教えてくれた。僕が、
 「 ヘンな記事になっちゃって、ゴメンね 」と言うと、光子さんは、
 「 香西さんも私も、中田さんがこんなことを言うはずがない。この新聞記事は間違っているって、

   話していたんだよ 」と言ってくれた。

 

 僕のことを信じてくれている、僕のことを分かってくれている。そのことがすごくうれしかった。僕は、
 「 ありがとう! 北海道に入ったらもう一度電話をするからね 」と言って電話を切った。
僕が北海道を離れてもう20年近く。今だに変わらない友情を持ち続けてくれている。だからこそ僕は1830キロの「電動車イスひとり旅」をやっているんだと思った。

 僕は改めて間違いなく無事に札幌に着いて香西さん夫婦の顔を見るぞっと誓った。そしてわざわざ記事コピーを香西さん家に送ってくれた熊野のヘルパーさんたちの心づかいには、有り難くって言葉もなかった。

 

 

5月21日(月)
 さあ、今日は青森との県境いの矢立峠を越えなければならない。矢立峠の頂上には「道の駅 やたて峠」があるけれど、道路地図帖によれば大館から「 道の駅 」までは上り約18キロ。どうしても途中で充電休憩が必要だ。でも何にもない。JR奥羽本線のしらさわ駅があるけれど、多分無人駅だろう。ガソリンスタン ドがあるけれど、いざとなればお金を払ってもここで充電するしかない。そのあと大鰐(おおわに)駅前までさらに上り30キロメートルの長い行程だ。今日も締めてかから なければ。

 

 僕はビジネスホテルまる斎を朝6時に出発した。なのに、締めてかからなければならないのに、僕は手袋をなくしてしまっていた。ホテルに置き忘れたんだろうか。

  広島を出発して以来、僕の関節炎の指を守ってくれていた大事な友だちだったのに。やっぱり緊張しているのか。悔しくって少し落ち込みかけたけれど、思い直 した。思えば高砂市で杖をなくしたときも、僕の身代わりだった。今日も矢立峠越えを前にして、手袋が僕の身代わりになってくれたんだろうか。緊張するな、 平常心でやれ!って。そう思うことにしよう。ありがとう、手袋くん。

 

 峠を上がるにしたがって小雨はみぞれになった。僕は裸足のままだったし、手袋なしで僕の手先は感覚がなくなっていた。

  しらさわ駅は案の定、無人駅だった。しかたがないからガソリンスタンドに行こうと思ったら、街道沿いに白沢通園センターがあった。心身障害者の授産所工場らしい。でもまだ就業開始時間前だった。寒さに震えながら待った。ガソリンスタンドに行こうかと思ったけれど、やっぱりここの方がいい。しばらくしたら朝 一番で若い女子職員が出勤してきた。

 僕が充電をお願いすると、” この人は、何だろう?” という顔つきをしながらも、玄関のコンセントを教えてくれた。後からやってくる人たちも、みんな僕のことを怪訝そうに見入っている。

 外は寒くてかなわない。事務所の受付で先程の女子職員に、
 「 中で休憩させてくれませんか 」と頼んだら、
 「 関係者以外、施設内には入れません 」と、
素っ気なく断られてしまった。

 そこへ40歳ぐらいの男性職員が出勤してきた。
 「 どうしたんですか? 」
 「 充電させてもらっているんですが、寒くって 」
 「 どうぞ中に入ってください 」 
その人は僕を施設の中入れてくれて、玄関フロアーに座らせてくれた。幾分か暖かいけれど、冷え切った身体はなかなか温まらない。

 

 事務所内では朝のミーティングが始まっていた。ここは町役場が管理しているらしい。そこへさっきの男性職員に報告を受けたらしい所長さんがやって来て、
 「 事務所の方が暖かいですから、中に入ってください 」と、ソファ椅子に座らせてくれた。
 事務所内はしっかり暖房がきいていた。助かったーっ。最初に会った若い女子職員が、チラッと僕のことを見ていた。

 そこへまた男性職員がやってきて、今度は熱いお茶を持ってきて、笑顔で黙ったまま僕の膝にバスタオル置いてくれた。それはとろけそうな優しい瞳だった。あの人は役所よりも福祉の人かもしれないと思えた。

 打ち合わせが終わって事務所内はあわただしくなった。僕はもう少し粘っていたかったけれど、もう限界だなと思った。僕が目で合図をしたら、事務机から僕のそばまでやって来てくれた。
 「 お世話になりました。もう行きます 」 
 「 ああ~、そうですか。気をつけてください 」 
 「 バスタオルの心づかい、とってもうれしかったです。お名前をお聞かせ願えませんか 」 
その男性職員は僕の日記に、「 白沢通園センター事務局長 菊池 聡 」と書いてくれた。菊池さん、僕はあなたの笑顔とご親切を忘れません。ありがとうございました。僕が事務所を離れるとき、若い女子職員がもう一度僕の方をチラッと見ていた。

 

 羽州街道に雨は上がって晴れ間が広がっていた。僕の心も晴れやかになっていた。いろんな人にめぐり合って、いろんな人に助けてもらっている。さあー、矢立峠に行くぞ。
 長いだらだら坂を約2時間、「 道の駅 やたて峠 」は物産館も地元野菜市もない、「 大館矢立ハイツ 」という宿泊施設と大浴場がある温泉リゾート施設だった。若いフロントマネージャーがいた。充電をお願いすると、売店コーナーにあるコンセントを教えてく れた。充電している間に冷えた身体を温泉で温めようと入浴料金を支払おうとすると、マネージャーは、
 「大浴場にもコンセントがあるのでそちらで充電しても良いですよ」
と言ってくれた。電動車イスのままで絨毯(じゅーたん)敷きのフロアに乗り入れてもいいのなら、その方が僕には断然ラクだ。フロアが傷つくからと電動車イスの走行を禁止した道の駅もあったのに。この若いフロントマネージャーの心づかいと接客態度に感心させられた。いろんな若者がいるけれど、自分の仕事に誇りを持っている姿は、とってもすがすがしいものだ。こんな若者が地方にいる限り、日本はまだまだ大丈夫だ。大浴場は快適だった。湯船に全身を伸ばして、僕は広沢虎三の浪曲の一節を唸っていた。

  ♪ 旅行けばぁ~、出羽の国にぃ~、湯の香り

 ああ、いい気持ち。そして風呂上がりにおいしい食事もいただいた。このままここに泊まっちゃおうかしらん。あっははは。

 

 「 道の駅 やたて峠 」を出発してまもなく、国道7号線の道路際に、「 ようこそ 青森県へ 」の大きな看板が目に飛び込んできた。ヤッターっ! ついに本州最北端、青森県に入ったぞ。何だか、ジ~ンと来るなぁ~。でも油断するな。札幌はまだまだ遠いんだ。

 「 道の駅 いかりがせき 」でも充電中にお食事処でご飯を食べちゃった。だってお腹が空いたんだもの。何んも、いいべさっ、そういうことだって、あるっショ! そして後は大鰐駅前に一気になだれ込むばかりだった。

 

 大鰐駅前には客待ちをする数台のタクシーがいた。運転手さん方がタバコを吸いながら談笑している。僕は観光協会に行くよりも、運転手さんに今夜の宿の情報を教えてもらおうと思った。
 「 すみません。この大鰐温泉で一番安くって一番いい旅館を教えてもらえませんか 」
 「 旅館ならいっぱいあるげど、・・・? あんだぁ~、どごがら来たのぅ~ 」
一番年かさの運転手さんに聞いたら、ちょっとからかい半分にそう答えた。
 「 広島から来たんです 」
 「 あいやっ! 広島っでぇ、あの原爆の広島っでがぁ~!? あちゃ~っ。この車イスでひどりで来た

   のうぅ~?」
 「 ハイっ 」
 「 いづ出て来たのぅ~? 」
 「 3月25日です 」
 「 んだば、こごまで50何ん日か、かがってるんだぁ~、よぐひどりでここまで来れたねぇ~!? 」
ほかの運転手さんが僕の周りをぐるりと取り巻いてきた。
 「 車イスの足回りと電気系統を見であげるネ。タイヤはなんぼか減っているけど、

   しっがりしているわぁ~っ 」
 「 ありがとうございます 」 僕はセニヤくんを誉められて、うれしかった。
 「 いちばん安っくでぇー、いちばんええ旅館を紹介してあげるがら、泊まって行ぎなさ~いっ! 」
 「 ハイっ。ついでに僕が何処まで行くのか聞いてくれませんか 」
最初はからかい半分で取っつきにくかったけれど、この運転手さんの人柄が分かって、僕はもうちょっとだけ会話を楽しんでいたい気分になった。
 「 はんっ、どごまで行ぐ気してらんだぁ~? 」
 「 札幌です。病気の友だちを見舞いに行くんです 」
 「 んっ?!、札幌ぉっ。北海道の札幌っでがっ。わっあっちゃー! たまらんな、この人だば 」
同僚の運転手さん方は、この先輩格の ” 参った!” という表情に、げらげらと笑っていた。僕も笑った。

 

  運転手さんから教えてもらった旅館河鹿荘(かじかそう)はすぐ見つかった。玄関で声をかけると40代後半ぐらいの女将さんが現れた。とっても小柄な女性だったけど、元気なよく通る声だった。僕が駅前のタクシー運転手さんに教えられてきたと伝えると、満面の笑みを浮かべた。それから駐車場の端にある配電盤に延長コードをつないでくれた。

 2階の部屋に案内されて宿帳に住所と名前を書いたら、女将さんはそれを見て目をパチクリ。もう一度僕の顔を見直した。僕が「 電動車イスひとり旅 」で札幌の友人を見舞いに行く話をしたら、女将さんは、
 「 今どき、こんないい話を聞かせてもらいました。その心意気に感激しました。宿泊料金はいくらでも

   結構です。好きなだけ払ってください 」
 「 ええっ、そんな訳にはいきません。どうぞいくらかおっしゃって下さい 」
 「 分かりました。こうしましょう。素泊まり3000円、朝食はサービス。我宿(うち)は正真正銘、

   源泉掛け流しなんですが、入浴料なしの入り放題でどうでしょう 」
僕の方こそ、女将さんの心意気と ” 気っぷ ” に参った!と思った。

 

  僕はそれから2回もお風呂に入った。脱衣場には「温泉分析書 青森県薬剤師協会 衛生検査センター青薬検湯ー・・・号」の大きなプレートがあった。風呂から上がると食堂ホールからピアノの音が聞こえてきた。生演奏だ。ベートーヴェンの「 エリーゼのために 」だった。女将さんだろう。

 女将さんには津軽なまりはなくて、きれいな標準語だった。もしかして若い頃、ピアノを学ぶために東京に出て行ったことがあったんだろうか。家の事情で旅館を継がなければならなくなったのか、それともピアノの夢を断念して郷里に帰ってきたのか。どっちにしてもあの女将さんの ” じょっぱり ” ぶりは、芸術的だナ。

 

 「 旅 」はおもしろい。いろんな人とめぐり会える。今日もいろんな人とめぐり会えた。僕の「 旅 」は今、芸術的だ。

 

 

第10信 僕はしょっぱい河を渡った

 

5月22日(火)

 女将さんの朝ご飯は、山菜いっぱいの手料理だった。美味しかった。そしておにぎり弁当を持たせてくれた。感激だった。

 女将さんに署名をしてもらった。「 青森県南津軽郡大鰐町 河鹿荘 西谷文代 」 ちょっと角張った文字だったけれどすっごい達筆だった。人柄そのものだと思った。西谷文代さん、お世話になりました。あなたのことも、僕は一生忘れません。

 

 僕は弘前に寄らないで、青森への一直線コースの大鰐浪岡線を行くことにした。今日は火曜日。途中の平岡市役所や黒石市役所で充電は大丈夫だろう。今日は浪岡で泊まるつもりだ。浪岡は青森への中継地点の古い宿場町だ。旅館はあるだろう。
 僕は大鰐の温泉街を抜け出して、大鰐浪岡線の町道のような細い道に入った。右手のはるか前方に春霞がかかった八甲田山頂が見える、左手にはお岩木山が青い空を突き刺すようにそそり立っている。手前にはリンゴ畑の白い花が一面に咲き、その向こうに弘前の街並みが見えた。まるで絵ハガキのようだ。さわやかな薫風が頬を撫でる。なんて贅沢な「 旅 」なんだろう!

 

 平川市までやってきた。大きな白い建物が目に入った。平川市文化センターだった。受付で充電のお願いをすると職員さんが自動販売機コーナーにコンセントがあるので、そこでやって下さいと言われた。充電の前にトイレに行っておこう。立派な身障者用トイレが完備してあった。でも使用中だった。

 待っていたら中から五体満足のオジサンさんが出てきた。” お先に ” も、” お待たせしました ” の挨拶もなく無言のままだった。トイレの中からタバコの臭いがした。僕はオジサンの顔を見直した。するとオジサンは、
 「 何だよ、何か言いたいのがっ! 」と声を荒げて言った。僕はムッとして、
 「 ここは身体障害者用のトイレで、喫煙室ではないですよ 」と言い返した。
オジサンは、” フンっ!” と言葉を吐き捨てて足早に立ち去っていった。

 僕がトイレに入ると、中の電気が消えた。あのオジサンの仕業だろう。何とも、大人げない。腹が立つよりもあのオジサンが哀れだった。自分より ” 下 ” だと思っている障害者から咎められて、余計に腹が立ったんだろうか。

 

 僕が自動販売機コーナーの横で充電していたら、今度は施設管理の作業服姿のオジサンがやってきて、
 「 何をやっているんですか? 」と、問い詰めるように聞いた。僕が、
 「 電動車イスの充電をしているんです。事務所の職員さんには許可をもらっています 」
と言うと、オジサンはグッと言葉をつまらせたような顔をした。今度は体勢を立て直して、
 「 で、いくらかかるの? 」と聞いた。僕が、
 「 1時間以上はかかります 」と答えると、面倒そうに、
 「 そうじゃなくってぇ、電気代がどれくらいかかるか聞いているの? 」 
あっ、かかるって、電気代のことなの?! 僕は一瞬吹き出しそうになった。でもその後でだんだんムカムカしてきた。
 「 一晩中充電したって、100円もかかりませんよ 」
僕がそう答えると、オジサンはまだ何か言いたげな表情になった。
 「 このビルの電気代が大きいので、少しでも節約しなければならないんです 」 
 「 ああ、そうですか。ご苦労様です 」 
そう言ってから僕はオジサンの顔から視線をそらした。オジサンは黙って立ち去った。

 

 何なんだ、あのオジサンは。嫌がらせか? それとも人のやることに目を光らせて、何かあったらとっちめてやろうという岡っ引き根性か? 偉いよなぁ~、市長になりかわって、100円の出費の心配までしているんだあーっ。ここに置いてある何台もの自動販売機で一日何個の缶コーヒーが売れるのか知らないけれど、その電気代の方がよっぽどかすごいんじゃないの? 

