ニュース報道、池田市の小学生8人を、無差別殺人。
かなしくて、やりきれない!
自殺で死にきれないのなら、他に方法もあるだろうに、、、。
無抵抗の子供を傷つけるなんて!
いたい! いたい! って、泣いて死んでいったんだろうか!
つらくて、悲惨で、やりきれない!
命をなんだとおもっているんだろう!
子供たちもかわいそうだ! 親たちもかわいそうだ!
そして、いつも、こんな事件がある度に、矢おもてに立つのは、
まじめに、回復に取り組んでいる、精神疾患患者。
行き場所が、生きて行く場所が、なくなっていく。
『僕に力を与えてください』
『 見たり、聞いたり、教えて戴いたことを、
見たまま、聞いたまま、教えて戴いたままに、
人々に伝えられるよう、僕に力を与えてください。 』
” お忙しいところを申し訳ありません。僕は広島市内に住む一市民ですが、いまニュース報道されています大阪の池田小学校児童殺傷事件について、教えていただきたいことがあって電話しました。
[ 刑法第39条(心神喪失及び心神耗弱)
1心神喪失者の行為は、罰しない。
2心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。 ]
との条項があります。なぜ、罰せられないのでしょう? そもそも、刑法第39条が条文としてもられたのにはどのような背景があるのでしょう? その法解釈についてお聞かせ願えないでしょうか ”
このような質問を下記のところに順次お尋ねしました。
まず、法務関係からと思い、中国地方更正保護委員会へ、
” このような内容の質問は当方で扱っておりません。裁判所に聞かれたらどうですか? ”
それで、広島地方裁判所に電話をしました。もちろん裁判官は多忙で、かわりに事務官が答えられました。
” ある行為、例えば殺人、傷害などを起こしたとき、本人が自己の行為を認識し、責任を果たせる能力があるときに犯罪として成立し、刑事責任を問われる。法解釈については 市販の刑法についての本がたくさんありますから、それを読んで下さい。 ”
タウンページに総理府中国四国管区行政監察局行政相談所とあるのを見つけました。
” 当方ではこのような相談は受け付けておりません。弁護士会にお聞きになったら? ”
広島弁護士会に電話をしました。
” 紙屋町法律相談センターで御相談を受け賜っておりますが、相談料40分6000円となっております。
予約が必要ですが、予約しますか? ”
けっこうです! といって、あわてて電話を切りました。
裁判所、弁護士ときたら、やはり次は検事かと思い、広島地方検察庁に電話をしました。事務官が対応してくれました。
” 犯罪の構成要件には、違法と責任があります。これが立証されて刑事事件として訴追を行います。
しかし、このようなことを検察庁に電話をしてきたのはあなたが初めてです。あなたはどういう人で すか? ”
お礼をいって、ここでもあわてて電話を切りました。
( 僕も検察庁なんかに電話をしたのは初めてだよ )
広島地方裁判所の解答とほとんど同じような内容でした。
最後に、広島県立総合精神保健福祉センターにお尋ねしました。毎日、精神病疾患患者の病気、生活相談を受けている男性カウンセラーの方が受話器口で話されました。
” 判断能力があれば精神病患者でも刑事責任は問われます。よく混同されることですが、
刑法第39条で項文としてあげられているのは心神喪失及び心神耗弱者で、
そのすべてが精神病患者ではありません。心神喪失及び心神耗弱者を罰しないのは、
自分が犯罪を犯したという認識のない人を刑務所に収監しても、罰しても意味がない。
それよりも自分の犯した罪を認識できるよう精神を更正させて、あらためて罰を与える。
罰を与えることは人間を更正させるためだと思います。
精神病患者が犯罪を犯す確率は一般市民より極めて少ないのです。
精神病患者の刑事責任の判断能力については、専門の医師2名が診察します。
判断能力ありと診察されればたちまち刑事責任を問われ、状態に応じた収容がなされます。
これは一般市民と平等です。
いまのマスコミの取り上げ方はよりセンセーショナルになって、間違っているところもあり、
ますます誤解されます。
今回の事件とニュース報道に多くの精神病患者は戸惑っています。
