熊野町内にある福祉タクシー「ライフサポートつばさ」のボンゴ車に電動車イスで乗り込んで、広島市中区にある広島テレビ本社に着いたのは10:30。待ち構えていた取材記者のHさんに伴われて、玄関ロビーに「24時間テレビ」用に設えられた大きな仮設スタジオへ。11年前に僕が自費出版したエッセー集「つれづれの部室」本を、当時の「テレビ宣言にゅ~」番組で取り上げてくださった元チーフ・プロデューサーのHRさんに、満面の笑顔で僕を迎え入れてもらい固い握手。アナウンサーの藤村直巳さん、糸永直美さん、柏田久美子さんとご挨拶をかわして、僕は一気に心臓がバクバク、宙(うわ)の空へと舞い上がってしまいました。
一息入れてただちに本番用のリハーサルへ。スタジオ内は収録が終わった人の入れ替えや、募金受付のサポーターやボランティアの人たちや見物にやってきた観客でごったがえしの状態。フロアーディレクターやカメラさんや音声さん、記録係にアシスタント・ディレクターのみなさんに、出来るだけ元気よく「お世話になりま~す」と呼びかけたものの、正直声はうわづっている。この独特の雰囲気。いくつもの大きなスタジオライトに照らされて、僕の頬(ほお)っぺは茹(ゆ)であがり、沸騰寸前のまっ赤っか!
僕の立ち位置に電動車イスをバックで乗り入れたときに1回でピタッと決まり、アナウンサーの藤村さんから、「うまいですね!」と言われて、「ええ、電動車イスのゴールド免許を持っていますから」と冗談で応えるのがやっとこさでした(大貧笑)。
スタッフルームと兼用のゲスト控え室に戻って、僕の出番までの待ち時間。心臓の動悸がまだおさまりません。
その時僕は、「電動車イスひとり旅」の途中にあった”倶利伽羅(くりから)トンネル”(国道8号線、石川県と富山県の県境)のことを思い出していました。それまでいくつか通り抜けてきたトンネルの中でも最長の”倶利伽羅トンネル”(962m)。暗くて狭くて危なっかしくて不安なトンネル越え。でもこの時、妙に心が落ち着いてきて、心の中に思い浮かべた小さな石ころがだんだん大きくなって岩の塊になっていくのを感じました。あの時のことを思い出していると心臓のドキドキが少しずつおさまってくるのを感じました。カッコつけたってしかたがない。いつもの僕らしく無様(ぶざま)でいこう、と決心がつきました。
AM11:30より生本番。僕の出番は11:58から。心を落ち着かせて待機。
僕は本番になって初めて、熊野第三小学校での授業風景のVTRを見せられました。僕の話に瞳を輝かせて真剣に聞いてくれている子供たちの顔、顔。とっても美しいと感じました。
授業後3人の児童たちがインタヴュ-に答えて感想を語っていました。自分の見たこと聞いたことをいったん自分の中に取り込んで、そして自分の考え意見を堂々と述べている。この子たちは、すごいっ!と感じました。僕は本番中だということも忘れ、電動車イスから身を乗り出して聞き入ろうとしたら、耳に取り付けられていた音声さんのイヤーホンが外れそうになりました。アナウンサーの糸永さんに肩を持たれてやっと我に返って、「ああ、本番中なんだ!」と気が付きました。
収録時間は終わってしまえばアッという間でした。自分が何をしゃべったのか、記憶もありません。ただ担当の取材記者のHさんと、大きなガラス窓の奥にあるテレビ編成室からチーフ・ディレクターが控え室に揃ってやってきて、「よかったですよ」と言ってもらって、やっとホッとしました。
担当記者のHさんが、「あの子供たちは、今どきにしてはめずらしい子供たちですよねぇ~」と印象を言ってくれました。僕は、
「あの熊野の子供たち、熊っ子の素直な感性は、熊野の山や森、空や雲。熊野の自然と風土が育んだものだと思います」
と胸を張って答えました。僕はとっても誇らしい気分になりました。
帰りの「ライフサポートつばさ」のボンゴ車がテレビ局の正面玄関に乗り付けられ、僕が電動車イスで車中におさまったとき、元チーフ・プロデューサーのHRさんに取材記者のHさん、アナウンサーの藤村直巳さん、糸永直美さん、柏田久美子さんもわざわざ正面玄関前に出てきてお見送りをしていただきました。大恐縮です。でもうれしかった。役割のひとつを何とか無事に果たせたのかな?という安堵感につつまれました。
でもテレビ取材はもういいです。これが最後です。いい加減、疲れちゃった!?(苦笑中)
中田輝義 拝
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