 てやんでぇ~ぃ、べらぼうめぇー。こっちとらぁ、ただの障害者じゃないんだぞっ。プロフェッショナルでフリーランスの障害者なんだ。見損なうねぇ~。僕は心の中でそんな悪態をついていた。あのトイレのオジサンといい、このビル管理のオジサンといい、平川市はこんなオジサンばっかりなの?

 

 黒石市役所に着いた。市役所の玄関は10数段の石段があった。僕は市役所にやって来た人に受付の人を呼び出してくれるよう頼んだ。快く引き受けてくれた。受付の職員さんが降りてきた。
 「 充電させて下さい 」とお願いすると、職員さんは、
 「 管財課を呼んで来ます 」と言って、庁舎に戻って行った。
入れ替わりに降りてきた職員さんは石段の下の半地下倉庫に潜り込んで電源版に延長コードを差し込んでくれた。バッテリーのランプがついた。職員さんが僕の顔を見てニッコリ微笑んだ。僕もつられて笑った。

 今度は職員さんが僕の身体を支えて石段を上がらせてくれて、住民課の前の長イスに座らせてくれた。
 「 大丈夫ですか 」とまた微笑みながら声をかけてくれた。僕も笑ってお礼をいった。平川市とえらい違いだ。僕は、
 「 さあー、住民票を申し込まなくっちゃ 」という顔をして座り続けていた。我ながら見事なプロフェッショナルでフリーランスの障害者ぶりだった。市の職員さん、親切にしてもらったのに、ダマしてしまったようで、ゴメンナサイ!

 

 緑の公衆電話があった。タウンページで浪岡の旅館を調べた。同じ名前の山田旅館が二軒あった。僕は広告を掲載していない山田旅館に電話をした。電話に出たのはモロ津軽弁の女の人だった。もう老女ふうの声だったけれど、えも言われない魅惑的な響きがあった。

 空き室はあった。山田旅館は二軒あって、浪岡駅前の方の山田旅館だから間違えないでと教えられた。そして素泊まり3000円、食事の用意は出来ないけれどいいですかとすっきりとした口調で言われた。僕はこの女将さんに会うのがとっても楽しみになった。

 

 浪岡に着くと、なるほど山田旅館は二軒あった。一軒は街道沿いの立派な和風旅館。もう一軒は駅前にある木賃宿風だった。玄関ブザーを押しても誰も出てこない。しかたがないから待っていると乗用車が止まり女将さんとご亭主が現れた。女将さんはやはりもう60代だと思えた。でも女将さんをパッと見たとき、日本人離れしていると感じた。

 顔は色白でほんのりお化粧をしていた。目の色はトビ色の茶褐色。髪は白髪だけれど僕には銀色に輝いて見えた。くるりと品よく無造作に頭にまとめている。モヘアのコートをざっくりとまとった姿は、新疆ウイグルかキルギスかウズベキスタンか、とにかくシルクロードのバザールにそのまま現れても何の違和感も感じさせない。そして何かのオーラを放っている。僕は檀一雄の小説「 夕日と拳銃 」に出てきそうな満州馬賊の女頭目を連想していた。女将さんは、
 「 中田さんですね、お待たせしました 」と言った。僕は、
 「 この近くにコンビニはありませんか 」と尋ねると、女将さんはちょっと考えて、
 「 わかりました。何か作って差し上げましょう 」と言った。
電話の声以上に魅惑的な肉声だった。

 そのとき僕は恥ずかしながら女将さんに一目惚れしてしまったんだ!

 

 それから女将さんは充電の手配をしてくれて、2階の部屋まで案内してくれて。その間、僕はもう女将さんの顔をまともに見られないようになっていた。そしてもう一度お買い物をすると言ってご亭主と出かけていった。僕の心臓はまだあたふたしていた。僕はどうなっちまったんだろう!? 

 今日の泊まりは僕ひとりのようだった。ご亭主は女将さんより年下のようだ。ちょっと苦み走ったイイ男。女将さんが惚れて一緒になったんだろうか。二人には他人には語り尽くせない因縁やなれそめがあったのかもしれない。ああ、僕はまるで嫉妬しているみたいだ。くすんっ!

 

 食事の後、灯油ストーブをつけてゆっくり寝そべっていると、すぐ目の前の浪岡駅操作場から貨物列車の発着音が聞こえてくる。駅のまわりの建物は取り壊されて空き地だらけだ。昔は浪岡町もけっこう賑やかな宿場町だったんだろうに。時代の速さが置いてけぼりにした。貨物車の連結音が、時おり、ガシャーンと響いた。淋しそうな音だった。

 

 

5月23日(水)
 朝出発のとき、女将さんが大きな津軽りんごを持たせてくれた。僕は本当に片想いの女性(ひと)と別れなければならない切なさにかられていた。いつまでもご夫婦仲良く元気でお過ごし下さい。

 

 僕は旧道285号線で大釈迦(だいしゃか)、鶴ヶ坂からたらポッキ温泉まで来て、今充電中に、温泉の湯船に手足を伸ばしている。旧道に入ったのもこれが目的だった。僕の「 電動車イスひとり旅 」も、今やみちのく温泉めぐりになっちゃっているなぁ~(苦笑中)。

 

 今日、青森に入る。途中には三内丸山遺跡がある。一泊してでも見ておくべきなんだろうけど、そうもなるまい。

 三内丸山遺跡は、これまでの縄文文化のイメージを大きく変えているという。縄文時代の中期頃には、すでに貧富の格差があり平等な社会構造はくずれ、何らかの階級が成立していたのではないかと考えられている。これは僕の縄文時代への憧憬(あこがれ)を大きく幻滅させる。

 

 確かに、生産力が増大し剰余農産物が出来て経済力が発展しないと、人々の生活が豊かにならないだろう。文化や芸術だって発展しない。しかし経済力が増すほど富は一方に集中して権力だとか階級が生まれる。人間の飽くなき欲望がさらに大きくなる。倫理や道徳が廃れる。はたして人間にとって経済が発展することにどれだけの意味があるのだろう。あるとしたら、それは一体どれぐらいだったらいいんだろうか。

 イヤ人間はさらに経済を発展させようとするだろうし、さらに富と権力を追い求めるだろうし、この世界から貧困や飢餓や戦争が絶えることはないのかもしれない。なのに人間は欲望の虜(とりこ)になって止めようとはしない。それを人間に考えさせるのが文化であり芸術であり信仰なんだろうけれど。それが本来の役割なんだろうけれど。しかし今の世の中ではお金儲けの道具にされてしまっている。お金儲けに役に立つ芸術がイイ芸術で、「 人間とは何か?」を考えさせる芸術は、面白くない芸術にされてしまっている。

 

 僕はこの「 旅 」で縄文人やら弥生人やら海人族のことを思った。ずうっと、ヤマト政権、吉備の国、越の国、タニハの国(兵庫県丹波地方)、みちのくエミシの国のことを考えてきた。

 僕はいったい何を見つめてきたんだろう。そして僕は何を見い出そうとしているんだろうか。人間て何なんだろう。歴史っていったい何なんだろう。物質的な豊かさがあれば、それだけで人間の心は豊かになれるんだろうか。

 お金があればそれで幸せなんだろうか。確かにお金は大切だけど。でも人間にとって本当の精神の豊かさって、いったい何なんだろう。僕たちはこんな世の中で一体どうやって生きていけばいいんだろう。そんなことを考える「 電動車イスひとり旅 」でもあったのに、疑問は深まるばかり。そして今日、青森に着く。なのに答えは見つかっていない。見つからないまま、僕は本州を離れて北海道に渡ってしまう。答えなんか簡単に見つかるはずがない。今はそれでもいいと思う。それが「旅」なんだ。きっと北海道の大地が教えてくれるだろう。そして僕のこれからの生きて行く道も、きっと教えてくれるだろうと思う。

 

 もう20年以上ぶりぐらいでやってきた青森駅前は、すっかり大都市に変わっていた。駅前にあったリンゴ市場はなくなっていた。店先に100Wの裸電球に照らされて、
 「ネェっ、私を買ってってぇ!」
と、紅いほっぺたを輝かせていたリンゴちゃんたちを思い出す。構内にある駅前食堂には昔の面影が残っていた。観光協会で青森ネオパルホテルを紹介してもらった。何だか久しぶりに都会風の接客態度に接して、かえってドギマギしちゃった。懐かしい青森駅ではなくて、知らない街にやって来たみたいだった。

 

 

5月24日(木)
 9・10青森発、東日本フェリーびいな号に乗った。空は晴れて絶好の海路日和。昔は青森駅直結で青函連絡船の乗り場があった。沢山の角巻き姿の母さん方が大きな荷物を背負って、函館の市場と行き来していた。山のものを海の市場へ。海から獲ったものを山の市場へ。津軽海峡はしょっぱい河だった。2等船室で荷物によたれかかって仮眠をとる行商の人たちの姿には、にじみ出るような哀感があった。

 今この青森フェリーターミナルは大型トラックステーションだ。青森駅前も函館駅前にも寄らずすっ飛んでいく。急げ急げで何の情感もない。時代なんだろう。

 

 乗船事務のチェックカウンターでは電動車イスを受付けたことがないらしくて、バイク料金を請求した。僕は電動車イスは道路交通法では歩行者として扱われていると抗議すると、上司と相談してきた事務員は、普通の2等料金にした。事務が手間取って、後ろの乗船客に、
 「 お待たせしてスミマセン 」と謝ると、笑って、
 「 2等料金は当然です 」とうなずいてくれた。
 誘導員が僕を並みいるトラック軍団を尻目に乗船させてくれた。ちょっとだけ気分が良かった。出港の銅鑼が鳴るでもなく、びいな号はゴオ~ンゴオ~ンとうなり声を上げてフェリーターミナル港を出ていった。青森の街がだんだん遠くなる。遠くなるにしたがって、八甲田山とお岩木山が見えた。その山容が水平線の向こうで小さくなったのを確認して、僕は客室に寝転んだ。

 

 僕はこれまで何回ぐらい青函連絡船に乗っただろうか。札幌でフリーカメラマン当時、仕事がなくてジリ貧状態になっているとき、友人の写真屋が中学校の卒業アルバム制作の仕事を持ってきてくれた。中学生たちの卒業旅行に付き添って、何度もこの海峡を渡ったものだった。あんまり気の乗らない仕事だったけれど、それでもしばらくは食いつなげた。あの友だちのお蔭だ。

 あの頃の中学生たちはまだおぼこくって可愛らしかったなぁ~。僕のことを写真屋さんと言わずに、” 先生っ!” って、呼んでいたっけ。もう何10年も大昔のことだ。

 そして僕は水上勉の小説「 飢餓海峡 」を思い出していた。人間は貧乏ゆえに罪を犯し人も殺す。殺す方も殺される方も、みんな貧乏から抜け出すためにあがき続ける。そんな人間どもが交差する「 飢餓海峡 」。人間が生きることの業の深さと儚さ。
 僕は寝っ転がってあっちこっちへとハガキを書いていた。熊野社会福祉協議会訪問介護センターのヘルパーさんたちへ。

 広々とした2等客室には2~3人しかいなくてとても静かだった。ただエンジンの機関音だけが快く響いていた。少し眠って身体が楽になった。船窓をのぞくと遠くに函館山が見えた。北海道だっ! 僕は居ても立ってもいられず、杖をつきながらデッキに出た。まぎれもなく臥牛山(がぎゅうさん)だ。そしてその向こうには駒ヶ岳の勇姿も見えた。帰って来たぁ~! 僕の瞳から涙がゆっくりと頬を伝うのを感じた。フェリー客に函館山をバックに写真を撮ってもらった。思えば fumifumi さんから貸してもらったカメラで撮るのは初めてだった。 

 

 

 定刻通り、びいな号は函館フェリーターミナルに到着した。いまでは函館から少し離れた七重浜(ななえはま)のフェリー港に着く。七重浜もトラックターミナルや倉庫群が出来て、一大物流基地に変貌してしまっている。

 誘導員が僕に先に下船するよう合図したけど、今度は僕は一番最後でいいと伝えた。トラックのドライバーたちはちょっとでも早く国道に出てぶっ飛ばしたくてジリジリしていることだろう。こっちは時速6キロメートルの「 てくてく旅 」なのだ。
 桟橋を渡って、北海道の第一歩を踏みしめた。僕はエリヤ・カザンの自伝的小説を映画化した「 アメリカ・アメリカ 」の中の、長い船旅の後、ニューヨーク港に着いた若い移民の青年が、岸壁に抱きつきキスをしていたのを真似て、唇に当てた手の先を岸壁に押しつけて、車イ スから接吻をした。

 

 本当は懐かしい函館の街に行ってみたかった。函館は石川啄木が北海道を流浪した最初の土地だ。また新 撰組の土方歳三の終焉の地でもある。あっちこっち懐かしいところがいっぱいある。でもそんな感傷に浸っている暇はない。早い時間に宿を確保しなければなら ない。僕は急いで国道5号線をひた走っていた。

 ああっ、この国道5号線の最終地が札幌なのだ。僕は心急ぎながらも、大きな感慨に包まれていた。

 

  タウンページによれば、たしかJRききょう駅の近くに「 ホテルきたぐに 」があったはずだ。お願い、空き室がありますように。「ホテルきたぐ」には、トラックドライバーたちの簡易ビジネスホテルだった。恐っそろしく広い駐車場 があった。到着時間が早かったのが幸いして、シングルの部屋がひとつだけ空いていた。もたもたしていたら部屋がなくなっていた。ラッキーだった。北海道上陸の第一夜。僕は手足を伸ばして大の字になって寝た。

 

 

第11信 帰って来たどぅー、北海道

 

5月25日(金)

 「ホテルきたぐに」を朝6時に出発。国道沿いのコンビニで弁当を買った。北海道なのにチェーン店の味は変わらなかった。まもなく赤松街道。懐かしいなぁ~。僕はここを何度通ったことだろう。

 

 そのころ世界的な造船業の不振で、函館ドックで臨時工の大量首切りが出た。失業した職工たちはより不安定な季節労働者に追い込まれ、東京や神奈川や千葉などに出稼ぎに行かざるを得なくなった。

  僕は夫の留守を守る奥さん方や子供たちの生活記録の写真取材に何度もこの赤松街道を通ったもんだった。今日では世界的な不況で自動車産業は経営難。期間工や派遣社員の大量リストラ、ワーキングプアーという新しい問題も起きている。時代が変わっても、人間が直面する問題はいっこうに変わっていない。

 

  国道5号線が函館新道と合流するあたりから峠下(とうげした)にかけての道路は、まるでカナダのフリーウェイのようだった。ゆるやかな勾配の道路を振り返れば、七飯(ななえ)の街並みと、その向こうに函館の市街が見える。そして函館湾上には函館山が堂々と屹立している。この広い青空と大きな大地。こんな開けた遠望は本州 でも滅多に見られない。やはりここは外国なのだ。

 大沼トンネルは今までの中で最高に快適なトンネルだった。そもそも、物を造る根本的な考え方、概念、哲学が断然本州と異なっているのだ。それは北海道の自然・風土がもたらしたものかもしれない。

 