通院中の患者の1/3はもとの職場に復帰しています。
1/3は共同作業所で仕事をし、のこりの1/3は民間の理解ある事業主のもとで働いています。
こんな事件がある度に事業主も動揺し、周囲の圧力で職場を辞めさせられることが多いのです。 ”
「 こんな事件があったときに、わざわざこんなことをセンターに聴くなんて、申し訳ないと思いまし たが、でも、こんな事件があったときこそ、どうなっているんだろう? 現場の人の考えを知るた め電話をしました。教えて戴いたことを僕なりにまわりの人に伝えたいと思います。ありがとうご ざいました。」
そう言って、僕は電話を切りました。
昔、僕がフリーカメラマンをしていたころ、在宅で通院治療中の精神障害者の友の会の集まりに、数カ月参加したことがありました。その頃は今よりももっと精神障害者に対する偏見差別は根強く、親戚や中には家族からも白眼視されて、家の中に引きこもり小さくなって生活していました。
一週間に一度、家族会が借りてくれている借家にみんなで集まり、身の回りの出来事を報告しあったり、昼食をつくって食べたり、歌集をつくって歌ったりするのを楽しみにしていました。精神分裂病、そう病、うつ病、不眠症、ノイローゼ、高校生からお年寄り、男性女性、いろんな人が集まっていました。
そのほとんどの人が真面目でおとなしく、心優しい人たちでした。真面目すぎて、優しすぎるためにかえって、実社会から疎外されて投げ出されたような人たちでした。
急激に変化していく競争社会からの落ちこぼれ、そう思われるかも知れないけれど、物事の本質を見抜く鋭敏な感覚感性をもった人たちでもありました。
それぞれがそれぞれに個性をもっていました。なにかの条件さえあればきっと社会の中でその能力を発揮できるであろう人も少なくありません。
でも、ある一極にエネルギーを集約させているような社会では、とてもこのような人たちを受け入れられる余裕はないでしょう。今の社会では誰でもこの病気になるかも知れない可能性がある。僕も同じです。
無理解、差別、偏見が、せっかく回復しかけた人をまた暗闇に追い込んでしまう。少なくとも嘘をつかない、誠の心でおつき合いしていこう、そう思ったものでした。
今回のような突出した事件がある度に刑法の改正と叫ばれます。現行の法制度に誤りがないとは言えないと思いますが、このような事件を好機に利用して、行政側の管理基準を強めて、人権、福祉政策に束縛を加えようとするのも過去の歴史を見て、否めないことだと思うのです。
刑法第39条の条文を悪用する凶悪犯罪が起きれば起きるほど、そしてその度に精神疾患患者を的外れの槍玉にあげて、マスコミ、あやまったジャーナリズムが非難中傷の世論をあおればあおるほど、一般市民の人権、社会保障制度の権限が狭まれていくのだと思うのです。いまのテレビのニュース報道、よりスキャンダラスに、ゴシップ的なあり方に注視しなければと思います。真実を見抜く眼を持ちたい、そう思います。難しいことですが。
人は言います。
『異常な精神を持ち合わせていないと、あのような凶悪事件を起こすことはできないと思 います。』
そのとおりだと思います。異常な精神でないと凶悪事件を起こせません。ストレスに満ちあふれた今の世の中、一歩間違えば誰でも異常な精神に落ち込んでしまいかねない。その可能性は一般市民も精神疾患患者も僕自身も同じです。平等だと思うのです。
また人は言います。
『この「異常な精神」と「精神病」とは、どこがどう違うか、これも私にとっては疑問な んです。』
古くは、アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』、『39、刑法第39条』、『羊たちの沈黙』、『リング』、映画の娯楽作品として名の知られたものです。サイコスリラー、オカルト、ホラー、そんな映画がリリースされるたびに、「精神病」とは恐いものだ、何をしでかすか解らん、と思われているのかも知れない、そんな気がします。でもほんとうは、逆に精神疾患患者のほうがもっともっと今の世の中を怖がっているのだと思います。「異常な社会」を。これは僕のせまい体験からくる実感なのですが。
ながながと、お読み戴いて有り難うございました。
terry-nakata