 トンネルを越えて道道338号線に入るT字交差点に、緑の公衆電話があった。僕は大沼公園ユースホステルに今夜の予約の電話を入れた。若い女の人の声だった。部屋は空いていた。これで一安心。しかし空模様はだんだん怪しくなって安心していられない状況になってきた。

  大沼公園駅前のレストランでしょう油ラーメンを食べた。北海道上陸後の初めてのラーメンだったのに、観光地ラーメンは美味しくなかった。店内には中国からの観光客でいっぱいだった。今や中国経済も高揚して、はるばる北海道の大沼公園まで観光にやって来るようになっている。お金持ちが増えたんだ。特産品コー ナーでは、ちょっとでもいい物安い物を買い求めようとするどん欲さには圧倒される。僕は騒がしさを避けて、向かいの大沼国際交流プラザで充電させてもらって居眠り休憩をした。

 

 大沼湖畔の林の中にある大沼公園ユースホステルをやっと探し当てた。ここは直営ではなくて個人経営の加盟YHだった。建物はこぢんまりと可愛くて観光リゾート地のペンション風だった。原野を吹き抜ける風が冷たかった。雲行きは今にも泣き出しそうだった。

 ペアレント・マネージャーの若い奥さんに、電動車イスの駐車場を尋ねると、簡単なナミ板屋根の物置には電源がないという。しかたがないから母屋の壁に 埋め込んだコンセントから充電した。夜露に濡れたらセニヤくんが可哀想なんだけれど、ビニール袋をかけてあげて我慢してもらった。風邪引くなよ。
 部屋は2階だった。狭く急な階段をよじ登るのは大変だった。若奥さんは2階のトイレはレディー専用だけど、今日の泊まりは僕だけで、使用してもいいと言ってくれた。でも浴室は1階にあった。

 「 もし明日大雨なったら連泊したいのですが、いいですか 」と尋ねると、

 「 いいですが、日中ここは誰もいなくなるので、10時から3時までは部屋を空けてもらわなければなら

   ないんです。それが決まりなんです 」 と答えた。

 

 雨降りが大変なのに、部屋を出なければならないのなら連泊する意味がない。がっくりきた。僕は北海道に入ったらどこかで二泊してゆっくりしようと思っていた。ユースホステルだったら最高!と思っていたのに当てが外れた。案の定、夕方になって大風の大雨になった。セニヤくんのことが気にかかった。しかたがない。明日はどんな天気でも出発しよう。

 

 

5月26日(土)
 夜明け前に目が覚めた。夜来の風はおさまっていたけれど、小雨が降っていた。明るくなるにつれて、あっちの空からやってきた雲とこっちの雲が目の前でぶつかりあって、まるで小学校の運動会の騎馬戦をやっているみたいだった。

 セニヤくんはずぶ濡れになっていた。ゴメンねっ。悲しかった。僕はタオルで丁寧にボディーの隅々まで拭いてあげた。

 街道に飛び出した。ビニールカッパを着ていても真冬なみに寒かった。ヘンっ、本物の真冬の北海道を20年以上も生き抜いてきた俺(おい)らなのに、ずいぶんと柔(やわ)になったモンだぜ。僕はそんな気の利いたタンカを吐いてカラ元気を出していた。

 

 大沼小沼に点在している大小の島影が雨霧にかすんで、それは見事な一幅の水墨画のようだった。林道のような道道43号線では、営林署の作業員たちが大きな運搬車で、道路に散らばっている落木や枯れ枝の清掃に担っていた。やっぱりすごい嵐だったんだね。

 

 僕は、

 「 おはようございます。ありがとうございます 」 と声をかけると、作業員さんたちが声をそろえて、

 「 おはようございま~す 」と元気に答えてくれた。監督さんらしい人が作業状況の写真を撮りながら、

 「 気をつけて通って下さいネェ~ェ!”」 と声をかけてくれた。

 「 ハ~イっ、ご苦労様で~す 」 

僕はこのとき、初めて、北海道人に会ったような気がした。

 

 やっと国道5号線と出会えるT字交差点に出た。すぐ近くに公衆トイレがあった。すでに何台かに車が駐車している。電動車イスでも入れる大きな障害者用トイレがあった。作業用の姐さん被り帽子を付けた中年の女の人が、水道口からホースを引いてジャバジャバと勢いよくトイレの掃除をしていた。僕は思わず話しかけていた。
 「 水がまだ冷たいっショー。大変ですネェェ 」
 「 何んもっ、皆さんにキレイに使ってもらいたいからネェェ 」
 「 いつも一人で掃除しているんですかぁー 」
 「 なに、この近くの集落の女たちで、交代でやっているのぅ。真冬には水道管が凍(しばれ)るから

   トイレは閉鎖しているけれどネェェ。見たところ、お兄さんも車イスで大変でショ 」
 「 僕も真冬のお出かけは閉鎖しているの 」
 「 あはははっ、そうだぁね。お兄さん、うまいこと言うネ。気をつけて行きなさいよーッ 」
僕は上陸後初めて北海道の女(ひと)と話をしたと感じた。大らかでアッケラカンとして、優しすぎるのでもなく冷たくもなく。僕はこの女性の口調が懐かしくてうれしくなった。帰って来たんだなぁ~と、よりいっそう実感させてくれた。

 

 僕は街道を闊歩(かっぽ)していた。少しずつ晴れ間が広がってきたと思ったら、みるみるうちに濡れていた道路が乾きはじめた。冷たいけれどさわやかな風が頬を撫でる。この空気感。まさにこれが北海道だ。

  流れる雲の切れ間に駒ヶ岳が見えた。山頂の尖った溶岩ドームには霧が立ちこめている。裾野は大きく伸びやかに広がって、そのまわりの森や林が駒ヶ岳を両腕で抱きかかえるように取り囲んでいる。太陽の光をうけて樹木の枝葉がキラキラと輝いている。ウグイスの啼く声が聞こえてきた。

 

 なんという美しい風景なんだろう! 僕はしばし呆然とその場に立ちすくんでいた。見てくれ、これが北海道だ! この大地を、自然を、これこそが北海道なんだ! 僕はその一瞬、今までの僕の疑問やわだかまりが、一挙に氷解していくのを感じた。

 

  人間て何だろう。歴史って何なんだろう。僕たちはどう生きれば良いんだろう、なんて考えたって所詮分かるわけがない。それよりも何よりも、この北海道の大自然を見てくれ。空があるじゃないか。山だってあるじゃないか。雲だって流れて。鳥たちも啼いている。太陽の光は降り注ぎ、森は輝き、この風のさわやかさ、空気感。今、この大地に在るべきものが、みんな目の前にある。これで充分じゃないか。

 

 僕はかつてこの北海道に見守られて生きていた。 その確かな実感が今でも僕の身体の中で疼(うず)いている。そして北海道(ここ)には友だちがいる。僕を待ってくれている人たちがいる。答えは見つかっていない。見つかっていないのに、身体に澱んでいたものがすっかり洗い流されたみたく、今僕の心はさわやかだ。
 焦ることはない。一生かかって答えを見つければいいんだ。いつの日か北海道が僕の答えを見つけてくれる。まず生きることだ。生きて自分を信じて、生き抜くんだ。僕の迷いは吹っ切れた。僕は新しい境地になれた気がする。

 ありがとう、駒ヶ岳さん。ありがとう、北海道。

 

 

 

 シェルのガソリンスタンドがあった。店長に充電のお願いをすると、さも遠来の客をもてなすように丁寧に充電の世話をしてくれた。店長も従業員の二人の女の子も、みんな20歳過ぎの若いスタッフばかりだった。 先輩格の女の子は、” オッラーイ、オッラーイ ” と元気な声を上げて車を誘導していた。その声は、場内から後ろの林から大空まで、小気味いいほどに響き渡っていった。

 店長が ” ここで休憩して下さい ” と、事務所に案内してくれて、さっそく大きな石油ストーブを点けてくれた。本当に寒いときは「 火 」が何よりのご馳走だ。店長は忙しそうに仕事に戻って行った。レジや金庫があるのに。底抜けに大らかだなぁ~。

 僕はビニールカッパもウィンドブレーカーも脱いでストーブの火で乾かしていた。だんだん暖かくなって眠たくなってきた。外ではまた、” オッラーイ、オッラーイ ” の声が響いていた。僕には子守歌のように聞こえた。

 出発のとき、三人に改めてお礼を言った。店長は男前ではないし、若いのにオッサン顔だ。女の子たちは美人じゃないけれどこぼれるほどの笑顔はとても愛くるしかった。声をそろえて ” 気をつけて行って下さ~いっ!” と送り出してくれた。

 

 姫川まで下って来ると遠くに噴火湾が見えだした。今日は森町に泊まる予定だ。「 道の駅 you・遊・モリ 」の案内所で旅館情報を尋ねると、わざわざ空室があるかどうか確かめて予約までしてくれた。教えられた通りに森駅に向かうと「ビジネスホテルフレスコ」があった。若い女性オーナーが、バッテリー充電をセットして、わざわざ一階の一番玄関に近い部屋を用意してくれた。

 部屋に入って寝っ転がった。正直、大沼公園ユースホステルより、よっぽどか ” あずましい ” かった。僕はここでもう一泊しようと思った。オーナーにそのことを告げると、” いいですよ ” と、承知してくれた。そう決まると、二日分の餌(えさ)がいる。ちょうど近くにスーパーマーケットがあった。僕はもう一度電動車イスに乗って、食料の買い出しに出かけた。ゆっくり身体を休めて、札幌までの道程と計画を練ろう。

 

 

5月27日(日)
 朝、目が覚めたとき、一番に思ったことは、やっぱりこのまま長万部からも5号線で行こうということだった。
 僕はフリーカメラマン時代、北海道じゅうを車で回ったことがある。もちろん道南の道も知っている。車で1時間走っても、人家もない原野が続いていた。あれからいくらか街並みが増えたかもしれないし、かえって過疎化が進んでいっそう人家がなくなっているかもしれないし、行ってみなければ分からない。

 

 長万部(おしゃまんべ)から5号線を行くなら次の宿泊地は黒松内(くろまつない)だけど、その間道路地図帖を見ても充電出来そうなところがひとつもない。

 途中のJR二股(ふたまた)駅も蕨岱(わらびたい)駅も多分無人駅だろう。郵便局もないしコンビニはなさそうだし。

 長万部から黒松内の間約23キロほど、最悪充電なしで行かなければならない。今まで経験していない、初挑戦だ。

 そして地図帖で5号線を目で追って、次の最大の難関は倶知安(くっちゃん)から余市(よいち)までのおよそ42キロの間。宿泊できるところが見当たらない。

 しかも最後で最大の難関、稲穂峠が控えている。途中一泊するのならどうしても岩内・国富(いわない・くにとみ)あたりだけれど、まだ旅館の情報が得られていない。それも不安材料の一つだ。

 

 もう一つ、長万部から国道37号線に乗り換えて室蘭まで行って、36号線で苫小牧・千歳(とまこまい・ちとせ)経由で札幌に入るコースがある。ほとんど街並みが途切れることがない安全圏だけど、恐っそろしく遠回りになる。5号線コースの倍以上の距離になるのではないだろうか。

 洞爺湖(どうやこ)温泉から230号線に入る近道もあるけれど、最後の中山峠越えはほとんど電動車イスでは不可能だ。

 何よりも37号線では長万部を出て初っぱなの静狩(しずかり)峠と、礼文華(れぶんげ)トンネルを抜けた後のぐねぐねと曲がったアップダウンコース。あの道こそやっぱり電動車イスではとても手を付けられない。それに海水浴シーズンでもないこの時期に、民宿をやっているはずがない。考えていろいろ不安材料があったとしても、このまま国道5号線を行くしかないのだ。

 

 何とかなるべさっ!。北海道だものぉ。僕の故郷(ふるさと)だぁもの。20年かぶりに帰ってきた僕に、故郷の北海道が敵(あだ)なすはずがないものぅ~。何んもっ、信じればいいんだぁ~ぁ。信じて、身も心も預けっちまえばいいんだあぁ~ぁ!

 

 夜、女性オーナーのお薦めで、近所のお寿司屋さんに行った。にぎり寿司を食べた。イヤ違う。北海道ではにぎり寿司を、生(なま)寿司という。僕は久しぶりに北海道の生寿司を食べた。頭がクラッとするぐらい、おいしかった。

 

 

5月28日(月)
 さあ~、八雲(やくも)へ向けて出発する。昨日は一日小雨模様の天気だったけれど、今日は晴れ上がった。でも浜風は冷たい。海は時化(しけ)っている。みちのくでは常に行く手左側にあった海が、今度は右側だ。街を離れればだだっ広い原野に一本道があるだけ。何~んもない。僕は景気づけに歌を歌うことにした。「 コットン・フィールズ 」。僕の大好きなハリー・ベラフォンテのヴァージョンだ。

 ♪ When I was a little baby
   My mama would rock me in the cradle
   In them there
   Old cotton fields at home

僕の悪いクセだ。調子に乗ると止まらない。もう一発、やっちゃえーっ。今度はジョン・デンバーの「 故郷に帰りたい 」だ。

 ♪ County roads, take me home
   To the place I belong
   West Virginia, mountain momma
   take me home, country roads.

 あっははは! スカッとしたなぁ~。でもお腹も空いたなぁ~。

 石倉漁港まで来ると「 レストラン海将 」があった。ここを外すと充電も休憩も御飯(おまんま)も、ありつけないかもしれない。入り口にはしっかりと階段があったけれど、文句も言ってられない。僕はよろけながら上がりレジのウェイトレスに充電のお願いをした。

 客は僕ひとりだった。充電時間を稼ぐために、メニューからできるだけ時間のかかりそうな定食ものを注文した。1時間以上ねばった。ウェイトレスの目が針の筵(むしろ)に感じられてきて、しかたなくレストランを出てしまった。

 

 一本道は相変わらず単調だった。行っても行ってもなかなか景色が変わらない。さすがに北海道、広い。僕はしかたがないからまた歌を歌った。そうしたら僕の歌に誘われたのか、それとも街道にヘンな声の奴がいると思ったのか、ウグイスが目の前の木に止まって、ホー、ホケキョッ!とやりだした。続いて、ケキョッ、ケキョッ、ホ~~、ホケキョーーッ!と、ここ一番の大音声(だいおんじょう)。

 僕は今までウグイスの啼くところを見たことはあったけれど、こんなにも間近で、しかも最初から最後まで一連の鳴き声を通して聞いたのは初めてだった。

 よくぞまあ~、あんな小さな体でこんなにも響き渡る声が出せるもんだ。これはまさに自然の驚異。ザッツ・エンターテェインメントだ。僕は拍手大喝采をした。したらウグイスは、” どんなもんだいっ!” と、さらに胸を膨らませて飛び去っていった。僕は、参りました!と頭を下げていた。

 

 落部(おとしべ)の町に入った。今まで何もなかった一本道からこんな街に入ると、まるで大都会にやってきたような気がする。僕は郵便局に行って、局長さんに充電させてもらった。中は暖かかった。僕は久しぶりにf umifumi さんに手紙を書くことにした。

fumifumiさんへ、
北海道に着いた道内版第1号です(笑い)。よろしくおねがいします。

「 つれづれの部屋 」のみなさまへ、
 今、道南地方の森から八雲に向かう落部(おとしべ)という街の郵便局でバッテリー充電中。その間を利用してこの手紙を書いています。
 やはり思っていたとおり北海道はまだ寒いっ! 風も冷たい。でも、空気はからっと乾いています。だからいっそう体感温度が冷たいのかもしれません。全国では猛暑日のところもあるのに、こちらでは最低気温がマイナスです。一部路面凍結の注意報が出ていました。でもやっぱりここは北海道です。ああ 帰ってきたんだぁーと、感慨もひとしおです。
 当初地図帖で見る北海道の広さ大きさ。旅館、民宿、ホテルの少なさ、バッテリー充電が難しくなるなど心配していましたが、一歩この北海道の大地を踏んでしまえば、「 何とかなるなるべサっ!」という忘れかけていた ” 道産子気質(かたぎ)” に戻った気分になります。今日まで、この『 旅 』で起きることはすべて天運に委ねる思いでここまでやって来ましたが、今まで以上にこの北海道の空気がそんな気分にさせるのだと思います。

 そして、北海道人のひとなつっこさ、おおらかさにも接しました。北海道を離れてほとんど20年。社会も変われば人も変わる。人情や気質も変わるかも知れない。しかし自分自身が裸になって人と向き合えば、人も心を開いてくれるものだ。僕がかつて北海道の自然、風土、人々から学んだことです。
 たった今、ここの郵便局長に事情を話してバッテリー充電を頼んでいたのを聞いていたおばさんが、
「 お兄さん、気をつけて旅をしなさいヨッ 」
と声をかけてくれました。その後に入ってきた角巻き姿のおばあさんは、
「 あんた、こんなところで何を書いているのサ。ラブレターかい? 」と笑いながら話しかけてくれました。
「 何んも、こったな汚い字のラブレターだら、かえって娘(おんな)の子に嫌われるべサっ 」
と、僕も笑って言いかえしました。おばあさんはあらためて僕の字を見て、
「 確かに大した立派な字だワぁ 」と言って郵便局を出て行きました。あっははっ! 大笑い。

 北海道がどう変わろうが社会がどう変わろうがそれが問題なのではない。自分自身の有り様が大切だと思うのです。
 後、札幌まで250キロメートルたらず。数日間我慢してきたおかげでこれからは晴れの日が続きそうです。ニセコの山越えにはもってこいの天候です。ガンバリます!

みなみなさまへ
fumifumi さんへ、 いつもありがとう!     
                        テリー 拝                   
                        5月28日 八雲町落部郵便局にて

 

 途中、山越(やまごし)漁港を過ぎた辺りで、ぼちぼち疲れてきた。空は晴れているけど、風は冷たくて身体がガチガチに固まってきた。ようやく八雲(やくも)の街が見える高台にたどり着いたとき、もう辛抱出来なくなっていた。どうしようかなぁと思っていたら、遊楽館という温泉付きのリゾートホテルがあった。フロントで聞くと入浴だけでもいいという。身体を温めよう。八雲には森のフレスコ・ホテルの姉妹店があるのは承知済み。慌てなくてもいいだろう。風呂に入ろっ。
 僕は2時間近く、ゆっくり身体をときほぐした。不思議だなぁ~。気が付けばいつの間にか、あれだけ腰が痛かったのを今はすっかり忘れている。人間て勝手なモンだね。北海道の空気を吸ったら、腰の痛いのが完治(なお)っちゃった。あっはは、大苦笑!
 八雲の駅前は、すっかりカッコいい街並みに変わっていた。かつての大正モダン風だった駅の構舎は、コンクリート建築に変わっていた。フレスコホテル八雲店は、その駅前開発されたショッピングモールの一画にあった。

 

 

5月29日(火)
 今日も曇り空の冷たい風が吹く日になった。僕はビニールカッパをがっちり着込んで出発した。昨日と同じ何もない一本道。原野の中の視界の向こうまでを国道5号線がピューと通っているだけ。車も通らない。僕はまた大声で歌を歌っていた。今朝はまだ寒いのかウグイスは聞きに来てくれなかった。セニヤくんだけが僕のお客様。多分セニヤくんも僕のオンチの歌にウンザリしているんだろうなぁ~。

 

 でもセニヤくん。君はこの北海道の「 旅 」をいったいどう思っているんだいっ? 浜松の本社工場で生まれて、広島のスズキ自販に連れてこられて。売られてきた先で「 電動車イスひとり旅 」に付き合わされることになってしまって、挙げ句の果て北海道で寒さにぶるぶる震えながら、よもやこんな下手くそな歌まで聞かされるとは、夢にも思わなかったってそう言いたいんだろう? とんでもない奴とくっついちゃったと、後悔してんだろー。この際、正直に思っていることをぶちまけて見なよ。・・・・・。 君って、あくまで無口なんだネッ。

 でもセニヤくん、なんだかんだ言いながらもよくここまで来たね。君のお蔭だよ。札幌までもうちょっとだ。お互い、ガンバローね。

 

 長万部に着いた。ここも駅前開発で様相が一変していた。街に入る手前にある毛ガニの市場もレストラン街も妙にさびれていた。かつては大型バスがどんどんやって来て、お買い物の観光客であふれていたのに。物流の流れが変わった。これが時代なんだ。駅前商店街も何かうらさびしい。でも駅の隣にあったカニ飯弁当屋さんは健在だった。それがうれしかった。
 駅にいたタクシー運転手さんに宿を尋ねると、何を勘違いしたのか最初、長万部温泉の高級旅館を薦めた。僕は駅に近い簡易旅館を紹介して下さいと頼んだら、ちょっと奥まったところにある大川旅館を紹介してくれた。早速行ってみると、老夫婦が経営している仕舞屋ふうの旅館だった。老夫婦は人なつっこい笑顔で温厚な人柄そのものだった。僕にはこっちの宿の方が相応しい。

 

 

5月30日(水)
 さあー、今日は何が何でも黒松内をめざす。町外れにあったコンビニで腹ごしらえをして、羊蹄(ようてい)街道に飛び出した。山がせまり坂道の勾配が上がるにつれて森が深くなっていく。一本道の道路が視界の彼方まで続き、やがて森の中に吸い込まれていく。この先何があるか分からない。出たとこ勝負の見切り発車だった。幸い今日は晴れて暖かい。でも今朝はまだ歌を歌う気分になれない。

 

 まわりの森の淡い緑は、夏の熱い陽射しに耐えられるように葉緑素をいっぱいに取り込んで、深い緑色へと変わりつつある。葉っぱの一枚一枚は、お天道様の光を受けてキラキラ輝き。どれひとつとして同じ緑ではない。千変万化。自然は瞬時もとどまっていない。

 そして自然はしたたかだ。このわずかな晴れ間にも次の季節の準備をしている。春の山菜の時期が終われば、たちまち夏草の芽が吹き出し、木の実も現れて、この大地に生きる野生の生きものたちに恩恵を与える。

 

 生きものたちはめしべとおしべの受粉を助けたり、あっちこっち穴を掘って大地を耕したり、大きな糞をひねり出して栄養素をまき散らしたり。ときには自らの亡骸(なきがら)で他の野生に食料を与え、はたまた大地に還って豊穰の地となる手助けをする。その恩恵で木々や草花が生長する。

 この大自然は大いなる循環だ。共存共栄の賜物だ。そんな大いなる輪の中で、果たして現代の人間はどんな役割を担っているのだろうか。この森は常に無言で人間にその循環の大切さを教えている。

 

 二股駅はやっぱり無人駅だった。民家が少し並んでいるだけで、充電できそうなところは何にもなかった。どうしようか。

 民家の一軒からおばさんが出てきて洗濯物を取り込んでいるのが見えた。この集落の様子を聞くと、小学校は閉鎖されているし、地区の集会所は鍵がかかったまま。参ったなぁ~。おばさんにお礼を言って進み出したけれど、どう考えても手の打ちようがない。

 さっきのおばさん宅で充電を頼もうかと引き返しはじめたら、何かの会社が目に入った。「 不二建設長万部営業所 」。大きな倉庫があってアスファルトを運搬するダンプトラックや作業車が駐車している。道路舗装の土木会社らしい。

 玄関のブザーを押すと、中から中年の女性が出てきた。営業所長夫人なのか事務員なのか、ひとりで留守番をしていた。僕がバッテリー充電のお願いをすると、その女性は、” 裏へまわって下さい ” と言った。行ってみると事務所の窓越しにコードがスルスルと出てきていた。その女性が顔を出して、” これでいいですか ” と聞いた。僕は、” ハイ、ありがとうございます。終わったら声をかけます ” と答えた。充電中の赤いランプが見えたとき、張りつめていた緊張の糸が一気にほぐれていくのを感じた。

 

 見ず知らずの電動車イスの障害者が突然やって来て充電を乞い願えば、誰だって驚くか、気持ち悪がるだろうに。有り難いことだった。でも次には事務所の中でゆったり休めないだろうかなぁと、つい欲張りなことを考えてしまう。充電させてもらっているだけでも感謝しなさいっ! 罰が当たるぞっ。

 幸い天気がよくって暖かい。外で日向ぼっこも久しぶり。僕は電動車イスに座ったまま居眠りを始めていた。

 

 うつらうつらしながらも1時間半粘った。身体が痛かった。僕はお礼をいって羊蹄街道に戻った。さあー、黒松内だ。旅館が二軒あるのは分かっていたけれど、果たして部屋は開いているのか。ああ、次から次へと心配の種は尽きない。森の中を道路は上がったり下がったり、車も滅多に通らない。静かでイイヤと思うものの、何となく心さびしい。お腹も空いてきた。喉も渇いた。身体も疲れてだんだん傾いてきた。ここが頑張りどころなんだ。断じて僕は負けはしないぞっ。僕は僕を奮い立たせていた。
 途中の蕨岱(わらびたい)駅もやっぱり無人駅だった。ここを過ぎればいよいよ渡島支庁から後志(しりべし)支庁に入る。県境を越えたのと同じだ。一歩また札幌に近づいた。そして今度は寿都・黒松内線(すっつ・くろまつない)に入る。まもなくテニスコートのあるスポーツ施設が視界に入った。そしてその辺りから景色が一変した。本当に黒い松で覆われた森林地帯が目の前にわあーっと広がった。坂を見下ろしたその先に黒松内の街が見えた。着いた。やった! 身体の中にあったもやもやとした緊張感が、達成感の快感に変わっていた。

 

 たしかに二軒の旅館があった。一軒は街道沿いの立派な和風旅館。でも駅前の及川旅館には入り口にスロープがあった。まだ1時過ぎだったけれどチェックインさせてくれた。女将さんは若い美人だった。ここに決めてよかった。えっへっへ! 

 さっそく部屋に落ち着いた。朝夕の二食付きだった。お腹が空いていたけれど夕食まで我慢だった。ここはトラックドライバーたちの定宿になっていて、24時間風呂が使用できるようになっていた。僕は風呂に入ることにした。大きくて快適だった。ようやっと部屋で横になってくつろいでいた。黒松内まで来られたなぁ~。ひとつの難関を越えた。ちょっとだけ感無量だった。

 

 でも、何かおかしい。安堵しているのに何故か胸騒ぎがする。何だろう? ジィーッとしていられない気分だった。僕はふっと思い立ったようにフロントに行って後志(しりべし)版のタウンページで蘭越(らんこし)町の旅館を調べた。ときわ旅館の一軒だけあった。不安を覚えた。どうしても今予約の電話を入れておかなければと感じた。

 部屋に戻って電話をした。ときわ旅館の女将さんが出た。明日は1年に一度の法要があって旅館は休みだという。やっぱり予感が的中した。僕は腰砕けになって、へなへなと畳の上に崩れ落ちた。

 

 「 ちょうどその日に当たってしまって悪かったですねぇー 」と申し訳なさそうな声が聞こえた。明後日ならやっているという。そうなるとこの及川旅館にもう一泊しなければならなくなる。僕は女将さんに確かめると、明日はすでに予約でいっぱいだと分かった。明日泊まるところがなくなった。これだ。この胸騒ぎだったんだ。僕は一気に全身の血の気が引いていくのを感じた。

 気を取り直し、僕はもう一度ときわ旅館に電話をした。
 「 ほんとうに蘭越には旅館は一軒だけでしょうか? 明日は及川旅館は満室で泊まれないのです。

   どんなところでも結構です。泊まれるところをご存じないですか? 」 
多分僕は泣きつくような声を出していたと思う。電話口の女将さんは、しばらくう~んと黙り込んで、
 「 心当たりを探してみますから、30分ほどしてまた電話をして下さい 」と答えた。
僕はその30分をどれほどジリジリする思いで待たなければならなかったことだろうか。天を仰いで電話をかけた。

 

 女将さんが出た。「 ありましたヨっ! 一軒、民宿が!? 」 
僕はその声にそれまで張りつめていたものが、一挙にカタカタと崩れ落ちるのを感じた。
 「 よかったですネ! 実は私たちも知らなかったんですが、電話帳にわざと載せないでやっている民宿が

   あったんです。ただし蘭越から少し離れた山の中の豊国(とよくに)なんだけれど、いいですか 」

 

  イイの悪いの贅沢なことを言っていられる状況ではなかった。女将さんはその民宿の電話番号を教えてくれた。まだ会ったこともない見知らぬ旅人で、自分のお客でもないのに、電話のやりとりだけでこれだけの親切をして下さった。僕は涙が出るほど有り難くって心からの感謝の気持ちを伝えた。女将さんも電話口で、” 私もホッとしました ” と喜んでくれた。

 でも安心できない。僕はその教えられた民宿「” 寅 ”さんの家(うち)」へ電話をした。確実に宿を確保しておきたかった。若い男の人の声だった。部屋は空いていた。予約が取れた。ああ~~っ! 全身の力が抜けた。僕はその場に寝そべって、しばらく動けなかった。

 

 これこそが胸騒ぎの原因だったんだ。天が教えてくれていたんだ。最後まで気を抜くなって。そして僕はあきらめないでもう一度ときわ旅館の女将さんに電話をした。あのときはもう女将さんにすがるしかないと思えた。僕の必死の思いが女将さんに通じた。滅多にない便宜を図って下さった。

 どんな苦境にあってもあきらめるな。何とか立ち向かえ。そしてもう一歩押してみることの大切さ。あのまま何もしないで蘭越に行っていたら、僕は泊まるところがなくて路頭に迷って、果たしてどんなことになっていたことだろうか。

 ありがとうございました。お教えを決して忘れません。

 

 

5月31日(木)
 僕は朝ご飯をしっかりと食べた。すっごくおいしかった。さすがにトラックドライバーたちがこの宿を好んで利用するはずだ。
 黒松内の町を出て、265号線に入った。今日は陽射しもやわらかくて風もおだやかだった。黒松内町の付近一帯は道内でも屈指の森林地帯だ。車の一台も通らない。朝の清々しい空気の中。僕はまるで森林浴をしている気分だった。

 

 鳥たちが啼いている。ウグイスが ” ホーホケキョ” と啼く声は、コルネットを奏でているみたいだ。ミソサザイの ” ジュクジュクピーッ、ジュクジュクチーィ ” のちょっとせわしない声は、ピッコロかフルートの高音部。

 カッコーの透き通る声はトランペットで、遠くの方で ” ホゥーッホゥーッ ” と低く響かせるフクロウの鳴き声は、バセット・ホルンに聞こえる。

 ミンミンゼミの声は第1バイオリンでヒグラシの ” リーリーリー ” とリズムを支える声は、さしずめ第2バイオリンだろうか。森を駆け抜ける風のざわめきはコントラバスの音そのもの。鳥たちの声はまるで森のシンフォニーだ。

 そして観客は僕とセニヤくんと牡丹ちゃん。なんて贅沢なひとときを過ごしているんだろう。僕はこんな時間を過ごしたくって、北海道に帰ってきたんだ。そのことを今僕は、身体の芯から実感している。幸せだなぁ~。
 と、そこへ無粋にも乗用車が一台、ビューと飛び込んできた。せっかくいい気分だったのに。ねぇ~、ドライバーさん。あなたの耳にはきっとこの森のシンフォニーは聞こえていないでしょう? 急げ急げで、ひょっとかしてあなたはとても大事なことを見落としたり聞き逃したりしていませんか。えっ、人より早く行くから大事なものが手に入るんだって。そうだね、人によって考え方はいろいろだものね。スピードの出し過ぎに注意して下さいヨ。その間も、森のシンフォニーは変わることなく続いていた。

 

 「 道の駅 くろまつない 」にやって来た。ここでばっちり充電しておこう。この後に目名(めな)峠越えが待っている。次の「 道の駅 らんこし 」までのおよそ15キロメートルの間は、何もないアップダウンの連続のはずだ。そこへ、何とも言えないバターの甘い香りがしてきた。隣にパン工房とキャフェテリアがあった。僕はその甘い香りに勝てず、デニッシュとクロワッサンと角食パン3枚袋詰めを買ってしまった。う~んっ、北海道バターたっぷりのパンの味ぃ。そして焙煎された本物のブラックコーヒー。一口飲んだとき、クラッときて危うく椅子から転げ落ちそうになった。

 ここにも野菜市場があった。近所の農家のおばさんが次々に出荷してくる。
 「 天気になってよかったネェェ 」
 「 1年でいちばん気持ちのいい季節だもんネェェ 」 と話してる
 お天道様の陽射しはカキーンッと肌を刺すのに、日陰に入ったら逆にちょっと肌寒い。皆さんはもう半袖のシャツを着ている。短い夏に少しでも太陽に当たっていようとする北海道らしい習慣だ。僕はこの空気の中、久しぶりの北海道人を満喫していた。

 

 ここからは元の国道5号線に戻る。いよいよ目名峠だ。いざ行かんと思って前を見据えると、三脚に大きなテレビカメラを据え付けてこちらを撮影しているカメラマンがいた。ははん、このあたりの風景を撮影しているんだと思ったけれど、どうやら僕を撮っているようだ。

 近づいてきて、” 中田さんですか? ” と聞いた。突然で腰が抜けるほど驚いた。カメラマンは名刺を差し出した。「HBCニュース 岡本貴寿」。北海道放送のカメラマンで、北海道難病連の事務局から連絡を受けて取材にきたという。またびっくり。

 確かに僕は熊野を出発する前に、元北海道難病連の事務局長だった伊藤たておさんに報告していたけど、伊藤さんが辞めた以上、難病連とは縁が薄くなったと思い込んでいた。それが事務局からの要請で取材に来たという。つながっていたんだ。でも僕は今とっても急いでいる。ゆっくり立ち話をしている場合じゃない。申し訳ないけれど次の「 道の駅 らんこし 」で待っててもらうようお願いした。岡本さんは、
 「 どれくらいかかりますか 」と聞いた。僕は見当がつかなかったけれど、
 「 3時間ぐらいかかると思います 」と答えた。岡本さんは、
 「 じゃ~そこで落ち合いましょう 」と言って、車を走らせて立ち去っていった。
それにしてもどうやって僕の居場所を捜し当てたんだろうか。不思議だなぁ。何日もこのあたりを見張っていたんだろうか。テレビ局がそんな悠長なことはしないよなぁ。

 テレビの取材が入るのかぁ。エライことになってきた。でも内容が面白くないって、ボツになるかも知れないしナ。いいさ、僕には関係ないモン。それよりも今は目名峠だ。

 

 眼前の昆布岳もこれから行くニセコアンヌプリや羊蹄山もみんなかつて大爆発を起こした火山だ。この辺りは大量の溶岩が流れ込んで出来た複雑な地形の火山丘陵地帯だ。ドゥーと下ったかと思うと今度は急な上り坂。アップダウンの連続だった。複雑な山容が関係しているのか、晴れているのに山頂の雲が冷やされて大粒の雨が降ってきたかと思ったらたちまち今度は熱いほどの陽射しに戻る。ビニールカッパを着たり脱いだりの繰り返し まるで弄(もてあそ)ばれているみたいだ。体調も狂い、がっくりと疲れてきた。何とか「道の駅 らんこし」まで我慢しなければ。
 ようやっと「 道の駅 」に着いた。僕は案内所で充電をさせてもらって、そばにあった木の長椅子にドテンと横になった。HBCのカメラマンはまだ来ていなかった。正直、これからインタヴューを受けなければならないのかと思うと、億劫(おっくう)だった。

 

 テレビ局の車が駐車場に入って来た。先ほどの岡本さんともうひとりの若い男性がこちらへ向かってきた。名刺を出した。「 北海道放送記者 枡崎 仁 」。そして枡崎さんのインタヴューが始まった。また香西さんと僕の一代記を話さなければならない。

 カメラも回っている。僕は疲れている上に緊張もしている。まるでうまくしゃべれない。しかし枡崎記者は飲み込みは早く、一を聞いて十を知る。話の要点をつかむ勘どころは巧みだった。取材のセンスもよくて、優秀な記者に思えた。僕はだんだん気持ちよく話すことが出来るようになっていた。

 2時間が過ぎた。充電も充分だった。枡崎記者は今後の日程を聞いてきた。僕はあらかたの計画を話して、この先も札幌まで5号線の何処かにいることを伝えた。そしてまた二人は車で札幌方面に向けて帰っていった。

 僕が「 道の駅 」を出発すると岡本カメラマンがビデオカメラを持って待ち構えていた。それからあっちへ行ったりこっちへ回ったり、僕の後を付いてくる。ああ、やっぱり本気なんだワァ~。テレビの取材が付くのかー。参ったなぁ~。

 僕はカナダで車イスマラソンをする宮下さんの写真を撮っていたときのことを思い出していた。今度は僕が撮られる番だ。苦労しているんだろうなぁ~。でも、ムーヴィーはスチール写真とくらべていくらかラクなんじゃないのかしらん?

 

 蘭越の街に入ったらときわ旅館が目に入った。お休みだった。僕は玄関で頭を下げてお礼を言った。近くのコンビニで「” 寅 ”さんの家(うち)」の場所を聞いた。聞いた通りに行くと小高い山の麓に一軒だけぽつんと白い建物が見えた。その後ろにはニセコアンヌプリの白い頂が見えた。素晴らしいロケーションだった。

 

 民宿の主は佐々木雄三さんというまだ30歳前の若い人だった。やっぱり寅さん映画の大ファンだった。佐々木さんは自分でインターネットのホームページを立ち上げている。目の前に流れる尻別(しりべつ)川は川釣りで有名な場所だそうで、全国の釣り仲間にネット情報を発信している。電話帳に掲載する必要がないそうだ。新感覚の民宿経営を考えているという。今日は群馬からの釣り客二人と長期滞在の画家さんが泊まっているという。これが現代なんだなぁ~。
 僕はシャワーを使わさせてもらって部屋に落ち着いた。窓からの風景は180度の眺望。山があって川があって赤い橋がかかっていて、広い田んぼの向こうに街並みが見えて道があって汽車の線路も見える。まるで箱庭を見ているようだった。ようやくたどり着いた。このひと部屋を獲得するために昨日からどれだけの悶着(もんちゃく)があったことだろうか。僕はホッとして軽い眠りについていた。

 

 食事の声がかかった。ホールに行くと、すでに先客たちは釣り談義と酒盛りで盛り上がっていた。ご挨拶をして僕は少し離れたところに席を用意してもらった。食事は田舎料理風でとてもおいしかった。

 そこへ宿主のお母さんの佐々木桂子さんが現れた。久しぶりに帰ってきた我が家の畑が気になって、さっきまで夢中で農作業をしていたんだそうな。聞くと長い間札幌の病院に入院していて、やっと今日退院してきたばかりだという。僕はつい、
 「 どこが悪かったんですか? 」と聞いてしまった。佐々木桂子さんは、
 「 膠原病です。入退院の繰り返しばっかりなんです 」と答えた。
 膠原病とは僕の重症筋無力症と同じ免疫疾患病で、国が指定している難病のひとつ。僕はマジマジと佐々木桂子さんの顔を見直した。

 

 そのとき、僕は背筋にぞくっと走るものを感じた。僕も自分の病気のことを話した。今度は桂子さんが僕の顔を見直す番だった。僕は病気に負けまいとして「 電動車イスひとり旅 」に挑戦していること。札幌にいる進行性筋ジストロフィーの香西智行さんを励ます旅であることも話した。

 桂子さんも数年前にご主人が借金を残したまま腎臓ガンで亡くなり、それを返済するため必死で農家を守ってきた。自分が膠原病になってしまって、どうにもならなくなって、それで息子の雄三さんに代をゆずって民宿をやるようになったと話された。

 今では可愛らしいお嫁さんが来てくれてひと安心だという。ご主人が借金こいても守り通してきた農家だから、今は小さな畑しか残っていないれど、それでも収穫した野菜が息子の役に立てられるから幸せだとおっしゃる。

 ご主人が亡くなって、私も死にかけて、それでも生き残っているのは、「 余命に天命 」があるからだと話された。桂子さんの目にはうっすらと涙が光っていた。余命が天命だと言えるまで、桂子さんの心の中にどれほどの葛藤があったことだろうか。僕は思わず桂子さんの手を握りしめた。桂子さんも軽く握りかえしてくれた。その様子を雄三さんは感慨深げに見ていた。

 

 昨晩、ざわっと感じたあの胸騒ぎは、このことだったんだ。天はただ単に宿の心配をしていただけではなく、桂子さんと会わせるためだったんだ。僕が胸騒ぎを感じて、ときわ旅館が1年に一度のお休みで、その女将さんが「寅さんの家(うち)」を探し出してくれて、そして桂子さんが今日退院したばかりで。いろんな偶然が重なって、そして今お互いの人生の一部を分かち合っている。ここに本当の意味があったんだ。僕は天の深遠なる配慮に、不思議を感じずにおられなかった。

 

 僕は部屋に下がって電気も点(つ)けずに、すっかり暗くなった夜の景色を眺めていた。谷間に流れる尻別川のせせらぎが山肌に当たって木霊(こだま)している。向こう岸の山並みの稜線だけが夜空にくっきりと浮かんで見えた。

 蘭越の街のそれぞれの家の灯火(あかり)が、星空に負けじときらきら輝いている。あの灯火(ともしび)の下で、人々の暮らしがある。それぞれに生きている。

 そして何処に居たってどんな場所だって、それが田舎のどんなに目立たないところだって、必ず障害者や難病患者はいる。グッと唇をかんで頑張って生きている。人間て、なんて切ないんだろう。そしてなんてメンコいんだろう。

 

 

6月1日(金)
 朝は気持ちよく目覚めた。昨日もいろんなことがあった。僕の「 ひとり旅 」は、波瀾万丈だ。食堂ホールに行った。桂子さんは朝から畑作業に出ていた。僕はがっちり朝ご飯を食べた。出発の時間になっても桂子さんは戻って来なかった。僕は手紙を書いて雄三さんに託した。

 「 最後のその日まで、ともに心大きく豊かに、生きて参りましょう! 中田輝義 拝 」

 若いお嫁さんがおにぎりを作ってくれた。三角でもない俵でもない、大きなぼた餅のように丸く固めてアルミホイルで包んだおにぎり。これこそがまさに北海道のおにぎりだ。懐かしかった。ありがとう、若いお嫁さん。

 いざ出発しようとしたとき、あわただしく軽トラックが坂を駆け上がって来た。桂子さんだ。間に合った。僕たちは、ただ無言で手を握り合ってお別れをした。

 

 蘭越の街はずれに来たとき、すぐにコンビニがあった。僕は気にかかっていたことを片付けておこうと思った。共和町国富(きょうわちょう・くにとみ)の高橋旅館に6月3日の宿泊予約を入れること。ここで一泊しないと稲穂峠は越せないし、札幌到達の大事なキー・ポイントだった。

 電話口におばあさんの声が出た。僕は今日の予約ではなくて6月3日であることを何度も念押しをした。おばあさんは間違いなく了解してくれた。ホッとした。これで札幌に着ける条件がひとつ整った。

 もうひとつ。仁木(にき)町役場に電話をした。国道沿いにある「 ふれあい遊トピア公園 」では電動車イスの利用者に対して充電のサービスをしてもらえるかの確認をした。総務課の職員から、公園事務所の担当に相談して下さい、大丈夫対応しております、の回答をもらった。僕はうれしさがググッとこみ上げてきた。これで札幌に行けるぞっ。

 

 今日も大快晴だった。昆布(こんぶ=集落名)までやって来て郵便局で充電をしようと思ったら、入り口には高くて長くて急な石段があった。ここには昆布温泉があった。また朝からひとっ風呂入ろう。僕は温泉保養施設のフロントで充電を頼んで大浴場でゆっくり休憩をした。
 昆布を出てからの国道5号線羊蹄街道はすこぶる快適だった。雲ひとつない日本晴れだった。車もほとんど通らない。前も後ろの道路も僕ひとり。森では相変わらず鳥たちがシンフォニーを奏でている。広い田んぼでは、農家の夫婦がせっせと早苗の植え付けをしている。その後ろにニセコアンヌプリとイワオヌプリとニトヌプリの三役そろい踏み。行く手を見上げれば羊蹄山が、残雪の白い頂を真っ青な空に突き上げていた。よし、歌おう。今の気分はジョン・デンバーの「 太陽を背に受けて 」だった。

  ♪ Sunshine on my shoulders makes me happy
    Sunshine in my eyes can make me cry
    Sunshine on the water look so lovely
    Sunshine almost always makes me high. 

 


 でもそのあと、お腹がギュルギュルと鳴り出して急に痛くなってきた。我慢できない。ああ、久しぶりの野糞タイムだ。ちょうど道路に側溝があった。僕は洋式トイレのようにうまく跨いで用を足した。僕の北海道第1号の野糞は、このようにして無事完了した。実に快適な野糞だった。

 

  岩内洞爺66号線との交差点に「 道の駅 ニセコビュープラザ 」があった。レジャーランドのような大きな「 道の駅 」だった。観光案内所で宿泊のことを聞くと、ここにはペンションがあることを知った。ニセコは冬のスキー場のメッカなのだ。僕はスキーが出来ないけど、一度はニセコのペンションに泊まってみたかった。「 田舎宿キートス 」を紹介してもらい予約も入れてもらった。ちょっと遠回りになるけど、僕はいそいそと電動車イスを走らせていた。

 ニセコアンヌプリの雄大な山容をバックにして山小屋風の宿があった。ちょうど宿主が斧で薪割りをしていた。何だかヨーロッパアルプスに紛れ込んだような気分だった。ひげを蓄えたトレッカーのようなキートスのご主人と奥様は、いらっしゃいと言って笑顔で出迎えてくれた。

 

 

6月2日(土)
 朝の空気は冷たかった。ニセコアンヌプリは薄霧の中に隠れて見えなかった。もう6月だった。「 旅 」に出て3ヶ月目に入った。心は快調だったけれど、やはり身体は疲れ切っていた。何とか気力で保たしているけど、最後の稲穂峠越えが頭から離れない。

 

 ニセコの街まで下りてきた。今日の宿は倶知安だけど、途中に何もなさそうだ。ここで確実にもう一度フル充電しておきたかった。そのとき有島記念館の案内標識が目に入った。行ってみよう。
 有島記念館は羊蹄山を背景にして広大な農牧場の敷地内にあるヨーロピアンスタイルの建物で、それはまるでスイスの湖畔にでもあるような白亜の殿堂だった。

 受付で閲覧と充電のお願いをすると、入場料は無料で代わりの車イスを用意してくれた。僕は常設展示ギャラリーを隅々まで見て回った。

 有島武郎は高校生のときに小説「 生まれ出づる悩み 」を読んだきりで、人妻と情死したこともあって、僕は何か釈然としないものを抱えていた。
 僕は高校生のころ、一時プロレタリア文学に傾倒して、小林多喜二の「 蟹工船 」や「 不在地主 」を読んだことがあった。もうウン10年も前のことだ。そのゆえもあって、僕は今、有島武郎と小林多喜二の作家としての視点の相違に思いをはせていた。

 

  ギャラリーを回って、今回作家としての一面だけでなく他にもいろんな事蹟があることを知った。有島武郎はキリスト教信者でありながら自殺をし、大地主でありながら小作人に農地を解放し、社会主義に傾倒しながらニーチェの哲学に影響を受け、求道者でありながら人妻と情死をする、なんという自己矛盾と自己破綻の人物なんだろう。おそらくは封建社会から明治大正を経て、資本主義が大きく台頭していく近代日本に、個人(エゴ)というものの本質を深く見すえようとした作家たちのひとりなんだろう。新時代の軋轢(あつれき)に耐えきれず、自らの命を絶ってしまった哀れな犠牲者なのかもしれない。

 

  展示ギャラリーの奥に談話室があった。全面窓ガラスで外の景色を一望に見渡せる快適なところだった。一番奥のテーブルで書類をいっぱい並べて執務している人がいた。僕は ” こんにちは ” と声をかけて少し離れたテーブルに付いた。僕は手紙やハガキを書き始めた。ペンをすべらせる音だけが聞こえる静かな時間が流れていた。

 そこへ事務室の女の人がやってきて、「 館長っ」と呼びかけて用件を伝えた。僕はびっくりしてあらためて挨拶をし直した。
 「 館長さんでしたか、失礼しました。立派なギャラリーですね。じっくりと拝見しました 」  
 「 ありがとうございます。どうでしたか? 」
 「 僕は高校生の頃『 生まれ出ずる悩み 』を読んだきりで、有島武郎のことを何にも知らなかったんです。

       あらためて他の作品も読んでみたくなりました 」
 「 ああ、それはよかった。どちらから来られたのですか? 」
 僕は「 電動車イスひとり旅 」のことを話した。館長はじっくり僕の話を聞いて下さった。僕が話し終えると、”ちょっと待って下さい”と告げて、何かを書き始めた。手渡されたものは手書きの栞(しおり)だった。

 「 孤独な長い旅を続けてこられたとうかがい、感動しました。すばらしい旅を続けて下さい。
                             ニセコ 有島記念館 飯田勝幸  」

 愛用の万年筆で書かれた文字は際立つほどの達筆だった。僕は押し戴くように受け取った。そして充分な心の休憩時間をもらったことにお礼を述べて記念館を辞した。

 思えばキートスに泊まらなければ有島記念舘に立ち寄らなかっただろうし、飯田館長との出会いもなかっただろう。この「 ひとり旅 」は本当に誰かさんに仕組まれているんじゃないかと思えることばかりだった。

 

 倶知安駅に着いた。駅の観光案内所で、駅前ホテルを予約をしてもらった。僕は緑の公衆電話で、香西さんに近況報告の電話をした。
 「 えっ、倶知安にいるの?身体は?元気なの? もうすぐ会えるんだね 」
矢継ぎ早やの質問に僕も急いで返事をしたけど、100円玉が切れて、中途半端な会話に終わった。ケータイ電話が当たり前の時代に、公衆電話のボックスの中で、残りの小銭の心配をしながら、早口で用件を伝えるのに必死になっているなんて、そんな時代おくれの人間は、今日日(きょうび)もう滅多にお見にかかれないかもしれない。それを想像すると笑えてくる。でも不便だから、短い時間に必死で思いの丈(たけ)を伝えようとする切実感がある。ケータイ電話では、こうはいかないのかもしれない。
 さあー、明日からは札幌をめざす「 旅 」になる。いよいよ総仕上げだ。

 

 

第12信 札幌へ、札幌へ、

 

6月3日(日)

 僕は駅前ホテルを6時半に出発した。今日は稲穂峠を踏破するためのベースキャンプとも言える共和町国富に行く。高橋旅館はすでに予約済み。道路地図帖で見ればこの間も山また山のアップヒル・コースらしい。そしてたちまち倶知安峠が待っている。風はないけれど薄曇りの天気の中、倶知安の街をくぐり抜け国道5号線に躍り出た。
 深い谷と森に覆われた倶知安峠を行く。やはり車はほとんど通らない。今では物流の主流は、室蘭・苫小牧経由の道央自動車道だ。わざわざ山間部の多い五号線を利用する輸送トラックは少ない。高速料金を払ってでも速さが一番の時代なのだ。

 その分、かつて賑わいを見せていた5号線や函館本線沿いの街は廃れていく。過疎化も深刻になる。その5号線を僕は時速6キロメートルの速さで走っている。お金と速さの時代に逆らって。ジェット旅客機ならわずか2時間の距離を60日以上もかけて。人は何て言うだろう。馬鹿げたことと笑い飛ばすだろう。きっと誰も理解はしてくれないだろう。いいさ、いつの日にか、こんなバカのことを分かってくれる同じぐらいバカな奴がひとりでも現れてくれたら、それで本望だ。

 

 トンネルを越えたところに国富の集落があった。狭い谷間にへばりついているような街並みだった。ここもかつては岩内漁港と余市・小樽に倶知安の三角点を結ぶ交通の要衝だったはずだ。今ではそれを偲ぶ姿はない。宿もこの高橋旅館一軒が残った。

 高橋旅館の老夫婦は、よくぞいらっしゃったとばかりに歓待してくれた。そして一番の奥座敷に案内して下さった。僕は奥でなくてもよかったんだけど(これナイショ)。

 部屋に落ち着いてごろっと寝転んだとき、稲穂峠攻略のベースキャンプを構築したうれしさがこみ上げてきた。

 ウトウトと居眠りをしていた。そこへ宿主の老婦人から、
 「 お客さんですよ! 」の声がかかった。
僕は飛び上がりそうなぐらいビックリした。ええっ、何んでぇー、誰がぁー。お客が現れた。見たことがある顔だった。その人は、
 「 北海道新聞の村山です 」と名乗った。
香西さんから連絡を受けてやって来たという。そうだ、思い出した。小山内美智子さんの取材のときに出くわしたことがある。

 

 それは1981年。国際障害者年の始まった年だった。スウェーデンで障害者のためのフォーカス・アパートを体験してきた脳性マヒの小山内美智子さんは、従来の日本の障害者施設や養護学校で「 他人のいいなりになってかわいがられる 」障害者の生き方に疑問を持って、自分たちで自立生活を始めようと地域に飛び出した。プライバシーを踏みにじられる施設の生活に不満を抱いていた多くの若い障害者やそのボランティアたちから、この小山内さんの新しい試みは大きな賛同を得た。障害者グループ「 札幌いちご会 」を立ち上げた小山内さんらは、早速民間アパートを借りて社会的自立のための実験生活を始めた。

 

 その当時、札幌のメディアはこぞってこの実験生活を取材し始めた。僕はその「 札幌いちご会 」からの要請で、実験生活の本づくりのための写真記録に担(あ)たっていた。

 ある日そこに取材にやってきたのが村山記者だった。そのことを村山さんに告げると、僕のことは覚えていなかった。僕は取材のジャマにならないよう部屋の隅で小さくなっていたモンね。僕の方は懐かしい気分になっていた。それにしてもよくぞこの旅館を捜し当てたもんだなぁ~。さすが新聞記者の ” 勘働き ” には恐れ入る。
 早速インタヴューが始まった。僕はいつも通りの説明をした。聞き終わった村山記者が開口一番、
 「 結局、この『 旅 』は中田さんの自分のためなんでしょう? 」と言った。
僕はこんな質問を予期していなかったのでちょっと面食らった。そして思い出していた。あのときも村山記者は小山内さんに、
 「 施設にいた方がラクなのに、何故あえて地域で自立生活をはじめる意味があるのですか 」
という質問を投げかけていた。村山さんはこのように一見シニカルとも受け取れる質問をぶつけることよって、少し相手の狼狽を誘いながら本音を探り出す取材をする人のようだった。僕はどう受け答えをしようかとその一瞬考えを巡らせていた。慌てなくてもいいと思いながらも、僕はすでに充分に狼狽していた。

 

 そうだ。究極的にはこれは自分のための「 旅 」だ。それは否定できない。でも自分だけのためだったらここまで頑張れただろうか。途中で断念しても困るのは僕だけだ。僕は香西さんからもらった手紙を村山さんに見せた。
 「 ゆっくり、ゆっくり、そして早く来て下さい 」 
僕を待ってくれている人たちがいる。僕はその人たちを励ましてあげることが出来るかもしれない。喜ばしてあげることも出来るかもしれない。僕だけの思い、我がままだったら、到底ここまでの力は出せなかった。僕は香西さん夫婦を励ますつもりが、逆に僕のほうが励まされているんだと、「 旅 」の途中何度思ったかしれない。無事に札幌で会うことは香西さん夫婦のためであり僕のためでもあるんだ。

 

 そしてこんな僕の「 旅 」でも、自宅で引きこもりや寝たきりになっている障害者たちに、「 私でもやれるかもしれない 」という希望を持ってもらえれば、こんなうれしいことはない。究極的には自分のためであっても、同じ障害者の仲間のためでもあるんだ。僕は心からそう思っていることを村山さんに話した。村山さんがどう受け取ったかは分からない。今度は写真を撮りにやって来ると告げて、大急ぎで札幌へ帰っていった。僕はそのとき、ここはもう札幌から日帰りできる距離なんだと悟った。

 

 僕の「 旅 」は終わりつつある。これからは望みはしないことだけど取材陣がやって来ることだろう。後は札幌到着へのセレモニーが残るだけ。少し空(むな)しい気分になった。でもいくら取材陣が来たって、オタオタしないでいつも通り落ち着いて、堂々と札幌入りを果たそう。ここでドジったら大恥じだし、今までの苦労が台無しだ。中田輝義、最後まで気を抜くな、頑張れ!

 

 

6月4日(月)
 僕は朝5時に出発した。週の初めの日。ちょっとでも早く交通ラッシュを避けたかった。稲穂峠の急勾配の坂道は中途半端じゃなかった。後ろから綱で引っ張られているような重たさを感じた。本州の峠越えと段違いの登り坂だった。

 深く谷間をえぐる山肌が、いっそう重くのしかかる。大型輸送トラックのむせかえるエンジン音が僕を苛つかせた。セニヤくんもウォーンウォンと音を立てている。島付内(しまつけない)トンネルの真ん中辺りでもう警告ランプが点滅しはじめた。予想以上に早い。まだ本命の稲穂トンネルが残っているのに、果たしてふれあい遊トピア公園まで保つだろうか。かつてこんなに早く点灯したことなんかなかった。

 

 やっと稲穂トンネルまで来た。全長1230メートル。今までのトンネルで一番長い。しかもかなりの上り勾配だった。僕はすでに疲労と不安とストレスで身体が強張(こわば)っていた。まぶたが重く目は開けていられないし、頭の芯がズキンズキンと音を立てていた。暗いトンネルの中で、僕は傾きそうな身体を必死になってハンドルにつかまっていた。

 

 そのとき、切れ間がなかった車が一台もいなくなった。エンジンの爆発音がサーッと消えた。長いトンネルが静寂に包まれて、僕ひとりだけになった。それは何10秒間だったんだろうか。1分にも満たないかもしれない。それとも数分か。まったく不可思議な4次元の空間に飛び込んだような気分だった。

 倶利伽羅(くりから)トンネルを思い出した。その静寂が僕を我に帰らさせてくれた。自分を取り戻した。それを待っていたかのように、数台の車が一気にトンネル内に飛び込んできた。トンネル内が再び轟音に引き裂かれた。

 僕は出口の方へ向けてトコトコと電動車イスを走らせていた。外に出るとそこに緑の景色がわあ~っと広がっていた。その新鮮な光景を見ながら、僕は僕の心に存在していた弱く打ちのめされた自分と、ようやく平常心に戻った自分と、その両方を見つめていた。

 

 峠の下でバッテリーランプが最終警告を出した。とてもふれあい遊トピア公園まで保ちそうにない。稲穂トンネルを越えてもまだ緊張と不安は続いていた。大江の集落までたどり着いたとき、ガソリンスタンドを発見。そのとき僕の上半身はハンドルに崩れ落ち、荒い呼吸を整えるのにしばらくかかった。顔を上げてもう一度その存在を確認したとき、僕にはそのガソリンスタンドが、天があらかじめこうなることを予測して用意しておいて下さっていた目映(まばゆ)いものに見えた。

 

 オーナーは若者だった。充電のお願いを心よく引き受けてくれた。僕はやがて暖かいお日様にくるまれて電動車イスに座ったまま睡魔に身を委ねていた。何気なく目が覚めると、僕の傍らを年とった猫が左前足を引きずって歩いているのが目にとまった。オーナーに聞くと、この前の国道で交通事故にあったのだという。そうか、あんたも死にかけたのか。猫には電動車イスはないだろうし障害者施設もないけれど。この心やさしいオーナーに面倒を見てもらって、ゆっくり余生を楽しんでネ。僕が声をかけても、猫は知らんぷりで日向ぼっこを楽しんでいた。

 

 ふれあい遊トピア公園に着いた。広いアウトドアスポーツ施設が整っていた。インフォメーションハウスに行って充電のお願いをした。でも仁木町からの公園責任者がまだ出勤していなくて、ハウス・レストランのウェイトレスは勝手に許可できないと答えた。僕は町役場の総務課に問い合わせしてもらった。さんざん待たされてようやく許可が出た。たった充電のことで、これだけ役所手続を踏まなければならない。でもこれで余市までの充電はばっちりだった。

 

 余市の街にたどり着いたとき、正直なところ人間界に戻って来た気がした。はやく宿を見つけてゆっくりしたかった。パッと目にとまったのがホテルサンアート。部屋は空いていた。ベッドでゆったりと身体を横たえて、稲穂峠越えの安堵ともにようやくこのとき初めて、これで札幌に着けるという確信を得た。

 

 しばらくして電話が鳴った。フロントにHBCテレビの枡崎さんが来ているという。僕はまたビックリした。何故僕の泊まっているところが分かったんだろう?! とりあえず部屋に上がってもらった。僕は疲れ切っていたけれど、ホテルの部屋で枡崎記者のインタヴューを受けた。疲れて考えもまとまらず、ろくな受け答えが出来なかった。

 それが終わった後、また電話が鳴って、今度は読売の加藤さんからの長距離電話が入った。札幌での取材が決ったという。後日程を打ち合わせして電話を切った。

 また電話が鳴った。今度は道新の村山記者からで、明日朝、写真撮影のためにこのホテルにやって来るという。僕はお待ちしますと答えた。

 よう~もまぁ~、みなさん、どうしてこんなにも僕の居場所が分かるんですか?! 

 

 そして僕はいよいよ、僕の「 電動車イスひとり旅 」は稲穂峠越えでもって終わったことを痛感した。でも香西さん夫婦と会うことが残っている。そのときのために、僕は最後まで気持ちを奮い立たせておかなければならない。

 

 

6月5日(火)
 朝、村山記者を待っていたけれど、もう待てない。出発した。街外れで村山記者の車と遭遇した。そしてすぐに写真を撮り始めた。僕が余市の街を行く姿を撮ろうとしていた村山さんのイメージを、僕はぶち壊しにしまったのかもしれないと申し訳なく思った。数カット撮って終了の合図をして、村山さんは急いで札幌へ帰っていった。

 でも蘭島(らんしま)のトンネルを過ぎたところで再び村山さんはカメラを構えて待っていた。蘭島トンネルをバックに撮影しようというわけネ。僕でもきっとここでシャッターを切るだろうなと思った。いったん帰りかけた村山さんが、満足しないでこのポイントに留まった記者魂は、さすがっ!と思えた。

 

 忍路(おしょろ)の集落を通っているとき、裏角からひょいと出てきた男の子とぶつかりそうになった。ランドセル姿の登校中の児童だった。訝(いぶか)しげに僕の電動車イスをしげしげ見ていたその子供(こ)は、やおら僕に話しかけてきた。

 

 「 ねぇー、これは足の悪い人のためのものなの? 」
 「 これはねぇ~、足の悪い人だけではなくってェ、お年寄りの人たちのためでもあるんだよ 」
 「 僕のおじいちゃんは元気に走り回っていたけど、今は家にいるけど、いつかこの機械を使うのか

   なぁ~ 」
 「 そうだねぇ~。おじいちゃんのこと好きかいっ? 」
 「 うん、好きだよ 」
 「 だったら、おじいちゃんを大切にしてあげなさ~い。君は何年生? 名前は何というの 」
 「 忍路中央小学校3年生、手塚結希 」
 「 ゆうき君は何が好き? 」
 「 水泳。僕は校内大会で優勝したんだよ 」
 「 へえ~っ、すごいなぁ~。将来は何になりたいの 」
 「 僕はねぇ~、身体を使う仕事が好きなの。大工さんなんか、イイナァ~。それでね。僕はレンガを持って

   腕を鍛えているの。夏は水泳で全身を鍛えるの 」
 「 そっかぁ~! 君って、エライね 」

 

 ゆうき君はそのあと、遅刻するといけないからって、走って校門をくぐり抜けて行った。僕はこの少年と1対1の人間同士として世間話をしたと感じた。「旅」の終わり、虚(うつ)ろになっていた僕の心を慰めてくれた。ありがとう、ゆうき君。イイ大人になってね。

 

 塩谷の海は相変わらず青々と輝いていた。あの岬もあの海岸線も昔通りに思えた。だけど海岸沿いの道路は高速道路のような立派な道に変わっていた。変わらないのは海の輝きばかりだ。オタモイの信号から国道5号線は小樽市を迂回するバイパスになる。僕は懐かしい長橋(ながはし)を通る旧国道で小樽市に入った。
 駅前の小樽グリーンホテルにチェックインすると、今度は読売新聞北海道支社小樽支局の木村直子記者がロビーで待ち構えていた。福島県郡山支局の加藤 仁さんから指示を受けたという。若くて美人で、才媛そのものといった感じの女性だった。けど僕にはすぐのインタヴューはキツかった。僕は1時間だけ待って下さいとお願いした。でも何故僕がグリーンホテルに泊まることが分かったんだろうか。僕はよっぽどシンプルな思考回路しか持っていないんだね、キット。

 

 木村記者のインタヴューが始まった。
 「 もう札幌のゴール直前ですが、いまの心境をお聞かせ下さい 」
 「 ああ、ここまで来たんだなぁ~、7日には札幌に着くんだなぁ~と思うだけで、特別にヤッタッーと

   か、うれしいっーとかの感慨はないんです」
 「 ・・・・・・? 」
 一瞬、木村記者は戸惑ったような表情を見せた。僕は木村記者がもっと喜びを大きく表すコメントを期待していたんだろうと感じた。もう少し説明が必要かなと思った。
 「 ちょっとややこしい話をさせていただきますが、山の頂上を目指すとき、7~8合目まではある程度の

   努力をすれば行けると思います。だけど9合目からがいちばん難しくって危険です。ホッとして油断する

   からです。僕はいま札幌に着くまで、そして香西さんに会うまで、けっして気を抜いてはならないと考え

   ています。

    冒険家の植村直巳さんは、『 冒険とか挑戦とか旅というものは、無事家に帰り着いてやっと 完遂する

       ものだ 』と言っています。だから僕が札幌に着いてもそれが「 旅 」の半分で、僕が広島の自宅に帰った

       とき、やっと完結するのだと思っているんです。それは人生においても同じことが言えるのではないで    しょうか 」
 「 いいお話を聞かせていただきました 」

 

 懐かしい小樽の街だった。僕は何度この街に遊んで何度写真仲間や悪友たちと酒を飲んでは酔っぱげて、ともにゲロを吐いたことだろう。僕の青春の一部だ。僕は今、そのネオン街を小樽グリーンホテルの窓から眺めている。

 

 

6月6日(水)
 7時に小樽を出発した。国道5号線を入船(いりふね)十字街、奥沢十字街、龍徳寺前の大きく左に曲がる見慣れた坂道を上って、小樽築港駅を過ぎて新しいトンネルを越えたところのコンビニで朝食を買った。

 朝里(あさり)の浜や神威古潭(かむいこたん)を崖下に見ながら、張碓(はりうす)の郵便局で充電をさせてもらった。

 谷を大きく曲がる張碓橋を下り降りたところで僕を見た民家の人が大きく手を振っていた。僕は訳も分からず手を振りかえしたけれど、村山さんの記事が道新に掲載(の)ったんだと後になって気が付いた。

 坂を下りた国道では運転中の若いアベックが車から降りてきて、” 道新を見ました。頑張って下さい ” と握手を求めてきた。期せずして対向車線の車はクラクションを鳴らして手を振っていた。

 僕はまだ村山さんの記事を見ていなかったけれど、やっぱし北海道じゃー、北海道新聞の威力は大したものなんだなぁ~。
 いよいよ、国道5号線、JRほしみ駅付近、「 ここから札幌市 」の道路標識を目にした。それはあっけないほど何の感激もないただの通過点だった。

 手稲(ていね)駅前のステーションホテルに宿泊した。僕は北海道難病連の事務局長の小田 隆さんに電話をして、明日午前11時、難病センター前ゴールと、宿泊予約をもう一度確認してベッドに就いた。

 

 

6月7日(木)
 朝、手稲駅前ステーションホテルの朝食をがっちり食べて8時に出発した。空は晴れているけどまだ冷んやりしている。

 国道5号線が札樽自動車道と交差する高架をくぐり抜け、124号線に乗り換えてまっすぐに行く。朝の交通ラッシュがはじまっていた。でも札幌市の道路は歩道も広くて、人とぶつかる心配はない。

 琴似(ことに)は見慣れた街だ。それほど変わっていないように思える。北1条通りに出た。順調すぎて北海道難病センター前11時にはまだ早い。僕は道立近代美術館で時間つぶしをすることにした。

 ここも何度も来たことがあった。でも車イスでの入館は初めてだ。案内所で充電させてもらって代わりの手動式車イスを借りて、2階の喫茶室でコーヒーを注文した。かぐわしい香りが少し興奮気味の僕の気持ちを落ち着かせてくれた。時間だ。ゴールに向かうぞ。

 

 地下鉄西18丁目駅まで下がって左に折れてやや行くと、大通公園の向こうにテレビ塔が見えた。お久しぶりでしたの朝のご挨拶。西11丁目のターミナルはもう人混みでいっぱいだった。

 中央区役所の交差点で伊藤たておさんを発見。固い握手をした。胸の動悸が一気に高まった。伊藤さんに誘導されて北海道難病センターに向かった。HBCの枡崎記者がカメラマンと待機していた。

 センターの前では20~30人の人たちが横断幕や花束を持って手を振っているのが見えた。報道陣も来ている。ちょっと恥ずかしかった。読売の加藤さんの顔があった。道新の村山さんもいた。

 

 僕はいったん息を吸い込んで、「 ただいま!」と言ってからゴールのテープを切った。
拍手と歓声が起きた。重症筋無力症友の会北海道支部長の東谷美智さんから月桂樹の冠を頭にいただいた。記念撮影やら取材陣のインタヴューなどのセレモニーが終わって、みんな静かに散開していった。

 伊藤さんと北海道支部の事務局長の中村待子さんと娘さんと加藤さんと僕と四人で、プリンスホテルで昼食をした。「 旅 」の体験談で話はもりあがった。

 その後僕は難病センターで宿泊の手続きをして、部屋に入った。まず香西さんに電話をした。明日11時過ぎに会いに行くと告げた。熊野町介護センターのヘルパーさんたちにも、『 つれづれの部屋 』の fumimi さんにも、無事札幌到着の報告をした。

 やっとひとりになった。静かにベッドで横たわっていた。「 旅 」は終わった。無事札幌到着を果たしたのに、言葉に名状しがたい空虚感が僕を襲ってきた。

 何なんだろう? この感情は。「 旅 」の途中、誰もいない車も通らない国道や原野や森の中にひとり放り出されていたときでも、少しも孤独なんて感じなかったのに。それなのに今、この部屋に独りいることがすごく寂しい。

 この寂寥感は何なんだろう? 自分で自分の感情が推し測れない。終わってしまえば実にいろんなことがあった。それを僕の心の中でどう整理したらいいのか、まったく分からない。時間がかかるんだろう。時間をかければ分かるのか。それすら、僕には自信がない。

 僕はまったく矛盾だらけの人間だ。

 

エピローグ

 

6月8日(金)

 午前10時、難病センターを出発、豊平区中の島の香西さん宅へ向かった。いよいよ「 旅 」の最終目的地だ。マンションの前では読売新聞の加藤さんが待機していた。再会の喜びもそこそこに、香西さんの部屋に向かい、香西さんと光子さんの顔を見た。僕は、
 「 来たよ、来たよっ 」
と声をかけて、香西さんの身体を思い切り抱きしめた。以前から痩せていた身体がさらに細くなっていた。そして光子さんとも感激の再会のハグハグ。香西さんは、
 「 生きていてよかったね 」と言った。僕も、
 「 生きていたからこうしてまた会えたんだね 」と答えた。光子さんは、
 「 中田さんは必ず来ると確信していた。それは理屈を越えた予感だった 」と言った。
そのひと言以上に、僕を迎えてくれる歓迎の言葉はないと感じられた。後はしばらく声にならなかった。本当に生きて無事に会えたんだという実感がじわじわと湧いてきた。

 僕はデイパックから香西さんから貰ったボロボロの手紙を出した。僕は二人を励ますためにやって来たのに、逆にこの手紙に励まされていた。僕はありがとうと言った。僕にはそれだけを伝えるのが精一杯だった。

 

 報道陣が帰ってやっと一段落付いた。僕たちは僕が香西さんを撮った写真を見て、懐かしく思い出をよみがえらせていた。そして光子さんは言った。
 「 筋ジスの香西さんをどれだけ長生きさせるか、それが私たちのチャレンジであり、それを助けるのが

   私の仕事だと思っている。だから香西さんより先に死ねないの 」 
それは二人のこれからの人生の決意だと思った。

 

  光子さんが、何を食べたいと聞いた。僕は光子さんが作る、ジャガイモやニンジンや玉ネギがゴロゴロしている昔ながらの北海道のカレーライスが食べたいと言った。じゃ~、作ってあげるから来る前に電話してと笑った。もう20年近い時間の空白はなかった。僕は今も札幌に住んでいて、一週間ぶりに遊びに来たような気分になっていた。

 

 

 6月11日(月) 
 僕は広島県立病院主治医の時信先生からの紹介状を持って、札幌北祐会神経内科病院で院長の浜田毅先生の健康診断を受けた。浜田先生は僕の顔を見て、
 「 レントゲンと簡単な血液検査で充分でしょう 」とおっしゃった。
検査結果が出るまで待合室で待っていると、僕のことを知った入院患者の芦別市本町の目黒賢治さん(70代ぐらい)が一階に下りてきた。目黒さんも車イスだった。
 「 あんたかいっ、電動車椅子で広島から札幌に来た人は? よくやった! 」
と言って僕の肩をポンポンと叩いた。そしてお祝いに缶ジュースと¥1000ーをくれた。僕はどう返事して良いのやら言葉に詰まった。僕は目黒さんのような人のために走ったんだと思えた。そんな人からのお祝いの言葉に僕は感激でふるえていた。

 

 

 6月13日(水)
 僕は札幌市東区北30条東1丁目のスズキ自販北海道本社を訪問して、丁寧にお礼を述べて、電動車イスを熊野の自宅まで届けて貰うよう手配した。その帰り、札幌市を北から南へ縦断して香西さん宅を訪れた。

 札幌の街はやっぱり良く整備されていて電動車イスでも快適だった。そしてカレーパーティーを17日にすることを約束して帰った。

 

 

 6月17日(日)
 香西さん宅に行くと長女の千佳子さんと長男の拓也くんが来ていた。千佳子さんはともに「 カナダ横断 」を果たした同志であり、ほとんど20年以上ぶりの再会だった。千佳子さんは開口一番、
 「 中田さん、私もう40になったのよ~ 」 
拓ちゃんは結婚していた。僕は若奥さんに、
 「 うちの弟のことをよろしくお願いします 」と頭を下げた。

 

 懐かしい光子さんのカレーライスだった。一口食べて頭がクラッときた。カレーだけをお代わりをすると、
 「 相変わらずの中田さんのカレーライスの食べ方ね!」
と笑い転げている。そして光子さんも千佳子さんも、
 「 中田さんは、口が肥えているから緊張する 」という。
そうかなぁ~。僕は「 旅 」の途中のコンビニ弁当の悲惨だった食事を思い出していた。

 写真を撮ろうということになった。せば、こんなに長い付き合いなのに香西さんと撮った写真はなかった。光子さんがカメラを持った。

 

 

 

 6月20日(水)
 難病センターで、全国筋無力症友の会北海道支部のみなさんの全国会報の発送事務をお手伝いする。まるで街の印刷屋さんの工場に混じり込んだみたいに熱気であふれていた。みなさん汗だくになって北海道なのにクーラーを入れるほどだった。   

 夕方、友人や写真仲間がやって来た。何年ぶりだろうか。僕がカメラマン当時、何度もチームを組んで一緒に仕事をした元某印刷会社の営業マンだった山本隆夫さんと永井敏広さん。そして大先輩の写真家松田芳明さん。松田さんは今はリタイアして悠々自適の身分。山本さんは早期退職して今は浪々の身。永井さんは北海道老人クラブ連合会事務局長に転身してまだまだ現役活躍中。
 写真仲間の佐藤通晃や高橋雅之、東京出張中の曽我恵介に代わって夫人の久子さんもお祝いにやってきてくれた。昔話に写真談義。お互いにみんな、ジッコ (老人・北海道弁)になったのに、こうして何10年かぶりに再会すれば、元の紅顔の美青年(?)に戻ってしまう。友だちとは本当にありがたいものだ。変わらぬ友情に乾杯だ!

 

 6月21日(木)
 香西さん宅を訪問。明日広島に帰ることを報告した。話すことはいっぱいあったはずなのに何も話せていない。時間がきて僕は行くことにした。これが最後だ。もう会えないだろうことはお互いに分かっていた。でもまた一週間したら来るからねといった雰囲気で、” それじゃ~ ” と言って振り返りもしないで静かに部屋を出て行った。

 

 6月22日(金)
 浪々中の友人、山本さんが新千歳空港まで送ってくれることになった。山本さんは僕の兄貴分にも当たる人だった。それが今、弟分に優しく車イスを押してくれている。

 出発ロビーに入る金属探知機検査の前で、再会の固い約束と抱擁を交わして僕は機内に乗り込んだ。

 

  新千歳を飛び立って津軽海峡までは大快晴だった。しかしだんだん雲間が広がってきた。「 旅 」でははっきりと見られなかった鳥海山の山容を、今、空の上から見ている。徐々に広がる雲海のなかに、切っ先鋭く山頂を天に向けて立つ鳥海山は、とても幻想的だった。あの下に見える細い白い道を僕は通ったんだ。

 まもなく雲霧に隠れて鳥海山は消えた。僕の「 旅 」が終わった。
         

 

 

 

 

 広島空港では『 つれづれの部屋 』の fumifumi さんと kurikuri さんが出迎えに来てくれていた、僕を熊野まで連れて帰ってくれる。

 同じく筋無力症友の会広島支部長の日野美枝子さんが大きな花束をもって出迎えに来て下さっていた。ビックリした。大感激だった。

 こうして僕は生きて広島の土を踏むことが出来た。帰ってきたんだ。

 

広島空港到着時の写真
帰広:広島空港到着時

 

 

 

 

 10月30日(火)
 夜、電話が鳴った。香西光子さんだった。一瞬、悪い予感がした。冷たいものが背筋を走った。香西智行の死の知らせだった。風邪をこじらせて入院中、今日の朝、肺炎を併発したという。眠るような最期だったと、光子さんが教えてくれた。僕は電話口で声にならない声をあげていた、と思う。記憶にない。

 光子さんに知らせのお礼を言って、2~3日して僕から電話をし直するからと言って切った。とうとうやって来た。覚悟はしていたけど。やっぱりあれが最後だった。札幌に会いに行って良かった。ちゃんと別れをすることが出来た。
 僕はしばらくして、光子さんに手紙を書いた。


香西光子さんへ、
 心も身体も、日々の生活も、少しは落ちつかれましたか? 気にかかっております。
電話でお話した通り、まぎれもなく ” 香西智行 ” は生きています。僕たちの側にいます。
 時おり天から降りてきて、僕たちを見守っていることでしょう。そして天国では元気な身体になっていて、いろんな人たちからの注文に応えて、福祉機器の製作に忙しく追われていることでしょう。そしてまだまだ先のことだけど、光子さんのお手伝いを心待ちにしていることでしょう。そして出来上がった福祉機器の写真も撮ってほしいと、中田輝義の来訪も待ってくれていることでしょう。
 それにしても光子さんはよく、香西智行に尽くされましたね。香西さんがここまで通常の寿命に反抗し逆らい、天命を全う出来たのは、ひとえに香西光子さんの ” ささえ ” があったればこそです。あらためて尊敬と感謝の念を捧げます。このあと、お互いどれほど生きることが出来るのか分からないけれど、それぞれの余生を楽しくおだやかに、そして大切に生き切りたいものだと願っています。

 「 ひとり旅 」を終えて、熊野に帰ってからのことを報告申し上げます。
僕の母は僕が旅立つ前から入院生活を送っていました。父は僕と同じ近所の県営住宅に住んでいて、ときどき広島市内の病院にいる母を見舞いながら、一人暮らしをしていました。
 僕が熊野の自宅に帰り着いた6/22のその夜に、父から明日午前中に母の脊椎骨矯正の手術があることを知らされました。翌朝病院からも立ち会いの要請を受けました。僕は疲れ切っていて身体が動かず行けませんでした。親不孝者と思われたことでしょう。2~3日して見舞いに行くことが出来ました。手術後、以前から少しボケ症状があったのですが、さらに認知症が進んでいました。

 

 その母の入院中に、父が急性心不全で急死しました。もう一週間以上会っていなかったのですが、何か急に胸騒ぎがして、7/15に父の部屋を訪れると、ひとりで死んでおりました。

 駐在所に連絡して検死の結果、死亡日は7/10ごろと診断されました。梅雨時分のこと遺体が少し傷みはじめていました。

 翌7/16身内だけの簡単な葬式をして荼毘に。仏壇の守りを出来ない僕には、母の許可をとった上で、収骨をせず火葬場の納骨場に入れてもらいました。初七日も四十九日も一周忌もしないことにしました。親戚からは軽い非難を浴びました。

 母が入院中、父が死ぬ直前、めずらしく僕のところに訪ねて来たことがありました。

  「 一人暮らしをしていて考えたけれど、お母さんにずうーっと迷惑をかけてきた。悪いことをした。

  今さら反省したところでどうにもならんけど、どう償いをしたらいいのか分からん。それを考えると夜も

  眠れん。教えてくれ 」、と涙声で言うのです。

 

 僕はしばし父の顔を見つめました。

  「 いまさらお父さんの生き方を変えるのはむずかしいでしょう。本当に悪いと思っているのなら、

  もうそのまま、今のお父さんのまま、あとの人生を後悔しながら苦しんで生きて行かなければ仕方ないの

      ではないですか。ただお母さんにはお母さんが喜びそうなことを、一生懸命素直な気持ちでやってあげた

      らいいのではないかと思う 」と告げました。

 父は、

 「 お前にそう言ってもらえて、ちょっと気持ちが楽になった 」、と言って帰って行きました。

 

 父が帰ったあと悲しくなって嗚咽がこみ上げてきました。父はこの期に及んでまだ自分だけが楽になりたいと思っている。そのために母に詫びたいだけで、心底母に申し訳ないと思っているわけではないのだろう。

 そして僕への詫びの言葉は一言もなかった。

  「 お前にもつらい思いをさせてきた。悪かった 」と、

そうは言ってくれなかった。自分が楽になりたいために僕を利用しに来ただけなんだ。

 いや、そんな質問を僕に投げかけることで、父は僕に謝りたかったのだろうか。それも今となっては分からない。良くも悪くもそれが父との最後でした。

 父の死がショックだったのか母の認知症がさらに進み、ときに起こる予測不能の行動を押さえるため個室に入れられ鎮静剤を飲まされ、寝たきり状態となり背中に蓐瘡が出来はじめました。

 日常の会話が途切れれば脳への刺激もなくなり、認知症はさらに進みます。なんとかこの病院の扱いから救い出したいと思い、熊野町福祉課に相談して、隣の瀬野町にある老人介護保健施設の白川病院に転院させることが出来ました。この間の事務手続には、電動車イスの僕の行動力では本当に苦労しました。

 

 瀬野白川病院までは、タクシーで40〜50分ほどかかります。タクシー代も結構バカになりません。しかたのないことです。

 この間、母を見舞いに行ったら、めずらしく意識がかろうじてあって、僕の顔が分かったらしく、ろれつの回らない言葉で、

 「 頑張れよっ~ 」と言ってくれました。

 僕は母の目をじっと見つめて大きくうなずきました。そして意識がまた何処かに飛んで行きました。僕の身を案じてくれるこの言葉が、母とまともに交わせる最後の会話になるのかもしれないと感じました。喉の奥からこみ上げる叫びはかみ殺せても、目からあふれる涙を禁じえませんでした。

 宙を見つめるやせ細った母の身体をなでなでして、おでこにキスをするだけでした。僕には妻も子供も兄弟姉妹もいないので、誰も頼れません。僕は元気でなければなりません。まして母をおいて僕の方が先に逝くなんて出来ませんね(笑い)。

 今僕は「 ひとり旅 」の原稿に取り組んでいますが、なかなか遅々として思うように進みません。時間が経過しても記憶が消えることはないのですが、こんな状況で原稿を書き上げるのには、かなりの気力体力が必要だし、体調の良い日も長続きしません。ああっ、言い訳ですね(苦笑憫笑)。
 ただ、「 電動車イスひとり旅 」は僕のためだけではなく香西さんを励ますため、そして僕らと同じ難病患者、身体障害者のためでもありました。だからこそ勇気を持って最後まで頑張れたのだと思います。

 母のためにも、応援していただいた多くの人のためにも、印刷インキの匂い立つ新刊書を香西さんの御魂に捧げるためにも、必ずやり遂げなければならないと考えています。

 

 光子さんからのお知らせのあと、「 カナダ横断交流の旅 」本も読み返しました。あんなこともあった、こんなこともあったと思い出しておりました。僕は ” 香西智行 ” と知り合えてとても幸せだったと思います。ありがとうございました。

 

 いろいろな「 生 」があって、いろいろな「 死 」がある。そして、人の命のもろさ、はかなさを感じつつも、しかしまた人の命の ” したたかさ ” も感じるのです。
 人はなぜ生きるのか? 生命とは何か? 順繰りにじゅんぐりに、生命のこのつながりとはいったい何なんだろうかと、よくよく考えさせられます。
 そんな中でも、香西さんの ” 生きざま ” を見習って、自分の生命の炎を燃やし切って生きて行くのが、きっと「 生命孝行 」というものですね。

光子さんへ、
 いつかまた元通りに、札幌に住みたいと考えています。ともに頑張って生き抜きましょう!
そしてご家族の皆々さまにもよろしくお伝え下さいますように。
札幌はこれからますます寒くなりますね? 風邪引きさんにご注意ご養生下さい。
再会をお約束して。
                            

                                中田輝義、拝 07・12・05 記

 


                           

「 あとがき 」にかえて、

 

 僕が「 旅 」を終えたとき、何人かの人に同じ質問を受けた。


「 次はどこに行くの? 」
「 今度は外国だったりして 」

 

 みんなせっかちなんだなぁ~。僕にはまだ今回の「 旅 」の心の整理もついていないのに。周りの人はもう次回を気にしている。急げ急げの世の中なのかしらん? 「 旅 」とはそんな安直なものではないのに。

 

 それは自分の全身全霊の力を込めてやり遂げるものだ。結果として実りのあるものになる。そして次の人生のテーマというか、やりたいことが見えてくる。

 

 今回の「 旅 」はただ単に僕の遊びとか楽しみではなかった。もっと違ったところに目的と意味があった。そこには止むに止められない「 必然性 」があった。だから天の理、地の利が働いて僕に味方をしてくれたんだと思う。もし僕が今回のことに ” 味 ” をしめて旅に出かけると、大きなしっぺ返しを喰らうことになるだろう。

 

 今回の「 旅 」で学んだことを真摯に受け止めれば、次の「 旅 」が見えてくる。それが1年先か5年後か、それは分からない。ただ真っ白な気持ちで五感を研ぎ澄ませていれば向こうからやって来る。それが自分に捕らえられるかどうか。捕らえられたときが「 必然の時 」だと思う。

 

 今回の「 旅 」で実に多くの人たちから助けられた。それらのひとつが欠けても僕の「旅」は成立しなかっただろう。

 心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

                              中田輝義 拝 2010・04・11 記


 テーマ・内容が現代受けしなくて、ほとんど孤児(身なし子)のようだったこの原稿を、(株)アイワードの奥山敏康さんと竹島正紀さんが身元引受人となり、共同文化社の長江ひろみさんが赤児(あかご)を取り上げるお産婆さんとなり、僕の原稿を慈しみ育て上げて下さいました。

 にもかかわらず、だだっ子のような僕のわがままな多くの注文に、大きな心で聞き届け、世に送り出していただきました。

 

 また、福井市在住の書家加藤曙見(かとう・あけみ)さんが、表紙題字に渾身の力で筆墨文字を描き入れて下さり、新刊本に見事な装丁の産衣(うぶぎぬ)を着せていただきました。

 

 皆様方のご支援により、僕のつたない原稿がようやく呱呱(ここ)の初声(うぶごえ)を上げて、世に一歩踏み出すことが出来ました。

 

 ここに感謝と親愛の念を捧げます。

 

                            中田輝義 拝 2010・10・30 記

 


                            電動車イスひとり旅
                            広島県熊野町から札幌まで1830km

                            2010(平成22)年11月25日 発行
                            著 者 中田 輝義
                            題 字 加藤 曙見
                            発行者 株式会社共同文化社
                                札幌市中央区北3条東3丁目

                            カバーデザイン アイワードデザインセンター
                            印 刷     株式会社アイワード

                                        クリックで大画面に


           2011・1・21 出版祝賀会 札幌市・北海道難病センターにて

記録 & 新着

新春雪景色三つ (土, 03 1月 2015)
>> 続きを読む

フォトギャラリー作品追加

(日, 21 7月 2013)

 

ホームページ完成

(木, 14 6月 2012)

 

ホームページ作成開始

(水, 6 6月 2012)

 

 

 Blog購読
 Blog購読